――――趣味で書いたものですが、書き上げた途端、あなたに読んでほしくなったんで。よければ、ですけど。番号とアドレスも一緒に置いとくんで、なんかあったら連絡ください。
それだけ言い残して、比企谷君は自分のぶんのお代を置いて店を去った。
眼前に残ったのは、二杯のコーヒーカップと分厚いクリアファイルのみ。
彼は私になにも問いかけを許してくれなかった。だから、さすがにどうしていいものかと悩んで、わからなくなってしまう。
とりあえず、少しばかり冷めてしまったコーヒーを一息に飲み干した。
それから、クリアファイルに目を向ける。A4用紙に縦書きにされたものがざっと二百と少し。文字数にして十万字ほどであろうか。よくもまぁ、これだけ書いたものである。
手にとって、しげしげと眺めてみる。
比企谷君の自筆だというので、私は少しばかりこの読み物に興味を抱いていた。あの捻くれものの彼が書いたというのだから、おもしろいに違いない。
けれど。今はなんだかそんな気になれなくて、私はそれをファイルごと鞄にしまいこんだ。
べつに、今すぐ読んでくれ、なんてことも言ってなかったし、その気になったまたの機会にってことでもいいだろう。
伝票を手にとって、席を立つ。
店を出ると、ちょうど日が傾き始めていた。
その斜陽に身を染めながら、私は夜に向かいつつある街のほうへと一歩を踏み出した。
大学へ行って講義を受け、ほどほどに勉強をして、それから知人らと遊行に興じる。
実家の催しに出席し、笑顔を浮かべ、言葉を並べ、自分を殻に包む。
そんなことを繰り返しているうちに幾日かが過ぎ去って、ようやっと私がそのファイルを手にとったのは、たまたま夜遅くになってから自室に帰りついた今日のことだった。
今日は家のほうで集まりがあって、それに顔を出していた。
笑顔を貼りつけ、言葉を取り繕い、いつもどおりに。これが普通のはずなのに、今日はなぜだかいやに疲れている。
服を着替えるのさえも煩わしくて、化粧だけを落として、そのまま寝台へ倒れ込んだ。
疲れた。疲れた、疲れた。
そればかりが頭の中をぐるぐると回る。
気持ち悪い。腹の中から違和感が走って、吐き気が込み上げる。
そのまま自分がどこかへ消えていってしまうかのような感覚を覚えて。
咄嗟になにか、叫びだしたくなるほどの焦燥感のようなものが胸中を駆け巡る。
「やだ、なに、これ……」
それらを、嫌なものを遠ざけたくて、枕元のサイドテーブルに放りっぱなしになっていた比企谷君の連絡先が書かれたメモを手にとる。
そして、メモを片手にケータイに伸びた手が不意に止まった。
いつもなら、こんなことでいちいち思い止まったりはしないのに、このときに限って私は、比企谷君に拒絶されることを恐れてしまっていた。
本当にどうなっていたのだろう、このときの私は。
けれど、だから、理由付けのために、私は彼の作品を手にとったのだった。
読み始めると、私は思いの外、彼の紡ぐ物語に入り込むことができた。
なぜって、話の基軸に置かれている女性が、私にとてもよく似ていたのだ。
それで、思い至った。彼は私のキャラをモチーフに、この作品を組み立て、書き上げたのだ。
それならば、普段は私のことを毛嫌いしている彼が自ら連絡を寄越してまで、自分に会いにきたのも頷けなくはない話だった。
話の中の女は、良家の生まれだった。
幼い頃より、両親とその周囲から期待を寄せられ、幸か不幸か、それに応えられるだけの才能とやらを彼女は持って生まれてしまっていた。
そのことが、女の顛末に選択肢と退路を断つこととなった。
騙し騙し。そうやって己を偽るうちに、いつのまにかそれを自然にこなせるようになった。
貼りつけの笑顔と、取り繕った言葉と、そうせざるをえない生き方が、女の生き方となっていった。
女はもはや自分がどういう性根をしていたのかを忘れてしまって、知らず知らずのうちに己を磨り減らして、日々を生きていた。
そうしているうちに、女に、ある転機が訪れた。
実妹の誕生である。
妹もまた、姉である女と同じように多才な娘であった。
女は妹を可愛がった。妹が唯一、自分になにも求めずにいてくれたからだった。
けれど、時を経ると、妹は度々女の真似をするようになった。
