バイト戦士なんだが、バイトしてたら初恋の子に会った。 作:入江末吉
「君、最近おかしくないか?」
「すいません」
「やけにミスが目立つじゃないか、今月でもう始末書三枚目だぞ」
「……すいません」
高坂穂乃果です。今仕事が終わって、レジを上げたんだけど帰ってくると彼が主任に怒られていた。怒られていた、というよりはまだ注意止まりな感じだけど、それでも主任は笑ってなかった。
彼もまた、慣れたように頭を下げて反省文を書く用紙のついた始末書を受け取っていた。主任が私の存在に気付くと、急に笑みを作った。
「さ、今日はもう帰れ。あんま心配かけるなよ」
「…………すいません」
「少しはそれ以外のことを言え」
す、と言いかけて彼はエプロンの紐を解いた。私が近づくと、力の無い笑みを浮かべていた。
「お疲れ様、今日も大変だったね」
「お客さんは、そんなに多くなかったけどね」
「近所のスーパー、リニューアルしたもんね。こっちも負けてらんないよ!」
私がそうやって意気込むと、彼はこくりと頷いた。そして穂乃果を置いて事務所へ戻って行った。すると今日のパン係の室畑くんとリカー係の白石くんがちょうど仕事を終わらせたみたいでサービスカウンターに戻ってきた。
「高坂さん、お疲れさんっす。旦那さん待ちっすか?」
「お疲れ様です!」
「二人ともお疲れ様! 今日も大変だったね~」
二人は彼をよく先輩と慕ってて、穂乃果抜きでご飯食べに行ったりしてる。もしかしたら、この二人なら何か知ってるかな。
「ねえ、最近彼の様子おかしいと思わない?」
「あぁ~あれは女っすね、女の匂いがしますよえぇ」
「ちょっと室畑さん! 気のせいですって、先輩にも悩みの一つや二つはありますよ」
悩みの一つや二つ、か。指にして三本未満の悩みですら穂乃果は知らないし、彼は話してくれない。ひょっとして、倦怠期……? ってそれはないない。
「冗談っす、でも確かに先輩おかしいっすよね。あんなんになったの久しぶりっす」
「久しぶり、ってことは前にもああなったことあるの!?」
心当たりがありそうな室畑くんに詰め寄ると室畑くんが後退しながら手で「お、落ち着いて」と制した。ちょっと熱が入っちゃった……
「確か先輩があんなんになったのは、高坂さんがここに勤め始めた少しあとくらいっすね……まぁその頃、ちょうどお二方のシフト昼間になったせいで気にすることも出来なかったんすけど」
私がここに務め始めた頃は、確かまだ付き合ってなかったよね。ってことは、そのときの悩みごとに似てる悩みを抱えてるってことかな?
「…………ちょっと待って、私たちが付き合う前って……え、本当に女の人なの……?」
「室畑さんが変なこと言うからですよ! 高坂さんに謝ってくださいよ!」
「すすす、すんません! まさか、そんなつもりはまったくこれっぽっちも……」
どういうこと? 私、いつの間にか捨てられ……ううん、そんなことない! ありえないもん、だって……だって……
「ととと、とにかく先輩連れてきましょ! 室畑さんダッシュ!!」
「お、おおおう!」
凄い勢いで室畑くんが事務所の方向へ消えて行った。白石くんも凄い勢いで頭を下げて、主任に仕事が終わったことを報告して事務所へ走って行った。一人ぽつんと残された私は店の一角にあるケーキ屋さんの前で膝を抱えてケースを見ていた。
「そういえば、もうすぐクリスマスかぁ。今年もちゃんとパーティ出来るといいな……」
彼がうちにいるなら、サンタさんの格好してもらったり。もしくは、穂乃果がサンタさんで彼がトナカイ。一緒にこたつに入って、寄り添ってられるだけでも穂乃果は幸せだから、だから……
「一緒にいたいよ…………」
ちょっとだけ、本音を零しちゃった。けど、彼はたぶん言いたくても言えないんだと思う。だから、穂乃果が本音を抑えてる辛さよりもっと辛いのかもしれない。
「頑張らなくちゃ。ファイトだよ、穂乃果」
ぴしゃりと頬を張って、彼の帰りを待った。しばらくして彼は室畑くんと白石くんに運ばれるようにしてここまで戻ってきた。二人は彼を連れてくるとそそくさと帰って行った。けど、去り際にこっそり頑張って、と言われたから、穂乃果は頑張ります。
