このまま暑さがぶり返さずに秋へと向かってほしいものです。急に寒くなっても困りますけど。
カタパルトから射出されてアリーナに出た途端、大きな歓声が耳朶を叩く。それを何処か夢見心地な気分で聞き流しながら、PICを操作して所定の試合開始位置に移動する。既に対戦相手はそこで待ち構えていた。
危なげのない動きで目標地点に停止。十メートル離れた正面で、鈴が勝気そうな笑みを浮かべた。
「ちゃんと逃げずに来たわね。癪だけど、途中でビビって謝りに来たりしなかったことだけは褒めてあげるわ」
偉そうな顔をして何を言っているのか、と思う。
先週の千冬姉と椛による仲裁で、喧嘩の決着はこの試合でつけると決めたんだ。それなのに自分から勝負を投げて謝りに行くなんて男として……いや、武道を学ぶ者として有り得ない。
それに俺は渋々なったとはいえ一年一組のクラス代表だ。皆に期待(デザートのフリーパスという即物的な欲求が見え隠れしていたが)されている以上、自分の全力を尽くして応えなくてはいけない。逃げるなんていう選択肢は最初からある筈が無い。
「でも、来たからには覚悟するのね。手加減なしでボコボコに……」
だが、反論は浮かんでも言い返す気にはなれない。
何と言えばいいのだろう。別に体に疲労が溜まっている訳でも気疲れしている訳でもないのだが、どうにも頭に靄がかかったような変な感じがする。何故こんな気分でいる原因もわからない。
まあ、確かな事は…………
「……しようと思っていたんだけど、何で既にボロボロになってんのよ?」
「…………さあ?」
所々記憶が抜け落ちている、先週から昨日までの間に何かがあったっていう事だな。
俺は箒とセシリアに代わって面倒を見てくれることになった椛と、この数日間は訓練をしていた筈だ。しかし、頭に残っているのはその前後の授業時間や就寝前の記憶のみ。どのような訓練をしていたかは全く覚えていない。
正確に言えば、思い出せないといった方が正しいだろうか。その記憶を引き出そうとすると本能的な拒絶反応が湧き起こり、どうしても頭を振って中断してしまう。いったい俺の身に何が起こったのだろうか。
授業中も放心状態で、毎晩泥のように眠っていた記憶から推察するに碌な目には合っていないだろう。体のあちこちに残る擦過傷や打撲の痕が良い証拠だ。
実際何があったのかは椛に聞けばすぐに分かるのだが、ピットで笑顔を浮かべて俺を送り出す彼女にそれを尋ねる勇気は俺には無かった。だって仕方ないだろ? その笑顔を見た途端、全身が少しでも早くあいつから遠ざかるよう動き出したんだから。
そんな訳で俺は謎の傷と記憶障害を抱えて今日のクラス対抗戦を迎えたのだが、対戦相手たる鈴には関係の無い事だ。少しの間は訝しげな表情でいたものの、すぐに気を取り直して挑発気味な言葉を続けた。
「ま、あたしには関係ないわね。アンタがいくら傷だらけでも、その上から新しい傷を上塗りしてやるだけだわ」
「怖いこと言う奴だな。もう少し幼馴染を気遣ってくれてもいいんじゃないか?」
「お断りよ。どうしてもっていうのなら、あたしに勝ってからにするのね。けどまあ……」
瞳に闘志の光が揺らめく。何となくそれを察した俺は僅かに身構え、脳裏に刃のイメージを浮かべた。雪片弐型をすぐさま展開するための準備だ。鈴はきっと、悠長に武装を展開する暇を与えてくれない。
アリーナに備え付けられた大型モニターに映る、試合開始までのカウントダウンがゼロに近づく。それに合わせるかのように、彼女は最後の時が刻まれたのと同時に声を大にした。
「万が一、アンタがあたしに勝てたらの話だけどねっ!!」
試合開始を告げる中継席からのアナウンス。鳴り響くブザー。
間髪を入れずに鈴は真正面から突っ込んできた。
――――――――――
鈴の専用機は赤紫色の装甲に、肩の横に浮いたスパイク付の
けど、分かっているのはそれだけだ。以前に戦ったセシリアのブルー・ティアーズは、俺の前に椛と試合をしていたから武装に至るまで予備知識を得ることが出来ていた。それに比べて鈴の機体に関する情報は非常に乏しい。
事前に情報収集していれば多少はマシになっていたのだろうけれど、生憎とそんな事をした覚えはない。それを怠った理由が何であるかは記憶が曖昧なため分からないが、やってないからには今更後悔しても仕方がない。
――となれば、俺は鈴の攻撃を全て初見で対応しなければいけないってことだ。
試合開始と同時に展開した雪片弐型を正眼に構える。初めからアクセル全開で突撃してきた鈴の右手にも、一瞬の発光の後に武装が握られていた。青竜刀……というには些か異形過ぎる大型の刀剣だ。上半身を捻りスラスターの勢いを乗せたその一撃を、俺は真正面から迎え撃った。
鋼と鋼のぶつかり合いに火花が散り、甲高い金属音が響く。衝撃にお互い僅かに後退するが、すぐさま体勢を立て直して剣戟の応酬を始める。その中で俺は奇妙な感覚に浸っていた。
上手く言い表せないけど、何故だか頭が冴えわたっているのだ。目が鈴の動きを余すことなく捉え、そこから導き出される剣の軌道に体が考えるより先に行動する。余計な思考が取り除かれたクリアな感覚に若干の高揚を覚えた。
何だかよく分からんが、いける!
