もやもやもや
◇◆◇
さっさっ、と小気味いい音が神社の境内に木霊する。
参道から続く石畳は砂利も落ち葉も掃き清められて清潔さが保たれ、参拝する者があればこの神社がいつも丁寧に手入れされていることに気づくだろう。
毎年夏祭りの時期に巫女の舞が奉納されることくらいが特徴の、市街地の中にぽつんとあるごく普通の神社。意外なほどしっかりとした社と大きい鎮守の森を持つここは、鳥居に掲げられた額の通り、篠ノ之神社という。
ちなみに、祭りの時期になると舞を奉納する巫女さんと同年代くらいの美女が各国からやってきて談笑している極楽のような光景を拝むことができると、一部では有名であったりする。
境内を掃除しているのは、白い襦袢に緋袴という巫女服に、長い黒髪をキリリとポニーテールに結いあげた女性。この神社の娘でもある、篠ノ之箒であった。
落ち着いた表情と所作で箒を扱うその姿は神社に満ちる静謐な空気と相まって、一枚の絵画のように調和していた。その姿を見るだけで、彼女がどれほど気高い心を持つかすら感じ取れるほどだ。
しかし、彼女はまだ20歳を越えたばかりの歳。まだまだ心揺らされることはある。
「お待たせ、箒」
「む……一夏、終わったか」
ふいにかけられた声に少しだけ驚き、足元にまとめた落ち葉の山がさらりと崩れてしまう。それまでの自然体な動きがわずかに崩れ、振り向く際の表情は笑顔を浮かべようとしているのか、それとも普段の表情を保とうと抑えているのかわからない、複雑なものになってしまった。
箒がこんな風にただ声をかけられ、正面から目を合わせようとするだけで心乱される相手など、この世界に一人しかいない。
誰あろう、織斑一夏その人だ。
一夏とは小学校以来の付き合いで、IS学園で再会してからこちら、数年の間にますます背が伸びて男らしくなった。
それだけではない。篠ノ之神社の神主であることを示す装束に身を包み、凛とした姿勢で歩み寄ってくる彼は、今やこの神社の人間なのだ。
思い返せば色々なことがあった。語りつくせぬほどの事件と思い出を経た一夏が選んだのは、箒と共にこの神社を守る道。そう伝えられた時の悦びは言葉にもできないほどで、脳裏にあの日あの時の情景を描けば今も胸が熱くなる。
そんな一夏は今日、神社の定例の祭祀を執り行っていた。いまだ日本中バラバラになっている篠ノ之家の一員として、箒の父の代わりに特例的でこの神社を預かっている形ではあるが、それでも日々神主姿が板についてくることを箒はとてもうれしく思う。
「ああ、……でもやっぱりまだ慣れないな。さすがに緊張するよ」
「ふふっ、そうか。それでは茶を入れよう。行くぞ」
「ありがとう、箒。……でも、その前に」
「ん? ……うわっ、何をする一夏っ!」
そんな感心の感情を抱いたのもつかの間、一夏が為したのは大人しく箒について来ることではなく、後ろからがばりと抱きすくめることだった。箒はびくりと身をすくませ、思わず手に持つ竹箒を取り落としてしまう。
本当に一体何をするというのだ。仮にもここは神社の境内。神聖だとかそういう建前もむろんのこといつ誰が来るかわからないというのに、腕の中で箒がもがこうとも解放せず、あまつさえ近くの木のあたりまで引っ張って行き、そのままずりずりと腰を下ろし膝の間に箒を座らせたではないか。
こうなってくると、もはや逃げ出すこともかなわない。致し方なし、かくなればしばらくはこの屈辱に甘んじて耐え、一夏の隙を突いて振り払い逃げるしかあるまい。箒はそう決心する。
……だから、しっかりと背を預けるのは一夏の動きを制限するためで、腰にまわされた手に自分も手をそっと添えるのはいざというときすぐにこの手を引っぺがすためだ。
他意はない。断じてない。
箒は必死で自分にそう言い聞かせていたりする。
「悪いな、箒。でもしばらくこうしていたくって。今日は天気もいいし、さ」
「まったく、一夏は仕方のない奴だ。……ま、まあ少しくらいなら許してやろう」
ふん、と鼻を鳴らして箒はますます背を預ける。ご神木に背を預けた一夏とこうして木漏れ日と風を感じる時間は初めてのことではないが、やはり……何とも言えず心が安らぐものだ。風が頬を撫で、枝葉を揺らしてざわざわと音を立てる。鎮守の森に囲まれた神社の境内には余計な音が一切なく、陳腐ではあるがまるで世界に自分達二人しかいないかのようにさえ思えてくる。
だから、だろう。
「箒……」
「ん、一夏……」
耳元で名を囁く声に自分でも驚くほど素直に顔を上げ、すぐ間近にある一夏の瞳を覗き込み、そのまま吸い込まれるように、二人は顔を近づけていった……。
これら一部始終を、ご神体は見ていたのだが。
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もやもやもや
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「チェルシー、ただいま帰りましたわ」
「はい、お帰りなさいませお嬢……いいえ、奥様」
長らく留守にしていた自宅にようやく帰りつくと、そこではいつもと変わらぬ様子で姉とも母とも慕うメイドが出迎えてくれた。
瀟洒と呼ぶにふさわしい、気品あるたたずまい。従者としては完璧の域に限りなく近いだろうと身内ながら評するに足る彼女の声を聞き、セシリアはようやく家に帰ってきたのだという実感を得た。
「さすがにお疲れのようですね」
「ええ、今回は赤道付近を中心に何カ国を回ったのでしたかしら。……数え切れませんわね」
着ていたコートをチェルシーに預け、ふわりと髪をなびかせ空気を入れる爽快感がたまらない。普段ならば何とも感じない生家の匂いが感じられることが、オルコット家の当主として各国を飛び回る多忙な日々を過ごしてきた体にはなによりの癒しとなった。
「旦那様も、奥様のお付き添いを立派にこなせたようですね」
「いやあ、俺なんてまだまだで……」
「そんなことはありませんわ。一夏さんにはとても支えられましたもの」
ましてや今は、その家に新たな家族を迎えているのだから。
その家族とは、仕立てのいいスーツをぎこちなくも着こなし、どこか頼りなさげな笑みを浮かべている、一夏である。
オルコット家の人間となってまだ日が浅いこともあってかどうしても威厳や風格といったものは足りていないが、それでも内に秘めたる気高さは真なる貴族にふさわしいもの。そのことはセシリアも、セシリアと親しい貴族のお歴々も認めるところとなっている。
IS学園を卒業してから、てんやわんやのうちに過ぎた日々。余りにも多くのことがあり、セシリア一人ではとても乗り越えられなかっただろう困難にも遭遇して……それでも今のセシリアがあるのは、どんな障害があろうとも手を取って支え続けてくれた一夏の存在があったからに他ならない。
その思いは、今も手を取り支え合ってくれている一夏の温もりとともにあった。
