黄金樹の一枝 リヒャルト・フォン・ヴュルテンベルク大公記 作:四條楸
産まれて三日経ち、俺の立ち位置みたいなものも少しわかってきた。
俺の母親は未だほとんどベッドの住人だ。どうも元々体の弱い方らしい。ところで現在母親がおらず、侍女たちの会話が進行中です。
「陛下はいまだこちらを訪れてくださいませんわ」
「どうせあの女が引き止めておられるのよ! 侯爵夫人がなによ! ルイーゼさまは無事に御子さまをご出産なさったのよ? 夫人は恐れ多くも陛下の御子を死産なさったくせに!」
「仕方ないわ。ご寵愛の深さではルイーゼ様は侯爵夫人に及ばないし、御子が死産なされて一週間も経っていないのよ? 陛下がお気遣いなさるのも仕方ない……」
「ルイーゼ様が控えめすぎるのも良くないのよ。お優しさはいうに及ばず、お美しさだって決して侯爵夫人に負けないのに」
……すごく重要な情報だったよね。俺の父親「陛下」にはもう一人愛妾がいるらしい。そして俺の母親よりそっちの方が寵愛が深く、俺が生まれた数日前に死産の憂き目にあっている。
つまり侯爵夫人の死んだ子供って、憑依させられた最初の「俺」って可能性がすごく高いんじゃない!? 同じ一族に憑依させるって言ってたし!
うあー、何てこったい。
もしそうだとすると少し解ったこともある。『侯爵夫人の子供』は殺されて、俺は殺されなかった。母親への寵愛が深く、先に生まれる子供の方が危険と判断されたのかもしれない。それに国王の子供が続けて死産すれば、いくら何でも怪しまれるだろうから、より危険な方を一人殺したんだろうか。
下手人は医師か看護師として、黒幕は誰かな。王妃って線だろうか。それか現在の王位継承者。継承争いが起こることを嫌った国王ってこともありえるし、考えたくないが、ライバルに子供が生まれるのを阻止しようとした、ルイーゼ母様の可能性もある。でもそれなら、俺の死亡フラグ折れたってことだな。いやいや、俺がここに送り込まれた原因を忘れるな。いずれこの一族を滅ぼす、詩の神曰く、『アポロそっくりなヤツ』が第一候補だろう。
やがて母が戻ってきた。車椅子でだけど。すごくニコニコしている。俺のベビーベッドの傍に来ると、さらに笑みが深くなった。
「おお、御子よ。喜んでおくれ。先ほど陛下のお使いがいらっしゃって、お前の名を授けてくださったわ。リヒャルト、リヒャルトっていう名前なのよ」
わーい。やっと名前が決まったのか。しかしリヒャルトね。『力強き支配者』ってか。なーんか死亡フラグっぽい? ちょっと自分でも被害妄想入ってる感じがするけど。
その時、扉の向こうが急に騒がしくなったと思ったとたん、いきなり大きな音を立ててその樫材の扉が開け放たれた。
「その子が陛下の御子でいらっしゃいますの!?」
叫びながら入ってきたのは、黒髪の豊麗な美女だった。彼女は母に許しも求めず、室内にずかずか入って来る。
すると母が慌てたように車椅子から立ち、俺を自分の身体で隠した。
「おやめください、侯爵夫人!」
「あら。何か勘違いなさっているのかしら。私はただ、お祝いに参っただけですわ」
これが噂の侯爵夫人か! 年齢は母とほとんどかわらないだろう。何となくもっと年上の妖艶な女性を想像していたよ。胸は母と同じく巨乳だが、体つきはほんのちょっと肥満気味かな、という感じがする。まあ、出産直後だからね。
「まあ、丈夫そうな赤ちゃんですこと。明朗活発な青年にお成り遊ばすように! 大切にお育てくださいね、伯爵夫人!」
「ありがとうごいます。侯爵夫人」
……祝いを言っているとも思えない、まるで捨て台詞みたいだ。しかし母は卑屈なくらい低姿勢だな。この二人、同じ側室でも明確に上下の差があるらしい。