すこぶる快調な身に任せて、防御主体の受け身体勢から攻撃に転じる。鈴の大振りな青竜刀をいなしたところで雪片弐型を引き戻し、打ち合いの間隙に肩上から一息に突き下ろす。「うわっと」という声を上げて直撃は避けられたが、鈴の肩部装甲に掠り傷が刻まれた。
回避した勢いで鈴が後ろに下がる。その顔は実に楽しげだ。
「やるじゃない。予想していたよりずっといい動きだわ」
「そりゃそうだ。俺だって伊達に訓練していた訳じゃないからな。良くなってなきゃ困る」
「はっ、口だけはもう十分に一丁前ね」
鈴の左手に武装展開の光が瞬く。もう一振り異形の青竜刀がその手に握られる。
二刀流か。手数は単純に二倍になるけど、さっきの感覚からしてまだ余裕はある。十分に対応は可能な筈だ。むしろ鈴が攻撃に傾倒しすぎて、こちらが狙える隙が増えるかもしれない。
目に入った情報から算段を立てカウンター狙いで行く事を決める。自分からは攻めない。何しろ俺には一撃必殺の零落白夜があるのだ。先ほど掠った時よりも確実なタイミングで発動できれば、それだけで勝負は決まる。勝算は十分にあると考えた。
「なら、こっちもピッチを上げていくわよ!」
「っ!?」
しかし、それは取らぬ狸の皮算用という奴だったらしい。
鈴は二振りの青竜刀の柄を連結。両端に刃がついた重厚な見た目に反して、まるで重さを感じさせない動きでバトンのように回転させはじめる。猛然と打ち掛かって来たそれを受け止めて俺は驚愕した。
「くっ、重……!」
重いのだ。一撃一撃が先程までとは比べようがないほどに。遠心力が加わった青竜刀は雪片弐型に無視できないレベルの衝撃を与え、反撃へと移る事を許さない。
バトンなんて生易しい例えは適切じゃなかったな。小学校の頃、チャンバラごっこに使った掃除用具の方がよっぽど似合ってるよ……!
一段と大きな音を立てて雪片弐型と青竜刀がぶつかり合い、鍔迫り合う。純粋なパワーは甲龍の方に軍配が上がるらしい。黒光りする刃がじりじりと押し迫ってくる。
このままではいけない。何か状況を打破する手はないかと頭を巡らせる。
しかし悲しいかな。俺の近日中の記憶はものの見事に忘却の彼方なのだ。まともに覚えているのは箒とセシリアにいびられていた時くらいしか……
不意に、一つの情景を思い起こした。
確かあれは、三人での乱戦の中で箒と今みたいに鍔迫り合いになった時に――
「……流れに抗うだけが能ではない」
「は?」
「逆らわず、身を任せ……」
記憶の中の言葉を反芻すると共に動きをなぞる。
雪片弐型に込めた力を緩め、しかし決して押し切られるのではなく、
「己の力に転じてみせろってなぁ!」
「うわっ!?」
鈴が最も力を込めたタイミングを見計らって、一気に体ごと引き戻した。
突然力の均衡が崩れたことにより鈴は前のめりにつんのめる。そのチャンスを逃がしはしない。雪片弐型を引いた流れのまま、スラスターを噴かしてぐるりと横に一回転。横合いから殴りかかるように斬りかかる。その最中に零落白夜も発動。刀身の中程からエネルギー刃が伸長した。
あまり剣に力が籠められる態勢とは言えない。とはいえ零落白夜は触れるだけでシールドエネルギーを喰らうトンデモ性能の単一仕様能力だ。そこは問題にはならないし、鈴も完全に隙を晒している。少なくとも一撃を見舞う事は確実……の筈だった。
ニヤリ、と視界の端で鈴の口端を上げるのが見えた。
――ヤバい!
直感的にそう察した俺は、慌てて振りかぶっていた雪片弐型を自分の前にかざすようにして未知の脅威に備える。
かくしてその直感は俺を裏切らなかった。甲龍の非固定浮遊部位の装甲が展開、中の球体が一瞬輝いたかと思うと、風に殴り飛ばされたような衝撃が俺に襲いかかったのだ。
咄嗟に防御姿勢を取ったのが功を奏したのだろう。かなりの衝撃を感じはしたが、結果的には墜落することなく数メートル後退させられただけで済んだ。ホッと息を吐いて安堵し……次いでまたもや突撃してきた鈴に顔を強張らせられた。
さっきのお返しと言わんばかりの横合いからの一撃。無茶苦茶な重さだ。どうにか防ぎはしたが、雪片弐型を大きく弾かれる。
だが、それは鈴も大差ない。最大限に振りかぶって放ったと思しき一振りで、青竜刀は雪片弐型を弾いた勢いのまま大きく流れていた。俺が体勢を立て直すまでの間に鈴が攻撃する事は不可能だろう。
その安易な判断がいけなかった。俺は忘れていたのだ。ISがパワードスーツという人の力を増幅するものであるが故に使える、もっとも原始的な攻撃手段を。
「はああぁぁ!!」
「ぶおっ!?」
顔面に鉄塊が突き刺さる。一瞬の困惑の後に理解した。鈴が甲龍の腕で俺をぶん殴ったのだ。
一発では終わらない。惚れ惚れするような右ストレートを何度も俺の顔面に叩き込む。エネルギーシールドで守られているとはいえ、膂力に関して言えば白式を上回る甲龍の鉄拳による物理的な衝撃と、鉄の塊で顔面を殴りつけられる心理的な衝撃から、俺はまともに動くことも出来ずに全てをジャストミートで受けてしまう。
鈴は極め付けに足蹴りで俺を突き放すと、再び浮遊部位の装甲が開き内部の球体を瞬かせた。あの見えない衝撃波を撃つ気だ。
時そこに至ってようやく体の自由を取り戻した俺は、足蹴りにされたせいで墜落する白式を制動しつつ地を這うように動き回る。あの攻撃がどんなものなのかはよく分からないが、先ほど受けた感じからして面での攻撃ではなかったと思う。弾丸を撃ち出しているなら動いていれば被弾する確率は下がる。
それに鈴は数撃ちゃ当たるとばかりに短い間隔で何度も撃つ。逃げ回る俺の周囲の地面に小規模な穴がいくつも穿たれて土が舞い上がる。威力が最初よりも低い。溜める時間によって変わるのか?