「あ゛ー、やっぱり落ち着きますわー」
「おいおい、そんな声出しちゃっていいのか」
留守中家のことを任せていたチェルシーからの報告を聞き、食事を終えてシャワーを浴び、あとはもう眠るだけとなった夜の時間。セシリアと一夏二人の寝室には、ベッドに飛び込んで普段からは想像もできないような声を上げるセシリアがいた。
一夏はそんなセシリアの様子を苦笑しながら見つめ、部屋の明かりを薄暗く落としてベッドに歩み寄り、腰を下ろす。
セシリアはもぞもぞと動いて枕を抱え込み、ベッドの沈み方から一夏が近づいたのを感じながらも顔を向けすらしない。このレディは外では海千山千の老獪な各国の重鎮すら唸らせる完璧な淑女だが、こうして身内しかいない場では意外なほど無防備な姿をさらす。
「別にいいじゃありませんの、一夏さん。ここにはわたくしと一夏さんしかいませんわ」
「ま、それもそうか。……じゃあ、せっかくだし」
「ひゃんっ! い、一夏さん……?」
「久々に、マッサージもしてやるよ。疲れがたまってるだろうし」
「あ、あう……お、お願いしますわ……」
そして一夏は、無防備なセシリアに触れることを許された唯一の男。二人きりの寝室にて疲れたセシリアの体にマッサージをする権利など、世界中で他の誰も持っていない。
一夏のマッサージは心地よい。こうして背中を中心に体重をかけて筋肉を揉み解されていると、初めてこのマッサージを受けた臨海学校の夜を思い出す。
あのころ自分や友人達のしでかした恥ずかしい失敗の数々を思い出すと苦笑と共に若かったな、という感慨が浮かんでくる。そうやって楽しく思い返せる程度には、セシリアとて時間を重ねている。
もちろん、一夏と共に。
そんなことを思い出したら、ちょっと海に行きたくなってきた。
色々と抱えていた仕事はひと段落ついたわけだし、このあたりで一夏と一緒にしばらくバカンスに出るのも悪くない。そんなことを思いながら、マッサージの心地よさに浸っていた。
「んっ……はっ、ぁ……んふぅ」
「気持ちいいみたいだな。良かったよ。……それじゃあ、セシリア」
「ふぁい……なんれすの?」
「どこか、凝ってるところはないかな?」
「ひぅっ!?」
その言葉と共に、これまで背中を重点的にマッサージしていた一夏の手が、にわかにセシリアの体を下る。
するりと体のラインをなぞるように落ちて、太腿へ。掌全てを押し付けてゆっくりと揉みほぐす力加減は絶妙で、なんだかんだと立ち歩くことが多かった体から疲労を追いだしてくれている。
だが、この一夏の触り方と、声のトーンと、耳元でささやかれたからこそわかる吐息の熱さ。それらが酩酊状態にあったセシリアの意識を引きあげて、心臓の鼓動を早まらせた。
「凝っているところ……ですか?」
「そう。どこか、ないかな」
うぅ~、と唸って枕に顔をうずめるセシリア。
残念なことに今のセシリアにこの問いに応えないという選択肢はなく、一夏は一夏でセシリアが何と答えるかを分かった上で聞いている。そのことに苦悩するセシリアの反応まで承知の上で敢えて口にして楽しんでいるのだから……本当に、いけない人。
セシリアは思わずにはいられず。
「そ、それでは……」
「うん」
セシリアは、どこが凝っていると答えたのか。
それはまあ、二人より他に知る者はほとんどいないだろう。
一体どこをどうやってどのくらい、ほぐされたのやら。
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もやもやもや
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「よしっ、酢豚一丁、麻婆豆腐一丁、チャーハン、餃子上がりっ」
「はいはーいっ、お待たせしましたー!」
平日の昼時。
日々の務めに励む学生や社会人にとっては憩いのひと時たる時間帯であるが、一方そのとき空腹を満たす術を求めて待ちを彷徨う彼らをこそ商売相手と頼む飲食業においては、一日で最も忙しい一時となる。
それは、この店においても変わらないようだ。
さして広くはない店内。厨房を囲むようにカウンター席が連なり、その脇にボックス席がいくつか。20人も入れば一杯になるであろうその店は、町の片隅で営まれる中華料理屋。
昼食時になれば毎日多くの常連客が詰めかけて、もうもうと上がる湯気のなか作り上げられる料理の味と量に客は舌と腹を満たされ、午後を戦う力の源を得ている。
そんな店を切り盛りする、二人の若い男女。
それこそが、一夏と鈴であった。
「一夏っ、次ラーメンとタンメンとチャーシューメンね!」
「あいよっ、代わりにホイコーローと肉野菜炒め定食上がったぞ」
「オッケー!」
厨房の中、大火力のコンロの前で鉄鍋を豪快に振るって次々と料理を仕上げる一夏と、小柄な体で店内を舞うように行き来して客に料理を届ける鈴。二人の息はぴたりと合わさり、一夏の料理の腕と並んで鈴の明るく元気な姿がこの店の売上に貢献する割合も、決して小さくないだろう。
IS学園において波乱万丈の学園生活を過ごした一夏と鈴は、なんやかんやあって結局こうして二人で中華料理屋を営むことになった。
二人にとって馴染みのある土地で店を構え、幸運にも客に恵まれ送る日々はとても楽しく充実していて、二人でこの道を選んで良かったと、言葉はなくともわかりあえていた。
……まあ、とはいえ鈴のほうは不満がないわけではなく。
「一夏さんっ、お次餃子セットと中華丼、お願いしますっ」
「わかった、蘭! あ、あっちの卓片づけてくれ」
「はーい!」
「……」
何故か一夏と自分二人の店に当たり前のよーに手伝いに入っている、五反田蘭の存在とかがあったりする。
若い二人が店を出すにあたっては数多くの問題があったが、そのうち大部分を一挙解決してくれたのが、二人にとっての顔なじみである五反田家の面々であった。店舗から調理器具に至るまで、用意するための伝手や当面の資金の工面など、それはもうあの家族はありとあらゆる面で手を貸してくれた。
もはや頭が上がるはずもなく、だからこそ五反田食堂にも近いこの場所に店を構えることに一度は遠慮をしたのだが。
「はっ、何言ってやがる。そういうセリフはせめて商売敵になれるくらい客集めてから言いやがれっ」
と、厳さんに一笑に付されてしまった。なので一夏と鈴はその恩に報いるためにも日々懸命に仕事に励んでいるのだが……何故か蘭がたまに店に混じってくる。
初めのころこそ「てっ、敵情視察ですっ」などと一応の理屈をつけていたのだが、気付けば忙しい時間帯の店を手伝うようになり、いまや普通に注文を取ったりして鈴と人気を二分する看板娘となりつつあるのだ。
しかも一夏自身は気付いていないが、蘭が時折一夏に向ける視線の熱さといったらない。
だからこそ、鈴と蘭の間では昔と変わらず今も激しい目線の火花が散ることがあるのだった。