なにもかもをそつなくこなしてしまう女の姿は、妹にとって、こうあるべきという体のいい指標だったのだ。
それに気づいた女は、ひどく鼻持ちならないものを感じた。
やりたくもないことをやっている、やらされている自分のようになりたいと宣う妹に、どうしようもないまでの激情を覚えた。
そのとき、女は自分の今の生き方が押し付けられたものであることを思い出した。
思い出してしまった瞬間から、女は自身の生涯が酷く醜悪なものにしか思えなくなった。
そのときからだ。女にとって、妹は、親愛と鬱憤と羨望の対象になった。
家族として妹を愛する気持ち。自分のようになろうとしている妹への苛立ち。自分が持ち得なかった自由を持っている妹への嫉妬。
それらを自覚した女の胸中は、あたかも抉られ、掻き回されたかのように乱され、滅茶苦茶にされた。
けれど、それでも、女は己の在り方に変革を望まなかったし、認めなかった。
凝り固まった戒めを解く術をすら、女は忘れ去ってしまっていたのだった。
やがて、女はこれまで以上に磨耗していく。
相も変わらぬ貼りつけの笑顔と、取り繕った言葉と、それらを押し付けられる生き方の中で。
姉のようにと望む愛する妹に、その背中を見射貫かれながら――――。
読み終わる頃には、胸中の消失感のようなものはなくなっており、私は落ち着きを取り戻していた。
けれど、その代わり、私はそれにも勝るような虚脱感というか、やるせなさというか、そんなものを強く感じさせられていた。
ふと思う。比企谷君はこんなものを読ませて、私になにを求めていたのだろうか。
当てつけか、揶揄か、はたまたまったく別事か、単純に感想を求めてということもひょっとしたらあるかもしれない。
「……なんて、そんなわけないか」
私は、ありえたかもしれない可能性を見せられたのだ。
私をモチーフに、なんて、そんなものではなく、これはまさしくそのまま私の話なのだ。
少なくとも、今の私にはそう思えてならなかった。
そして、そう思うと、次に押し寄せてきたのは忌避感とアイエフの可能性に対する拒絶の意であった。
こうはなりたくない、なっていたくない、と。はっきりと、さまざまと、そう思わせられたんだ。
とりあえず、私は外着着の身着のままだったのをさっさと脱ぎ捨てて、シャワーを浴びた。
ゆったりとした部屋着に着替えて、暖かいレモネードを淹れて一息つく。
それから、私はケータイを手にとって、比企谷君に電話をかけた。
零時も過ぎて、一時も回ってしまっていたけれど、彼ならあるいは、と思った。
何回かのコール音を聞き流して、
『……もしもし』
「もしもし。こんばんは、比企谷君」
彼は電話に出てくれた。
『……なんすか。もう一時、回ってんですけど』
寝起きの間延びした声。
けれど、やっぱり、ちょっぴり咎めたてるような調子も混じっていて、それを耳にした私は思わず顔を綻ばせた。
「うん。ごめんね、起こしちゃったね」
思いの外、優しい声音が出てくる。
なんだか自分が自分じゃないような、浮わついた、ふわふわした感覚を覚える。
『……いいっすけど。それで、なんか用ですか?』
「うん。君の小説、読んだからさ」
通話口の向こうで、少し驚いたような、そんな息を呑む音が聞こえた。
もしかして、私があれを読むなんて、本当は期待してなかったのかもしれない。
『どうでした……?』
問うその声は、どこか揺らめいて。
「……んー。なんか、悲しくなっちゃった。ちょっと、好みじゃない、かな」
私の声も震えが混じってしまう。
もう、カッコ悪いなぁ……。
『そう、ですか……』
「比企谷君。あれは、私を見て書いたんだよね?」
『……そうです。彼女は貴女が元になっている』
書き手の口から聞くと、また感慨が違った。
ああ、少し、聞きたくなかった。
「……私、このままじゃ、やだ」
今度は完全に嗚咽混じりの声で、私はそう囁いた。
『……雪ノ下さん。俺、ちゃんと続き書きますよ』
力強いまであるその返答に、私はふと思った。
私と彼女に違いがあるとすれば、それは――――、
「うん。とびきり幸せなやつを、ね……」
――――彼の存在がまさしく、違い、というやつなのだろう、なんて。
このように相成りました。
さて、次はいつ頃の投稿になるやも知れませんが、どうぞお楽しみに。