そうこうしているうちに不可視の弾丸に捕らえられた。思いっ切り投げたボールをぶつけられたような感覚。低空飛行をしていた俺はバランスを崩して地を転がった。
くそっ! まさかタコ殴りにしてくるなんて。ボコボコにするってそういう意味かよ!
「ふふん、ちょっとやり方は予想外だったけど、やっぱり零落白夜でのカウンターを狙ってきたわね。こっちの想像通りだわ」
「……言ってくれるな。人の考えなんて筒抜けだってか?」
「アンタが単純で分かりやすいだけよ」
頭上に陣取る鈴に歯噛みする。
不可視の衝撃弾と顔面パンチラッシュによって、シールドエネルギーは七割方にまで減らされてしまった。中距離射撃武装があるのにわざわざ格闘戦を挑んでいたのはこのためだったのだろう。零落白夜の危険性を知った上でやって来るなんて大した度胸だと場が違ったら感心する所だ。
ただ、あの射撃武装を明かした今からは違うだろう。あれがどれ程の連射能力を持っているかは知らないが、恐らくは弾幕を張って距離を保ったままにしようとする筈。
……つまり俺は見えない弾幕を通り抜けて鈴に近づかなきゃいけないって事か。セシリアの時といい今回といい、初心者相手に対してハードルが高いなぁ、オイ。
「さあ、ボサッとしてないで次行くわよ! 甲龍は伊達じゃないってこと、存分に教えてあげるわ!!」
まったく心中で悪態をつく暇もありやしない。
上から押し潰されるのだけは避けるべく、見えない風弾に追われながら地を蹴り空を駆けた。
―――――――――――
「ほほう……お主が作り上げた機体ならば下手なものではあるまいと思っていたが、予想に違わず良いものではないか。あの稼働性、実に高い完成度を誇っている事を如実に示しておる。お見事と言わせてもらおう」
「がっはっは! まあ、オッサンに掛かればこんな物ってね。白式みたいなトンガリ機体には負けないよ」
「むっ、それは聞き逃せぬぞ。特化型を舐めるでない」
「特化型が悪いとは言わないけどねえ……束ちゃんが作るのは大概ピーキー過ぎるのよ。もうちっと使う人のこと考えてバランスとった方が良いんじゃないの?」
「……同意はするが、私ではなく姉者に言ってほしいものだ」
試合の状況をモニターする管制室。そこで隣に立つ恒延と談笑する。互いが手掛けた機体の評価に一喜一憂。白式に関しては基本的に姉者が開発の中心で私は手伝いであったから、結局は其方への意見になりはしたが。
それは兎も角、甲龍の完成度に目を見張るものがある事は疑いようのない事実だ。第三世代機は未だに実験機的な色が強いものが多数を占めているにも拘らず、その機体構造は実に洗練されており無駄が無い。恒延が採取しておる実働データからして燃費にも優れているようだ。
そして見よ、同じISを殴打しても全く動きに支障を見せない堅牢さを。元が近接戦仕様というのを差し引いても、四肢のデバイスに高い信頼性が備わっている事は明白。
お茶らけている癖に実用性と堅実さを重視した良い仕事をする。つい感嘆の溜息が漏れた。
「ちょっと椛さん、今気にすべきことはそこじゃないでしょう! 一夏さんを吹き飛ばしたアレは何なんですの!?」
「砲弾どころか砲塔すら見えなかったぞ! いったいどんな手を使ったんだ!?」
「一々騒ぐな、馬鹿共」
背後でスパパーン! と連続して打撃音が鳴る。振り向けば仁王立ちする千冬殿に苦笑気味の真耶、そして頭を押さえて蹲りながらも目で質問を投げかけてくる箒とセシリア。
見えない程度で何をそんなに必死になっているのか。此奴らの琴線は今一つ私とずれているように思われる。まあ、質問されたからには説明はするが。
「衝撃砲だ。空間に圧力をかけて砲身を生成、余剰として生じた衝撃を砲弾として撃ち出す兵装であるな。簡単に言ってしまえば馬鹿でかい空気砲といった所か」
「ちなみに開発コードは『龍砲』ね。何か丁度いい射撃武装が無かったから適当に作ってくっつけただけの奴だけど」
「て、適当……? あれはわたくしのブルー・ティアーズと同じ第三世代兵装に分類される筈ですのに……」
無精髭をじょりじょりと扱きながら補足した恒延の言葉に、セシリアは愕然とした。
驚愕するほどの事でもあるまいに。ブルー・ティアーズはBT兵器という運用思想からして一から作り上げたものに対し、衝撃砲は過去にも仕組み自体は同じものが作られている。それを元にして発射機構にイメージ・インターフェイスを組み込めばよいだけなのだから、ぶっちゃけ第三世代兵装と名乗るのも烏滸がましい。製作者本人の言う通り片手間でも十分だ。
「あのー……そのイメージ・インターフェイスを組み込むのが一番難しいと思うんですけど……」
「そうか? FCSを操縦者の脳波に合わせるようにしてやるだけではないか」
「自分たちと同じ物差しでものを言うな」
しかし千冬殿と真耶が言うにはどうも違うらしい。
ふむ、認識に齟齬が生じておるな。もしやしたら簪に提供している資料の中に、世間にとっては不味いものが含まれておるかもしれぬ。後で確認しておくとしようか。
脳裏で後日の予定を組みつつ、世渡りは難しいと改めて思う。身近なものが己を含めて規格外ばかりであるから尚更だ。とはいえそう考えるのは私だけらしく、恒延は口をへの字にして繰り返した。
「でもオッサンとしては本当に適当なのよ? 衝撃砲にした理由だって、弾薬費がかからなくて楽だからだし」
「何だ。専用機を開発するからにはそれなりの予算は貰っているのではないのか?」