「残念ですが、私は生きた息子を抱くことができませんでしたわ。陛下の息子なら私の子も同然。ぜひ一度抱かせてくださいなっ!」
「ああっ」
母が悲鳴を上げたときには、俺の体は侯爵夫人に抱きかかえられていた。
「……本当に丈夫そう。肌も輝くように白くて健康そうで……。私の息子は赤黒く、白目を剥いて産まれてきましたのよ。産声一つ、聞くことはできませんでしたわ。何ヶ月も生まれる日を指折り数えて楽しみにしておりましたのに……」
「お察しします。夫人……」
「何ですって? 私の悲しみの何が解るっていうの!? 無事に御子を生んだあなたにそんなことを言う資格があると思っているの!」
「お、お許しください。侯爵夫人!」
母は俺が夫人の手の内にあるためだろう。土下座しそうなくらい低姿勢だ。しかしね、侯爵夫人。それは八つ当たりだよ。母があなたの子供を殺したわけじゃないと思うよ。
「御名は何ておっしゃるの?」
「へ、陛下からはリヒャルトと名付けると……」
「リヒャルトですって!?」
夫人はさらに激高した。
「リヒャルトという名は、陛下が我が御子にと生まれる前から名付けてくださっていたのよ! どうしてこの子が同じ名を付けられるのよ!」
うげげ、やっぱりこの名はやばいフラグが立っていたのか。しかし陛下よ。死産した子供の名を、他の女に生ませた子供にリサイクルするなんて、あまりにもデリカシーがないよ。侯爵夫人が怒るのも無理はない。
何て呑気に考えていたが、痛い痛い痛い! 侯爵夫人の手がギリギリ俺の身体を締め付けている! これって生命の危機なの!?
な、泣くべきだろうか? 赤ん坊らしく火のついたように泣けば……。いやルイーゼ母様が困った事態になってしまうかもしれん。
それならば、今できる精一杯の手段はこれだ!
「え、え、何ですの?」
侯爵夫人の戸惑った声が聞こえる。俺はほとんど動かない身体を目一杯よじることで、侯爵夫人の胸元に顔をうずめたのだ。そして、まだ大きくは出せないが、それでも精一杯、「あーあー」と声を上げ、にぎにぎしか出来ない手も目一杯動かして、夫人の胸を押してみた。
「ま、まあ。御子さまはお腹が空いたようでございますね。侯爵夫人にお乳をねだっておられますわ」
乳母よ、グッジョブ! 実は俺には乳母が付いている。王家の慣習らしいし、ルイーゼ母様は巨乳なのに母乳が出ないのだ。
「ど、どうして私にねだるのよ。乳母はあちら……」
「赤子は母の臭い、乳の臭いを敏感に嗅ぎわけますわ。侯爵夫人のお乳の香りに、母君と思われたのでしょう」
「私は乳もほとんど出ませんし、身体も弱ってしまって、あまり御子をかまってさしあげることもできなくて……」
乳母にルイーゼ母様、さらにグッジョブ!
侯爵夫人はやや呆然と俺を見ていたが、やおら近くの長椅子に座ると、ぐいっとその美乳をモロ出しにし、乳首を俺の口に含ませた。
「お飲み! 好きなだけ飲みなさい!」
いや、生後三日じゃ大した量飲めないんだけどね。俺は必死で飲んでやったよ。ここが正念場だと思ったからね。
やがて俺の顔に熱い滴が落ちてきたのに気づいた。侯爵夫人の涙だ。
「リヒャルト、リヒャルト、リヒャルト……」
死産した場合でも母乳は出る。母乳を止める薬を飲んでも、人によっては胸が張って痛くなり、それでも乳を搾ることはできず、ひたすら冷やさなければならない。それをするたびに死んだ我が子のことを思い出さずにはいられなかっただろう。
……この人は俺の母だったかもしれないんだよな。
俺は腹一杯になるまで夫人の乳を飲むと、大きく欠伸をした。すると夫人を気づかって乳母が俺を受け取ろうとしたが、彼女はそれを制し、低い声で子守唄を歌いだした。
部屋の中で、泣いていないのは俺だけだったようだ……。