「ふぅ……今日も終わったわね」
「ああ、厨房の片付けも……よしっ、終わりだ」
今日の営業を終えて。
くてりとカウンターに突っ伏す鈴と、それこそ鈴と初めて出会った頃から今も続いている主夫気質できっちりと厨房を掃除していた一夏。二人の店は当初の予想以上の人気を博し、のれんを下げるころになると鈴は毎日くたくたになっている。
だがそれでもこのとき感じる疲労は充実したものだし、こうして毎日決まった席から一夏を眺めるようになった習慣が嫌いではない。中華鍋を振るって逞しくなった腕や、額の汗を拭う仕草。そんな何気ない一夏の様子の一つ一つが、鈴の心に響くのだ。
「さて、それじゃあそろそろ上がるか」
「ん……そうね。よいしょ……っと。って、にゃああっ!? 一夏!?」
「おっと、あんまり暴れるなよ」
だが。
なぜ一夏はカウンターの席から下りて店の奥の自宅に入ろうとした鈴をひょいとつまみ上げ、あまつさえお姫様だっこの体勢に入っているのであろうか。
「あ、暴れるなって、何するつもりよ!」
「何って……鈴と一緒に風呂入ろうと思って」
「なっ、お、お風呂ですって!?」
「ああ、今日はなんだかたくさん汗かいてさ。せっかくだし背中流してくれよ」
「いいいい、いきなり何言ってるの! 一人で行ってきなさいよ!」
「えー、別にいいじゃないか。今さら恥ずかしがることもないだろ」
「言うなっ!」
理由を聞かされたところで、それは到底納得できるものではなかった。
しかし、こうなった一夏が鈴の言うことを聞いてくれた試しは一度もない。事実これまでもこうやって風呂やらベッドやら連れ込まれた経験が皆無というわけではなく、その度に経験したことを思えば自然と頬が赤く染まっていく。
一夏にしてみれば今もってツンデレ気質の抜けない鈴を上手いこと扱う為の手管であり、最近ではむしろ楽しみになってきているのだが。
「よし、鈴も了承してくれたみたいだし、さっそく行くとするか」
「だ、誰がよっ!」
などと文句を言いつつも、終いには一夏の首に腕をまわしているのだから世話がない。鈴はそのまま猫のように縮こまり、お姫様だっこで運ばれていく。
こんな二人の様子を見る者がいないのだけが唯一の救いだったろう。
後日「猫をお風呂に入れてあげたんですか?」とご近所さんに聞かれて狼狽する未来を、鈴はまだ知らない。
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もやもやもや
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よく晴れた日。
風にちぎられた雲が点々と浮かぶ空の下、草木の香りを含んだ風が綺麗に洗われた洗濯物をはたはたと揺らしている。
陽気の良い季節になった、と洗濯物を干したばかりの女性は空を見上げて思う。胸一杯に吸い込んだこの空気。紛れもない、故郷の匂いだ。
「うん、洗濯完了だね」
満足げにそう呟くのは、シャルロット。祖国フランスに帰って家庭を持つに至り幸せを掴み取った、シャルロット・デュノアである。
シンプルなエプロン姿に、長く伸ばした髪をゆるく編んで肩から体の前に垂らしている姿からは、かつてのボーイッシュな気配ではなく純然たる女性らしさがあふれていた。
「お母さん、お掃除やったよ~」
「えっ、もう終わったの? すごいね、ありがとう」
しかもいまや、一児の母だ。
シャルロットから受け継いだ金髪に、父からもらった優しい瞳。可憐な見た目そのままに心優しく育っているこの娘は、最近家のことを色々と手伝ってくれるようになった。手取り足取りでシャルロットから料理を教わり、掃除や洗濯を手伝い、近所の子供達には頼りになるお姉ちゃんと慕われている、自慢の娘である。
「んふふ、早くお父さん帰ってこないかなあ。一杯褒めてもらうんだっ」
「……そうだね」
ただ、既にして将来が不安になるほどファザコンの気があるのはどうにかならないだろうか。子供の頃から「お父さんが喜ぶよ」と言えば途端に良い子になったこの子があと十年ほどして思春期を迎えたらどうなるのか。……夫が過去に築き上げた伝説的逸話の数々を身を以て知っているだけに、シャルロットは素直に喜べない部分があったりする。
まあ、それでも。
「ただいま、シャル」
「あっ……お帰り、一夏」
「お父さんっ、おかえりー!」
こうして一夏と家族になれたことが幸せすぎて、気にもならないのだが。
シャルロットと一夏がIS学園を卒業すると同時に、デュノア社との関係に決着をつけた。仲間達の力と人脈を借りて奔走し、半ば駆け落ちのような形で今に落ち付いてはいるのだが、それでもかつての友人達はヒマを見ては遊びに来てくれるし、不幸になった人はいなかったから良いのだろうと、シャルロットは思う。
「ほらほら、スープ零れちゃうよ」
「んんーっ、危ない危ない。ありがとうお母さん。……って言ってる傍からお父さんもこぼしそうになってるっ」
「お? ……おおっ!?」
「あああああ、一夏動かないでっ」
夕食の席を囲むのは、家族三人。決して広い家というわけではないが、だからこそ家族がいつも一緒にいられるため、シャルロットはとても気に入っている。初めて一夏とこの家を見たとき、こんなところで子供と一緒に楽しく過ごせたらと思った夢が正しく叶ったのだ。うれしくないはずがない。
まあでも、唯一不満を上げるとするならば。
「ごちそうさまっ。ねえねえお父さん、またお話してー」
「ああ、いいぞ。えーと……絵本でも読むか。『なまえのないかいぶつ』」
「わーいっ」
「一夏、それは絶対にダメ。……真宏だねっ、こんな物を持ってきたのは! 『おとうさんはウルトラマン』の表紙をすり替えただけだけどっ」
いまやすっかり「お父さん」になった一夏が娘にばかり構っていることくらいだろうか。
「だからぁ~、一夏はもうちょっと私のことも構ってよ?」
「わかった、わかったから落ち着こうな、シャル」
「落ち着いてるってば~」
そんな不満を表に出すようなシャルロットでは当然ないのだが、夜になり娘を寝かしつけ、一夏と二人でワインなど飲み交わすようになると話は別だ。
子供のころは酒類に特別の感慨を抱くこともなかったが、シャルロットは存外酔いやすい。飲もうと思えばいくらでも飲めるのだが、その割に酔いが回るのは早く、その度にこうして一夏に絡んでしまっている。
一夏は一夏で、普段何かと他人を立てて自分を控えるところのあるシャルロットが本音をさらけ出してくれているのだからと厳しく言う気になれず、いつも彼女が満足するまで付き合っているのだから、まあ良い関係なのだろう。
「ん~、でもさ、一夏」
「どうした?」
ワイングラスを片手に、ソファの隣に座る一夏にぴったりと寄り添い、頭をこてんと肩に乗せる。室内の明かりを透かして輝くワインの色は美しく、見ているだけで心の底まで透き通るようだった。