「ごめん、待たせちゃって。帰ろっか」
「うん! 穂乃果、待ちくたびれてお腹空いちゃったよ」
彼は穂乃果の前髪を少しだけくしゃっとするように撫でてから、その手で穂乃果の手を取った。その瞬間、一瞬びっくりして転んじゃうかと思ったくらい、彼の手は冷たかった。
「だ、大丈夫……?」
「何が?」
「手、すごい冷たいから……」
繋いだ手を逃がさないようにギュッと掴んでいると、彼は一瞬きょとんとしてからにこりと笑ってから、
「いや、実は気付かないうちに指切っちゃったらしくてさ、なんかひりひりするなぁって思って。だから休憩室でちょっと手洗ってたんだ」
確かに休憩室の水道はお湯が出ないけど……そういうことなら、大丈夫かな……
「あー、俺もお腹空いちゃったなぁ。我慢できないなぁ~買い食いしようかな……いや、お母さんのご飯が待ってると思えば耐えられるっ!」
彼は陽気にそう言うと、穂乃果に向かってまた笑いかけた。前の彼が戻ってきてくれたんだ、それが凄い嬉しくて不意に彼の腕を抱き締めた。
「うおっ?」
「えへへ、なんか嬉しくて」
ちょっと困ったみたいに頬を掻く彼の仕草が大好き、「しょうがないなぁ」って顔で穂乃果のことを引っ張ってくれるその手が大好き。
何を疑えばいいのか、彼は私の大好きな彼のまんまだった。
家に帰ってくると、お父さんが迎えてくれた。もう晩御飯できてるらしくて、みんな穂乃果たちを待ってたみたい。なんだか悪いことしちゃったかな。
「「いただきま~す」」
彼は、まず最初に味噌汁に手を出す。味噌汁ソムリエの彼の食事は味噌汁から始まる、雪穂が得意げに語っていたのを思い出した。
そして白いご飯をパクパクと口に運んで、また味噌汁に手を出す。絶妙なリズムで彼はご飯を進めていく。
「いやぁ、お母さんのご飯食べてるだけでもう幸せです」
「お粗末様でした、ふふふ」
ご飯を食べ終えたら、彼はお風呂に入るか上の部屋に行くかのどっちかだ。今日は疲れたらしくて、お風呂には入らないみたい。そのまま上の部屋でジャージに着替えて、靴下を二重にして履いて布団に潜った。
「一緒に寝てもいい?」
「ん、いいよ。はいどーぞ」
私もパジャマに着替えてから髪を解いて、電気を消す。ずいぶん早い気がするけど、まだ一日は終わってないから。
彼はまた私に背を向けて寝ようとした。だから、少し意表をついて布団の下から彼の正面に潜り込んだ。当然彼は吃驚して、もう一度寝返りを打とうとする。だから、
「えいっ」
彼の腋の下から背中に向かって手を回して、ぎゅっと抱き締めた。
「最近、元気無いから。だから穂乃果に出来ることで癒してあげられたらなって思って」
「お、れは普通、だよ……」
そう言って彼は笑いかけようとした。けど、綻びはすぐに現れた。
「ごめん、ちょっといろいろあって……本当にごめん」
彼の腕が穂乃果の背中を締め付ける。けどそこに痛みはなくて、ただただ弱々しかった。
「いいよ、今日はこのまま寝ちゃおう」
「うん、おやすみ……ありがとう……ありがとう……穂乃果ちゃん……」
どんどん小さくなる言葉、次第に彼は穏かな寝息を立て始めた。私も彼の頭を宥めるように撫でていく。ゆっくり、ゆっくり。
久しぶりに見る彼の穏かな寝顔。唇に小さく触れるだけのキスをして、私も目を瞑った。
明日の朝には、全てが元通りになってるから。
おやすみなさい。
次の朝は、意識を失って一瞬後に訪れたように感じた。肌の毛を寝息がくすぐって、こそばゆい感じが意識を覚醒させた。
「ん……」
まだくっついていたいと駄々を捏ねる瞼を開けると、朝の弱々しい光を目が取り込みバチバチと光が跳ねるようだった。それすら落ち着いてくると、目の前ですぅすぅと穏かな寝息を立てている穂乃果ちゃんが見えた。
「まだ、六時頃かな……」
外からの光で時間を推測する。してから、自分がこんな真人間のような時間に起きるのは久しぶりだと思った。寝汗も掻いていない、むしろ少し肌寒いくらいだ。
