ある人の墓標   作:素魔砲.

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目蓋越しの薄闇を見続ける事にも飽きて、綾瀬夕映はゆっくりと目を開けた。長時間閉じていた瞳はどことなくぼんやりと濁っているように感じる。目頭を揉み解し溜息をつく。何とか寝るための努力をしていたのだが結局無駄になってしまったようだ。気分が高ぶっているせいか、一向に眠気が訪れる様子はない。見慣れない天井に気怠い視線を送り、周りにいる者達を起こさないようにして立ち上がる。このまま横になっていてもどうにもならなそうだ。そう思い、なるべく音を立てずに教室の扉を開ける。そしてシンと静まり返っている廊下を歩きだした。

 

 

今から少し前に夕映は一度目を覚ましていた。

 

 

覚醒した直後は何が何だかわからずにぼんやりとしていたのだが、眠っていた脳が活動し始めるにつれて自分が置かれていた状況を思い出し、軽いパニック状態になった。引き攣った悲鳴を上げる夕映を落ち着かせてくれたのは、担任教師のネギだった。彼は辛抱強く現在の状況を説明し、今いる場所が安全である事や死んでしまったはずの和美や古菲達が実は生きていた事を夕映に教え、安心するようにと諭した。

 

彼らが助けてくれたんです。

 

そう言いながら紹介されたのは、見知らぬ金髪の美青年と聞きなれない言葉使いをした巨漢の男、そしてセーラー服姿の美少女だった。どうも彼らは横島の友達で、助っ人として麻帆良に連れてこられたらしい。

 

夕映の中に潜んでいたあの悪魔も彼らの手によって除去されたそうだ。こちらを気遣う様子で話し掛けてくるピートと名乗った青年の言葉に耳を傾けながら、夕映はしだいに気分を落ち着かせていった。

 

それからピート達は、眠ったままの和美たちが目覚めるまでの間はここに留まっている方がいいと告げて、外にいる者(どうやら彼らの指揮官らしい)と連絡を取るために席を外そうとした。まだ全てが解決したわけではなく、横島が一人で戦っているのだそうだ。状況次第では自分たちも彼を助けに行くのだと言っていた。その話を聞いてネギと小太郎が自分たちも連れて行ってほしいと訴えていたが、疲労を理由にやんわりと拒否された。何か分かり次第あなた達にも伝えに来ますから・・・。そう言い残し彼は教室を出て行った。

 

その後の事は・・・よく覚えていない。心身ともに疲労していたためか、それとも安堵のあまり気が緩んでしまったのか、意識を失ってしまったからだ。ただ眠りに落ちる直前に見たのどかの姿だけがひどく印象に残っていた。

 

夕映が再び目を覚ましたのは、それからしばらくした後だ。寝ぼけ眼で周りを見渡すと、いつの間にか部屋の明かりが消され、自分のほかに起きている者はいなかった。

誰もが思い思いの姿勢で眠りについている。周囲が優しい闇に包まれ、静寂の中で穏やかな寝息の音だけが聞こえていた。

 

誰かに話し掛ける訳にもいかずに、目を閉じて無理やり眠ろうと努力していたのだが結局意味はなかった。少し出歩くくらいはかまわないだろうと夕映はそこらを散歩する事にした。リノリウムの床を静かに歩く。

 

どこにでもある学校の廊下そのままだ。・・・少なくとも見た目だけは。

一定間隔で教室が並び、反対側には何故か先を見通す事が出来ない窓が階段の向こうまで備え付けられている。廊下全体が薄暗く、天井に設置されている蛍光灯は点灯していない。光源らしきものは見当たらないが、どういうわけか不都合にならない程度の明るさがある。少しだけこの場所について聞いていたが、妙に不思議な場所だった。

 

 

(・・・ちょっとだけ好奇心を刺激されますね)

 

 

許されるならいろいろと調べて見るのもいいかもしれない。

 

 

もっとも・・・今は到底そんな気分にはならないが。

 

 

小さくため息をついて先を進む。水飲み場を通り過ぎ、踊り場から階段を下りていく。

昇降口の辺りまで行ってみるつもりだった。転ばないように注意して、一段一段足元を確認しながら夕映は一階に到着した。キョロキョロと視線を彷徨わせ、靴が一足も入っていない下駄箱に目を向ける。外はどうなっているのだろうかと玄関の方まで歩いていく。そして先の見えない景色に目を凝らしていたその時、ふと違和感に気が付いた。廊下の先、プレートに保健室と書かれている扉の隙間から、僅かな明かりがこぼれていた。

 

薄暗い廊下に一室だけ明かりがついているので妙に目立っている。耳を澄ませると、ボソボソとした誰かの話声が聞こえてきた。小声で話しているようだが、無音の廊下は耳が痛くなるほどの静寂に包まれている。扉を閉め切っていないせいもあってか、大した注意を払わなくても自然と耳に入ってきた。

 

 

(誰でしょうか?)

 

 

声を押し殺しながら会話しているようで、詳しい内容までは聞き取れない。何を話しているかを理解するためにはもう少し近づく必要があるだろう。そう考えて、夕映は足音を立てないようにゆっくりと歩き始めた。そして唐突に何気ない事実に感付いて、頬を引くつかせた。

 

 

夜の学校。静まり返っている廊下から聞こえてくる何者かの話声。闇の中にたった一つだけ明かりがついている保健室。

 

 

自分は今、そんな場所にたった一人でいる訳だ・・・。

 

 

ゴクリ。

 

 

夕映は喉を動かし唾を飲み込んだ。意識すると同時に心臓が早鐘を打ち始める。体が緊張で硬直し血の気が引いているせいか、凄い勢いで体温が下がっている気がする。むろん錯覚だろう。もしそんな急激な体温変化が起こっているのならば、まともに歩いていられるはずがない。足がうまく動かないのでギクシャクと斜めに移動している気もするが、それも当然思い込みにすぎない。先程から首筋を撫でてくるように感じる冷気もきっぱりと気のせいだ。そうに違いない。

 

 

(・・・こ、ここは安全だってピートさんも言っていましたし、だ、大丈夫なはず・・・)

 

 

両手で心臓の辺りをギュウと押さえつけて、無理やり自分を納得させる。怖いからといってこのまま教室に戻ったところで、気になって余計に眠れないだろう。もともと好奇心が強い事もあってか、夕映は話声の正体を突き止める事にした。極力足音を立てないように気を付けながら明かりがこぼれている扉の前まで進む。息を殺して内部の声に耳を澄ませた。

 

 

「それはどういう事ですかっ!?」

 

 

心当たりのある人物が、鋭い調子で言葉を発している。ピートの声だ。昼間話した時とは違い些か語気を荒くして何事かを尋ねている。声が響いてしまう事を警戒しているのか、声量自体はそう大きなものではなかったが、それでも感情がそのまま言葉に乗っているかのように真剣身を帯びていた。

