バイト戦士なんだが、バイトしてたら初恋の子に会った。   作:入江末吉

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連日投稿です


雲間

 

 憔悴、その言葉を体現する少女がいた。少し少女チックにあしらわれた部屋は荒れ、本来の和風な内装が少しだけ顔を覗かせているが、その荒れようのせいで幽霊屋敷の一室にも見えるほどだった。

 少女の目は腫れ、口は小さく開いたままだった。長く艶やかだった髪の毛はまるで、山姥のようにぼさついていた。

 

 そんな彼女の携帯が震える。ベッドの上で座り、壁に凭れかかってる彼女の手に震える携帯が近づいていく。画面には、南ことりの名前があった。

 彼女の目が画面を見ることでようやく光を湛える。しかし彼女はスマートフォンを再び布団の上に戻し、濁った目を部屋中に向けた。

 

 高坂穂乃果が何も食さない間、彼女――園田海未も何も口にしていない。それは彼女に対する負い目からか、それともちょっとした黒い感情か。

 もう何日もまともに眠っていないように、海未はやつれていた。

 

 意識を失ってもうなされる。どうしてこんなことになってしまったんだろう。

 自分が悪い、一時の欲に流された自分が悪い。だけど、背徳は彼女の背を押し、感覚を麻痺させ、彼女から何もかもを奪い去った。

 

 奪い去った、と考えるのはお門違いか。結局は全部自分でかなぐり捨てたのだ、快楽のために全部を。

 友情も、仄かに暖めていた愛も、何もかも。

 

 強烈な自己嫌悪に苛まれた彼女の頭に残っているのは無念と、こうなってなお存在する彼への妄執。

 

 自分で言った、彼のモノになると。彼が理性を捨てるとき、隣にいたい。今でもなおそう思ってしまう。

 

「私は、人の子じゃありません……だから、もっと」

 

 官能的に唇に触れる。思い出すだけで、血が沸く。彼が穂乃果にすべてを打ち明けてから長らく失われた感覚が指先から全身へと伝わる。

 呼吸は荒くなり、身体が熱くなる。たまらず全身を撫で回すがまだ足りない。

 

「私は……私は……」

 

 虚ろな瞳で自分を慰める彼女の姿は、ともすれば亡霊のようであった。

 

 

 

 

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 

 

 

 

「…………」

「…………」

 

 覚悟を決めた俺が最初に訪れたのは、まず職場だった。といっても、スーパーの方だけど。

 しかし固めた覚悟が簡単に崩れ去りそうなくらい雰囲気が重く、俺はすぐに踵を返しそうになった。

 

「先輩……」

 

 俺の変わりに早期出勤してくれている白石くん、その隣で俺をやや睨むように、けれども眉は八の字にして困っているような室畑くん。

 そして殺意むんむんの主任。本当、出来ることなら今すぐ逃げ出したい。

 

「先輩ちょっといいっすか」

「いいよ、ドンと来い」

 

 室畑くんが今日の特売品のチェックも放って俺のところへやってきた。その足取りはとても勇ましく、威圧的だった。

 そして予想通り、彼は客の前で店員(格好は私服なので客扱い)を思い切り殴り飛ばした。殴られたところがズキズキと痛み、口の中に鉄の味が広がる。けど、必要経費だった。

 

「ファンがアイドル泣かせてどうすんすか……先輩馬鹿っすよ」

「…………うん、わかってるよ。だから、こうしてここに来た」

 

 俺の胸倉を掴む室畑くんの胸倉を逆に掴み返し、俺は立ち上がった。

 

「頼む、力を貸してくれ……壊れたもん全部元に戻すには、俺一人じゃ絶対無理だ。恥ずかしいけど、俺が頼れるのは、みんなだけなんだ」

 

 頭を下げる。恥ずかしいと言ったけど、今の俺に羞恥心は無い。必要なもののために、本当にやりたいことのためにやることをやるしかないんだ。

 

「……頭、上げてくださいよ。下げんのはむしろ俺の方っす。休職中の先輩殴ったりして、すんませんでした……事情、知ってるはずなのに」

「いいんだよ、むしろ頭から泥が抜けたみたいですっきりした」

 

 俺は室畑くんを抜き去り、そのまま主任に頭を下げた。

 

「すいません主任、もう少しだけ休みをください……」

 

「……いや、休職中だし戻れるときに戻ってきてくれて全然いいんだけどさ」

 

 驚いて顔を上げると主任から殺意は消えていた。そして、一言。

 

「けど、戻ってくるときは高坂さんも一緒。じゃないと認めない。二人一緒に朝の九時から働かせてやるから覚悟しなさい」

「はい、バイト一人くらい引っ張ってきます。ありがとうございました……!」

 

 こんなにあっさりいくと思ってなかった。だから、ちょっと脚から力が抜けてしまいそうだった。最後に俺の前にやってきたのは白石くんだった。

 

「先輩、僕も微力は尽くしますから……頑張ってください!」

 

 ぬいぐるみさんは女の子に恵まれてる、って言ってたけど……違うな、俺は仲間に恵まれてるんだ。それは穂乃果ちゃんと付き合う前から変わらない。

 

 スレでみんなに救われて。

 

 雪穂ちゃんに背中を推されて。

 

 エルメスた……亜里沙ちゃんに癒されて。

 

 絵里さんに渇を入れてもらった。

 

 ここまで来たら、やりきるしかない。どうなったとしても、って思ってたけど違う。完璧に、元通りにするんだ。

 

 穂乃果ちゃんと添い遂げるために。そのために、俺自身が救わなきゃいけない人が、どうしてもいる。

 俺はその人物とコンタクトを取るために、スマートフォンの電源を入れた。

 

 雪穂ちゃんの話では、ここ最近学校にも現れないって言ってた。だから、きっと家にいるはずだ。

 