「ないない。カネは共産党のお歴々の息女サマを担当している良い子の研究員たちが優先よ。オッサンみたいな悪い子には全然回ってこないわ。つーわけで素寒貧だから今晩奢って」
「一昨日奢ってやったばかりであろう。どうしてもと言うならば……そうだな、鈴音が一夏坊に勝てたら奢ってやろうではないか」
「お、言ったね。じゃあ一夏君が勝ったらオッサン腹踊りやるわ」
「要らんわ阿呆」
誰がお主の寒い芸など見たがるか。安酒一本の方がまだマシだわ。
「とにかく一夏に勝ち目はあるのか? どう見てもその衝撃砲に翻弄されているようだが……」
私らが雑談しているのを余所に、箒が誰ともなしに尋ねた。その顔に浮かぶのは……不安か。
思い人の勝利を願う彼女の問いに誰も答えはしない。セシリアと真耶は難しい顔をして言葉に詰まり、千冬殿はそもそも答える気すらない。ただ私の方を一瞥しただけで、後は試合の模様を見る事しかしなかった。
要するに稽古をつけた私が答えろという事であろう。仕方ない。
「無いとは言わぬよ。たかが見えない攻撃に為す術もなく敗れるほど、生温い稽古をつけたつもりは無い」
「だ、だが実際には対応できていないじゃないか」
「それがどうやら最後に厳しくし過ぎたみたいでなぁ。今朝になったら一夏坊が稽古の内容を忘れてしまっていたようなのだ。だが、それもしばらくしたら無理にでも思い出すであろうさ」
というより思い出さねば勝算など見えてこぬ。それすら出来なければ彼奴がその程度だったというだけの話だ。
そもそも稽古の内容を忘れるとは何事か。確かに近頃の基準で言えば中々の厳しさではあったと思うが、それでも軍事訓練と同程度には抑えた方だ。決して現実から逃避して記憶を封印するようなものではなかったはずだ。主観では。
「まったく、最近の若者は柔でいかん」とぶつくさ呟く。ふと、そこで気付いた。周りの者らが一様に私から距離を取っている事に。
「ば、馬鹿者! 何で加減をしなかった!? お前の基準でやったら下手したら死ぬかもしれないだろうが!」
「記憶を封じなければ耐えられない訓練ですって……! なんて恐ろしい事を……」
「は、博士。それは流石に織斑君が可愛そうなんじゃ……」
「怖いわー。椛ちゃん超怖いわー」
各々、好き勝手に言ってくれる。私はちゃんと一夏坊に可能な範囲を見極めて稽古をつけたというのに。そして恒延よ、周りに合わせて悪乗りするでない。棒読みで丸分かりであるぞ。
深々と嘆息する。そこに一人だけ動じていなかった、私に一夏坊を鍛えるよう命じた張本人の言葉がかかった。
「……で、実際の所どの程度まで扱いたんだ?」
「心理状況にもよるであろうが、合戦でも簡単に死なぬ程度には仕上げたつもりであるぞ」
「…………」
素直に答えたら呆れた目で見られた。酷い。
今度、会長殿に愚痴でも聞いてもらおう。新しい予定をまた一つ増やしつつ、私は周囲の視線を忘れて空を駆ける一夏坊の姿を追う事に専念した。
……若干いじけたのは否定しない。
――――――――――
白式から気流の異常を知らせるアラームが頭に鳴り響く。コンマ一秒あるかないかの間をおいて暴風が間近を吹き抜ける。俺は背筋が凍る思いを味わいながら、ひたすら空にジグザグ軌道を描いた。
運よく当たりはしなかった。だが次は? 当たるか、当たらないか。可能性は半々……いや、当たる可能性の方が高い。鈴が飛び回る俺の動きの癖を掴んでしまったらお終いだ。捕らわれ、嬲られ、地に叩き落される。
残された猶予は少ない。俺をじっと観察する鈴の獰猛な猫科のような目が、余計に焦燥を募らせる。ここで何か手を打てなければ、待っているのは敗北だけだ。それを甘んじて受け入れるわけにはいかない。
「一か月ちょいの初心者にしては良い動きだけど……やっぱまだまだね。そこよっ!」
「ぐっ……!」
衝撃砲が脚部を掠め動きが鈍らされる。逃さないとばかりに甲龍の球体が断続的に閃き、白式の装甲を形の見えない砲弾が抉る。俺に出来る事と言えば、せめて絶対防御が発動しないよう留意し、次の攻撃の波が来ないうちに全力で退避することくらいだ。
今はまだ鈴が一撃必中の自信が無いためか、威力を抑えた発射速度重視で攻めてきているからいい。けど、これが最初に受けたような重い一撃に変わったら、そしてそれを俺が避けられなければ、戦いの趨勢は決まってしまうだろう。
シールドエネルギーの残量は六割。剣の間合いには程遠い。
こうなってしまっては形振り構っていられない。最後の望みを、忘却の彼方にある記憶に求めるしかない。
(思い出せよ……! 椛は俺にいったい何を教えてくれた……!)
硬く閉じられた戸に手を掛ける。鍵を何重にもかけたように封じられた、触れるだけで原初の恐怖に駆られるそれから叶う事ならば逃げ出してしまいたくなる。
けど、それでは駄目なのだ。恐怖から逃げるのは簡単だ。思い出すことを諦めて、大人しく鈴に負けてしまえばいい。でもそんな事は認められない。死んでも御免だ。
だから抗う。湧き上がる恐怖を捻じ伏せ、有らん限りの意思を以て記憶の封を抉じ開けんとする。
少しずつ、少しずつだが、確かに記憶が蘇ってくる。浮かんだ情景は剣道場だった。そうだ、アリーナが試合用の設定に調節するために閉鎖された後は生身の方を鍛えてもらっていたのだ。記憶の中の椛が竹刀を片手に佇んでいる。
そこまで思い出したところで何故か急に体が竦んだ。理由は分からない。ただ、これ以上思い出したら後戻りできなくなるような漠然とした予感が……いや、ここまで来て逃げるわけにはいかない!