 

 

「答えてください。本気・・・なんですか?」

 

 

「ああ」

 

 

そんなピートの質問に答えたのは、まったく聞き覚えのない声だった。

押し殺した低い声はそれでもハキハキとして聞き取りやすくはある。

謎の人物が言葉を続けた。

 

 

「彼女たちは知るべきでない情報を知ってしまった可能性がある。機密保持の観点から言っても妥当な措置だろう」

 

 

「しかしそんな勝手な!!」

 

 

ピートは声の主に不満を感じている様子だった。記憶にあるような穏やかな印象とはかけ離れた、激しい調子で非難している。扉越しでも険悪な雰囲気が伝わってくる。室外にいる自分にも胃を鷲掴みにされているような重圧が感じられた。何となく落ち着かなくなり、辺りに視線を彷徨わせていた夕映だったが、その時女性らしい柔らかな声が二人の会話に口を挟んだ。

 

 

「確かに勝手よね。でもあの子たちはベルゼブルって悪魔に酷い目にあわされたのよね。もしそんな事が出来るなら・・・」

 

 

確か愛子と名乗った女子生徒だ。彼女が言い辛そうにして沈んだ声で囁いた。

 

 

「そ、それは・・・」

 

 

ピートが動揺して言葉を濁す。そして呻くように言葉を絞り出した。

 

 

「たとえそうだとしても納得できません。・・・記憶の改ざんなんてまね」

 

 

(記憶の改ざん!?)

 

 

思わず悲鳴を上げそうになって、夕映は慌てて口を噤んだ。両手で口元を覆い、なるべく呼吸音も立てないようにする。驚きのあまり表情がこわばった。ゆっくりと膝を曲げその場に蹲る。目を瞑って今聞いた情報を整理した。愛子が言っていた悪魔に酷い目にあわされたというのは、間違いなく自分達の事だ。

 

 

(機密保持・・・って言ってたですよね・・・だったら記憶の改ざんって・・・)

 

 

固く閉じていた口元が緩み呆然としていると、その間も謎の人物とピートの会話は続いていた。

 

 

「やはりそんな行為が正しいことだとは思えない」

 

 

「事の善悪を問えるような立場に我々はいないだろう。所詮は異邦人だからな。ならばせめて任務に忠実であるべきだ」

 

 

「そんなものは詭弁です!こっちの事情に彼女たちは関係ないでしょう!」

 

 

「ではどうすべきだというんだ?この機密が双方にとって重要な意味を持つという事は君も理解しているのだろう?」

 

 

「そ、それは・・・だ、だったらせめて彼女たちの了承を得てからではいけないんですか?このままではあまりに一方的すぎる」

 

 

「そんな事をして彼女たちが許可を出すと思っているのか?詳しい説明ができない以上、得体の知れなさでは我々もあの悪魔と似たようなものだ。仮に全てを話したうえで忘れるようにと協力を要請しても、こちらの言い分をのんでくれるかどうかは分からない」

 

 

「・・・うぅ」

 

 

「今しかないんだ。関係者全員がそろっている今しか機会はない。全員同時に記憶の改ざんを行わなければ、記憶を持つ者とそうでない者の間で齟齬が出来てしまう」

 

 

話を聞きながら夕映は内容を理解しようと必死になっていた。今回の事件について自分達が知った何らかの情報を、彼らが隠蔽したいと思っている事は、おおよそ察しが付く。具体的な情報の内容までは見当がつかないが、彼らも夕映達がどこまで知っているのか、分かっていない様子だった。

 

もし記憶の改ざんなんてまねが本当にできるのだとしたら、事件そのものを消し去るつもりかもしれない。それに機密がどうのと言うからには彼らが何らかの組織に属している可能性もある。個人で使うには言葉が大げさすぎるからだ。

 

 

(もしかしてピートさんと話しているのが指揮官なんでしょうか?)

 

 

ピートは反対しているようだが明らかに押されている。このままでは彼らは本当に実行するだろう。

 

 

(と、とにかく皆に知らせないと・・・)

 

 

少しでも冷静さを取り戻すようにと軽く頭を振ってから、夕映は静かに立ち上がった。

なんにせよ今聞いた話を皆に伝えなければならない。下手をすればピート達が敵に回る恐れもあったが、このまま黙って記憶を消されるつもりはなかった。己を鼓舞するように一度頷いて扉の前から離れようとした時、再び彼らの指揮官?が口を開いた。

 

 

「私もこれが正しい事だとは思っていない。だがな、彼女たちは本来関わるはずのない者の手によって心身ともに傷を負った。ならばそれをなかったことにするのが、ベストではないにしろベターな選択ではないのか?我々にその手段があるのなら迷うべきではない」

 

 

声のトーンを落として言い聞かせる彼に愛子が聞き返す。

 

 

「手段って・・・どうするの?」

 

 

「文珠を使う。こんな時のために備えはしてある。私と横島君とで実験済みだ。後遺症もない」

 

 

あらかじめ用意していた答えだったのか、口調に乱れがなく淡々としている。

 

 

「・・・本当に・・・そうするしかないんですか?」

 

 

まだ迷っているのだろう、ピートが途切れ途切れに問いかけた。

 

 

「無理に納得しろとは言わない。だが、彼女たちの多くが魔法使いとその関係者である以上、常に最大限の用心はしておくべきだ。万が一にも異世界の存在を知られては・・・」

 

 

その言葉を聞いた瞬間ビクリと夕映の体が震えた。そして・・・。

 

 

 

ガタッ・・・・・。

 

 

 

思わず振り返ってしまったとき扉に肘が触れてしまったらしい。そのことを認識し、慌てて離れるがもう遅い。室内から複数の息をのむような音が聞こえてきて、ピタリと話し声が止んだ。緊迫した空気が無音の静寂をもたらす。心臓が煩いくらい飛び跳ねているのに体は固まったままだ。頭の中が真っ白になり、瞬きを忘れた瞳が乾き始める。

 

いつの間にか忘れていた呼吸に夕映が限界を感じたころ、勢いよくドアが開かれ薄暗い廊下に光が差した。背中を照らされ、長く伸びた自分自身の影が床に映る。夕映は無意識に唾を飲み込んで、全身を小さく丸めた。それこそ何らかの魔法にかかってしまったかのように身動き一つできない。

 

 

「君は・・・」

 

 

背後からピートの呆然とした呟きが聞こえてくる。続いて建て付けがよくないのかガタガタと扉を通る音がして、室内にいる全員が廊下に飛び出した。姿勢はそのままに首と目を動かして恐る恐る様子を伺う。誰もが驚いて目を丸くしていた。

 

 

「・・・綾瀬夕映・・・聞いていたのか・・・」

 

 

ピート達の指揮官が低い声で苦々しく唸る。逆光でいまいち姿がうかがえないのだが、タイガーと名乗った大柄な男子生徒の陰にでも隠れてしまっているのかもしれない。限界まで首を捻じ曲げている姿勢に無理を感じて、夕映は仕方なく背後を振り返った。

