黄金樹の一枝 リヒャルト・フォン・ヴュルテンベルク大公記 作:四條楸
この日、オーディン帝立歌劇場は盛況だった。本日の演目は『ワルキューレ』 大作の上演に観客の期待も高いのだろう。俺は侯爵夫人と共に、ボックス席で優雅に楽しんだ……という訳でもなく、二幕目半ばで寝ちゃったよ。だって興味が無いんだもん。オペラって夜遅いから、子供には辛いんだよね。それにボックス席って舞台からは遠くて、肉眼では演技の良し悪しなんて解らないよ。
「リヒャルト、リヒャルト! あなたが見たいと言うから連れて来たのに、これでは出演者の方々に失礼ですよ。さあ、終わりましたから、楽屋に参りましょう」
俺は侯爵夫人に、出演者の一人に楽屋で花束を渡したいと頼んだのだ。その出演者とは勿論、ローゼマリー・フォン・シェーンコップ夫人だ。彼女は本日の舞台でワルキューレの一人、ブリュンヒルデを演じている。
紫と真紅のバラをゴージャスに組み合わせた花束を用意してもらい、案内人に従って彼女の楽屋へ向かう。へえ、オペラの裏側って表舞台とは違って、雑然としているんだな。あちらこちらに器材や大道具があり、歩くのも中々大変だ。特に侯爵夫人はドレスだから、もっと大変そうだし、案内人はしきりに恐縮している。
楽屋の中はそれなりに整然としているが、机に鬘がでーんと置いてある。うーん、シュールだ。そして目指す女性は化粧台の前に舞台衣装のままで座っていた。
「フラウ、素晴らしい舞台でしたわ。まるで酔ったかのごとくなりました」
「お褒めいただいて光栄でございます。シュヴァーベン侯爵夫人。わざわざおみ足をお運び頂き、恐悦至極でございます」
「私、フラウのファンですもの。お会いできて嬉しいのは私の方ですわ! 無理を言って申し訳ありません。ああ、そうそう。こちらは私の息子ですの。さあ、ご挨拶なさい」
俺は夫人の正面に立つと、花束を差し出した。
「雄々しい戦乙女、ブリュンヒルデに敬意を表します。どうぞお受取りください。戦乙女も鎧を脱げば美しき麗人。剣よりも薔薇が似合います」
「まあ、ありがとうございます」
自分で言ってて余りのクサさに思わず天を仰ぎたくなった。
「失礼しました。名乗るのを忘れておりました。私の名はリヒャルト・フォン・ヴュルテンベルクと申します。お見知りおきを」
「ヴュルテンベルク!? ええ! ではルイーゼさまの!?」
「母をご存知ですか。嬉しいことです」
彼女は呆然として俺の顔を覗き込んだ。夫人は、舞台映えする彫りの深い端正な顔立ちで、出演直後のためやや乱れているその髪は、グレーがかったブラウンだ。
「何てルイーゼさまにそっくりな。すぐに気付かなかったのが不思議なくらいです。あの方の忘れ形見にお会いできるなんて」
「シェーンコップ夫人、実はお聞きしたいことがあるのです」
俺は例のディスクと指輪を取り出した。
「これらに覚えはありますか?」
彼女は目を見張ると、震える手で指輪をつまみ上げた。リングの裏側の文字を、一文字ずつ撫でる様に爪で辿っていく。そして見る見るうちに両目に涙が盛り上がり、やがては決壊し、幾筋もの透明な雫が、美しい頬を伝っていった。
「ワルター……」
小さなつぶやきが口をついた。
「……何からお話すれば良いのか……。私の息子と義父母のことはご存知ですか?」
「ええ、7年前に叛乱軍に亡命されておりますね」
「その理由もご存知でしょうか」
「いえ、そこまでは」
シェーンコップの祖父が借金を背負わされて、孫ともども夜逃げしたって、原作にはあったよな。
俺は彼女にこの指輪がリッテンハイムに渡ったいきさつを知りたいと願った。指輪に刻まれたもう一つの紋章はすでに調べてある。帝国騎士、シェーンコップ家の紋章だ。この家は末端ではあるが、俺の一族だったのだ。