 

 

 

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 

 

 

 

 その日も、園田海未の一日は怠惰を越えたものだった。一日中、動きもせず虚ろな瞳でどこか虚空を見ている。

 

『やぁやぁ、今日も静かだね』

「えぇ、今の私は命があるだけのモノですから……指示があるまで、動いてはいけません」

『徹底してるなぁ、君は捨てられても執念で帰ってきそうだよね。一昔前の呪いのぬいぐるみみたいだね、アハハ』

 

 ぬいぐるみの声が聞こえているのは彼だけではなかった。ぬいぐるみ特有の狂ったジョークに耳を傾けながら、海未は濁りに濁った目を虚空へと彷徨わせた。

 腹の虫も諦めたかのように鳴くのをやめた。ご飯が食べたい、けどそれ以上に、幼馴染の家の和菓子が食べたいと思っている。

 

 一生叶わないだろう、そう思っていてもあの口溶けを忘れられない。一度でいいから彼が作り上げた和菓子を食べてみたかった。

 それは同時に、海未が一番認めたくない彼の姿を認めることになる。穂むらの跡を継ぐ彼の姿は、海未にとってどんな鋭い一撃よりも殺傷力の高い攻撃だ。

 

『君も案外しぶといよねぇ、もう諦める方が遥かに楽なのにさ』

「あなたは、本当に私の本音を知っていますね……いっそ彼への思慕も愛も全部忘れてしまえたらどれだけ楽か、って思います。それでも、好きなんです……」

 

 

 

 ――――時を巻き戻せたら、どれだけ辛くて、どれだけ幸せだろう。

 

 

 

 ふとそう思うときがある。穂乃果のことが好きだという彼を心から応援して、いずれ子を成した彼らを心から祝福して。

 彼らの子供に、年の割りにおばさんなんて言われてちょっぴり傷ついて、だけどお姉さんっていう歳でもいられなくて……

 

 そんなとある風景に一喜一憂出来たら、どれだけいいだろう。

 

 絵空事は、所詮絵空事。私が今更彼らの元に歩み寄るだなんて許されるはずがない。しかし身体はそれに従おうだなんて微塵も思っていない。

 矛盾、そう矛と盾。

 

 私の欲望という矛は、何ものであっても徹さない理性という鉄壁の盾を、たった一夜で貫いた。人は最終的に、我欲には勝てない。

 だからこそ、この私の心を表しているかのようなこの(へや)が必要なのです。ここを、出てはいけない。

 

『ふふふ、人が欲に勝てないならば、君のしたいようにすればいいのに。相変わらず矛盾という言葉は君のためにあるみたいだね』

 

 彼の言葉は私に深く突き刺さりますが、そこから血は出ません。

 

『言ってごらんよ、君はどうしたいの? 彼ともう一度肌を重ねて一時の快楽を得たいのかな? それとも……』

「…………出来ることなら、なかったことにしたいです。もう一度、穂乃果の友達に戻りたい……」

 

 ですが、そんなことは無理です。私は一生、彼女という日を拝むことは許されない。

 

『許す許されないじゃないんだよ、本当に。君が何をしたいかだよ。君が忘れても、みんなは覚えてるんだからね』

 

「みんな……って」

 

 それだけ言うとぬいぐるみはどこかへ消えていました。目の前の空間の中で少し浮いているスマートフォンに手を伸ばす。電池はあと少し、知りえる中で私に恨み言を言ってくれそうな人は、二人いる。

 私は、数瞬迷いながらその二人のうち片方へと、ダイヤルをかけた。

 

 数回の呼び出し音の間、まるで私は車道に躍り出るような、狂った熱を感じていた。走ってくる車に身を曝すような命を賭けた一瞬の開放を求めるように、わざわざ死地に飛び込む命の快楽を貪った気分でした。

 

『うわっ、びっくりした。かけようと思ったらかけてくるなんて……もしもし、海未ちゃん?』

「あ、へ……ぇ、っと……」

 

 想像以上に高い声が聞こえて、私は言葉を失いました。彼の声には違いありません。ですが、なぜそんな晴れ晴れしたような声をしているのか分かりませんでした。

 

『おはよう、元気かな? 俺は、まだちょっとだるいかな』

「お、おはよう……ござい、ます」

 

 なんとか、会話を繋がなければ。そう思って私は考えるより先に口を動かしました。彼の声が耳に届くたびに身体がじんじんと熱くなる。

 

『なにか、用事あったの?』

「い、あ、あの……そう、ですね。私を傷つけてくれる人は、あなたくらいしか思いつかなかったので……」

『……そっか、じゃあそうだな……うちの近所の公園で待ってる。十五時に待ち合わせ、でいいかな。そこで直接言うよ』

 

 彼に会える、彼が会ってくれる。私にどんな汚い罵詈雑言を投げてくれるとしても、彼が私の前に現れる。私が彼の前に赴くことを許してくれる。

 そう思っただけで、幾分生きている気がしました。痛いからこそ、生きているというのはこういうことなのかと感じました。

 

『じゃあ、待ってるからね』

「必ず行きます。あなたの元へ、這ってでも行きますから、また私を……っ!」

 

 そこまで彼に告げてから、私のスマートフォンは力尽きました。嬉しさと悔しさが綯い交ぜになり、思わずスマートフォンを叩きつけそうになりました。

 私の身体が悦びを隠せずにいる。震える、愛で身体が満たされる。

 

 身体を慰める必要はなくなりました、彼が私を求めてくれるなら……どんなことにでも応えよう。

 

 彼が望むならどんな姿にでもなります。だから、私を…………

 

 

 

 

 私から逃げないで……

 




園田くんの持ちうるポテンシャルを以て高速風呂敷畳みの時間です。

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