バイト戦士なんだが、バイトしてたら初恋の子に会った。 作:入江末吉
「いらっしゃいませ~」
「らっしゃっせー……暇だな」
確かに暇です。もう三が日も明けて、普通にお仕事を再開する人が増えても僕の職場には人がいなかった。
あ、申し遅れました。白石勇人です。もうすぐ閉店時間で、最後まで室畑さんとレジを抑えています。僕はまだ高校生、つまり学生待遇なのでお給料が安くお店側としても使いやすいので休日はとても早くから仕事ということがあります。そういう日は、だいたい先輩や高坂さんがいるので苦にはならなかったのですが……最近、二人とも仕事には来ません。
先輩は休職、高坂さんは主任の話では失声症を患ってしまったとかで、同じく休職中です。心配ですけど、なかなか挨拶に行く勇気が出ません。室畑さんも同じみたいで、誘ってもやんわりと断られます。アイドルのおっかけがそんなんで大丈夫なのか、ちょっと心配です。
「二人ともお疲れ、白石くんは残り仕事無し。室畑くんはリカーな」
「そーんなー……」
室畑さんが肩を落としてる間に、申し訳ないなぁとは思いながらもレジを上げてサービスカウンターへ戻る。退勤表の横には出勤表が置いてあった。その表の下にはここでもセットになっている先輩たちの名前と、その横に引かれた赤い線が嫌に目に入った。こういうのを見ると、本当に先輩たちは仕事に来れない状況なんだなぁって思います。
「主任、二人とも戻ってこれるでしょうか……」
「んー、まぁ数ヵ月後には三月、学生勢は卒業だのの都合で仕事も卒業していくからな。それくらいには戻ってきてくれないと困る」
極めて平静を装ってらっしゃるけど、主任はやっぱり怒ってるのかもしれない。僕には分からないことかもしれないけど、先輩はどうして高坂さんを傷つけてしまったんだろう。そうならずに済んだ道は無かったんだろうか。なんて、本人に向かって言ったら怒られるか。下手すると殴られるかも。
「絶対戻ってきてもらうからな、そんで研修中腕章つけさせて二人とも給料40円引きしてやる」
「……ですね、年末商戦不在の罪深さ思い知ってもらわないと」
ちょっと冗談めかして口にすると、主任に頭を下げて事務所へ向かう。退勤手続きを完了させて荷物を纏めると、僕は休憩室を後にした。職員玄関にいる警備員さんに荷物を見せて駐輪場に向かったそのときだった。
「あの……」
女の人に声をかけられた。お客さん、だろうか……暗がりからすっと出てきた彼女の顔に見覚えがあった。
「高坂、雪穂さん……ですよね?」
「あ、はい……えっと、白石くんだよね……お兄さんから話聞いてます、優秀だとか」
う、嬉しいな。仮にも現役スクールアイドルの彼女に一目置かれてるなんて……だけど、それ以上に気になることがあった。
「どうしたんですか? こんな遅くに、有名人が一人で歩くなんて危ないですよ」
「実は、すぐそこにお父さんがいるんだ……心配してくれてありがとうね」
見れば、軽自動車からこちらに向かって銃口のような圧力の視線が向かっていた。なるほど、彼女の安心はあそこから来てるらしい。
「僕に、もしかして用事があったり……なんちゃって」
「ううん、その通りなの。単刀直入に言って、お兄さんを……違うかな、μ'sとお兄さんを立ち直らせるために力を貸してほしいの」
それから雪穂さんが語ったことは、正直僕からすれば……いや当時のμ'sファンからすれば血涙モノの出来事だと思ったし、僕も少し圧されてしまった。確かに先輩は魅力的な男性だと思うし、聞くところによれば小学生時代に付き合いがあるから、お互いを知り合ってるとは言え……かなりビックリした。
「あんまり、怒らないんだね」
「いえ、怒るっていうかただ驚いてますし……たぶん先輩は自分を責め抜いてるはずなので、これ以上先輩を咎める人はいらないと思って……」
「ふぅん、優しいんだ」
不器用なだけですって。年上の雪穂さんに少しだけ圧倒されながら、僕は体が冷えるのも忘れてその場で話を聞いていた。そして聞けば聞くほど、改めて把握した状況に圧された。
そしてなんとなくだけど、当事者だけで解決するには溝の深い案件だとも、改めて思った。
なればこそ、僕の微力でも尽くさなければいけない気がする。夢を見せてもらった、あの日の恩返しをするならこの時しかない。
僕は話を聞きながら年始の寒さを跳ね返し、燃え盛るこの気持ちを育てて行った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
汚泥から身を上げるような気分で身体を起こした。覚醒とはほど遠い寝覚めだ、気分も悪い。お腹が痛い、かれこれ数日まともなものを食べていない。部屋からは、トイレの時以外出ていない。
