やべ、と思った時にはもう遅かった。
ゴール前での激しいボール争奪戦によって足がもつれ、ひっくり返った。ボールは奪われ、攻守交代。あーあ、せっかくのチャンスを不意にしちまった。いけそーだったんだけどな。見えてたんだけどな。
…地面に倒れ伏した俺の眼前に広がるのは奇妙なほど清々しく、広々とした青空だ。
いつもなら大げさに膝を抱え、くどいほどアピールをして見せる俺だったけど、今回に限っては何故か、そんな気はまるで起きなかった。
なにか、思い出しそうだ。
俺は青空を眺めながら、ぼんやりと考える。
こんな風に地面に寝そべって、こんな風な青空を眺めたことが、確か、ずっと前にも、あった。
そのとき視界に入ってきたのは、白い、ぷかりと浮いた飛行船。
雲の合間から、飛行船がやってきた。
地面に寝そべってガン見する俺のことなんかまるで気にも留めずに、
飛行船は秋の空を悠々と飛んでいる。
思い出した!
そうだ、あの時も。
あの時も確か、こんな風に―――――
飛行船が、飛んでいた。
思考停止で世界が回る
「いやいや、いいって、いいって」
小学生の俺はへらへら笑って遠慮した。保健係の田中クンは少し残念顔だ。田中クン史上初の保健係のお仕事に興奮しているのは分かるし、ナンカ悪いけど、でも、おんぶは恥ずかしい。つか、田中クン、それ、おんぶしたいだけなんじゃん?
「でも、」となおも言うので、俺は田中クンを軽く小突いて、ぱっと廊下を走り出す。ほら、見ろ、俺はこの通りだ!おっと、雑巾バケツに危うく激突するところだった。
がらららっ、と勢いよく教室の引き戸を開けると、教室を掃除中だったらしいクラスメイト達の視線が一挙に俺に集められた。箒や雑巾を持ったまま歓声を上げて俺に近寄ってくる。
「うっわー、戸部クン、大丈夫なの!?」
「鉄棒から落ちたんでしょ、頭から!」
「血とか出たの?ねえ、血、出た?すっげえ!」
皆口々に俺の事を気遣い、勇気を称え、センボウのまなざしで見つめてくる。
クラスで一番かわいいあの子も、今、大きな目を見開いて、俺を見ている。
えも言われない快感がびびっと体中に走る。
俺は調子に乗ってガッツポーズ。
「よゆー!」
おおーっ、と、声が上がる。
ユーエツ感に浸る。間違いなく、この時の俺は、ちょっとしたヒーローだった。
でもそのヒーロー気分は、長くは続かなかった。
もう大丈夫なのね?と担任の先生に念押しされて、五時間目の体育にも意気ヨーヨーと出た。今日の種目は鉄棒。昼休みは失敗しちゃったけど、俺はそもそも鉄棒が大得意なのだ。
鉄棒なんて簡単だ。適当に腕とお腹に力を込めて、しゅばばっ、とやれば、くるりと体が回転して、俺ごと世界が回る。カンタンカンタン。
なんもむずくないってか、出来ない方が、なぜに?って感じ。
校庭の隅っこにある鉄棒の前に列を作り、先生の笛で一人ずつ駆け出す。
やがて俺の出番になると、皆が注目するのが分かった。
皆が俺に期待している。ふふん、見てろよ。
目の前の鉄棒に向かってパッと走り出した。凄い技をやってやる。
鉄棒が目の前だ。両手で鉄棒を掴んで、それっ。しゅばばっ、だ。
あれ。
ふと、俺は考える。
いつも、どうしてたっけ。
タイミングはこれで良かったっけ。地面を蹴るのは右足で良かったっけ。
あれ。
おかしいな。
世界が回転しない。
…っべー、なんか思い出しちまった。
皆の前で、あろうことか得意の鉄棒をミスった時の事。
あの時、俺、なんて言ったっけかな。覚えてないけど、確かざわざわする皆に向かって何か言って、それで皆は笑った。当時気になってたあの子も、笑ってた。
頭を掻きかき、いやあ、あはは、と笑ってみせたんだ、確か。
でもあの時、俺はかなりショックだった。と、思う。ような、気がする。
鉄棒のやり方なんて、特に意識しなくても出来てたのに。それがあの時は。
そうだあの時。今から思えば、人生において割と重要なスキルを一つ、俺はあの時に身に着けたんだ。
笑って、馬鹿な真似して、ふざけてみせた。
心の内の声に耳を貸さずに、深く考えることをやめた。
「戸部、大丈夫か?」
ぼーっと地面に倒れたまま起き上がらない俺を不審に思ったのか、そんな声がかかる。視界の端に現れたのは怪訝そうな顔の隼人君だった。
「…っべー、やられたわぁ~」
すぐさま起き上がり、なんでもないと笑って見せる。隼人君は苦笑して、
「いや、悪かったな。ちょっと危なげなパス出して」
「いーやいや、なーに言ってんの、超ナイスパスだったっしょ!」