……端的に言うと、本音ダダ漏れになるということなのだが。
シャルロットは視線を転じてすぐそばにある一夏の目を見上げる。
なんだかんだと長い付き合いになりつつある一夏は、今やこんな状況でも照れたりすることなしに優しい眼差しで見つめ返してくれる。そのことにきゅんと胸の鼓動を高鳴らせながら、シャルロットは理性のブレーキング一切なしに思いの丈をぶちまけた。
「……子供、もう何人かいてもいいと思うな」
「…………」
んふふ、とこらえきれずにこぼれた吐息は笑い声となり、言ったはいいものの少し恥ずかしくなったのか一夏の方に顔をうずめてぐりぐりと押し付ける。
だから一夏がどんな表情で自分の言葉を受け止めているのか、シャルロットは分からない。
しかし心配はいらない。
「シャル」
「なぁに、一夏」
「……俺もそう思う」
「ん……嬉しいよ」
そっと手に持ったままだったワイングラスを取ってテーブルに置き、ソファに体を押し倒してくる一夏の行動こそが全ての答えだ。
将来的にこの家が何人家族になろうと、不思議はあるまい。
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もやもやもや
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「隊長、本日決済を頂く予定の案件です」
「わかった、報告を頼む」
かつかつかつ、と規則正しい靴音が基地の廊下に木霊する。
歩いているのは三人の軍人。しっかりと軍服を着こなし、先頭をきって歩く小柄な女性につき従うようにして有能な女軍人といった風貌の女性が次々と報告をして、二、三言のやり取りで瞬く間に仕事を処理していく姿が見られた。
「……はい、承知しました。それではラウラ・ボーデヴィッヒ隊長、ありがとうございました」
「うむ、クラリッサ。よろしく頼むぞ」
別れ道に差し掛かり、ラウラが決定した案件の数々を実務としてこなすため、かつてシュヴァルツェア・ハーゼに所属していたころから彼女の副官を務める女性、クラリッサ・ハルフォーフが敬礼をして、ラウラも答礼を返して別れていった。
そっけなくも感じられるこのやり取り。これまで幾度となく繰り返してきたことではあるが、お互いに深い信頼を持つからこそ可能となる小気味いい応答だ。
「……はー、やっぱりこうして見ると軍人って感じだな」
「当たり前だろう。私を誰だと思っているのだ、一夏」
そして最後の一人、ラウラにつき従っていたこの場唯一の男性が、一夏であった。
ラウラと同じ黒を基調とした、しかし男性用の軍服を身に付けた一夏はどこか軍人らしさというものが希薄ではあるが、それは仕方がない。ラウラやクラリッサと違い、軍に所属するようになったのはほんの数年前からなのだから。
IS学園在籍時に経験した数々の事件。
それらはどれ一つとっても大事件と呼ぶにふさわしいもので、事件の渦中にいることも多かった一夏はその経験から誰かを守るために力を使いたいと願い……それと同じくらい強く、ラウラとずっと一緒にいたいと思ってくれた。
そう聞かされたラウラは一夏の想いに応えるため、彼に自分の持てる全ての知識と技術を伝授した。その甲斐あって、今ではこうしてラウラの副官を務められるほどのものとなっている。
一夏を伴って軍隊へ復員した後、世界的に色々あったため大規模な組織の改変が行われてどたばたした結果ラウラの地位は著しく上昇。どういうわけか超国家レベルの治安維持軍事組織のかなり上位の権限を得るに至った。
当然その責務は重く日々多忙を極めてはいるが、今のラウラに不可能なことではない。一夏やクラリッサ、かつてのシュヴァルツェア・ハーゼの仲間達が支えてくれているのだから。
一夏を従えて基地内を視察したのち、ラウラは自分に与えられた執務室へと帰ってきた。未だ自らの訓練と部下への教導は欠かさないが、それでも地位に伴い処理すべき案件は飛躍的に増え、多くをクラリッサ達に任せているとはいってもこの自室にてすべきことは多くある。
重厚な扉を開き、執務机や書類棚など最小限の設備が品よく備えられた自室に一夏と共に入り、そこでラウラは歩みを止めた。
「……ラウラ?」
「一夏。……確認なのだが、この部屋の防諜体勢はどうなっている?」
「ん? あー……。俺の知る限り、完璧だよ。盗聴も盗撮も侵入も狙撃も、される心配はない」
そして背を向けたまま一夏に問いかける。
表情は見えないながらも一夏は声音がわずかに変わったことを察し、上司たるラウラが気にしている「防諜」をより完璧なものとするためしっかりと扉を閉じ、鍵をかけ。
「そうか」
「おっと」
そう一声かけるなり自分の胸に抱きついてきたラウラを、そっと受けとめた。
「ん……癒されるな」
「まったく、ラウラの二つ名はドイツの冷氷じゃなかったのか?」
「知らん。仮にそうであったとしても、一夏は私の嫁だからいいのだ」
ぐりぐり、と軍服の胸元にラウラの額が押し付けられ、綺麗な銀髪がさらさらと揺れるので一夏はそっと頭を撫でてやる。
なんだかんだで二人きりでいることは多いものの気は抜けない軍人稼業。こうして極めてプライベートの保守性が高い自室を与えられたラウラがどれほど喜んだことか、知っているのは一夏とクラリッサくらいのものであろう。
「はふぅ……一夏、一夏ぁ」
「はいはい、今日はちょっと時間があるから、たっぷり甘えてくれていいぞ」
「本当か!?」
一夏の言葉に驚いたように目を丸くして、また改めて一層嬉しそうに抱きついてくるラウラ。よく懐いた猫のようなその仕草を見せてもらえるのは自分だけだという優越感が一夏の心をくすぐり、ますます可愛がりたくなってしまう。
しっかりしたところもある一方で、ラウラはこのように極めて甘えん坊なのであった。
「なあ、一夏」
「どうした、ラウラ?」
じっと立ったまま一夏を堪能していたラウラが、顔を離して一夏の瞳を見上げてきた。
IS学園時代から数年経ってはいるものの、ラウラの成長以上に一夏の背が伸びたため、ラウラはどうしても一夏を見上げるようになってしまう。
そのこと自体は、いい。こうして一夏の腕の中にすっぽり収まることのできるのは嫌いではない。
だがそれでも困ることはある。
「ん……」
「……ああ、わかったよ」
たとえば、こんなとき。
握った一夏の服を少し引くとそれだけで思ったことが通じて、一夏はその場に膝をつく。
これでラウラと身長がぴったり……ということはさすがにない。今度は一夏の顔のほうがラウラよりも少し低くなるが、むしろ好都合。さっきまで掴んでいた一夏の服から手を離し、そっと頬にそえる。
部隊の女性隊員とは違う、はっきり男とわかるたくましさを指先に感じ、ラウラは自分の瞳が熱を帯びるのを感じた。眼帯をしているのがもったいないと思えるが、たとえ両目を閉じていても一夏を感じられるこの距離で敢えて外すのは無粋だろう。