「私と夫は16年前に知り合いました。きっかけはルイーゼさまです……」
夫人の話によると、彼女と母は、同じ声楽教師に習う兄弟弟子だったそうだ。そして夫となるシェーンコップ氏は、代々ヴュルテンベルク伯爵家の護衛を務める家柄の出で、当時は伯爵令嬢だった母の護衛を担っていた。その縁で知り合い、恋愛関係になったらしい。
しかし彼女は新進気鋭の歌手と言えど、平民出身、片や相手は小なりといえど、帝国騎士で伯爵の信頼厚い士官。結婚までには紆余曲折があったらしいが、結局は彼女と母が親しい関係にあることで、正式に結ばれることが出来たそうだ。
歌手を続けることには義父母は難色を示したが、夫の理解と母の後押しもあり、彼女は益々実力を付けていった。やがては妊娠、出産。産まれたのは男の子で、義父母は跡継ぎが出来たと大いに喜んだ。
「ディスクの日付はあの子の誕生日です。ルイーゼ様にもお見舞いいただきました。そしてお願いしたのです。赤ん坊の名を付けて欲しいと。三日も考えてくださいましたの。ワルター……『精強な戦士』という意味だそうです。名前の通り強い子に育ちますようにと、願ってくださいました」
……うん、願い通り育つ予定だよ、きっと。
「出産から数ヶ月後、この『Der Rosenkavalier』の舞台が行われたのです。ルイーゼさまの卒業記念とデビュー、そして私の息子の誕生祝いも、伯爵さまは兼ねてくださいました。この舞台の後のパーティで、伯爵さまから、ワルターへ祝福の言葉まで賜りました。この子が成長すれば、いずれは父親同様、ルイーゼ様、そして未来に生まれるであろう、ルイーゼ様のお子を守る男になるのだと、目出度いことだと……。あの時は本当にありがたく、幸福でした……」
ワルター・フォン・シェーンコップは、俺を守ることを運命づけられた男……。今、俺の横にいるテオドールの立ち位置は、本来シェーンコップとその父親が担うはずだったのか、なんつー運命の皮肉。
「その時に伯爵さまから、この指輪も賜ったのです。この指輪がピッタリ嵌る頃、将来のために訓練を始めるようにしなさい、お屋敷にも出入りを許すと。あの子は6歳の誕生日にこの指輪を嵌め、伯爵様の領地屋敷にも出入りが許されました。そこで護衛の為の訓練を始めました。勿論まだ幼かったですから、遊びの延長のようなものでしたが。伯爵さまは、筋が良いと誉めておられました」
領地屋敷……。つまりシェーンコップの実家は、オーディンではなく、俺の領地、ヴュルテンベルクにあるということか。
「ルイーゼさまはその数年前に後宮入りしておられましたから、あの子に会ったのは産まれた頃だけです。でも名付け子でしたから、気にかけてくださっていました。そして7年前の帝国暦461年12月のことです。ルイーゼ様のご懐妊が判明されました。伯爵ご夫妻は大層お喜びになり、ヴュルテンベルクからオーディンに、ルイーゼ様にお会いするために向かわれました。そしてその航路の途中、事故にお遭いになったのです」
祖父母の死因は自家用宇宙船での事故死。オーディンに着く直前、地表450kmの低軌道のところで、直径25cmものスペースデブリが超高速で衝突し、乗員諸共死亡したのだ。
乗客乗員合わせて20名、すべて宇宙の塵となった。そしてその中には、その頃祖父母の護衛を任されていた彼女の夫、シェーンコップ氏の名前もあったのだ。
「私はその時公演のため、他の惑星に滞在していたのです。数日後報せを聞いて、大急ぎでヴュルテンベルクに向かいました。しかしその頃、義父母と息子は、フェザーンに向かっていたのです」
20名の事故死は悲惨なことだったし、それが名家の伯爵家当主、しかも皇帝の息子を懐妊している寵姫の両親を死亡させることになったのだ。当然責任追及が行われた。