内心の葛藤を振り切り決断する。そこで俺は気付いた。一瞬とはいえ、うっかり動きを止めてしまっていたことに。
「ボサッとすんなって言ったでしょうがぁ!」
「うおおぉぉ!?」
急速上昇した俺の股下を暴風が吹き抜ける。奇跡的にもちょうど両脚部の間を過ぎ去っていったためダメージは無い。ただ男の大事な所の間近を砲弾が通り抜けて行ったという事実は、エネルギーシールドや絶対防御といった存在を抜きにヒュンとさせられるものがあった。
あ、危ねぇ……もう少しで試合続行が不能になるくらいのダメージを負う所だった。小学生の頃にもののはずみで強打して以来の悲惨な目に合う羽目になるのは勘弁だ……ん? 待てよ、俺はあの痛みをどうして鮮明に覚えているんだ? 小学生の頃の記憶だったらもう少しおぼろげな筈だ。という事はつまり……
――俺は、最近どこかであの痛みを味わっている……?
「――――っ!!」
次の瞬間、俺は衝撃砲から逃れるために飛び回るのを止めた。諦めた訳でも、妙案が浮かんだわけでもない。ただ脳が発する警告を無視することは出来なかった。
息が詰まる。心臓が早鐘を鳴らす。逃げるな、前を向け。さもなければ――
「……今度は考えなしじゃないみたいね。いいわ。この龍砲に真正面から受けて立つっていうのなら、お望み通り付き合ってあげるわよ!」
俺の顔に何を見たのか息巻く鈴に、そんな大層なもんじゃないと心中で零した。俺は忘れていた教えを思い出しただけだ。ただし、二度と思い出したくなくなるほどの強烈な記憶が付属していたが。
甲龍の肩部浮遊部位の装甲カバーが開く。衝撃砲の前兆だ。あの奥に見える球体が発光すると不可視の砲弾が放たれる。いや、違う。あの発光はチャージ状況を表しているだけだ。発射タイミングはまた別……鈴の意志自体に任されている。
遮二無二に体を前へと運ぶ。白式が気流の歪みを検出、ほぼ同時に衝撃砲が装甲を削っていった。シールドエネルギーが数パーセント減少。センサーが検出してからじゃ駄目だ。その先を読め。でなければ近づく前に落とされる。
前へ、前へ。後ろにはもう退かない。退く訳にはいかない。
球体の発光が関係ないなら全てを視ろ。意志は必ず体に現れる。手は? 足は? 全体の重心は? その一挙一動を見逃すな。突破の糸口はある筈だ。余計な思考を排除して全てを鈴の動きに傾ける。
押し固められた風の弾幕が装甲とエネルギーを削っていく。どこを狙ってくるかを目線から割り出し、極力ダメージを抑えるために身を動かしつつ距離を詰めんとする。
しかし遠い。直撃はしなくても衝撃砲の風圧によって体が押し返され、俺の前進は微々たる成果しか生んでいない。完全に避け切れなければ剣を届かせることなど出来はしない。
――目だ。目を視ろ。そこに込められた全てを感じ取れ。
集中する。これ以上ないと言えるほど、最大限までに。
爛々と輝く瞳が俺を捉える。
狙いを定める視線が突き刺さる。
そしてトリガーを引き絞ろうとする時――『殺気』が、その眼に宿った。
「見切った……!」
身を開いた俺の直近を衝撃砲が暴風を撒き散らしていった。だが、ダメージは無い。
完璧に、無駄なく躱してみせた。
「う、嘘でしょ!? 砲弾も砲身も見えない龍砲を躱すなんて……」
「……悪いな。残念ながら俺はもう、見えない攻撃なんて散々喰らっているんだよ。それも衝撃砲よりずっと厄介で、とんでもなく恐ろしい奴をな」
「何よそれ! 学園のISにそんな攻撃手段を持っている機体なんてある訳ないでしょ!」
驚愕を露わにし、俺の言う事を有り得ないと断ずる鈴に苦笑する。
ああ、俺もそう思っていたさ。けど居たんだよ。記憶を振り返ってみれば今でも鮮明に――
「一夏坊、生身を鍛えると言っても一日二日で剣筋が良くなるわけがない。私が短期間で鍛えてやれるのは『目』と『心』だけだ」
「『目』はともかく……『心』って?」
「お主は眼前の脅威に対して後ろに退こうとする傾向がある。近接主体でそれは致命的な欠点だ。剣だけで戦い抜くというならば、常に前を向き目を逸らさぬ胆力が無ければ叶わぬぞ」
「といわれても、訳の分からない攻撃をされたら無意識のうちに距離を離したくなっちまうし……」
記憶の続きが蘇ってくる。剣道場でお互いに竹刀を持った俺と椛が向き合っている。椛の言う事は理にかなっていたが、俺の言う事も人間の本能的には間違っていなかったはずだ。誰だって未知の脅威に自分から突っ込んでいきたいとは思わないだろう。
「であろうな。故に今回は荒療治だ」
「は? それってどういう……ガッ!!?」
次の言葉は続かなかった。激甚な痛みが下腹部から這い上がり、脳が火花を散らした。息が苦しい。床に手を突き跪く俺を、椛は据わった眼で見降ろしていた。
数秒してようやく理解した。椛は俺には認識できない速度で振るった竹刀を、よりにもよって紳士領域に叩きつけてくれやがったのだ。
「稽古の手順はこうだ。私がお主に竹刀を振るうから、それに避けるか防ぐかで対応しろ。隙があれば攻撃しても構わぬ。ただし一歩でも後ろに退けば……その痛みが、何度でもお主を襲うであろう」
「…………っ!」
俺は幼馴染に悪魔を見た。本気の目だった。この鬼は本当に俺の息子を何度でも嬲るつもりなのだ。
「さあ立て。決して気を緩めるでないぞ。加減はしてやるが、お主の体が何時までもつかは知らぬのでな。種無しになりたくなければ精々気張るがよい」
――よく生きていたなぁ、俺。
数日前の遣り取りを思い出し、しみじみとそう実感する。あの後、脂汗を流しながら椛に立ち向かった俺を待っていたのは、まさしく地獄と形容するに相応しいものだった。