言葉はなくとも通じ合う心のまま、一夏とラウラはゆっくりと顔を近づけ。
「あ、そうそう」
「むぅ……今さら何だ、一夏」
「いや、さ。――この部屋、防諜だけじゃなくて防音も完璧だからな」
「な……ッ! んんっ!?」
そしてこれから二、三日の間、ラウラは本当にあの部屋の防音が完璧だったのかと基地内で不安な日々を過ごす羽目になったりするのだった。
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もやもやもや
◇◆◇
顔に感じる朝日の熱で、一夏は目を覚ました。
カーテンの隙間から入ってくる太陽の光は柔らかく、心地よい眠りの世界から優しく意識が引き上げられる感触は昔から嫌いではなかった。
今日は……のんびりできる日だったか。せっかくだからちょっと気合の入った朝食でも作ろうか、と寝ぼけ眼を擦りながらも体に染みついた主夫的な考えが脳裏をよぎる。
そのまま半ば無意識に体を起こそうとして……一夏は、なんか右半身が動かないことに気が付いた。
とはいえ慌てない。
ここ数年、もはやこれは慣れ親しんだ感覚だったからだ。
「あー……やっぱり。ほら、そろそろ起きてください、楯無さ……んっ!?」
「んん~?」
それすなわち、楯無が同じ布団の中で一夏の右腕を抱きしめるようにして寝ていたからだった。
……まあ、今日は何故か楯無の格好が尋常ではなく、あからさまにワイシャツ一枚以外何も身に付けていなそうな見た目と感触だったのだが。
「ちょっ……! な、なんですかその格好!?」
「ぁふ……。おはよう一夏くん。格好って……ああ、これ? いやー昨日は帰って来るの遅くて疲れちゃったから、とりあえず手っ取り早く着替えようと思ってこれにしたのよ」
「いや、帰りが遅かったの知ってますから。ていうか俺は帰ってくるのを出迎えて、夜食を用意して、寝間着も用意してあげて、それでいっしょに寝ましたよね?」
「あら、そうだったかしら?」
くすくすと笑う楯無に、一夏はかなわないなぁと思う。
更識家当主の名は伊達ではないことなど他の誰より知っている。
IS学園を卒業して以来日々忙しく過ごす楯無のパートナーとなったのは数年前のことで、学生という身分でいられる時期を終えた楯無が少しは大人しくなるかと思ったがさにあらず。彼女は今でもこんな様子で、自分をからかってくる。
たとえば、ほら。
「ん~~~、いい朝ねえ。……んふ、どうしたの一夏くん。そんなに目を逸らせて」
「イ、イイエナニモ……」
一夏の目の前でこれ見よがしに伸びをして見せたり、とか。
朝起きてすぐの行動としてはおかしなことがないのだが、真・裸ワイシャツ装備たる今の楯無がすると色々問題がある。具体的には、朝日の中で透けてしまいそうなほど真っ白い生地を盛り上げる楯無自慢の豊かな膨らみだとか、その先端部分が膨らみの曲線とはまた違った形を描いていることだとか。
目に入れば視線を吸い寄せられ、そこがどんな感触なのかまで思い出せてしまう一夏としては、目の毒だ。
「っていうか、それは俺のワイシャツじゃないですか。一体どうして……」
「だって、一夏くんのワイシャツのほうがサイズ大きくてちょうどいいんだもん。それに……んー、一夏くんの匂いがして落ち着くし」
さらには袖口を鼻に寄せ、息を吸い込んでうっとりとため息をつかれたりしたら。
一夏はもうどうしていいのかわからなくなる。
「……な~んてねっ。さあ一夏くん。それじゃあそろそろ朝ごはんを食べに……ひゃわっ!?」
わからないから、色々わかるようになるため行動を起こしてみようと思う。
まず手始めとして、ぴょんとベッドを飛びおりて部屋を出て行こうとする楯無を後ろから抱きすくめたり。
なんか普段聞けないような声も聞こえてきたが、それでも一夏は攻め手を緩めない。楯無相手に手加減などしていられないし、実はこういう方面だと案外打たれ弱い楯無に対して、珍しく絶好のポジションをゲットしたのだからして。
「ちょっ、一夏くん、何するのよ!?」
「いやなに、そのワイシャツを洗ってアイロンかけて畳んでるのは俺ですから、本当に自分の匂いなんてついてるのか気になって。くんくん」
「やぁっ、に、匂いなんてかがないでよ~」
もぞもぞと楯無の体は動くが、全て一夏の腕の中でのこと。今さら逃がしなどするものか。
「やっぱり、楯無さんの良い匂いしかしないな。……こっちならどうだろう。すんすん」
「なっ、そこは髪の毛っ! 鼻埋めないで……って、ひぁ!」
すううう、と。思いきり一夏が息を吸ったのに合わせて楯無の背筋をぞくぞくとした震えが走る。抑えようにも抑えきれないその衝動の発生を持って既に勝敗は決した。敗者はもはや虚しい抵抗しかできることなどありはしない。
「も、もうっ、一夏くん。本気で怒るわよ!?」
「そうなんですか? ……でも、楯無さんだってこんなにドキドキしてますよね?」
「きゃふんっ!? ど、どこ触って確かめて……ぁんっ」
その後楯無がどこからどこまで匂いを嗅がれてしまったのかは、言わぬが花でありましょう。
◇◆◇
もやもやもや
◇◆◇
「今帰ったぞ」
いつも扉を開けるとホッとする。そんな家に帰ってきた。
玄関を開け、声をかけ、上がり段に荷物を置く。もう何年となく繰り返したこの行動は体に染みついて、自然と心の動きもそれに沿った物になる。
千冬はこうして家に帰ってきたと実感すると、本当に安心するのだ。
なにせ彼女はかつて世界最強の座にあったIS操縦者。世界中で頻発していた問題やら紛争やらも一夏がIS学園に在籍していた時代に起きた数々の事件を経て収まり、安定に向かい始めたこの時代。平時に勇者が必要とされなくなるように、千冬もまた剣を振るって人々の注目を浴びることは無くなった……のだが、ヒマかというとそうでもない。
なにせ束の盟友であり、ISについても初期の開発段階から色々と見聞きしていたのだ。その知識と経験に触れたいと思う者は昔から多く、結果として築き上げられた人脈やらなにやら。戦場とはまた別の分野においても、千冬は余人をもって代えがたい存在となっていた。
ゆえにいまでも千冬は多忙な日々を送っている。誰かに戦い方を教えるようなことは後進に譲っているが、今度は人と会い、話をし、時には別の誰かと引き合わせるなどといったことを何度となく繰り返している。性に合わないことこの上ない。IS学園で教師をしていた頃の方がまだ気楽だったと思うことは日に何度となくある。
実のところ、今このような状況になって初めてワカの苦労がわかった。……あいつは今でも部下にあらかた仕事を放り投げてフリーダムに生きているらしいが、正直なところ見習いたい。
だが、それも。
「お帰り、千冬姉。今日もお疲れ様」
「ああ、ただいま。一夏」
こうして一夏が出迎えてくれればすぐに吹き飛んでしまうのだが。