 

悪戯を見つかって叱られた子供のように、しゅんとしながら佇んでいると、とにかく部屋に入るようにと促された。こうなってしまっては逃げる事もままならないので、おとなしく従う事にする。それにピートがいる限りそうそう乱暴な事はされないだろうという打算もあった。

 

長時間暗い場所に居続けたせいか、光が必要以上に眩しく感じる。しばらくすると目が慣れてきたので室内を観察した。保健室というだけあって清潔感のある部屋だ。簡単な医療器具と備え付けのベット。体重計や身長計、ボードに張り付けられた視力検査表や保険だよりが目に留まる。キョロキョロと辺りを見回していると、ピートからさりげなく椅子を勧められた。頷いて腰を下ろす。

 

ここに至って夕映は何となく開き直ることにした。いまさらジタバタしたところでどうしようもないし、考えてみれば他人の記憶をどうこうしようなどと考えている方が悪いのだ。いくら彼らが命の恩人だとしても、好き放題していい理由にはならないはずだ。

 

叱られでもしたら文句の一つも言い返してやると心の中で思っていると、頭の上から声がかかった。ゆっくりと顔を上げて前を見る。

 

 

・・・そこには酷く顔色の悪い妖精がいた。

 

 

(・・・・・・・・・?)

 

 

一瞬訳が分からなくなる。何でこんな所に妖精がいるのだろう?保険医が患者を診るために座る椅子の上で、腰掛けるでもなくふわふわと空中に浮いている。手のひらサイズの小柄すぎる体で、腕を組みながらジッとこちらを見据えていた。ピートとは違ったタイプの精悍な顔つきをした美青年で、ファンタジー小説にでも出てきそうな尖った耳をしている。

 

 

(変わったタイプの妖精さんですね。ひらひらの服も来てないし、何より羽がないのがマイナスです。確かにステレオタイプの妖精でなければならないという法はありませんが、斬新さを狙えばいいというものでもないでしょう。表情も固いし、これではメイン層の子供を取り込むことができないのではないですか・・・)

 

 

表面上は冷静そのものの無表情で頭の中がパニックを起こしていた。思考回路が明後日の方角で盛大にから回っている。夕映は何故かこの妖精のキャラクターイメージとマーケティングについて真剣に思い悩んでいた。互いが渋い表情で無言のまま見つめあっていると、やがて妖精が重々しく口を開いた。

 

 

「初めまして・・・だな。私はジークという」

 

 

「精悍な顔つきはグッドです。切り口としては間違いではないでしょう。ただやはり子供受けを考えると・・・」

 

 

「・・・・・何を言っているんだ?」

 

 

「へ!?あっ、す、すみません!!別に子供が見たら泣き出しそうな顔だなとかは思ってないです」

 

 

「ぐっ!!」

 

 

何やらいらないところでクリティカルヒットを出してしまったらしい。妖精が胸を押さえて俯いた。

 

 

「い、いや、違うです!!ちょっと目つきが鋭すぎて一般人に見えないなぁとか、インテリヤクザ?とかも思ってないです!!」

 

 

「うぐはぁ!!」

 

 

珍妙なうめき声が聞こえると同時に、妖精がよろよろと椅子の上に墜落する。そのまま膝を抱えてブツブツとこぼし始めた。

 

 

「た、たしかに僕の人相は悪いかもしれない。しかし姉上にしてもあの顔つきだ。これはもはや遺伝子レベルの問題であって・・・」

 

 

膝に額をグリグリとこすりつける妖精を止めるべく、夕映は何度も頭を下げて謝った。

 

 

・・・その後。

 

 

互いに冷静さを取り戻すまで、それほどの時間はかからなかった。向かい合いつつ改めて自己紹介する。妖精の名前はジークフリートというらしい。確かどこかの国の英雄譚に同じ名前の登場人物がいたような気がしたが、まぁ関係はないだろう。夕映が思っていた通り、ピート達の指揮官であるとのことだった。

 

まさか彼らの指揮官がこんなに小さな妖精・・・本人曰く妖精ではないらしいのだが、とにかくこんなに小柄な人物だとは思わなかったので、夕映は少し驚いた。物珍しさからか不躾な視線を送りそうになって、慌てて目を逸らす。

 

何を口に出していいのか分からずにもじもじとしていると、何処からか愛子が湯気を立てたマグカップを持ってきた。熱いから気を付けてねと言いながら手渡してくれる。夕映は礼を言ってそれを受け取り一口すすった。暖かな液体が喉を通って腹部を温めていく。程よい甘みが緊張をほぐしリラックスさせてくれた。味自体はどこにでもありそうなインスタントココアだったが、肉体的にも精神的に疲労している自分には、何より有難いものだ。

 

息を吹きつけながらゆったりとココアの味を舌で転がす。胸の内側にたまっていた悪い空気を思い切り吐き出して、夕映は肩の力を抜いた。するとこちらが落ち着くのを待っていたのか、ジークが話してもいいかと確認を取ってきた。彼に頷きかけて夕映は意識を切り替えた。

 

 

「では、本題に入ろうか。話しを聞いていたのなら分かっていると思うが、我々としては君が今聞いたこと・・・いや君たち全員にあの悪魔に関する全てを忘れてもらいたいと思っている」

 

 

「・・・盗み聞きした事は謝るです。でも、そう簡単に記憶を消させてくれって言われても納得できないです」

 

 

「もっともだ。しかし、こういった言い方はなんだが・・・・・君は今のままで元の生活に戻れると思うか?君たちは恐怖を・・・絶望を知った。そんなものを心の中に植え付けられて、平和な日常にかえれると本心から思えるか?」

 

 

「そっ、そんな言い方は卑怯です!!結局あなたは思惑通りに話を進めたいだけでしょう!?」

 

 

「確かにその通りだ。君たちの弱みに付け込んでいる事も承知している。しかし考えてみてくれ。これが無視できる問題でない事も、また事実のはずだ」

 

 

「だからって・・・」

 

 

夕映は悔しげに唇を噛みしめた。膝の上に置いた両手を強く握りしめる。ジークを否定するような台詞を言ったが、結局のところ夕映自身もわかっているのだ。彼の提案は無視できない。問題なのはそれを強行しようとしたことであって、話の内容自体は夕映達にとっても利益がある事なのだ。感情的には拒否してしまいたい提案。だがそれは簡単に捨て去る事が出来ない魅力的な果実でもある。今のままでは確実に悪夢を見るだろう。そしてそのたびに思い出す事になる・・・あの惨劇を。

 

・・・自分の想像に吐き気を覚えて口元を覆う。いやな味の唾液が舌にへばりついて吐き捨てたくなった。刹那的な衝動を堪えつつ考えてみる。幸運な事に夕映はまだ誰も失っていない。だがそれで全てが元に戻るかといえばそうではない。あの時感じた様々な激情は、今も生々しく頭の中にこびり付いている。

