もう昨日から何回取り直しているから分からないが、それでもルイズは気を取り直した。そうしないと前に進めない。
部屋に戻り、授業に出た時の対策、もとい言い訳を改めて練りつつ、絶対領域の中の絶対危険地帯の安全確保に努める事を固く誓ったところで、そうこうしているうちに朝食の時間になった。
迷いを捨てるかのごとく、勢いよくルイズは立ち上がる。
ナニに思考が引っ張られていようが、ナニが大変な暴れん坊さんだとか、そんなものを悔いるなんて今更だ。考察と落胆を一緒にしてはならない。ルイズに絶望している暇はないのである。
考えろ、考えろ、考え抜け。対策を。適解を。対処を。未来を。チンコを。ルイズは死にたくなった。ああ、抜くってそういう……うるさい殺すぞ。
意を決して扉を開ける。
……朝食。まぁそこまで問題は起こりえないだろう。たかが食事を取るだけだ。そこまで考えた時、ルイズは自身の腹部が激しく空腹を訴えていることに気付いた。
そう言えば昨日は夕食を取り損ねてしまったんだっけ、と思うが、それにしても改めて認識すれば異常な空腹感だ。いつもの量の二倍ぐらいはぺろりと行けそうな気がする。
己はここまで健啖家だっただろうか、と首を捻ったところで、ルイズの隣部屋の扉が弱弱しく静かに開いた。
そこから出てきた人物を見て、ルイズは僅かに顔を顰めた。
結局、ルイズの隣人であるキュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストーは、昨夜のルイズ大号泣を聞いてからの彼女との接し方を、最後まで決めあぐねていた。
キュルケは立場的にはルイズの好敵手の様な存在だった。少なくとも、彼女の中では。
留学生であるキュルケは、母国ゲルマニアの大貴族であり、そして国境を挟んでルイズのヴァリエール家とお隣の関係でもある。
ツェルプストー家とヴァリエール家、このニ家の因縁は深い。軍事的なものから、極々個別的なものまで。
けれども、そう言う家柄国柄の柵を抜きにしても、キュルケはルイズを自身のライバルと認識している。つまりはルイズ個人と相対しているのだ。
多分それは、ひどく馬鹿馬鹿しいものなのだろう、周囲はそう思うだろし、キュルケもまたそう考える側面も持っている。だから少なくとも表には出さない。
家名しか取り得のない魔法が使えない出来損ないを、どうして個人単位で相手することがあるのか。相手はゼロで、キュルケはトライアングルのメイジだ。
無駄でしかない行為であり、下手をしたら自分の価値まで落しかねない。劣等生をライバルだなんて。
違う、そうじゃない。キュルケは考える。
あの意地っ張りで癇癪もちの少女の本質は、出来損ないだとか、家名だとか、そんなものではないのだ。
心無き言葉を投げかけられ、馬鹿にされ、嘲られ、それでもただ真っ直ぐあった少女、ルイズ。
キュルケが認めたのはルイズの心であり魂だ。たとえ力なき意思であっとしても、それは高潔なものに違いない。
対面や外面だけを優先するトリステインの腑抜け貴族。その中であって、ルイズの愚直なまでの姿勢は、殊更強くキュルケの琴線に響いたのだ。
だからキュルケは今まで、他の者のように陰口は叩かず、ただ真正面からルイズを発破させるような言動を行ってきた。
私に言われたくなければ、ここまでに――魔法を使えるまでに――なりなさい。声には出さなかったけれども、確かにキュルケにあった、そんな考え。
いずれ、何時の日か、面と向かい、好敵手として競い合うことが出来れば――
けれど、である。
キュルケは昨日、見てしまった。聞いてしまった。
使い魔召喚儀式時のルイズの呆然。そして、絶望の顕現ともいえる圧倒的な嘆きの怒号。