そもそも、俺の家の二階は俺ともう一つの部屋しか無く、トイレはどの階にも設置されている。つまり、両親の顔も久しく見ていない。
「痒い……」
ゴワゴワになった髪の毛は魔女の家の庭に生えてそうな枯れ木のようにバリバリと逆立っていて、一撫でするだけで頭全体に痒みが拡がる。そろそろ蝿に集られてもおかしくない。
しかしさすがに風呂に入るのはどうなんだろう、俺もう働いてないし水道代を齧るのは忍びない。だったら寝てしまえばいい。
ベッドに横になったとき、すっかりベッドの板の硬さを身体が感じた。ずっとこのベッドで寝てたはずなのに、もう二週間近くここで寝てたはずなのに……
あの柔らかくて、良い匂いのするベッドが忘れられない。あのベッドの上で抱いた女の子のことを忘れられない。
そうだ、俺はあのベッドで海未ちゃんを……もうやめよう、やめよう。
寝よう。起きたばかりだけど、何もすることが思いつかない。こんな気持ちさっさと忘れてしまいたい。時間が経つことで忘れられるなら、時間が経つことで俺が苦しむなら――――
『――――きひひ、可哀想だねぇ~』
「ッ!?」
声がした、高い魔女みたいな、不快になるよりも先に不安を覚えるような、そんな声が。飛び起きるも、声の主はどこにもいない。当たり前だ、この部屋には鍵が掛かっていて誰も入ることは出来ないのだから。
考えられるのは、ドアや窓の外にその人物がいる可能性だ。俺は弾かれるようにドアに近づいて、ドアに耳を押し当てた。空気の流れる音は感じられても、誰かが喋ってる声はいっさい聞こえない。
『――――こっちだよぉ』
「なっ……」
絶句、今の俺を表すに最適な二文字。声の主は、俺なんかよりもずっと小さかった。そいつはたったさっきまで俺がいたベッドの上から、こちらを見ていた。
赤みがかったピンク色のずんぐりした体躯に、可愛らしいマスコットみたいな顔。どこかで見たことがある。
「穂乃果ちゃんの、お気に入りのストラップ……」
『その通り~! きひひ、可哀想だねぇ~!』
脳に不安を与える笑い声は、確かにそのストラップから出ていた。デザインは可愛らしいのに、喋ってるだけであの可愛らしい顔がとてつもなく恐ろしいものに思えた。
「か、可哀想って……別に俺はそんな」
『ごめんごめん、君のことじゃないよぉ~。穂乃果ちゃんのことだよぉ~』
……不安を煽る声が一気に不快な声に様変わりした。けど、言ってること自体は至極正しいから、反論なんか出来ない。
『なんでお前喋れるんだって顔してるね? なんでだと思う?』
「お前が穂乃果ちゃんから声を奪ったんじゃないのか」
『違うよぉ、ボクが喋れるようになったから穂乃果ちゃんが喋れなくなったんじゃなくて~穂乃果ちゃんが喋れなくなったからボクが喋れるようになったんだよぉ~。じゃあ、なんでボクが喋れるようになったと思う?』
マスコットは、まったく動かないままケラケラと笑い声を上げて俺を見てる。俺と話している。そして今になって、俺は自分がどうなってるのかを思い出した。
恋人のお気に入りのストラップと話をしている。端から見れば俺の頭がついにおかしくなって一人芝居してるようにしか見えないと思う。ついに幻聴が聞こえるようになってしまったのか。
『なんでかって聞いてるんだよボォーイ!』
「うわっ……」
動かない上に笑顔みたいな表情だから分かり辛いが、声音が完璧に怒り狂っていた。もしこいつが動けるならこの小さな体を使って俺を切り刻みに来るんじゃないだろうか、そんな感覚に襲われる。ホラーゲームに出てくるような、愛嬌のある悪魔そのものだった。
『君に文句言うために決まってんだろぉ~!? どうだい、愛する穂乃果ちゃんの寝てる傍で海未ちゃんとセックスした気分は! 穂乃果ちゃんに申し訳ないと頭で思いつつも海未ちゃんの身体に溺れてセックスしまくった気分はさぁ~? 母校の校庭の端。公園の、人気のない公衆トイレの中。あぁそういえばあの公園で穂乃果ちゃんになし崩しで告白したんだっけ、どう? 恋人との思い出の場所でする浮気セックスは?』
「……もう喋るな、穂乃果ちゃんのお気に入りがこんな汚い言葉を吐くなんて思いたくない」
『ボクもうんざりさ、ボクの大好きな女の子が大好きな男の子にボロボロにされていく様なんて見たくなかったね。君が穂乃果ちゃんに真実を打ち明けて、彼女を傷つけていく間もボクはずっと見てたんだ。穂乃果ちゃんはなんて思っただろうね? 海未ちゃんの方が私の身体より気持ちいいとか、遊ばれてたとか思ったんじゃないのかなぁ?』
「喋るなって言ってるんだ!! もう帰れよ!!」
その場に転がっていた適当な物をぬいぐるみ目掛けて放り投げる。当たった、ぬいぐるみは確かに弾かれた。さっきまで置いてあった場所から飛んで行った。