 

 

 

もし、それを忘れる事が出来るなら・・・。

 

 

 

(いいえ、違いますね。そういう事じゃない。今は自分の心配をしている場合じゃない。彼らがどういう意図を持っているのか。彼らが得る利益はなんなのか・・・それを考えないと)

 

 

相手の利を説き自分の要求を通そうとするのは健全な交渉といえる。こちらに判断をゆだねている現状をかんがみれば、駆け引きを仕掛けているようにも見えない。そう、彼はあえて夕映の方に主導権を渡しているように見える。なぜそうしているのかまでは分からないが・・・。

 

 

(無理やり記憶の改ざんをしようとしたことがばれて下手に出ている?・・・そんな殊勝な人物とは思えませんが)

 

 

夕映は唸るように喉を鳴らし、伏せていた顔を上げた。安易に判断するには早すぎると思った。情報が足りない。

 

 

「結局あの悪魔は何者だったですか?あなた達とどんな関係が?」

 

 

「奴は我々の世界の犯罪者だ。こちらの世界に逃亡したため、やむを得ず我々も奴を追ってこちら側にきた」

 

 

「我々の世界って・・・あ、あなた達は本当に異世界の人なんですか?」

 

 

「そうだ。こちらとは宇宙の構成からして全く異なる世界からやってきた」

 

 

「・・・・・・・・信じられないです」

 

 

「だろうな。だが、その方がいいんだ。君にとっても、互いの世界にとってもだ」

 

 

「・・・どういう意味ですか?」

 

 

「危険だからだ。一つの世界においてさえ、文化、風土、宗教、思想 人種や言語もそうだ。様々な差異が存在する。個人であるうちはまだいい。我々の世界と君たちの世界にそう違いはないからな。だが国や組織といった枠組みの中では話が変わってくる。互いが異世界の存在を認識する事で、どんな問題が起こるか想像がつかない。ならばそんなリスクを抱えるべきではないというのが我々の考えだ。今回の一件、こちらの不手際に巻き込まれた君達には詫びのしようもないが、できる事なら協力していただきたい」

 

 

ジークが真摯な態度で頭を下げてくる。心からそう思っているのだろう。

だが夕映自身の本音を言わせてもらえば、簡単に信じられる話ではなかった。

 

どこか現実味がないのだ。嘘を言っているとまでは言わないが、今いる世界と異なる世界が存在するというのを信じ切れていない。だから危機感がない。ところ構わず触れ回ったりしなければそれでいいのではないかと思ってしまう。まぁ、ジークたちにしてみればそんなわけにもいかないのだろうが。

 

くしゃりと渋面を作り頭を抱える。魔法が実在すると思ったら今度は異世界ときた。ついこの間までは退屈で何の変哲もない日常に不満を感じていたというのに、続けざまに非日常の方から夕映の前にやってきた。

 

ちょっと前の自分なら諸手を挙げて歓迎していたかもしれない。だが、今はどうだろうか。目の前にやってくるのが必ずしも善良な存在ではないと知ってしまった今なら?

 

人と人が必ず分かり合えると信じるほど自分は無垢ではない。異世界からやってきたのが犯罪者というのも極端な例なのだろうが、ジークの心配も理解できる話だった。自分は、明確な否定の言葉を持ち合わせていない。

 

彼に従うべきかもしれない。自然とそんな考えが浮かんできた。間違いなくその方が楽なのだ。いまいちピンとこない大きな世界は脇に置くとして、自分の小さな世界を守るためにも。だが、同時に思う事もあった。

 

 

本当にそれでいいのだろうか・・・そんな疑問だ。

 

 

胸の内側が鉛を飲み込んだように重くなる。自分の都合が悪いから・・・そんな理由で起きてしまった出来事を無理やり忘れて、なかった事にしていいのか。それがたとえ受け入れがたい現実だとしても、全て飲み込んだうえで足掻いていくべきではないのだろうか。忘れるという行為がただの逃避に過ぎないなら、それを選ぶことが本当に正しいのか。目を閉じて自問自答を繰り返す。迷いに拍車がかかり押し潰されてしまいそうだった。

 

 

(信念・・・なんて偉そうな台詞を言うつもりはありませんが・・・)

 

 

結局、子供じみた強がりなのかもしれない。いつの間にか寄っていた眉間の皺を指先で揉み解し、夕映は力なく認めた。あの場所であったリアルな現実は、頭の中でこね繰り返す正論を簡単に洗い流していく。こんな経験をする前の自分なら、間違いなく否定していただろう。

 

だが、例えばとんでもない悲劇に見舞われた人間にとって、そんな正論がどれほどの役に立つ?藁にも縋りたいほど打ちのめされた人間から、藁を取り除く行為が本当に正しい行いなのか?特に今回は世界のためというもっともらしい建前がついている藁束だ。

 

全ての人間が”正しさ”に耐えられるほどの強さを持っているわけではないだろう。もし記憶の忘却がその人間にとっての救いになるなら・・・。

 

鬱屈した感情が胸の内にたまっているのを自覚して、夕映は肺の中の空気を根こそぎ吐き出した。

 

 

(ジークさんの事をとやかく言えないかもしれませんね)

 

 

いつのまにか、また自分の事ばかりを考えている。夕映は皮肉に口元を歪めて自嘲した。

 

 

(結局私にわかるのは、自分の事と友達の事・・・)

 

 

遠い世界に思いをはせるより、身近な人たちの事を思う。どうやら自分はそういう人間だったらしい。

 

そんな風に自嘲していた時、ふと何かが頭をかすめて夕映はピタリと動きを止めた。手持無沙汰で梳いていた髪を、力任せに握りしめる。脳の奥が痺れるような刺激と共に、突然思考が急加速した。どうやら危地から解放されたおかげで本当に寝ぼけていたらしい。自分は真っ先に考えなければならなかったことを見事に忘れていた。

 

思わず爪を噛みそうになり、理性の力で強引に捻じ伏せる。ただ足元までは気が回っていないのか、小刻みに膝が動いていた。しばらく黙り込んでいたと思えば、突然焦った様子で落ち着きを無くし始めた夕映を、ジークたちが訝しげに見ている。視界に入っていたが、彼らに注意を払う余裕がない。

 

おぼろげに浮かんできた疑問が形になった瞬間、夕映は伏せていた顔を勢いよく上げた。

 

 

「一つだけ教えてください。仮に全てを忘れたとして・・・何かの切っ掛けで再び思い出すという事はありえますか?」

 

 

まるで親の仇を見るような鋭い視線を向けて質問する。ジークがビクリとたじろぎつつも、何とか動揺を抑えて回答した。

 

 