というか、夢を見た記憶がない。ということはうなされもしなかったってことだ。
「穂乃果ちゃんのおかげだ……」
そう呟くと、眠っている彼女は小さく微笑んだ。もしかして起きてるかも、と頬をつついてみると身体を揺らして反応した。どうやらまだ寝てるみたいだ。
ずいぶん静かな朝だ、こう静かだとここ数日のことを嫌でも思い出してしまう。
「ごめん、穂乃果ちゃん」
彼女を騙していることに、裏切っていることに罪悪感が無いわけではない。むしろそのせいで、胸は張り裂けそうだ。
だけど、このことを打ち明けるわけにはいかない。罪を負ったのは俺だけじゃない。共犯者がいるからだ。
それが知らない誰かなら、俺だってこんな迷ったりしない。多少のささくれ立ちがあったとしても、何もかもを露にする。
「けど、相手が海未ちゃんだなんて……言えるわけが」
そんなことをしたら、彼女たちは……考えるだけでも恐ろしい。
だって、二人は日本中を夢中にさせたあの『μ's』のメンバーで、それ以上に子供の頃からずっと一緒にいる親友だ。その絆を汚したくない。壊させたくない。
「なんとか、二人の仲だけは……守らなくちゃ」
そのために、この秘密を隠し通さなきゃ。そして、全部終わりにしなきゃ。海未ちゃんとのこと、彼女の身体に溺れるのはあれで最後だ。
「ん……ふわぁ」
身体を左右に揺すって穂乃果ちゃんが薄らと目を開けた。穂乃果ちゃんの目が俺の目を見て、身体が固まった気がする。こんなこと、もう何十回もやってきたはずなのにドキドキした。
穂乃果ちゃんに気持ちだけ片思いをしていたあの頃に、一瞬戻った気がした。初心を忘れちゃダメだよな、俺は穂乃果ちゃんが好きなんだからさ。
「おはよう、穂乃果ちゃん」
「おはよう。よく眠れた?」
おかげさまで。ちょうど心構えも出来たことだし朝の散歩でもしようかな。防寒用にしっかり着替えると穂乃果ちゃんもついてくるみたいだった。一瞬海未ちゃんのことを疑われたのかと思ったけど、どうやらただ付いて来たいだけらしかった。
「お日様出てても、やっぱり寒いねぇ」
「今年も後数日で終わりだからね……」
左手をポケットに突っ込んで右手を穂乃果ちゃんと繋ぐ。お互い敢えて繋ぐほうに手袋をしていないのは、互いの温度を共有しあって、暖めあうため。穂乃果ちゃんの熱は冬の寒さに勝って俺の手を温めてくれる。
隣を見ると、鼻の頭や耳を真っ赤にして白い息を吐いている穂乃果ちゃんがいる。その仕草一つ一つが本当に愛おしくて、そのたびに壊したくないと思ってしまう。
きゅっと、触れる指に力を込めた。すると穂乃果ちゃんは同じように握り返してきた。と次の瞬間、あっと声を上げた。
「ねぇ、明日クリスマスイブでしょ? だから、久しぶりに二人きりでデートしない?」
願ってもない提案だった。明日、一日無事でいられたら俺は前に進める。もう何もかも気にしないで穂乃果ちゃんだけ見て生きていける。そんな気持ちが不意に湧いてきた。
「うん……うん……! 行くよ、デート。一緒に出かけよう、ご飯食べに行ったり。買いもしないのに、いろんなもの見て歩いたり……それで、全部、すっきりさせよう」
熱い涙が零れた。穂乃果ちゃんは手袋でその涙をふき取って、俺の頭を抱き締めるように自分の中に招き入れた。昨日ぶりの穂乃果ちゃんの身体はやっぱり暖かくて、外だってことも気にならなくてただただ甘えていたくなる、そんな包容力があった。
「えへへ、今から楽しみ」
「俺も。初めての、クリスマスデート」
俺たちが一緒になってから初めてのクリスマス。その日で全部キッチリさせよう。俺は穂乃果ちゃんが大好きなんだ。他の女の人を抱くわけにはいかないんだって、はっきりさせよう。
サンタさん、神様、仏様、この際悪魔様でもいい。明日だけでいいから、俺に穂乃果ちゃん以外の人を突っぱねる力をください。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「さて、どこに行こっか!」