見るがいい。これぞ織斑家標準装備の好青年、織斑一夏のエプロン姿である。
夕飯の支度をしている最中だったのか、シャツにジーパンというラフな格好の上に男物らしい単色のエプロンをつけ、IS学園にいた頃よりさらに伸びた身長と鍛えられ引き締まった体付きをした一夏が、笑顔で出迎えてくれるこの喜びよ。千冬にとっては耐えがたいものがある。
元々千冬の負担になることを嫌い、当初は学費が安く就職にも有利という私立高校に入学しようとしていた一夏であるのだが……学園を卒業後、何をどう考えたのだか開き直り、主夫業に専念すると言い出した。
色々な事情が片付き、千冬が危険なことに首を突っ込まなくてよくなったことも関係があるだろう。いずれにせよ一夏はこうして家を守り、毎日仕事から帰ってくる千冬を出迎え、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるようになったのであった。
休みの日に一夏と二人で日用品の買い出しに行くと、出くわした近所の奥さまに「あら、ようやく結婚したの?」などとニヤニヤした顔で言われたこととて一度や二度ではない。一夏がIS学園にいた頃に彼を取り巻いていたヒロインズでもないので千冬がその程度で取り乱すことなどあり得ないが、内心どんな感情が渦巻いたかは一夏にすら知らせるわけにはいくまいて。
まあそんなわけで、今日も一夏は絶好調。鞄を取って上着を受け取り、千冬のことを精一杯にねぎらった。
「ちょうどよかったよ、もうすぐ夕飯できるからちょっとだけ待っててくれ」
「ん……ああ。わかった」
台所に戻っていく一夏の足取りは軽い。
リビングに視線を転じてみれば床にはホコリもなく、テーブルの上にはきちんと食器が並べられている。整理整頓の行き届いた家はただそれだけで安らぐに足る空間となっているのであった。
そんな風にしてくれる一夏を見て……しかし、千冬は罪悪感にさいなまれることがある。
「一夏」
「ん、どうしたんだ?」
「……すまない」
「…………」
何に対しての謝罪なのかは、実のところ千冬にもはっきりとはわからない。しかし、千冬の力になりたいと、守れる強さが欲しいと望んでいた一夏がこうなったのは自分のせい以外ではありえまい。
男の本分を全うするべきだなどと古臭い考えを言うつもりはないが、それでも一夏はこんな日々に満足しているのだろうか。どうしても、そう考えてしまう。
「……」
「千冬姉」
ぐるぐると深みへ沈む思考に引きずられていたか、一夏がすぐそばまで近づいていたことに気付かなかった。だが千冬は一夏の顔を見られない。ある種の意地にも似た気持ちが、そうすることを阻んでいた。
しかし、そんなときはいつでも。
「大丈夫だよ」
「ん……」
こうして、一夏が抱きしめてくれる。親愛の情を込めた、優しい優しい抱擁だ。
「何度も言ってるけど、心配はいらない。俺はこうしていられるのがすごく幸せなんだよ、千冬姉」
「そう……だな。お前はいつもそう言ってくれる。それはわかっているのだが、な」
刀を握れば、今でも世界の誰にだって負ける気はしない。
だがそれでも千冬は、一人の年若い女性にすぎない。家族のことを大事に思い、自分こそが弟の枷になっているのではないかと悩むこともあるのだ。
ずっと二人きりの家族として過ごしてきた一夏には、そんな気持ちも伝わってしまう。……それがどうやら、一夏的には不満だったらしい。
「う~ん、しょうがないな。……こうなったらっ」
「む? うわっ、一夏何をする!?」
「や、ちょっとね」
くるりん、と立ち位置を入れ替えるように動く一夏。巧みな重心移動は虚を突いてきたこともあり、千冬をしてたたらを踏ませ、壁に背中を押しつけられてしまった。
しかも一夏はそんな千冬の逃げ場を封じるようにすぐ目の前に立ってくる。
ヤバい、マズイ。何となくそう感じた千冬は咄嗟に手を上げ一夏を押しのけ……ようとして、失敗。
中学時代と違い、なんだかんだでIS学園卒業後も鍛錬を続けていた一夏はひょっとすると学生だったころ以上の実力を身に付けているのだ。
手が上がりきるより前に掴み止められ、そのまま壁に押し付けられる。
「俺は今でも十分幸せなんだけど、千冬姉は信じてくれないみたいだからさ」
「だ、だからどうするというのだ……っ」
無論、それでも千冬が本気を出せばなんとか振り払うことはできるのだろうが。
「ちょっと、幸せのおすそ分けを」
「なっ……! 待て、待て一夏! わかった、お前が幸せなのは十分わかったからっ!」
「だーめ。……昨日分けてあげた分だけじゃ足りないみたいだし、今日はもっと念入りにね」
「待てというにいいいいいっ」
その叫びがどこかまんざらでもなさそうなところからすると、おそらく逃げ出すことはかなわないだろう。
さて、千冬はどれほどの幸せを分けてもらったことなのやら。
◇◆◇
もやっと
◇◆◇
さらさら、と吹きわたる風が砂の飛び散る音に変換されている。
耳をすませば太陽に照らされた熱砂の焼ける音すら聞こえてきそうな、陽炎歪む灼熱の砂漠のど真ん中。あらゆる命の生存を拒むこの地に、しかし今極めて場違いな存在があった。
一機は、ギラギラと燃える太陽に照らされてなお眩い白の装甲を持つIS、白式。片手に携えた雪片弐型が秘めたる一撃必殺の力、零落白夜はここへと至るまで何機ものISを撃破してきた、搭乗者・織斑一夏が最も信頼を置く愛刀だ。
もう一機は、太陽の光よりも熱い魂をその身に秘めたるフルスキンに近い装甲過多なIS、強羅。この機体を操る神上真宏の心は、一夏と同じ舞台に立つまでに踏み越えてきた数々の激戦を思って震え、ワンオフ・アビリティたるロマン魂が莫大なエネルギーを生み出している。
サハラ砂漠中央付近。周囲100kmに渡ってあらゆる人と物の侵入が禁止されたこの地は、当代最強のIS使いを決めるモント・グロッソ総合決勝戦の会場。
そして対峙する一夏と真宏は、女性しか使えないはずのISを操縦できる世界でたった二人の男にして……今は世界最強を争う二人でもある。
様々な紆余曲折を経て、国際IS委員会による何十時間に及ぶかわからない会議と真宏達のバックアップについた蔵王重工代表たるワカによる砲艦外交(割と文字通りの意味で)が功を奏し、一夏と真宏がモント・グロッソに出場できるようになったのは二人にとって幸運だった。
そして、お互い各国代表達との激戦の全てで勝利を飾り、こうして世界一を決める場で再び目の前の友とあいまみえることができたのは、言葉にできないほどの喜びだ。
「そういえば、真宏と戦うのも久しぶりだな」
『ああ。まして、周りを気にせず本気を出せるのなんてなおのこと、な』
この二人の激突には、たとえモント・グロッソ用のアリーナとて耐えられない。そう判断されればこその戦場だ。この試合の様子は遥か彼方でハイパーセンサーを通して見守るISと、天頂に位置する衛星から監視され、世界に伝えられることになる。