それはキュルケが見たことの無い態度だった。聞いたことの無い慟哭だった。
心が折れてしまった、のだろうか。
あの啼泣は尋常ではなかった。今まで聞いたことのない声量で、幼子のような感情の爆発が分かった。
まるで決定的な何かが壊れたような、そんな悲鳴。
ルイズは、諦めてしまったのだろうか、使い魔の召喚失敗は、彼女をそれだけの絶望の淵に追いやっていたのだろうか。
あの勝気な彼女が、恥も外聞も捨てての喚声。それには、どれだけの失望が込められていたのだろうか。
ルイズは孤独だった。周囲から孤立していて、少なくともキュルケが知る範囲では、ルイズと悲しみを共有できる友はいない筈。
キュルケが昨日ルイズの部屋に赴き、慰めなりなんなりをしなかったのは、その辺りにも関係がある。
ルイズに友はいない。キュルケも、その範疇に入っていない。だから、彼女は所謂友情関係にありそうな行動を取れなかったのだ。
けれど、キュルケは一つ思う。進級試験に通らなければ留年であり、そうなればほぼ間違いなくルイズは学院を去る。
それは、認められなかった。煌びやかな宝石、その原石が効果を見せる前に砕け散ってしまうようなものだ。キュルケはその先が見たかった。ルイズの可能性が。
ルイズには、まだ機会が与えられるはずだ。成功失敗のどちらかに転ぶかはともかく、まだ、まだいける筈なのだ。
優しい言葉をかけるべきか、それともいつものように、馬鹿にするような口調で発破をかけるべきか。
キュルケはらしくなく最後まで迷っていて、そしてとうとう時間切れ。彼女はいくつか言うべき言葉、言わざるべき言葉を考え、いくつかの計画を立てたのだが、どれを選べば正解なのか決めることが出来なかった。
あとはもう、決めうち場当たり野となれ山となれ、だ。両者の扉はもう、開いていた。
ルイズは隣部屋からゆっくり出てきた褐色の女、キュルケのことが嫌いだった。
家系の怨敵と言えるツェルプストーだから嫌いだった。微熱だとかなんとかで男関係にだらしがないのが嫌いだった。
陰口というより、面と向かって自身を笑うのが嫌いだった。常に余裕たっぷりなのが嫌いだった。
優秀なメイジなのが嫌いだった。女として抜群の体型を持っているのが嫌いだった。
彼女を見る事で、己の矮小さが際立つことが嫌いだった。そう感じてしまう己の醜い嫉妬心が、何より嫌いだった。
ルイズから見れば、キュルケは好敵手でもなんでもなかった。
何もかもが足りていない、劣っている己が、どうしてそう言うことが出来ようか。
キュルケを見れば、ただ惨めに感じるだけだ。だからルイズはキュルケが嫌いで、姿さえも見たくはなかった。
そうした訳でルイズはキュルケの姿を確認して顔を顰めた訳だが、今日に限り、その劣等感は不思議と長続きしなかった。
チンコだ。チンコのお陰だ。お陰の訳ないじゃない殺すぞ。チンコの所為だ。
チンコ生えるとか言う夜天の双月までぶっとびかねない訳分からない事象は、ルイズの内にあるドロドロとした負の感情を見事踏みにじっていた。
こちとらチンコが生えているのだ。嫉妬心なんぞ黒くて大きい犬の下敷きになっているに違いない。
「お、おはよう、ヴァリエール」
「……おはよう、ツェルプストー」
目を細めて睨み付ける様に挨拶を交わしたルイズであったが、そこで目の前に女に違和感を覚えた。
なぜだか妙にしおらしい。おっぱい。いつもの見下したような態度はそこになく、なんとなく、おどおどしている様にさえ見える。
視線はあちこちにさ迷い定まらず、ふっくらとしたおっぱい。ふっくらとした唇は言葉を探すように上下している。
「あー、その……ヴァリエール? ルイズ?」
「なによ」
「あなた……その……大丈夫?」
大丈夫なわけあるか! チンコ生えたんだぞチンコが!