残像すら残さない椛の剣閃は悉く俺の防御を掻い潜り身を叩いた。気圧されて一歩でも後退すれば本当に再度の激痛を味わう羽目になった。しかも少しすれば動きに支障はなくなる程度の絶妙な力加減を施されていただけに尚更恐ろしい。一時的に無理矢理忘れ去ろうとしていたのも仕方のないレベルだ。
……でもまあ、あの稽古があったからこそ今ここに立てているんだよな。
あの稽古が無ければ鈴の殺気を感じ取る事など出来なかっただろう。それ以前に純粋な格闘戦で押し負けてさえいたかもしれない。だから恨み辛みを吐き出したい気持ちもありはするが、恩は感じている。
「ああもう、一発避けたくらいで調子に乗ってくれちゃって! まぐれは何度も続かないって教えてやるわ!」
「掛かってこいよ。まぐれかどうか、こっちこそ教えてやるよ!」
「言ったわね!」
その恩に報いるためにも、今ここで負ける訳にはいかない。俺は前傾姿勢で間合いを詰めに掛かった。
鈴との距離はまだ遠く、衝撃砲を回避しながらとなればいつ届くか分からない。だが俺には秘策がある。
これさえあれば多少の距離など無きに等しい。一息に鈴の眼前まで詰め寄る事も可能だが……ただ突っ込むだけでは駄目だという事は、散々痛い目に遭わされたので熟知している。
本来、瞬時加速はPICのマニュアル操作を一定の水準まで習熟してから学ぶものらしいのだが、俺は素人向けのオート操作でしかまともに操縦できない。だから椛は強襲、奇襲の手段と割り切って使うよう俺に教授した。単純な直線機動しか行えないとはいえ、そのスピードは目を見張るものがある。不安定ながらも初めて成功した時は、これでもっと強くなれると興奮した。
だが、いくらスピードがあっても真っ直ぐにしか進まなければ、未来位置を容易に割り出されて迎撃される。実際に稽古の中で椛は調子に乗って突っ込んできた俺をハエの如く叩き落とした。気付いた時には目の前に近接ブレードの切っ先が見えて肝を冷やしたものだ。ついでに興奮していた頭も冷やされた。
だから待つ。鈴が衝撃砲を発射するその瞬間まで。
衝撃砲は空間圧縮兵器だ。砲塔を生成して弾を発射するまでに、普通の火器よりどうしてもタイムラグが生じる。その隙を減らすために低威力の速射があるのだろうが、それでも引き金を引くよりは時間がかかる。
俺が狙うのはそこだ。衝撃砲を回避して、次が来るまでに瞬時加速で鈴に接近して零落白夜を当てる。
シンプルでわかりやすい。頭のよろしくない俺らしい作戦だとニヤリと笑った。
「そうやって何時までもへらへら笑っていられると思ったら、大間違いよ!」
――来る。
全感覚を総動員して鈴が発する殺気を感じ取らんとする。大丈夫だ、出来る。出来ないはずが無い。
心から不安を締め出し、目を見開き、己の直感に従い上半身を屈めて目の前の空間へと飛び込んだ。
果たして、不可視の砲弾は俺の髪を揺らして過ぎ去っていった。
……やった!
内心では喝采を挙げつつも思考と体は次の行動へと移す。背部のウィングスラスターからエネルギーを放出。技術不足でやや過剰気味だが細かい事はどうでもいい。それを取り込み一気の集束しようとし……
視界の天辺で瞬いた、一点の光に気が付いた。
「なん――」
直後、疑問の言葉は爆音に呑み込まれた。
目が眩むような極太の光線が天から降り注ぎ、地が穿たれた爆風による衝撃波が吹き荒ぶ。濛々と立ちこめる煙を見据えながら、俺は事態を把握すべく声を上げた。
「おい鈴! 何が起きたんだ!?」
「あたしが知りたいわよ! とにかく試合は中断して……」
鈴の言葉を最後まで聞くことは出来なかった。最大級の警告アラームが頭に鳴り響いた。
――警告、所属不明機よるロックオンを感知。回避、回避!
「なっ……うおおお!?」
咄嗟に白式から出された推奨行動に無意識に従うと、直前まで俺がいた空間を先ほどと同じ光線が焼き払って行った。その根元を辿ると立ち込めていた煙に穴が空いており、中心には攻撃を行った張本人が佇んでいた。
砲身と一体化しているらしきやたら長い腕部。頭部は胴に直結しており首というものが無い。灰色の
「一夏、大丈夫!?」
「何とかな。それより何なんだよあれは? あれもISなのか?」
「……そうなんでしょうね。全身装甲なんてかなり珍しいけど」
近くに来た鈴と闖入者に目をやる。先ほどの攻撃は挨拶代わりだったのか、所属不明機はそれ以降何をするでもない。ただ頭部バイザーの奥から俺たちに感情の読めない視線を送っていた。
「唯一確かな事はあれが敵だってことよ。一夏、アンタはピットに避難して。あの光線――たぶんビームだけど、かなりの大出力だわ。アリーナのシールドバリアを突き破ってくる奴なんて、当たったら洒落にならないわよ」
「それはお前も同じだろ。第一、ヤバい奴を前にして女の子一人残して逃げられるかよ」
「馬鹿、そういう問題じゃないの。アンタは有事の訓練なんて受けてない一般人でしょ。こういう時は邪魔にならないよう大人しくしてるのが一番なのよ」
「……そりゃそうかもしれないけどさ」
鈴の言う事が正しいとは分かっている。俺はただの一般生徒であるのに対して、鈴は中国の代表候補生だから正規の訓練を受けて緊急時の対処法も学んでいる。であるからには彼女の指示に従って行動するのが俺にとっての最善なのだろう。
だが、理屈では理解できても感情が納得してくれない。悔しさと情けなさが綯い交ぜになって自分の表情が歪むのが分かった。
