黄金樹の一枝 リヒャルト・フォン・ヴュルテンベルク大公記 作:四條楸
「それまでにしていただきたい」
「何だ貴様は!」
少年がさらに掴みかかろうとするのを、テオドールは簡単にあしらって躱すと、俺の身体を自分の体躯で完全に隠す。
「お兄様、止めて」
「そうはいくか、この無礼者。名は何という!」
「我が主は軽々に名乗る名は持ち合わせておりません」
テオドールは強気だ。俺が遠慮しなくてはいけない貴族は極めて少ない。ましてやその子供ときては。
「テオ、やめろ。どちらの家中の方か存知ませんが、今日はブラウンシュヴァイク公爵家と皇室が結ばれたおめでたい日です。家門を笠に着た争い事はお互い控えましょう。ああ、そこの君、こちらの方にグレープフルーツジュースを」
俺はテオドールを制して前に出ると、丁度通りかかったメイドに彼の要求を伝えた。喧嘩を売られたって買わなければいいんだよ。こんなところで殴り合いをするほど、彼もバカではあるまい。
その証拠に、恭しく差し出しされたジュースを、彼は忌々しげにではあったが、受け取って口を付けた。
「……お前は飲まないのか?」
「先程オレンジジュースを頂きましたので、私は結構ですよ。フロイラインは何か飲まれますか?」
「私もいいわ、ありがとう」
おお、やっとお礼が来たか。俺に言ったのかメイドに言ったのか微妙だが。しかしその後は、何とも気まずい沈黙が場を支配した。兄の方は気を削がれてソワソワと落ち着かない様子だし、妹の方は自分が争いの原因になったことで、困ってしまったという感じだった。
「ごめんなさいね。お兄様ったら喧嘩腰で」
「気にしておりませんよ。兄君は気勢の良い方のようですね。これでは誤解されやすいでしょう」
「そうなのよねえ。今だって自分が悪いこと解っているのに、素直に謝れなくてイライラしているのよ」
「……リビー!」
妹に図星を指されたのか、兄は顔を赤らめて彼女を小さな声で嗜めた。その様子が可笑しくて、俺と彼女はクスクス笑ってしまう。先程の尊大さが引っ込むと、どうやら彼は妹に声を荒らげることのできない、甘い兄であるらしいことが解った。
「フロイラインはリビーと仰るのですね。兄君は?」
「お兄様はマックよ」
「……お前の名前は何というんだ?」
おいおい、そちらがフルネームを名乗っていないのに、俺の方から名乗るはずないだろう。誰かは知っているけれどな。
「私は……そうですね、リックです」
「あら、マックとリックなのね」
韻を踏んだのが面白かったらしく、彼女は楽しげに笑い出した。どうやら気分も治ったらしい。俺のことを愛称で呼ぶ奴は一人もいないけどね。
「私たちはお父様とお母様の代理でお祝いに来たのよ。リックは?」
「私は親族ですから。ご両親は何かお仕事でも?」
「え、ええっと。母の具合が良くないものだから、父も付き添っておられて……」
そうか、そんな理由付けだったのか。この二人、子供だけの出席か。身の置きどころに困っただろうな。
「母君の快復をお祈りしますよ。ところでとても立派なお式でしたね。お二人ともお幸せそうで良かったです」
「本当にステキだったわ。あのドレスの素晴らしかったこと。うらやましいわねえ。結婚式場まで建てていただけるなんて」
「ふん、ほんの数日のことにあれほど金をかけて。公爵家といえど、屋台骨が揺らぐぞ」
「お兄様、何てことを!」
どうやらマックは俺のことを公爵家の数多い親族の子供と思ったらしく、憎まれ口をきいてくる。リビーの方が慌てて兄を諌めており、立場が逆だよなあ、これは。
「ねえ、ブラウンシュヴァイク公爵が隠居なさるって聞いたんだけど本当? リックなら知ってて?」
「ええ、そうらしいですね。隠居された後、家督をオットー殿に譲って悠々自適にお過ごしになられるそうですよ。後は若いご夫妻が公爵家を盛り立てていかれるのでしょう」
現在の公爵家の女主人は勿論公爵夫人だ。しかし姉上が降嫁した以上、女主人の座は姉に譲らなければならないだろう。それを見越して公爵夫妻は隠居という道を取り、別邸も建てて、そこに引っ込むつもりらしい。
「公爵は60歳にも遠いのに。オットー殿では若輩すぎて一族は不安ではないのか?」
「隠居されても後見はなさるそうですから、不安など無いでしょう。いずれにしても、新婚旅行から帰られた後のことだそうです」
公爵家次期当主を若輩は無いだろう。俺が聞き流しているからいいようなものを。どうもマックは言葉が過ぎるタチらしい。その時、クリスティーネ姉上の侍女が姿を見せた。どうやら俺を探していたらしい。
「こちらにいらっしゃいましたか。姉君がお待ちしておられます」
「解りました。それではマック、リビー。またいつかお会いしましょう」
「おい、ちょっと……」
マックが俺を引き止めかけたが、それを流してその場を離れたところ、広間の入口に知った顔を見つけてしまった。ヴェストパーレ嬢だ。しかし彼女は、フッと俺から目を逸らしたので、どうやら声をかけるのは不味いだろうと、俺も無視を決め込むことにした。
しかしこんなところであの二人に会うとはね。正直、あまり関わり合いたい兄妹ではない。対処法も検討していなかったしな。テオドールは俺の兄妹への対応に不満があったらしく、軽く首を振ると、俺の後ろから囁いてきた。
「どこの家の兄妹でしょう。リヒャルト様にあのような無礼を」
「ああ、やっぱり気が付いていなかったのか、テオ。あの二人は……」
俺が彼らの家名を教えると、テオドールの右足は空中で二秒ほど止まってしまった。口の中が乾いてしまったかのような、息を飲む音が聞こえる。
「親が大貴族だからね。ある程度尊大に振舞っても許されていたんだろうな。でも兄の方は、どちらかといえば妹に良いところを見せようと空回りしているみたいだったが」
「不味かったですかね」
「テオは私の護衛の任を完璧に果たした。非難されることなど一つも無かったよ、ありがとう」
テオドールは嬉しそうに頭を掻いた。そういえば彼が俺に付けられてから二年は経つけど、護衛の任務を行ったのって初めてかもしれない。俺にとっては今のところ、『護身術の先生』なんだよな、彼は。
「あっ、しまった」
「どうなされました?」
「いや、いい。何でもない」
ブラウンシュヴァイク公爵と違って、俺は当初の目的を忘れてしまっていたよ。メルカッツ嬢には会えなかったな。
これから会うのはあの男か。クリスティーネ姉上の横に立っている長身の若い男が、俺に気付いたらしく、慇懃に礼をしてくるのが見えた。