翌日、本来は入っていたはずの仕事を休みにしてもらい、俺と穂乃果ちゃんは夜のイルミネーションが輝く世界に脚を運んだ。穂乃果ちゃんはすごい気合いの入れ様で、冬だというのに下はスカートだった。なんだかそこら辺にあったジャケットとズボンに防寒具の自分が情けなくなってきた。
「まず、暖まらない? ご飯でも食べてさ」
「そうだね、荷物が無いうちにご飯済ませちゃおう!」
異議なし、ということで俺たちは高くも無く、安いといえば安い庶民の味方のファミレスへ入った。過度なまでに効いてる暖房が汗を沸かせた。マフラーと手袋を外して鞄の中にしまう。穂乃果ちゃんも未だに鼻の頭や頬が赤くなっている。照れてるみたいで、ちょっと可愛い。
「お客様、二名様でよろしいですか?」
俺は頷き、禁煙席に通してもらった。すると店の奥、窓際のテーブル席に通された。荷物を椅子の背凭れに掛け、メニューを開いた。
「美味しそう……! お昼食べ損なっちゃったからね、どれも美味しそうに見えるよ」
「ちなみに、肉には食べたら幸せって気持ちになる成分が含まれてるんだって。前にバイトしてた店で教えてもらったんだ」
「そうなの!? てっきり、食べた次の日にもっと食べておけばよかったって気持ちにさせるのかと思ってたよ!」
穂乃果ちゃんは驚いて、メニューをマジマジと見た。まぁ俺が聞いたのも受け売りだし、正確なことはわからないんだけどね。一人ごちていると穂乃果ちゃんはメニューを決めたようだった。俺も適当にこれだと思ったメニューを頼んで待つことにした。
「さてと、時間が出来たところで話をしなくちゃ。まずは、ごめん」
「どうして謝るの? なんか悪いことでもしたー?」
そう言って意地悪く笑う穂乃果ちゃん。既にナイフとフォークを持って、肉が来るのを待ってるみたいだった。さすがに武器持ったまま暴れるのはやめてね、怪我人出るからね。
「……やっぱ、なんでもない。ここ数日迷惑かけてごめんね、って話」
「そんなこと? 気にしなくてもいいよ。元気になったなら穂乃果も嬉しいし」
穂乃果ちゃんの笑みは俺にゴーサインを出すくせに、ぶつかる直前でブレーキを踏めと言ってくる。俺は身体に残った走るためのエネルギーを残したままになってしまう。それを溜め込んで、いつも仕事は集中できなくなってしまう。
「穂乃果ね、あなたが落ち込んでるのに何も出来なくて、彼女失格だなぁなんて思ってたんだ。あなたが抱えてるもの、一緒に背負ってあげられなくて」
背負えないよ、あんなの。穂乃果ちゃんにとって一番重いものだから。俺でさえ、毎日潰されそうになって必死に耐えてるってだけだから。
穂乃果ちゃんにだけは背負わせない。穂乃果ちゃんが背負ったら、穂乃果ちゃんも潰されちゃって、上の背負ってるものまで壊れてしまうから。
これだけは二人で持っちゃいけないものだから。
「十分だよ、穂乃果ちゃんがいるだけでどれだけ救われてるか。一人だったら、俺もうどうなってたかわかんないし……」
「それじゃダメなの、もっと明確に。穂乃果にも分かるように、穂乃果が力になってるってこと証明したいの」
そのときだけ、穂乃果ちゃんは小躍りをやめて、射抜くような眼差しで俺の目を見た。俺は視線を通じて心を鷲掴みにされたような圧迫感を感じた。
どうしても、俺を救わなくちゃいけないという使命感に囚われているような、そんな気がしていた。
困ったな、どうしたらいいんだろうと思ったところに助け舟のようにやってきた料理。ここのお店は早い配膳で有名だからだ。
「先にご飯食べちゃおう。話は、帰ってからでもいいし……さ」
「ぶー……わかった、じゃあいただきます!」
それからは、言葉も少なく俺たちは食事を楽しんだ。穂乃果ちゃんが残したものを無理矢理食べさせようとしたり、結局俺が食べたり。周りから見ればただのバカップルだったかもしれない。
だけど、その行動の裏側にはお互いの寂しさが爆発していた。穂乃果ちゃんの目尻がそれを教えてくれた。
会計を済ませて外に出ると、穂乃果ちゃんは手を繋ぐ代わりに腕を組んできた。防寒具越しに穂乃果ちゃんの柔らかさが伝わってきて、思わず心臓が早鐘を打った。