ISによる、世界最強の「男」を決める、この戦いが。
「さあ、それじゃあ……」
『始めようかっ!』
自分の方が相手より強い。そう考える男たちの間に多くの言葉は必要なく、ただ自らの行動を持って示せばいい。
ゴング代わりの号砲は、遥か遠くこの戦いを見守るIS操縦者達の耳にも直接届いたのだと言う。
二人の戦いは、激しく凄まじい。
強羅が放ったグレネードの爆炎が天を焼いて雲を消し飛ばし、長大に伸びた零落白夜が大地を割って砂の渓谷を作り出す。
高機動の白式と、重火力の強羅。二機による闘争はとどまることなく激化の一途をたどり、その攻撃の余波が周囲で観測を担当するIS操縦者達にすら身の危険を感じさせるレベルに至ったとき。
この戦いは、最終局面を迎える。
『ハッハァ! 楽しい、楽しいな一夏ぁ!』
「ああ、全くだ!!」
これまで一貫して大火力火器を扱っていた強羅が戦法を変える。背部の白鐡を分離して変形させ、その手の中でソードモードとなるのを見て、一夏もまた機動を停止。互いに真正面から同高度で剣を構えて向かい合う。
そして最後の爆発の残響が消え去ると、その場に静寂のみが残った。
固唾を飲んで見守る世界中の観客も、次の攻撃で一瞬にして決着がつくだろうということを理解した。これが本当の最後の戦いで、二人の決着をつける最強の一撃だ。
「……」
『……』
小細工などいらない。ただ真正面から、自分の全力を叩きつける。それが相手より強い方が勝つ。至極単純で、ゆえにこれこそ男の戦い。
砂漠外縁部に集った者達から地球の裏側まで、この戦いに注目する全ての男達は手に汗握って心を熱く燃やし。
女たちは久しく見なくなった男の力をその目に焼き付け。
これこそが本当にロマンある戦いなのだと、全人類が心に刻んだ。
そして。
「はあああああああああああああっ!!」
『おおおおおおおおおおおおおおっ!!』
決着が、付く。
◇◆◇
「「「「「「「「ハッ!?」」」」」」」」
そして、その日その時。
一体いかなる奇跡が起きたのか、朝日が昇るのに合わせて八人はそれぞれ違う場所で同時に目覚め。
「「「「「「「「……夢オチ!?」」」」」」」」
と、叫んだという。
その後は、一体なんという夢を見ていたのかと頭を抱える者数名、余りに幸せな夢のよいんに浸る者数名、そしてさっきの夢の続きを見ようと速やかに布団にもぐりこむ者数名、いつかああなったら最高だぜ! と朝っぱらからテンションを上げるバカが一人。
なんにせよ、IS学園は今日も平常運転でありましたとさ。
◇◆◇
ところがもいっちょもやもや
◇◆◇
すっすっ、と掌の上に乗せた豆腐に包丁を入れる。このとき刃を引いたら自分の手が切れてしまうのだということは料理を教えてくれた姉から聞いたので、慎重に。
そのまま温めた味噌汁の中に豆腐を入れれば、今日の朝食の準備は完了。あとは真宏が起きてくるのを待つだけだと、簪は笑顔でリビングを見まわした。
そこそこの広さのリビングと、使い勝手の良い台所。真宏と二人で決めたこの新居を、簪はとても気に入っていた。
挙式を終え、ハネムーンから帰り、まだ何日も過ごしていない家ではあるが、それでも既に愛着が湧いているのは一緒に住んでいる人が真宏であればこそだろうか。毎日があまりにも幸せで、簪の心臓がまた温かい鼓動を刻む。
まったく、まだこの心は落ち着いてくれないらしい。
もう、自分と真宏は結婚したというのに。
「ふぁあ~、む。ん、おはよう簪」
「あ、おはよ。真宏」
一人でそんなことを考えているうちに、真宏が起きてきた。まだ少し眠そうで無防備な様子は普段のテンションが高い真宏とはまた違った雰囲気で、彼にこんな一面があるというのは一緒に暮らすようになって初めて知ったことだ。
一緒に旅行へ行った時などは逆に興奮して四六時中いつも通りだったが、こうして自然体の姿を見せてくれることも、簪は嬉しかった。
「お、今日も朝飯美味そうだな。ありがとう」
「ん……どういたしまして」
朝食の用意を自分がしたい、と言い出したのは簪だった。
幼いころから家事をしてきた真宏の料理の腕にはまだ敵わないところがあると自覚する簪であるが、おいしい料理を食べてもらいたい気持ちならば負けてはいない。だから姉に頼んで料理を教えてもらい、その他家事全般も含めてばっちり花嫁修業はしてあるのだ。
正直はじめて朝食を作った日はどこぞの海だか山だかわからない美食な人の息子のように難癖付けられたりしないかと不安でもあったのだが、別にそんなことはなかったので安心した。
ともあれ、二人で朝食を取る。
今日は二人とも休みだからさして急ぐ必要もなく、軽い談笑を交えながらのひと時。これまでも何度か繰り返してきたが、これからもずっと続けて行けるのだと思うと自然に簪の口元に笑みが浮かんだ。
もっとも、ここまでゆっくりできるのはそうそう長い間のことではない。
なにせ真宏と簪はこれでも専用機を持つIS操縦者。特に簪は打鉄弐式の開発とその後の改良が高く評価されているため開発者としても引く手数多であり、蔵王とか倉持とか蔵王とか倉持とかから熱烈なラブコールを受けているので、これから忙しくなりそうだ。
本音を言うと、もうちょっと真宏の奥さんとして主婦をしてみたい、とも思うのだが。
「なるほど、確かに。……正直俺も簪が家で待っててくれるというシチュエーションは大変萌えるな」
「も、もう……っ」
真宏にも言ってみると、同意こそしてくれたもののやたら恥ずかしい返事が返ってきた。この人は今でも極めて素直なのだが、素直すぎて時々困らせられてしまう。
……まあ、そういう簪自身照れながらも笑ってるあたりいかにも新婚らしいのだが。
しかし、もう少し主婦でいる……というのは割と魅力的な考えだ。IS関連の仕事も決して嫌ではなく、まだまだ研究したいこともたくさんある。だが真宏のことはもっと好きだし、お嫁さんになるのはヒーローになるのと同じくらい簪の夢でもあったのだから、難しいところなのだ。
せめてもうちょっと、なんとか家で主婦を堪能する方法はないものか。
……と考えて、簪はティンと来た。
「あ……」
「どうした、なんか方法思いついたのか?」
「……うん」
そして、真っ赤になって俯いた。
名案ではあると思う。至極合法的に主婦を続けられる方法で、なおかつ誰も不幸になることなくむしろ祝福されるだろう、一石二鳥では効かないようなたったひとつの――でもないと思うが――冴えたやり方である。
「俺も手伝えることか? だったらなんでもするぞ」
「真宏も……手伝えるよ。手伝って貰わなきゃできない。真宏でなきゃ……ダメ」
なのだが、さすがに……少々恥ずかしい。
繰り返すようだが、何も問題はない。今の簪と真宏であるならば自然なことでもあるし。
しかしなんの感慨もなく口に出せるほど軽いことでもないわけで。