そんな俺を見てか、鈴は呆れたように溜息をつきながらも、いつも通りの強気な笑みを浮かべた。
「安心しなさいっての。あたしだって無理無茶をするつもりは無いわ。先生たちが制圧部隊を送ってくれるまでの間、ちょっとだけアイツの気を引いて時間稼ぎをするだけよ」
そう言われてしまっては俺にはもう何も言えやしない。
鈴の言う通りだ。先生たちが何もせずに放っておく訳がない。鈴が怪我をするような事態になる事は殆ど無いんだ。自分にそう言い聞かせて、ピットに進路を向けようとしたその時だった。
『一夏坊、鈴音、聞こえるか? 聞こえたら返事をせい』
「ヒイッ!? 椛さん!?」
頭に響いてきた、俺を好き放題嬲って下さった鬼師範殿の声に震えが走る。返事に悲鳴が混じったのも仕方ない。
『なに情けない声上げてんのよ……聞こえてるわよ、椛。というか、アンタどうやってシークレット・チャンネルに繋いでるのよ? 訓練機でもかっぱらってきたの?』
『機会があれば説明しよう。それよりも侵入者はどうなっている?』
『何でか知らないけど、一発撃ってきた後は大人しくしているわよ。それも何時まで続くか分からないから、今から一夏をピットに避難させようとしていたとこ』
思わず内股になりかける俺に構わず、シークレット・チャンネルで状況確認し合う二人。回線はこちらにも繋がっているらしく会話の内容は聞こえてくるが、如何せん口を挟めない。
こりゃいかん。せめて意志だけは自己申告しなければ。えーと、頭の右後ろ頭の右後ろ……
『鈴の言う通りだよ……あまり納得はいってないけどな。まあ、駄々をこねても仕方ないし、俺はこれから避難……』
『――して欲しい所だが、どうやら状況はそれを許してくれぬようだ』
『へ?』
遮ってきた椛の言葉に、間の抜けた声が出てしまう。鈴も怪訝そうな顔をした。
『どういうこと? あたしだけじゃ頼りないとか言うんじゃないでしょうね?』
『まあ聞け。本来ならば鈴音が足止め、即座に教員の制圧部隊が突入し事態を収拾する所だが……先手を取られた。現在、アリーナは電子的に占拠された状態にある。全隔壁が強制作動、通信系もやられたとなれば移動する事も儘ならぬ。一般生徒の避難も滞っており、とても増援を向かわせることなど出来ぬ』
言われて気付く。こんな緊急事態にも関わらず、警報の一つさえ鳴っていない。観客席の人たちは上級生が主導して避難を試みているようだが、出入り口が塞がれてしまい出るに出られないようだ。
そこで俺はゾッとした。観客席には安全のためにISと同等のシールドバリアが張り巡らされているが、もしそれが解除されてしまったら、そうでなくてもあの大出力ビームで撃ち抜かれてしまったらひとたまりもない。あそこで不安を隠し切れていない子たちの体は一瞬で溶け崩れてしまう……
『学外――自衛隊への救援要請は?』
『どこからかジャミングをされておるらしい。外部への連絡は難しいであろう。まともに使えるのはシークレット・チャンネルぐらいのものだ』
『要するに最悪って事ね……でも一夏を逃がすことくらいは出来る筈だわ。隔壁があってもぶった切ればいいんだし』
『いや、ぶった切るって……斬れない事は無いだろうけどさ』
『確かにその手段で一夏坊を逃がすことは出来る。だが、問題は敵がそれを看過するか否かという点だ』
敵が俺を見逃すかどうか? 何で椛はそんな事を……待てよ、という事はつまり……
『……俺が狙いなのか? 学園に殴り込んでまできた理由が?』
『可能性は高い。唯一の男性操縦者という肩書を背負っている以上、狙ってくる者は掃いて捨てるほどいるであろうしな。そうとなれば逃げれば安全とも限らぬ。もし鈴を無視して追ってくれば被害の拡大は必至。故にお主を避難させるには、少なくとも一般生徒をアリーナから退去させた後でなくては不可能だ。これは織斑教諭と山田教諭の意向でもある』
椛の言う事は理に適っている。あのISがピットにまで追ってくれば、狭い空間での戦闘になり攻撃を避けきれなく可能性があるどころか、運が悪ければ避難中の生徒に直接被害が及ぶことも有り得る。鈴の実力を信用していない訳ではないだろうが、最悪の事態を想定して動いた方が賢明なのは俺も分かっている。
しかし、現実感が湧かない。俺なんかを狙ってこんな大それた真似をするなんて、下手したら死人が出るような状況になっているなんて易々とは信じられない。ほんの数か月前まで唯の男子中学生だった筈の俺に対してここまでする価値があるとは思えなかった。
雪片弐型を握る右手から小刻みな音がする。見れば、自分の手は震えていた。嫌な汗が頬を伝い、呼吸が浅くなる。
同じような事を三年前にも体験した覚えがある。これは――恐怖だ。
『……無論、絶対に逃げるなとは言わぬ。お主が避難し例え敵がその後を追ってこようとも、私がこの身を賭けて助けてみせよう。選択権はお主にある。逃げるか、戦うか、好きに選べ……個人的には、逃げてほしいが』
『あたしも同意見よ。一夏、無理する必要はないわ。あたしだって簡単にあのISに抜かれるつもりは無い。アンタが逃げても、救援が来るまでは持たせてみせるわ』
『…………俺は……』
二人の言葉に心が揺れる。彼女たちは俺の身を案じて、心配してくれている。危険が及ばないよう守ろうとしてくれている。それは有り難く思うべきことで、きっと従うべき言葉でもあるのだろう。
けど、それでいいのか? 椛と鈴の、他の生徒の危険を顧みずに逃げていいのか? 三年前と同じように、自分の身に何が起こっているかも分からずに震えているだけで本当にいいのか?