反射的に言いそうになったその言葉を、ルイズはぐっと押さえ込む。言ってしまったら全てが泡になって消えてしまう。消えてしまいたい。
にっくきツェルプストーの「ええ……」なんて言葉は聞きたくないのだ。
だがしかし。
そもそもこいつは何を言っているんだ? ルイズは心中で疑問符を上げる。先ず「大丈夫?」が何を指しているのかよく分からない。
考える――妙に冴えた頭で、キュルケの言やおっぱい、表情について思えば。
ああ、なるほど、平時ではあり得ない頭の回転を以って、ルイズはそのことに思い至る。
まぁいくら家柄上敵対していても、個人的に見下している(ルイズはそう思っている)としても。
昨日、あれだけの大泣きを聞けば、少しぐらいの心配はあるだろう。キュルケの視点から見れば、自分は落第の危機にあるのだから。
客観的にキュルケの人となりを見れば、その程度の良識やおっぱいは持ち合わせているはずだ。相手がたとえ自分だとしても。
ツェルプストーに情けを掛けられるなんて――
心の中の柔らかい部分が、感情的な叫びを上げている。昨日の情けない泣き声を聞かれた恥が、ルイズの精神を赤に染めようとする。
それら全てから彼女を守るように、うねる激情の闇を打ち消すように、どこかで黒い犬が一つ、大きく吼えた。
頭が、加速的に醒めて行く。
同情。好都合だ。知られたくないのはチンコのことで、それ以外は全部些事。敵意でなければ、詮索もすまい。同情とはそういう感情だ。
チンコを守りきれば、それでいいのだ。チンコを。ルイズは生まれ変わったら綺麗な花になりたい。
キュルケに返答せず、ルイズはすっと左手を上げた。甲の部分を見せ付けるようにすれば、キュルケの顔が驚愕に染まる。
「私は使い魔の召喚に成功したのよだけどどういう訳かその使い魔は主と一体となる生き物みたいで今は私と一つになっているわ私の身体に何一つ異常はなく使い魔の正体はさっぱりさっぱり分からないわええさっぱり分からない学院長の許可はもう貰っているわ」
一息だった。どう見ても不自然だ。冷静になれない部分も、やはりルイズはいまだ持ち合わせている。
ルイズの焦りや高ぶりの証左のように、左手のルーンがぴっかーと光っている。正面のキュルケが眩しそうに目を逸らした。
「え、と……よく、わからないけど、あなたの使い魔は……あなたの、その、中にいるの?」
「そうよ」
「それって、その、大丈夫なの? 聞いたことないけれど」
「……オールド・オスマンから許可は貰ったって言ったでしょ」
「そうじゃなくて。あなたの体のことよ……得体が知れないんでしょ? 本当に、問題ないの?」
勃起も射精もするしさっきなんてメイドのおっぱいを弄ったわ。でも私は大丈夫。あーあ、全てを虚無と化したい。
問題だらけである。勿論ルイズは言わないし、言えない。
さておき。キュルケの瞳を覗き込む。悪意なき、純粋な情の色が見える。おっぱい。
ヒトの害意に敏感なルイズにはそれがはっきりと理解できた。視野を妨げうる黒き感情は、全て内なる犬が無効化している。
先入観や家のゴタゴタを抜きにすれば、なんだ、こいつは存外おっぱい優しいやつじゃないか、そうとさえ、ルイズは思えた。
「……私は、大丈夫よ。どうしたのキュルケ、なに、心配してくれてるの?」余裕ありげにルイズが微笑めば、キュルケはその頬を赤く染めた。
「な、ななに言ってるのよヴァリエール! そんな訳ないじゃない!」
明らかに図星を突かれた狼狽具合だ。ルイズが悪戯気に「ふふ、そうよね」と笑う。キュルケはとうとう怪訝な表情を浮かべた。
「……あなた、変わった?」
「さあ? でも、変わらなければならないと思っているわ」
本心だった。今までの自分では駄目だと、ルイズ自身そう考えていた。
癇癪を起こしても、感情的に喚いても、結局なにも解決しない。
もっと、もっと生産的な何かが必要なのだ。思考にも、感情にも、力にも。
己に齎された屈辱的な恥部をどうにかする為、というのが一番にあるが、普段の生活においても、かねてより自分は停滞した人生を送っていたのだ。
チンコがなによ。なんなのよ。一つの答えが、今ぼんやりと浮き上がった。身を焦がす激情は自分に何も与えてくれない。少なくとも、今までの自分には。
覚悟。決意。必要なのはそれで、ルイズは歪なのものであるが、確かにはっきりとした覚悟を得ているのだ。チンコを内密にする覚悟をね。くっそ。
ルイズの何かを『超えた』返答に、キュルケは目を白黒させている。その様子にまた微笑んで、ルイズは踵を返した。
私おなか減っているの、じゃあね。とルイズが立ち去ろうとすれば、「ちょちょちょっと待ちなさい!」と慌てた声が後ろから掛けられた。ルイズは億劫そうに振り向いた。
「だからなによ」
「あ、え、と、私の使い魔、を、紹介したい、のだけれど……」
「なに? 自慢?」
「いやっ違っ、や、その、そうよ!」
「どっちなのよ」
嘆息気味にルイズが、はやくしなさい、と妙に偉そうに言えば、キュルケの調子はますます狂っていく。
これじゃあいつもと逆じゃない、キュルケは口の中でそう零す。
本来なら自身の使い魔を披露して「あなたもこれぐらい立派なのを召喚してごらんなさいな」というのも計画の一つだったのだが、これではなんだか自分が情けを掛けられているようではないか。
気を取り直して、キュルケが「おいでフレイム」と言えば、彼女の部屋から使い魔であるサラマンダーが現れた。
真っ赤で巨大な体躯が姿を見せれば、ルイズはむわったした熱気を感じた。そんなものはどうでもいいとしてやっぱりキュルケのおっぱいやばくね?