そうだ、今日は忘れろ。穂乃果ちゃんにわかってもらえなくても、俺の気持ちは今日を越えれば身を結ぶんだ。
「次、どこ行く?」
穂乃果ちゃんに、ずっと思い続けてきた彼女に、酬いるために。形を残すのなら……
「何か、お土産とか、買いに行こう」
その一言を機に俺は歩き出した。穂乃果ちゃんを引っ張るようにして。そして行き先も告げずに俺がやってきたのは宝石店、の隣にある指輪専門店だった。
一年のバイト代のほとんどを卸してきた。大抵のものなら買えるはずだ。
「ちょ、指輪!? え、待って待って!」
「別に指に嵌めなくてもいいんだ、俺たちは仕事柄指輪をつけられないから。だから、首に下げられるペアリングでも、買っておきたいんだ」
俺を引き止めて、しり込みしている穂乃果ちゃん。俺はなぜか焦りを感じながら店の中に入った。すると、比較的易しい値段のコーナーに対になっている指輪が見つかった。
一つは蒼く、一つは紅い。ベタなカラーリングだけど、そのひし形の光に俺は魅せられてしまった。これにしよう、そう思ったとき穂乃果ちゃんもその指輪に見入っていた。
「これ、これにします」
店員さんに食い気味に説明すると、丁寧にチェーンをつけてネックレス状にしてくれた。しかしわざわざ包装して、袋の中に入れてしまった。今すぐ、穂乃果ちゃんにつけてあげようとしたんだけど……
「外じゃ恥ずかしいから、うちに帰ったらつけてよ」
「……うん、わかった」
決して安い買い物じゃなかった。けど、これくらいの小さな形が、もしものとき俺たちを繋ぎ止めてくれるんじゃないか。
俺はそう願ってる。
それから俺たちは、街でお母さんたちへのお土産やケーキを買って帰路についた。もうすっかり自宅へ帰るような気持ちで穂むらへの道を歩いた。
途中、取り留めの無い会話もした。ショートケーキなんて持って帰ったらお父さんが泣くんじゃないか、とか、むしろ対抗心燃やして和菓子版のケーキ作っちゃうんじゃないかとかそんなくだらない話を。
荷物は穂乃果ちゃんと二人で持ってる。指輪の袋は、穂乃果ちゃんが持っている。穂乃果ちゃんがつけて欲しいタイミングで、取り出すんだと思う。
街灯の光がチカチカと明滅を繰り返している。殆どの場所がLEDに換えられているようなご時勢で、未だに旧型の電気なんて珍しいな。
「あ、お兄さん!」
そう思ったときだった。もう穂むらの玄関まで見えているところで、その引き戸が開いた。そしてその中から、久しぶりの人影を見た。
エルメスたんこと、亜里沙ちゃんだった。恐らく雪穂ちゃんに呼ばれてきたのだろう。確か絢瀬家は今絵里さんとの二人暮らしだったはずだ。
「あら、今帰り?」
その後ろから、絵里さんまで現れた。きっと妹についてきたに違いない。今日はそんなに飲んでないらしく、まだまだ正気らしかった。
彼女は玄関を出るとそそくさとその場を離れた。まるで、まだ誰か出てくるみたいに。
「もう今年も終わりですね、ちょっと前まで暑い暑いと思っていたのに。早いものです」
「――――え?」
その声は、俺の目の前で発され、俺の耳元で聴こえたような気がした。ぐわんと、フライパンか何かで後頭部を殴られたような強い衝撃。揺れているかも、と錯覚するほど足元が不安定に感じた。
寒気がする。これは防寒具があっても足りない、その手の寒気だ。まずい、この場はまずい。
どうして。
どうして。
どうして、今日に限って君はここにいるんだ。
「海未、ちゃ、ん……」
掠れた声は喉から出ても響かなかった。穂乃果ちゃんは俺から荷物を預かって、海未ちゃんの元へ走って行った。何かを話している、のに耳に入ってこない。
身体の芯が凍ったみたいに、身体が動かない。
脚が痺れる、気持ちが悪い。
頭も、痛い。
「お兄さん?」
「少し顔色が悪いわ、もしかして風邪?」
いつの間にか、俺の目の前に絢瀬姉妹がいた。手袋を外した絵里さんが俺の額に触れた瞬間、雷に打たれたように俺は飛び退いた。
しかし、脚を滑らせて思い切り尾骶骨を打った。それも込みで、強い吐き気に苛まれた。
「大丈夫ですか? 立てますか?」