手の震えは一向に収まらない。恐怖は未だ俺の心を蝕んでいる。
『……俺は、逃げない。あいつと戦うよ』
その震えを左手で抑え込み、恐怖を呑み込んだ。
『俺のせいで何の関係もない人が傷つくなんて……そんなの、死んでも御免だ。自分の尻は自分で拭く』
『ちょ、ちょっと! アンタ自分が何をしようとしているか……!』
『いいのだな? 一度決めたら引き返せはせぬぞ』
『……ああ。ここで逃げちまったら、たぶん俺は一生後悔する事になる。だから背中はむけない』
椛の問いに毅然と答える。
きっとこれは重大な分岐点なのだろう。けど迷わない、躊躇しない。俺が力を得た意味を、皆を守りたいという思いを嘘にはしたくないから。
『目を背けるな、前を向け――そう言ったのはお前だぜ、椛。今さら前言撤回なんてさせないからな』
『ふん、戦術と戦略を取り違えるでないわ。どうやらこの馬鹿弟子にはまだ扱きが足りぬらしい』
『それは無事にここを乗り切ったらお願いするよ、師匠』
『あのねぇ! アンタ本当に戦う気なの!? 安全な試合なんかじゃないのよ!?』
冗談交じりに言い合う俺と椛に鈴が声を荒げて――実際に声を上げている訳ではないが――割り込んでくる。まだ俺が戦闘に参加するのに否定的なようで、何とか俺を後ろに下がらせようとしているのが見て取れた。
気持ちは嬉しいが、それに従う訳にはいかない。俺は真正面から鈴を見据えた。
『鈴、心配して言ってくれているのは分かっている。確かに俺はこういう時にどうすればいいのかなんて欠片も教わっちゃいないし、ISの操縦だって全然だから頼りないよな』
『べ、別にあたしは心配して言っている訳じゃ……』
『けど、俺は逃げたくない。お前の背中に守られているだけではいたくないんだ。聞き分けのないことだって自覚はしている。でも頼む。俺は、お前の隣に立っていたいんだ』
『~~~~ッ!』
あ、あれ? 鈴が顔を真っ赤にして震えはじめたぞ。何かまずい事でも言っちまったか?
『鈴音よ、一夏坊が言っておるのは期待している意味では……』
『わ、分かっているわよ! あーもう、本当に鈍感ニブチン野郎なんだから! 言っておくけど、こっちの指示にはちゃんと従いなさいよ。勝手に突っ込んで行ったりしたら無理矢理にでも撤退させるからね!』
『りょ、了解!』
どうやら一緒に戦う許可はいただけたらしい。でも何でそんなに怒っているんだ? やっぱり人の心配を無碍にしたのが駄目だったのだろうか。これが終わったらちゃんと謝っておこう。
『一夏坊、鈴音。お主らの任務は足止めだ。こちらのシステムクラックが成功し、生徒の避難完了及び鎮圧部隊が到着するまで敵をそこから逃がすな。くれぐれも生徒が密集している方には近づかぬよう留意せよ』
『了解よ』
『ああ、分かった……なあ椛、一応確認しておきたいんだけど』
『何だ?』
『足止めって言ったけどさ、別に倒しちまってもいいよな?』
『……はっ、若造が大口を叩きよるわ。やれるものならやってみよ』
俺の本気六割、冗談四割の言葉に椛は愉快そうに答える。きっとニヤリと笑みを浮かべているに違いない。鈴も呆れたような苦笑を漏らしている。
目を敵へと移す。通信中も意識を外してはいなかったが、相手は変わらずにこちらに視線を向けるだけで動きを見せない。俺たちが動くのを待っているのか、或いは別の狙いがあるのか。バイザーに阻まれてその意図はまるで読めない。
『では切るぞ。以降の連絡はセシリアの方に繋げるがよい。私はシステムクラックに集中して余裕がなくなるからな。それと一夏坊、最後に千冬殿から伝言だ』
『千冬姉から? 何だ?』
『勝てよ、愚弟――だそうだ』
『……了解。コーヒーでも飲んで待っていてくれと伝えといてくれ』
『心得た』
短い返答の後にふっと意識の繋がりが途切れる感覚がした。椛がシークレット・チャンネルを切ったのだろう。
「さてと、待たせちまったな。ずっと立っているのは退屈だっただろ?」
「お行儀よく待っていたご褒美に良いものあげるわ。向こう一日は体に響くような重い一撃をね」
二人で試しに挑発してみるが、敵は全く反応を示さず見つめてくるばかりだ。ここまで人間味が無い奴は初めてだ。思わずげんなりとした顔をしてしまう。
「無反応なんてつまんない奴ね。きっと友達いないタイプよ、アレ。ま、それはさておき行くとしましょうか。一夏、アンタの武器それ一本しかないのよね?」
「ああ、不便な事にな」
「ならアンタは隙を見て一撃を見舞うのに集中しなさい。あたしが援護してあげるんだから外すんじゃないわよ」
「いけるのか? 自慢じゃないけど、連携の訓練なんて碌にやってないぞ」
「即興で行くしかないでしょ。上手く合わせなさい」
いい加減な奴だなと思うが、実際口に出したりはしない。どちらにせよやるしかないのだ。文句を言っても無駄というものだろう。
――まあ、幼馴染の縁に任せるしかないか。
適当に納得して雪片二型を構える。鈴も青竜刀を構え、衝撃砲の発射準備を整えた。俺たちが臨戦態勢になったせいか、ようやく敵も動きを見せる。長い腕を持ち上げて、その先の砲口を俺たちに突き付けた。
「ビームが来たら散開。あたしが牽制をかけるから、アンタは本命の一撃をいつでも出せるよう準備しておいて」
言葉には出さず、頷いて承諾する。
敵の砲口に光が灯る。白式からエネルギーの集束状況が知らされてきた。二十、四十、八十パーセント……
瞬間、暴力的な光が視界いっぱいに広がった。
「ゴー!!」
鋭い声が耳朶を叩く。
俺はスラスターを全開にして横っ飛びに加速した。