隼人君はそうかな、とイケメンスマイルを浮かべ、休憩に入ろうと周りの部員に言う。三年生が引退して、実質的エースの隼人君がキャプテンになってからというもの、「隼人君はキャプテンである」という事実がしっくり来すぎて、逆に今までどうやってきたんだろ、と考え込むくらいだ。…先輩の悪口を言ってるわけじゃ、ないんだけど。
隼人君と並んで歩きながら、ちらりと隼人君を伺い、考えてしまう。
隼人君は、きっと、鉄棒のやり方が分からなくなるなんてことは、一度もなかったんだろうな、なんて。
そんなこと考えても、あ、ちょっと、やめろやめろ、きもいきもい。
キャラじゃないことしたって、サムイだけなんだ。隼人君は隼人君だし、俺は俺だし。うん、人にはキャラっつーもんがある。
…でも。やっぱり―――ちょっとしたほころびから、何かが漏れてくる。
――――――ごめんなさい。今は誰とも付き合う気はないの。誰に告白されても絶対に付き合う気はないよ。
女の子に、振り回されることだって、きっと。
多分これからの人生、そーいうこと、俺はいっぱいあると思うけど。
頭の端っこに、赤い眼鏡の女の子の顔がちらっと、浮かぶ。
「はぁ~~~」
肺の空気を勢いよく外に出して、俺は襟足をかき上げる。なんだよ、と隼人君が笑う。そのカイカツな笑み。っかー、隼人君マジかっけーわ。
深く考えるな、と頭のケイホウが鳴ってる、気がする。
深く考えちまったら―――――
濁った目のあの人みたいに、なーんて、な。
「どうかしたか?」
「いんや、なんでも。あ、そいやさー隼人君、来年あれじゃん?文系か理系か決めなきゃじゃん?」
適当に思いついたそれを口に出して、俺は微妙に誤魔化す。
「ああ…もう、二年生もそろそろ終わりだな」
「それ言っちゃいますかぁ。つかさ、隼人君進路とか決めてるん?」
思った通り、葉山君はアイマイな表情を浮かべた。
「ん、まあ、な」
ベンチに置いてあったポカリのスクイズボトルを飲む隼人君。俺はその隣で背中の汗をタオルで拭う。最近はすっかり寒くなったけど、運動するとやっぱり汗はかく。
「そっか~、やっぱ隼人君もうショーライのビジョンとか決まっちゃってるわけ?」
「…あー、うん、どうかな」
またもやアイマイ。隼人君がアイマイにするってことはつまりあんまり触れてほしくないってことだ。
隼人君はマジ良い奴でスゴくてカッケーけど、たまにこうやって、線引きしたりする。
線引き?なんで?なんの?
いや、しらねーけどさ。
「将来どうなるかなんて分からないよ。戸部はどうなんだ?」
「えー俺?俺はまー、テキトーにたのしーくやりてーわー」
そう言って俺も水分補給して、ふっ、と息を吐き出すと、大きく両手を広げて伸びをする。
隼人君はそんな俺を見て静かに笑っていた。
「…そうだな。そうなれば、いい」
「だっしょ。そんなもんじゃねー?」
俺たちは今、どこまでいっても高校生だ。
今を楽しんで、楽しんで、思考停止して思いっきり遊ぼう。
「とりま今日はこのあと飯行って、カラオケとかいくべ!!」
「…戸部のそういうところは、結構、良いと思うよ」
じっと俺を見て、隼人君は柔らかな表情だ。
「俺は好きだな」
ぶふぉ、と俺は飲んでいたポカリを噴き出した。
「ちょーマジ?隼人君そんなん照れるわー。今のいろはすとかに聞かしてぇー!」
襟足をかき上げてゲラゲラ笑うと、隼人君も噴き出して笑った。イケメンスマイル。あーあ、もうほんと、隼人君、マジ、カッケーわ。つかもーぜってー勝てる気しねえ。
うぉおおおおお、と俺はバカみたいにグラウンドの中央へ走り始める。
高校の校庭に、鉄棒なんかないけれど。
適当に腕とお腹に力を込めて、しゅばばっ、とやれば、くるりと体が回転して、俺ごと世界が回る、はずだ。
まわれ。
ずしん。
でも、結局、あの時みたいに、頭から地面に落ちた。
いてえ。
周りの連中の爆笑の声が聞こえる。なにやってんだあいつ、ばかじゃねーの。
そうそう、そうでなくっちゃ。つられて俺も思わず頬が緩む。
「いてぇよおー!」
笑いながら、叫んでみせる。間違っても、泣いてなんかない。今も、あん時も、絶対に。
ちかちかする視界にうつるのは、目一杯の青空、太陽の光、綿あめみたいなふわふわの雲。
飛行船はいつの間にか、どこかへ飛んでいったようだった。
というわけで、今回は「透明飛行船」という曲をイメージして書きました。この曲を聴いて、ああ、これは戸部君かな、と。こんなこと考えてるかもしんないな、と。
時系列的には高校二年生、修学旅行と生徒会選挙の間あたりでしょうか。
八幡からは散々な評価ですけど、僕は好きですよ、戸部君。がんばれ、とべっち。