――――はずなのに。
『帰りたいねぇ~! ボクもさっさと君をぶっ壊して一生サヨナラしたいよぉ~!!』
ぶっ壊すとか、一生サヨナラとか物騒な言葉ばかりを吐きつけるそいつは、俺の机の上からこっちを見ていた。立ち上がって、力一杯真横に腕を薙ぐ。ぐにゃりとぬいぐるみ特有の歪み方をして、机の上から吹き飛んだ。しかし俺の腕は力が有り余ってそのまま壁へと激突し、鈍い衝撃が走りじりじりと痛みを湧かせた。
『けどさ、君を壊すと結局誰かが泣くよね。穂乃果ちゃんにしろ、海未ちゃんにしろ、雪穂ちゃんとかさ。で、その誰かが泣いて、続いて壊れちゃったら連鎖的に誰かが不幸になるよね。だからボクは君を壊さないよぉ、でもね。死ぬ寸前まで痛めつけてやろうとか、考えてるからね』
「クソッ……クソッ! クソ!! なんなんだよ、出てけよ……俺の前からいなくなれ!!」
『……君が穂乃果ちゃんと同じ苦しみを味わうまでずっといるよ。さて、じゃあお話をまた始めようか。じゃあ君と穂乃果ちゃんが愛し合ってる間の海未ちゃんの話をしよっか。ボクはこう見えて何でも知ってるんだぁ~……君が穂乃果ちゃんと一緒に海未ちゃんの家に行ったときだよ。水をぶっ掛けられた君は海未ちゃんからタオルを借りたよね?』
ぬいぐるみの話を聞いて、思い当たる節があった。あの日はどういうわけか、水をよく浴びた。でも、それがなんだって言うんだ。まさか、海未ちゃんがそんなことで一喜一憂してたっていうのか、そんなバカな話があるわけ……
『あるんだよぉ! 乙女心ってのがわかってねーなボーイ! そんなんだからこんなんになっちまうんだよぉ! あの時海未ちゃんはな、正気を保つのが難しいくらい舞い上がってた。ポーカーフェイス苦手なくせに必死に押さえ込んでたんだぜ~? けど、それからの君は穂乃果ちゃん一辺倒。自分と違ってずっと一緒にいた海未ちゃん相手に都合よく恋愛の相談役を押し付けて、海未ちゃんはどんな気持ちだったかなぁ。乙女心が分からない君に、彼女の気持ちわかるかい?』
捲くし立てられた言葉は俺をその場に縫いつけた。ピンポイントで重力を発生させてると錯覚するくらい体が重くなった。もういっそこの場で意識を投げ出してしまいたくなるくらいに逃げ出したかった。
不気味なぬいぐるみからじゃない。自分から、この現実から、逃げ出したくてたまらなかった。誰も俺を、俺のした所業を知らないところまで逃げて逃げて逃げて、何もかも忘れてしまいたい。
愛も、劣情も、仕事も、友情も、何もかも。
『逃げんじゃねーよ』
「……」
見透かされていた。何を考えているか、もうこいつに隠し事は出来ないんだと、裁判所で死刑宣告を喰らうように思い知らされた。
『大好きな穂乃果のことを応援したい。けれども自分の抱き続けて蓋をした気持ちが宝箱の中で熱を発し始めて、無視できないほど熱くて辛い愛情を、彼女は持て余していたんだよ。だから、君に呪いをかけたんだ。穂乃果ちゃんが好きなほど、君を縛り付ける呪い。ただ、彼女の誤算は君が縛られてることにすら気付かないでゴールしちゃったことだよね』
「俺が自分の気持ちに素直になって何が悪い……」
『素直になった? なにそれ? 言ったじゃん、君は済し崩しで穂乃果ちゃんと結ばれただけ。君はゴールテープを幻視して、フライングして、身を縛る鎖を無視して這い蹲りながらゴールしただけ。他の人、いや海未ちゃんはどう思う? 他の選手が並んでる状態で、君だけが走り始めて、勝手に幸せになってたら? そりゃあもう、壊れちゃうよね』
嘲笑う。ぬいぐるみがとことんまで俺を嘲笑する。脳裏には、俺に覆いかぶさり、俺の唇を唇で塞ぎ、身体を求める、豹のような扇情的な海未ちゃんの姿が思い浮かぶ。
身体を重ねるたび、どんどん積極的になる海未ちゃん。彼女が恋人だったなら、俺だって苦笑いしながら彼女の愛を享受した。けれど、彼女が愛を差し出したとき。俺は既に穂乃果ちゃんの愛を持っていて。それは、俺も欲しかったもので。
手に入れてしまったから、それだけでは満足できなくなってしまって。
人としての道を外れた。一途な自分を殺した。言い訳せずに言うなら、俺は確実に行為の間だけ海未ちゃんを愛してしまった。獣のような交尾に愛を見出してしまった。
呆然と立ち尽くす俺を前に、ぬいぐるみは声のトーンを少しだけ低くして呟いた。
『ね? 海未ちゃんが壊れたら君が壊れて、最終的に穂乃果ちゃんが壊れちゃった。
次は誰が壊れるのかなぁ? そして君は
穂乃果ちゃんが在学中鞄にぶら下げていたストラップ(CV:新田恵海)
的な。なんのオマージュか知ってる人は知ってそう。
続きものなので次回更新も早めにしたいと思いますぞ~。