「い、いや、おそらくそれはない。あれは記憶を消去してそれで終わりという代物ではないからな。対象者の記憶に矛盾が生まれたとしても、ある程度までなら脳が都合のいい記憶を勝手に捏造する。自己正当化・・・現実に添うように自分を騙すわけだ。ただ・・・」

 

 

「ただ?」

 

 

「それはあくまで対象者自身の視点のみである場合に限る。事実と乖離した記憶を第三者から復元するという可能性も僅かに存在する」

 

 

「つまり、真実を記憶している者と接触する事で、忘れていた記憶が呼び起される・・・と?」

 

 

「そうだ。だから記憶の改ざんを行うなら一度に全員を済ませてしまった方がいい。それに、改ざんされた記憶を持つ者が多ければ多いほど、互いに記憶の補完も行いやすいしな。たとえ捏造された嘘でも、一定数以上の人間が同じ記憶を持っていれば、対象者はそれを真実だと思うだろう」

 

 

その言葉を最後にジークが口を閉じた。夕映は彼から視線を逸らし無言のまま口元を手で隠す。体を丸めるように蹲り、身動き一つせず難しい表情で考え込んでいる。そんな彼女の雰囲気にのまれたように、室内にいる全員が息を殺していた。しばらくは時計の秒針が進むの音と、僅かな呼吸音だけがその場を支配した。時が止まったような冷たい緊張が続き、そしてそれは唐突に破られた。重苦しい空気の中心人物が言葉を発する。乾いた唇を舐め、夕映はジークに向き直った。

 

 

「・・・・・あなたの言い分はわかりました。ご心配も、もっともだと思うです」

 

 

「それは我々に協力してくれるということか?」

 

 

「イエス。でもノーです」

 

 

「・・・・・・・どういう意味だ?」

 

 

ピクリと眉を吊り上げたジークを見つめ、夕映は自分の考えを語っていった。

 

 

「普通に考えれば私の個人的な見解だけでみんなを巻き込めないです。でも・・・」

 

 

膝の上で手を組み僅かに思案する。そう、これは自分一人の判断で答えを出していい問題ではない・・・本来ならば。

 

 

「あなた方の考えを素直に話せば私たちの中でも協力してくれる人はいると思うです。ただ反対する人もいるでしょう。少なくとも必ず一人は拒否するはずです」

 

 

「それは誰だ?」

 

 

「のどかです。私を人質にとられていたからといっても、のどかはヘルマンさんを・・・」

 

 

最後の言葉はどうしても口に出す事が出来なかった。

 

 

「あの子は絶対忘れない。自分が犯した罪をなかったことにできるほど器用な子じゃない」

 

 

それは容易に確信できる事だった。のどかはおそらく一人で背負い込むつもりだ。彼女自身の罪は、もはや誰にも裁くことができない。ヘルマンはもういないし、まともな司法の手で解決できるような問題ではない。夕映やネギがどれだけ彼女を庇っても、本心から救われることはもうないだろう。ずっと背負い込むつもりなのだ・・・自分自身が擦り切れるまで。

 

 

「そんな事は私が許さない。のどかは幸せにならなきゃいけないんです」

 

 

噛みしめすぎた奥歯が鈍い音を立てる。彼女が罪を負ったのならそれは自分も同じことだった。なぜなら・・・。

 

 

「のどかは私を守ってくれた。あの子の代わりは私がやるです」

 

 

これから言う事は間違いなくエゴだ。他の誰かに言われたからではなく自分自身で決めた夕映の我儘だった。でも、たとえそれが信条に反する行いなのだとしても、夕映はのどかを失いたくなかった。

 

 

「私が皆を騙します。だから私の記憶だけは消さないでください」

 

 

「なんだと!?」

 

 

「仮にのどかの記憶だけを消したとしても、うまくはいかないでしょう。あの子は必ず違和感に気付く。ネギ先生を筆頭に嘘がうまくない人たちが多すぎますから・・・」

 

 

愛すべきクラスメート達の顔が頭をよぎる。みんな善良を絵に描いたような人たちばかりだ。

 

 

「あなた達としてもそんな多くの人間が記憶を持ったままでは都合が悪いはずですし・・・」

 

 

「それなら君も忘れたほうが確実だろう?」

 

 

「駄目です。これは保険の意味もあるです」

 

 

記憶の改ざんができるという事は、ある意味過去に遡って事実を好き放題にでっちあげられるという事でもある。無条件で信用できるほど彼らを知っているわけではないし、監視役として全てを記憶している人物が必要なはずだ。これだけは譲れないと夕映はジークを睨み付けた。ジークが渋い表情でむっつりと押し黙る。しばらくは互いに無言の時間が流れた。すると、先程から一言も話さずに壁際に控えていたピートが悲しげに眉を歪めながら話し掛けてきた。

 

 

「本当に・・・それでいいんですか?忘れるというのはある意味で救いでもあるんです。あなた自身も相当つらい目にあったはずだ。皆の記憶が消えれば、あなたの痛みは誰にも理解されなくなる。それなのに・・・たった一人でずっと覚えているつもりなんですか?」

 

 

そう問われて夕映は僅かに俯いた。あの時の記憶が脳裏をよぎる。悲しかったし苦しかった。胸の中心に大きな穴が開いているような気さえする。おそらく一生忘れる事は出来ないだろう。あの時感じた恐怖も悲哀も怒りもなにもかも・・・。

 

だが、それは夕映にとっても望むところだったのだ。

 

 

「・・・私が忘れたくないんです。確かにとっても辛かったですけど、でもそれだけじゃない。のどかが命を懸けて守ってくれたこと。あの子の勇気も私が覚えてなければ・・・もしそれで苦しい思いをしたとしてもみんなを騙す罰だと思う事にするです」

 

 

「綾瀬さん・・・」

 

 

俯いた夕映が力なく笑う。やせ我慢が見え透いてしまっているのだろう、ピートが心配そうにしている。そんな二人を複雑な表情で見ていたジークが、深く嘆息した。大げさに首を振ると夕映に向かって頷く。

 

 

「わかった・・・どのみち見つかってしまった時点で、強引な手段を取るわけにはいかなくなってしまったからな。君が協力してくれるというなら、後の処理もスムーズに運ぶだろう」

 

 

「・・・いいんですか?」

 

 

思いのほか簡単に自分の要求を受け入れたジークに、思わず確認した。

 

 

「そのかわり君が都合のいい記憶をでっちあげてくれ。何しろある程度の日数を記憶操作するわけだからな。稚拙な内容では改変後に混乱が起こるだろう。そう言った意味でも彼女たちと長く接してきた君が適任だ」

 

 

そう言いながらジークが作業用デスクの脇に置かれた鞄に視線を送り、ピート達に指示を出した。ピートが鞄の中から黒いケースを取り出し中身を確認する。夕映にはそれが何なのか分からなかったが、どうやらケースに入れられたものを使って記憶の改ざんを行うらしい。先程盗み聞きした話では何の後遺症もなく安全だという事だが、どういったものなのだろうか・・・。