規定では、5cmを超えるデブリは非常に危険な物として回収を推奨しているが、その数の多さにとても追いつかない。その為、各惑星の宇宙監視システムでは、惑星近傍の特に危険なデブリをカタログ登録し、常に監視する態勢となっている。離発着する宇宙船に対して、危険なデブリがある場合は警告し、軌道修正を求めるのが常なのだ。
オーディンの宇宙監視システムは、祖父母の宇宙船に対してデブリの存在を知らせ、軌道を変えるように要請した。しかし何故か宇宙船は軌道を変えることなく、そのままオーディンに着陸しようと試み、事故となったのだ。
システムが警告を発したとき、それを受け取ったのがシェーンコップ氏だった。死者は弁明できない。この事故は彼の責任とされ、彼の家族は連座の危機に晒された。
危機を察知したシェーンコップ氏の両親は、素早く孫息子を連れ、ヴュルテンベルクからフェザーンに逃亡した。他惑星で公演中で、家族と上手く連絡が付けられなかった彼女はヴュルテンベルクに向かい、宇宙港で官憲に拘束されたのである。
しかし事故から5ヶ月後、意外な事実が判明した。事故宇宙船の破片回収の際、ブラックボックスが奇跡的に発見されたのである。中の航行記録、通信記録、ボイスレコーダーも無事であり、解析が進められた結果、宇宙監視システムからの警告が一切無かったことが判明したのだ。
監視システムの職員たちを取り調べた結果、デブリの監視を怠り警告を発しなかったのに、口裏を合わせて虚偽の証言をしたこと、シェーンコップ氏の名前を出したのは、乗員名簿で伯爵夫妻の次に記されていた名前であったからに過ぎず、何らの責任も無かったことが確認されたのだ。
拘束されていたシェーンコップ夫人は直ちに釈放された。ヴュルテンベルクの自宅に帰ると、埃の積もった食卓の上には、息子がいつも嵌めていたこの指輪が置かれていた……。
「義父母と息子に疑いが晴れたことを知らせようとしました。その頃は亡命手続きのため、まだフェザーンにいたはずだったのです。しかし正確な所在がどうしても掴めず、叛乱軍の弁務官事務所とは通信は繋がりません。そこでフェザーンに自分自身で向かい、探そうと決めました。しかし民間船のチケットが取れず途方に暮れていたとき、丁度保養でフェザーンに向かうリッテンハイム侯爵ご夫妻が、ご親切にも自家用宇宙船に同乗させてくださったのです。リッテンハイム侯爵夫人はオペラ好きで知られており、私のことも気にかけて下さっていたので」
フェザーンに着いた彼女は、弁務官事務所などを訪れ、家族の情報を得ようと努力した。侯爵夫妻も部下の一部を回して、搜索の手伝いをしてくれた。
その結果、彼女たちがフェザーンに到着するほんの二週間前に、義父母と息子は自由惑星同盟への亡命の手続きを終了させ、既に旅立っていたことが解ったのだ。
落胆する彼女を、両親と入れ替わりに保養から帰還するウィルヘルムが自家用宇宙船に乗せた。そして俺の母に、自由惑星同盟での家族の搜索をしてくれるよう、請願してはどうかと提案したのだ。もし所在が判明し連絡が取れれば、帰還も叶うだろうと。
権門とはいえ、一侯爵家であるリッテンハイム家では自由惑星同盟での搜索は難しいし、その義理も無い。しかし主家であるヴュルテンベルク伯爵家には一族の長としての義務があるし、現在の新当主ルイーゼならば、皇帝の寵姫であるから、皇帝を動かして、家族の所在を掴むことは可能かも知れないと。
その言葉に心を強くした彼女は請願の決意をしたが、彼女は一帝国騎士の妻。当然、新無憂宮に出入りを許されてはいない。そこで、俺の母と自分、そして我が子の三人の絆の証である『Der Rosenkavalier』のディスクに息子の誕生日を記し、指輪と共に、事情を知るウィルヘルムに託したのだ。
息子のことを気にかけてくれた母ならば、この意を汲み取ってくれるだろうと、そう願ったのだ。