ルイズはねっとりした瞳でキュルケのブラウスからおっぴろげになっているイケナイ果実をガン見しているが、自身のペースを掴みたいキュルケはそれに気付かない。
「ヘェ……立派じゃなぁい」ルイズの声のねっっっとり具合にも、キュルケはやっぱり気付かない。
「そうよ、しかも、ただのサラマンダーじゃないわ!」
「確かに、並大抵のものじゃないわね、これは」
「見なさい、この大きさ!」
「物凄いわね、ええ、凄いわキュルケ……」
「そうでしょ、そうでしょう! この大きさ、火竜山脈のサラマンダーよ! 好事家に見せたら値段なんかつかないわ!」
「こ、好事家!? 駄目よキュルケ! 大事に、大事にしなさい! とても値をつけていい代物じゃないわ! 滅茶苦茶にされちゃう!」
「きゅ、急にどうしたの? も、物の例えよ、本当に売るわけないじゃない」
「ええ、大切に育ててもっと大きくしなさい。正しく一生ものよ」
致命的に歯車がずれている会話を交わしている最中、ルイズは気付いた。
――フランソワーズ率が高まっている! ショーツの中で『フランソ』ぐらいまで来ている!
キュルケの色気にやられたのだ。もっと言えば、たわわな収穫物に。やるじゃないツェルプストー。
拙い。拙い。このままではルイズのルイズが完全体フランソワーズになってしまい、ルイズのスカートと人生を破壊してしまう!
ちょっと忘れ物、部屋に戻るわ――若干前傾姿勢になったルイズがそう言えば、「ちょ、ちょっと待って!」とキュルケがまた留める。
「なによ!」ほとんど悲鳴のようにルイズが鋭く叫んだ。それ以上胸元についてるファイアー・ボールを揺らすな!
キュルケはその切羽詰った様子にたじろぎながらも、一度息を吐き、昨日を超え、その前、更に前、ずっと前から言おうと考えていた言葉を、素直に述べた。
「使い魔召喚……おめでとう、ルイズ」
優しい声だった。揶揄でも中傷でもない、ひたすらに祝福の思い込められた言葉だった。
キュルケにとって言えば、その結果は二人の関係性を前に進めるものだった。
姿見えなきものとは言え、仮にも魔法を使えたのだから。このゼロの少女が。自分の、好敵手が。
ルイズにとってはめでたくもくそも何もないのだが、その暖かな声色は、ルイズの心にまた暖かい火をくべた。
落ち着かせるために目を瞑る。闇の中でドロドロした何かをけちょんけちょんに踏み潰している黒い犬は、おいといて。
常にへたり込んでいた幼きルイズは、絶望の奥で、儚くもにこりと笑っていた。
釣られるように、ルイズも笑った。
「ありがとう、キュルケ。あなたのおっぱいも、おめでとう」
ルイズの部屋が閉じられた。
しん、と廊下全体が静まり返った。ルイズの部屋から「ぶっ殺す」とか聞こえた気もするが、まぁ気のせいだろう。
とにかくキュルケは絶句した。あの面倒臭い性格のルイズの、滅多に聞けない礼の言葉は、まぁいいとして。
おっぱいおめでとう、とはどう言う意味なのか。なにかの比喩なのか。まさか幼児体型でそういう話題が大嫌いなルイズが、自分の胸部を指した訳ではあるまいし。
キュルケは横に控えたフレイムを見た。フレイムもまた困惑した主を見ていた。
「フレイム、あなた、おっぱいついているの?」
フレイムは首を横に振った。謎は深まるばかりだ。