 

 

「具体的なやり方はピート君たちが知っている。あとは彼らの指示に従ってくれ」

 

 

「・・・・・・はい」

 

 

訳の分からぬまま、ゆっくりと頷く。そのままピートに促され、出口に向かって歩き出す。こちらから言い出しておいてなんだが、あまりに拍子抜けだった。彼らの立場からすればもう少し反対してくると思っていたのだが。心に奇妙な引っ掛かりを覚えて、夕映は背後を振り返った。先程まで会話をしていた人物を探す。彼はこちらに背中を向けて何かをしているようだ。もともと姿が小さい事もあって、ここからでは手元がよく見えないが。

 

 

(・・・なん・・でしょうか。・・・なにか)

 

 

「綾瀬さん?」

 

 

神妙な顔つきのまま出口付近で動きを止めた夕映にピートが声を掛けてきた。ハッと我に返り何でもないと小さく笑う。不思議そうにこちらを見るピートの視線から逃げるように、夕映は保健室を出て行った。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

静かである・・・というのが必ずしも集中力をかきたててくれる訳ではないらしい。手元の端末を気のないそぶりで操作しながらジークは思った。先程までと違い静かになった室内に一人でいると、益体もない考えが頭に浮かんでくる。

 

端末に爪を立てて苛立たしく舌打ちする。軍の技術部が今のジークに合わせるようにわざわざ再設計した代物だったが、妙にレスポンスが悪く扱い難かった。最初は小型化による弊害かとも思ったのだが、機能性を犠牲にしてデザインに凝ってみた・・・というのが、これを作った技術部に所属している知り合い(アホ)の言葉らしい。

 

とりあえずそいつは殴っておいてくれと姉に頼んでおいたので、報復の方は問題ない。まぁ、確かに人間サイズの物よりは遥かにマシであるのも事実なのだが。

 

表示された文字列を適当に読み飛ばす。実を言えば先程から何回も見直しているので内容自体は覚えてしまっている。それでもこうして繰り返し読んでいるのは、何かの間違いなのではないかと疑っているからだ。

 

先程ここに来る前に届いたばかりの指令書だ。ジークが所属している情報部の室長と、最高指導者直々の判が押されたその指令書には一つの命令が記されていた。内容自体は難しい事でも非常識なものでもない。ごくありふれた任務の一つだ。ただ・・・その命令が下された意図が分からない。

 

指の動きを止め思案する。コツコツと画面を叩きながら、眉間の皺を深くする。やはり集中できそうもない。些か乱暴に髪をかき上げジークは深い溜息をついた。すると、ガラリという扉を開く音が聞こえて先程綾瀬夕映と一緒に教室へと向かったピートが帰ってきた。

 

 

「言われた通りにしてきました」

 

 

硬い表情で簡潔な報告をする。内心の不満を言葉に乗せないように気遣っているのだろうが、感情を表すまいとすればするほどかえって不機嫌さが強調されるものである。彼には分らない程度に肩をすくめて、ジークは首肯した。

 

 

「ありがとう。彼らについては・・・」

 

 

「適当な場所まで連れて行って、目覚めてからは綾瀬さんにお任せしようと思います」

 

 

「そうか・・・ではそのように頼む」

 

 

文珠の記憶操作を受けた直後は一定期間意識が不鮮明になる。目覚めた彼らが不自然に思わない程度に、状況を整える必要があるのだ。どんな記憶を植え付けたかは知らないが、極端に変なものでもない限り問題は起こらないだろう。そう考えてピートから視線を外し、今度は報告のための書類を作成すべく端末に向き直ったジークだったが、ふと彼が壁に寄りかかったままこちらを注視している事に気が付き声を掛けた。

 

 

「なにか?」

 

 

言いたいことがあるのか・・・後半部分を省略し尋ねる。おそらく今回の一件についての不満だろうと予想してジークはピートに目線を合わせた。一応立場的には雇い主であっても、彼らは軍属ではない。ほとんど無理やりこちらに連れてきてしまった手前、文句の一つは聞いてやるつもりだった。一応こちらの指示にも従ってくれている事だし、少しばかり心労が増えたところで今に始まった話ではない。何かを諦めたような心地で待っていると、ピートが押し殺した声で言った。

 

 

「なぜ嘘をついたんです?」

 

 

その言葉が狭い空間に反響して聞こえたのは、動揺していたからなのか。立ち位置を変え、足を組み直したピートが試すような瞳でこちらを見ている。語調が鋭いわけでもなく、無理に冷静さを意識しているわけでもない穏やかな声だった。

 

 

「・・・嘘?」

 

 

聞き返しながら表情を消す。さりげなく目を逸らし顔を背けた。我ながらもう少しまともな言葉が浮かばなかったのかとも思うが、意表を突かれた人間の反応などこんなものかもしれない。あからさまに不審な態度のジークをピートが探ってくる。

 

 

「あなたは扉の外に綾瀬さんがいたのに気付いていた・・・違いますか?」

 

 

音を立てずに呼吸を整える。余裕を演出している裏側で心拍数の上昇は抑えきれない。

無意識に心臓を撫でていた手を止め、ピートを見返す。

 

 

「なぜ、そう思う?」

 

 

「愛子さんです。あの時、彼女が驚いていた」

 

 

「それがどうしたというんだ。別におかしな事では・・・」

 

 

「この場所は愛子さんの空間だ。彼女が気付いていないはずがない。それなのに彼女は驚いていた・・・そういう演技をしていたんです」

 

 

「・・・・・・・」

 

 

無言は肯定と同義だったろう。それは分かっていたが咄嗟に言葉が出てこなかった。今から何か言い訳をしてみても即答できなかった時点でピートの言葉を認めたようなものだ。悪あがきに無表情を貫いたジークだったが、彼は既に確信を持った様子で断定してくる。

 

 

「愛子さん本人にそんな事をする理由があるとは思えない。あなたが頼んだんでしょう?」

 

 

自分を見つめてくる視線に耐えきれなくなって、ジークは深く嘆息した。

観念して独り言のように呟く。

 

 

「まったく・・・目ざといな。まぁ、全くの無反応ではおかしな事になっていただろうし、仕方がない事だが」

 

 

「やはり、あなたが愛子さんに頼んだんですね?何故そんな事を?」

 

 

こちらが認めた事に勢いづいてピートが語調を鋭くする。もはや黙っている意味はないので、ジークはあっさりと白状した。

 

 

「横島君と連絡が取れない」

 

 

「は?」

 

 

その返答が予想外だったのだろう。ピートがぽかんと口を開けていた。だがそれも仕方がない。わざとはぐらかすように話しているのだから。もっとも、別に驚かされた仕返しをしたいというわけでもない。彼の質問に直接関係のある話だった。

 

 

「ベルゼブルの霊力反応が消えてから連絡を取ってみたんだが、応答がない」

 