亜里沙ちゃんが俺の腕に触れた。手袋越しの彼女の手が、暖かいではなく熱いと感じた。強い拒否反応が彼女を突き飛ばしてしまった。
「きゃっ!」
「ご、ごめっ……うっ!」
突き飛ばしてしまった亜里沙ちゃんに謝ろうとした。けど、起き上がった瞬間。吐き気が限界に達した。
俺は堪えきれずに、口を手で覆ったが爆発した吐き気に蓋は無意味だった。腹の中にたまっているものを全て、何もかも吐き出してしまった。
「大変だ、すぐ部屋に連れて行かなくちゃ!」
そこからは誰が何を言ったのか、把握している余裕が無かった。でも、その騒動の中でずっと立ったまま俺の姿を見ている海未ちゃんの姿だけ、やけに鮮明に覚えていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
フラフラの彼をなんとか部屋まで連れて行き、お湯で濡らしたタオルで汚れた部分を拭いていく。するとそのうち、穂乃果は彼の身体中に膜を張っているようにすら見える大量の汗に気付いた。
彼の吐瀉物で汚れたタオルで拭くのはちょっと抵抗があった。だから一度下の階に下りて、タオルを洗いなおした。居間では、絵里ちゃんと亜里沙ちゃんが心配そうに待っていてくれた。だけどそこに、さっきまでいた海未ちゃんの姿は無かった。
今はそんなことを気にしてる場合じゃない。急いで部屋に戻ると、彼は荒い呼吸を繰り返しながら穂乃果のベッドに凭れていた。顔は汗や涙でベタベタになっていた。顔をタオルで拭ってから、ゆっくりと布団に寝かせる。彼の肩へ触ったとき、また氷に触っているようなあの感覚が私を襲ってきた。このタオルがもし水で濡らしたタオルなら、タオルが凍り付いちゃうんじゃないか、そう思っちゃうくらいに。
「大丈夫……? どうしたの、急に」
彼は応えなかった。ただイヤイヤする子供のように首を左右に激しく振るだけだった。私が掴んでいる彼の肩から震えが伝わってきた。暗闇が怖かった頃の絵里ちゃんに抱きつかれたときみたいな何かが怖い、っていう感じに似た震え方だった。
「様子は、どう?」
と、そのとき。絵里ちゃんと亜里沙ちゃんが戸を開けて入ってきた。だけど、二人が入ってきた後の扉を睨むようにして、彼は一層強く震えた。
何かが見えているのかもしれない。その、穂乃果に見えない"何か"に彼は心底怯えている。
「絵里ちゃんたちに、何かあるの?」
ふるふる、と彼は頭を振った。亜里沙ちゃんが一歩前に出て、彼の枕元に膝を突いて顔色を窺った。
「もしかして、海未?」
「海未ちゃん? そういえば、どうして海未ちゃんがここに来てたの?」
そもそも疑問だった。私は今日、彼とデートするためにすべての予定をキャンセルした。それにしたって、今日は海未ちゃんとの約束は無かったはずなのに。
私が聞くと、亜里沙ちゃんが応えてくれた。
「私が声をかけたんです。ここに来る途中、公園で立っているのが見えたので……」
「声をかけたときの、海未の様子も変だったわね。なんだか、顔色がすごい白くて、真っ青にも見えたわ。今日、二人が留守だって聞いたら海未の体調も多少回復した感じだったわね」
絵里ちゃんが補足した。そして二人は彼に目を向けた。彼は布団に潜って必死に耳を塞いでるようだった。
「ねぇ、何か知ってるなら、答えて? 私、どうしても力になりたくて――――」
「違う!! 違う!! 知らない! おれっ、俺は、俺は……何も、何も……」
突然、彼は布団を跳ね除けて暴れ始めた。机や、ベッド、壁の至るところに腕や脚をぶつけても彼は止まらなかった。彼を止めようと、私は彼の身体を抱き締めた。やっぱり、とても冷たかった。
「大丈夫だから! 穂乃果は信じてるから! お願い、知ってることを話して……!」
彼の震えは次第に小さくなっていった。そして、短く速い呼吸を繰り返していくようになった。私は彼から離れて、両手で彼の頬を壊さないようにおっかなびっくり包み込んだ。
安心させようと、笑みを浮かべた。そして彼は、震える真っ青の唇を振るわせた。
「――――海未ちゃ、んと……寝た」
………………え?