真宏ならば受け入れてくれるだろう。自分に自信がない簪でもそう信じられるだけの愛を真宏は注いでくれている。
ならば伝えるべきだろう。
主婦を続けたいということ以外にも、簪のもう一つの望みをかなえられる、その方法を。
「あ……あの、ね」
「うん」
「も、もうちょっと……私が主婦を続ける方法、は……」
「うんうん」
一度きゅっと目をつぶり、精一杯の勇気を込めて顔を上げて真正面からのぞきこんでくる真宏に、こちらもまっすぐ目を合わせ。
「さ……」
「さ?」
「産休……」
「ぶふぅっ!?」
二人して真っ赤になって、その日の朝を過ごしたのだという。
ちなみにこの後、簪は思う存分主婦を堪能してから仕事に出るようになったりするのだが。
◇◆◇
「……ん、ん~。なんだろう……すごく、いい夢を見た気がする」
余談であるが、簪はこんな感じでこの日見た夢のことをなんとなくしか覚えていない。
……が、数年後似たようなシチュエーションで似たようなことを口走ってデジャブを感じて思いだし、夢の中よりもさらに赤くなって狼狽することになるのであった。
◇◆◇
隠れもやっと
◇◆◇
「ん、んふぅ……」
長年メガネを着用していた習慣で、朝目が覚めるとまずいつものところに置いたメガネを探るのが、山田真耶の習慣だった。
ベッドの頭寄りにおいた棚の上にあるから、寝転がったままでも手を伸ばせば……。
「はれ?」
ない。
さて、どうしたことだろう。いつも必ずここに置いておくのに今日に限って見つからないとは。
仕方ないなあと思いつつも、真耶は体を起してメガネを探す。少々目を細めてきょろきょろと探し、ベッドの脇にあるテーブルの上に置かれているのを見つけた。ああなんだこんなところに。少々はしたなくもベッドの上から体を伸ばしてメガネを手に取った。
そういえば、と思い出す。昨日は久々に大分お酒を飲んだのだった。大分酔ったから、そのせいでいつもと違う場所においてしまったのだろうと納得しながらメガネをかけ。
「……知らない、天井です?」
なんか、見覚えのある自分の部屋とは明らかに違うところにいた。
「へ? あれ? 一体どういう……って、私なんで裸!?」
しかもメガネをして初めて気付いたが、シーツがはらりと落ちた下から現れたのは一糸まとわぬ自分の体だった。なんかここ最近疲れることが多かったのに妙につやつやしている気もするが。
「え、なに? 何が起きたの……?」
何が何だか分からない混乱状態ではあるが、とにかく事情を思い出さねばならない。既にして何かしら取り返しのつかないことをしてしまったよーな気もするのだが。
「えっと……昨日は確かお酒飲んだんですよね、久しぶりに誰かに会って。なんだかすごく楽しくて、ついついお酒が進んじゃってべろべろになっちゃって。……確か、そのまま家に帰れないくらい腰砕けになって相手の家に連れて来て貰って介抱された、んですよね」
ついさっきまで寝ぼけていたこともあってすっかり忘れていたが、段々と思いだしてきた。うん、確かに昨日は楽しかった。会いたいと思っていたこともあって話が弾み、もう少しあとちょっとと引きとめて付き合わせてしまったのだ。悪いとは思ったのだが甲斐甲斐しく世話もしてくれたし幸せだなーと思って、酔い潰れた勢いに任せて家に上げてもらったのだ。
……ばったり会って食事をして、その後酒にまで付き合わせてしまった、一夏の家に。
「おはようございまーす……。あ、起きたんだ」
「ひゃわあああああっ!?」
「うおぅ!?」
そこまで思い出したタイミングを見計らっていたかのように、一夏が部屋に入ってきた。
声に驚いたのは無論のこと、自分がどんな格好をしているのかも思いだして思わずさっきまでかぶっていたシーツに虫のようにくるまってしまう。
一夏から見れば、ベッドの上に突如布団饅頭が現れたように見えていることだろう。
「お、おおお織斑くんっ」
「あ、あー。二日酔いとかは大丈夫みたいですね。一応、コーヒーです」
そう言って一夏がコトリとコーヒーの入ったカップをテーブルに置いた。
真耶の様子に呆れてだろうか、顔には苦笑が浮かんでいるのだがこうして先に起きて色々している様子ということは、一夏なら多少は事情も知っているかもしれない。
……というか、既に状況証拠からして有罪確定な気もするのだが一縷の望みを託して、真耶は聞く。
「あ、あの……織斑くん。私、どうしてここに……」
「やっぱり覚えてないですか。昨日一緒に食事して、お酒飲んで、そのあと家に来たいって言うから連れて来て介抱してそのあとは……まあ、ご想像の通りで」
「ぁううううっ!?」
断罪、である。
一夏にそんな意図はないのだが、それでもやっちまった感が凄まじい。
というか、言われて段々と思い出してきた。
ここ最近色々不満やらストレスやら溜まっていたところに偶然出会った一夏。酒の勢いも手伝ってやたらと楽しくなってしまい、しかもまあ……なんというか真耶もまだまだ若いわけで、溜まる物は他にもあったりする。
IS学園を無事卒業したからにはもう教師と生徒の間柄ではないという言葉が自己暗示のように脳内で鳴り響き、調子に乗って押し付けたり擦ったり啄ばんだりして自分から誘惑してしまったような。
しかもその結果として、熱さを押し付けられたり優しく擦ってもらったり激しく啄ばまれたりしたよーな。
よくよく見ると、一夏もどこか気だるげな様子でシャツの前ボタンがいくつか空いて胸板が見えてる。あーやっぱり織斑くんも男の子だけあって胸板厚くて逞しいんですよねーとか、昨日たっぷりその感触を堪能した記憶が蘇った。
ほわ、と胸の奥が暖かくなる。信じられないくらい幸せだったなーと顔がふにゃりと笑みの形になり……しかしぶんぶんと首を振る。
何を考えているのだ自分は。しでかしてしまったことを考えろ。
一夏に、元教え子に一体なんということを……っ。
「お、織斑くん……ご、ごめんなさいっ」
「いやいや、謝ってもらうことなんてないですよ。……その、俺だってしちゃったわけだし」
一夏の頬が赤くなるのを見て、布団の中から出した真耶の顔もまた赤くなる。
イヤだったわけではないし、どうやら一夏もそう思ってくれているようだが……何というか、一体どうしたらいいのだろうと未だ混乱冷めやらぬ頭は答えを出してくれそうもない。
そんな真耶にとって。
「だから山……じゃなかった、真耶」
「っ!」
昨晩そう呼んで欲しいと願い、何度も囁かれた自分の名前を一夏の口から呼ばれれば、もはや抗うことなどできはしない。
「昨日も言ったけど、改めて言います。真耶、俺は……」
「あ、織……一夏、くん」
きっかけはどうかと思う物であったが、それでも想いは本物だ。
そうであればこそ、この口付けはこんなにも甘いのだろうと、真耶と一夏は思うのだった。
真耶の罪に対する刑罰は、「終身刑」以外ありえまい。