 

「ちょ、ちょっと待ってください!!それはどういう・・・」

 

 

理解が追い付かない様子のピートを置き去りにして、早口でまくしたてる。

 

 

「考えられる可能性は三つだ。一つはベルゼブルが横島君を殺し、再び姿を隠した可能性・・・だがその可能性は低いとみている。せっかく手に入れた憑代を放棄してまで奴が姿を隠す理由がない」

 

 

奴がこちらの補足を振り切るには再び休眠状態になるしかないが、そう簡単にできる事ではない。一度でも憑依してしまえば別の肉体への移動は困難だし、大量の魔力を保有した候補者がそうそう現われる訳でもない。

 

 

「二つ目は彼らが相打ちになった可能性だが・・・これもおそらく違う。霊力反応が消えた時点で横島君の生体反応はモニタリングできていた」

 

 

正確に言えば霊力反応が消える直前まではなので断言できないのだが、今それを言っても仕方がないだろう。内心の不安を悟られないように目を伏せ、浅く握った拳で口元を覆う。

 

 

「三つ目・・・横島君はベルゼブルを倒したが、こちらの連絡に応えられない状態にある・・・」

 

 

言葉尻を濁し沈黙する。黙ってしまったジークにピートが言葉を掛けようとして躊躇している。目蓋越しにその気配を感じて、目を開けた。

 

 

「君は現場で同族の気配がしたと言っていたな?」

 

 

「え、ええ。僕らともまた違った感じではっきりとは言えませんが・・・それが?」

 

 

質問の意図がつかめないのか戸惑う様子でピートが質問してくる。そんな彼の姿を観察し、ジークは言った。

 

 

「横島君は魔法使いたちに捕らえられているかもしれない」

 

 

「えっ!?」

 

 

「魔法使いの中に吸血鬼がいるのさ。おそらく横島君を拘束したのは彼女だ。そしてそうなっていれば、まず間違いなく魔法使い達は横島君から情報を得ようとするだろう。一応プロテクトを仕掛けているが、通用するかは分からない。何しろ彼らにとって我々の技術は未知だろうが、それはこちらも同じだからな。案外あっさりと情報を抜き取られているかも・・・」

 

 

最悪拷問を受けている可能性も否定できない。情報部に所属しているジークは、ある程度そちらの知識も持っている。本物の苦痛を与えられれば、専門的な訓練を受けていない横島が耐えられるわけがなかった。もちろん薬物や魔法による自白の強制もあり得るだろう。

 

一応麻帆良に所属している魔法使いたちは比較的温厚な部類に入るようなので、あくまで最悪の予想なのだが。どちらにせよはっきりしているのは、何らかの手段で横島から情報が漏れてしまった場合・・・。

 

 

「当然異世界の存在を知るだろうな。・・・信じるかどうかは別として」

 

 

「だ、だったら早く横島さんを救出しないと!!」

 

 

「どうやって?」

 

 

「どうやってって・・・それは・・・」

 

 

消沈した様子でピートが唇を噛んだ。現状で横島の救出が困難であることに思い至ったのだろう。ジークの予想では横島を捕らえたのはエヴァだったが、彼の身柄が今も彼女の手にあるかどうかは疑問だった。吸血鬼であるエヴァは一般的な魔法使いたちとは立場が異なるようではあるが、協力関係を築いているのは確かだ。あれだけの騒ぎが起きたのだから、当然魔法使いたちに報告しているだろう。騒動の当事者である横島もエヴァ個人ではなく、組織の手によって拘束されているとみるのが自然だ。そうなっては居場所の特定すら難しい。壊れたのか紛失したのか横島がしていた霊力探知機からは何の反応もなかった。

 

 

「本当に横島君が捕まったのか、だとしたらどこにいるのか、救出手段は・・・。考えなければならない事は山のようにあるが、一つだけ試してみたい事がある」

 

 

「それは?」

 

 

「君の質問に関係がある話さ。現状我々と繋がりのある魔法関係者はネギ・スプリングフィールド達だけだ」

 

 

「どういう・・・ことですか?」

 

 

こちらの言葉を受けてピートの表情が険しくなる。ジークは努めて感情を殺すように淡々と告げた。

 

 

「全ての事情を理解している者からしてみれば、ある日突然大勢の人間が事実とは違う記憶を持って現れる訳だ。そしてそのなかで、唯一記憶を保持している人物を発見する。エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは甘い相手じゃない。間違いなく綾瀬夕映の存在に気が付くだろう」

 

 

「まさか、綾瀬さんを・・・」

 

 

「横島君を捕らえている後ろめたさから何らかの意図を邪推するかもな。しかしそれでもエヴァンジェリンは綾瀬夕映に接触しないわけにはいかない。そうなって初めて交渉の芽が出てくる」

 

 

「最初からそのつもりで・・・」

 

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 

ジークはピートの呟きを無視するように顔を俯けた。

 

 

「おかしいとは思っていたんだ。いくら疲弊していたとはいえ、ネギ君達が眠りについてからそれなりの時間がたっていたのに、何で誰も目が覚めないのか。綾瀬さんだけが目覚めたのも、あなたが・・・」

 

 

「彼女はあの年齢にしては非常に聡い娘だ。感情にとらわれず、記憶が改変される危険性に気が付くだろうとは思っていた。だがこちらの提案を全て蹴る事もできない。・・・親友の事を思えばな」

 

 

「あなたはっ!!綾瀬さんがどんな気持ちで仲間を欺こうとしているのか、分かっているんですか!?誰とも共有できない記憶を持って、自分一人で耐えようとしている彼女を利用するつもりですか!?」

 

 

「横島君を助けるためには、まず交渉相手と接触しなければ話が始まらない。それに私は彼女に嘘をついたわけでもないし、記憶操作については彼女自身が望んだことでもある」

 

 

感情的に叫ぶピートを冷めた瞳で見返す。冷徹な指揮官の仮面を被り、突き放すように告げた。確かに嘘をついたわけではない。だが意図的に情報を隠蔽して利用しようとしているのは事実だ。中途半端にこちらの情報を持っている夕映に、交渉のためのパイプ役を務めてもらう。現状でジーク本人が魔法使いと接触するのは危険だからだ。

 

彼らのメンタリティは基本的に善良であるが、これだけ長期にわたって一つの地域を実質的に支配している組織だ。用心するに越したことはない。こちらの意見が変わる事はないのだと悟ったのだろう、ピートが憤りを抑えきれずに吐き捨てる。

 

 

「あなたが・・・横島さんを助けるために最善を尽くそうとしているのは分かりました。けれど、こんなやり方を僕は認めない!!」

 

 

「ならば今聞いた事を綾瀬夕映に話すか?」

 