パッと、不意に私の手が彼の頬から離れた。仕事で慣れた笑みを、簡単に壊す一言だった。
海未ちゃんと、寝た? それって、どういうこと? 添い寝、だよね。彼は、きっとあの日のことを言ってるんじゃないかな。
そうだよ、だってあのお泊り会から彼の様子がおかしくなったんだもん。真面目だから、きっと海未ちゃんに対してそういうことをしちゃって、そんなことを気にしていたんでしょ?
そうだ、って言ってよ……
「い、っかいだけ?」
もう一度浮かべた。完璧なつもりの壊れかけな、ダメダメ笑顔を。
「何度も、何度も。何度も何度も何度も何度も何度も…………ッ! 海未ちゃんを抱いた! 彼女の身体に指を走らせた。歯を突き立てた。舌を這わせた! 穂乃果ちゃんにも出来なかったことを、何度も、やったんだ……」
信じられなかった。今彼が放った言葉は、日本語だったのだろうか。日本語に違いない、私たちはレジで外国のお客さんの相手で戸惑うほど、外国語に疎いんだから。
「最初は俺だって、抵抗した。けど、けど……だんだん、俺も海未ちゃんも壊れてって。歯止めが利かなくなって、それで……気がついたら、俺は海未ちゃんに対して抵抗できなくなってた……」
彼が私を抱いたことは、まだ片手で数えられるくらい。私から彼に抱かれに行ったことは、多分ないと思う。結局合意で、恐る恐る彼から愛してくれる行為。
だけど、私の知らない海未ちゃんが彼を誘い、彼もまた海未ちゃんの身体に夢中になっていた。
そういう、こと?
「お兄さんは、穂乃果さんのことが……大好きだったんじゃないんですか……?」
亜里沙ちゃんが、瞳を震わせてそう尋ねた。絵里ちゃんも、まだμ'sの一員じゃない生徒会長だったときの瞳で彼の言葉を待っていた。
「大好き、だ…………った」
吐息に連れてこられた語尾が私の顔から余裕や笑みを完全に消し去った。彼の頬を支えていた手が不意に崩れ落ちた。彼は壁に背を預けて、蹲ってしまった。
「わ、私は大好きだよ? あなたのこと、大好きだよ!? ねぇ、大好きだから……こっちを見て、ねぇ……っ」
目から、熱い液体が零れる。それは涙のような緩やかさじゃなくて、血のようにゆっくりと私の頬を流れて行った。
「ねぇ、お願い。もう一度、こっちを見て、ねぇ……見てよ、ねぇったら……」
私は力ずくで、彼の頭を上げようとした。けど、彼の頭は持ち上がらなかった。
「穂乃果、もうやめましょう。今は、二人ともそっとしておかないと……」
「離してよ絵里ちゃん! わかってくれる、あなたのこと信じてるから!! だから、お願い。あなたの言葉で聞かせて! 穂乃果のこと、どう思ってるの!!」
絵里ちゃんの拘束を逃れた私は彼に覆いかぶさるようにして、叫んだ。けれども、彼は震えるばかりで何も応えてくれなかった。
その瞬間、涙がぷつんと途切れた。私の身体は、糸の切れた人形のように床にへたり込んだ。
「雪穂、穂乃果さんが……」
亜里沙ちゃんが言った先には、部屋の外から苦しそうな顔をして部屋の中を見てる雪穂がいた。雪穂は私の手を引っ張った。連れてこられたのは、雪穂の部屋だった。
「今日は、寝ちゃいなよ。ベッド、使っていいから、ね?」
言葉が出なかった。喉が震えなかった。何をしたらいいのか、わからないまま。
ほのかはべっどにはいりました。
だんだんねむくなってきて、めをあけられなくなりました。
けど、Naぜカ……かナしくなっTe……
ナンデ、カナシインダッケ。
そっか、私……捨てられちゃったんだ、ね……
やぁ、お待たせ←
今日はクリスマスイブだからね。恋人には容赦ないおじさんだよ←
2015/12/25
あまりにも衝撃だったのか、たくさんの反響ありがとうございます。
遅くなりましたが同日に投稿した「セイント☆聖夜」をよろしくお願いいたします。
程好い治療薬になってくれると思います←