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 

ピートがこちらの問い掛けに反射的に頷こうとして・・・結局何も言えずに黙り込む。

唇を噛んだまま拳を震わせて必死に何かを堪えている様子だった。その姿を見ながらジークは胃の辺りに重苦しさを感じて、そっと嘆息した。結局自分はピート達をも騙していたわけだ。決して呑み込めないようなこの苦味は、罪悪感なのだろうか。心の中だけで弱音を吐きつつ、表面上は鉄面皮を貫く。

 

 

「こうなってしまった以上、我々にできるのは一刻も早く横島君を取り戻し、速やかに撤収する事だけだ。彼さえ戻れば世界同士の干渉を断つことができる」

 

 

「・・・・・横島さんの事が心配なのは僕も同じだ。だけど・・・」

 

 

「君が責任を感じる必要はない。愛子君にしたところで詳細を知っていたわけでもないしな。君たちがこれ以上協力できないというなら、無理にとは言わない」

 

 

「今さら自分だけ抜けようとは思いません。横島さんを助けるまでは付き合います。ですが、それが終わったらもう二度とあなたの頼みを聞くつもりはない」

 

 

「ああ、それでいいさ」

 

 

「・・・・・・・・・・・・・失礼します」

 

 

急ぎ足で立ち去るピートの後ろ姿を目で追いながら、ジークは力尽きたような心地で机の上に墜落した。再び誰もいなくなった室内で、目頭を押さえながら深呼吸する。ピートに指摘されるまでもなく、ジーク本人が一番分かっていた。こんなやり方は最低だろう。横島を取り戻すためとはいえ、高々十数年しか生きていない娘を利用しようというのだから。

 

際限なく落ち込みそうになり、慌てて暗い考えを振り払う。前々からわかっていたが、自分はこういった仕事に向いていないのかもしれない。本心がどうであれ、それが任務であるなら従うが、その度にいちいち心痛を感じていたのでは兵士は務まらないだろう。

 

今回の任務が片付いたら、姉上に仕事を押し付けてでも休暇を取ってやる。そう決心しながらジークは八つ当たり気味に持っていた端末を放り投げた。内部の機能性を犠牲にした結果か、外部は非常に頑丈にできているらしい。追及するべき方向性を間違っているとも思うが、一応そのおかげで壊れずに済んだようだ。

 

画面を横目で確認しながら、表示されている任務内容に思いを巡らす。要約すると指令書にはこう書かれている。

 

 

《引き続き異世界における調査任務を継続すべし》

 

 

素直に見るなら今までと変わらず異世界の情報を集めて報告しろという意味だ。ジークは端末に視線を向けたままジッと動きを止めた。厳めしく顔を歪め思索に没頭する。

 

この任務が通達された時からどうしても気になる事があった。別段内容自体がどうということではない。問題なのは時期だ。どうして本来の任務がすべて片付いたこの時期に、いまさら調査の継続を命じられたのか。

 

ジークがこちらの世界に来る前から、土偶羅によって異世界の調査は進められていた。

それは現在も行われていて、随時経過を報告している。だがそれはあくまで追跡任務のために行われた副次的な意味合いでしかない。異邦人である自分たちがこの世界にうまく溶け込めるようにという、その程度の話だったはずだ。もともと不必要な干渉を避けるという方針であったから、深い所までは調べていないのだが、なぜここにきて本格的な調査を依頼する?

 

それに命令自体が通達されたタイミングも妙だ。最後の逃亡犯であるベルゼブルの霊力反応が消えてからほんの数十分の間に指令書が届いた。これではまるで、こちらの状況を逐一観察しているかのようではないか。

 

 

(偶然か?・・・いや、それでもなぜ今さら異世界の調査をしなければならないのかという疑問は残る)

 

 

ジークは凝り固まった肩を押さえながらグルリと首を回した。ここでこれ以上考えても答えは出なさそうだ。それよりも今は横島の身柄を取り戻す事を考えなければならない。

 

 

「まったく上層部は一体何を考えて・・・」

 

 

ここにはいない上司の顔を思い浮かべて、愚痴をこぼしそうになったジークだったが、ふと頭上に気配を感じて天井を見た。

 

 

「・・・あ、あの~」

 

 

うすぼんやりとした人影が目尻を下げてこちらを見つめている。天井の隅にふわふわと浮かび、奇跡のような存在感のなさで、申し訳なさそうに身を竦ませていた。

 

 

「さ、さよ君?・・・いつからそこに?」

 

 

「え~と、たぶん最初の方から・・・」

 

 

「さ、最初から?・・・ずっと?」

 

 

「す、すみませ~ん。皆さん無事に元の体に戻る事が出来たので報告しようとしたんですけど、お邪魔できないような雰囲気だったので・・・」

 

 

さよが空中で何度も何度も頭を下げてくる。ジークはただ何も考えられずに呆然とするしかない。

 

 

「・・・・・・・・・・・・・・」

 

 

「・・・・・・・・・・・・・・」

 

 

二人は無言で見つめあい・・・そして・・・。

 

 

 

 

 

 

愛が生まれるはずもなく・・・ジークは土下座も辞さない覚悟で、必死になって彼女に口止めを頼んだ。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

きつく閉じた目蓋の奥で眼球が灼熱を帯びている。指先の末端から頭の天辺に至るまで、表皮の中に野太い大蛇が身をくねらせて蠢いている。血管が脈動し、四肢が強張る。折れるほどに背骨を仰け反らせ、石のように固く蹲る。

 

壊れた蓄音機さながらに、ひどく耳障りな音を断続的に叫びながら、舌を痙攣させる。目の端から涙がこぼれ、唇の端が裂けて血が噴き出した。滲んだ脂汗は身体を犯しドロドロに溶かす猛毒だ。涙、血、汗が全身を汚し、拭い去る事の出来ない決定的な刺青となる。頭を掻き毟り髪の毛を引き千切る。毒の中を泳ぎ、強酸の海に沈んでいく。深く、暗い所まで・・・。

 

 

苦痛には際限がない。終わりが見えない。壊れてしまっても、多分ずっと続いていく。

 

 

そこは極限の闇に次々と白熱が差し込む騒がしい世界だ。安らぎも、穏やかさも、光年の彼方にすら存在しない。どんちゃん騒ぎのお祭りだった。

 

 

そんな場所に一人でいる自分は本当に生きているのだろうか。

 

 

ふと、不鮮明な意識の向こうで誰かが呟いた。本当はもうとっくの昔に死んでしまっていて、これは魂の残り香ではないのか。

 

幽霊になった自分は終わりの来ない”ここ”を、ただ繰り返すだけの装置なのでは・・・。

 

自縛された魂に、祝福など来ない。延々と死を繰り返し、それを見続ける。続きがない終わりを認識できずに、終わる瞬間だけをただ繰り返して、そして・・・。

 

 

「ちっ、発作を起こしたか!?茶々丸!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこは・・・金髪の美女が優しく介護してくれる祝福された世界(天国)。

 

 

「好きじゃああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」

 

 

「うわああああああああ、な、なんだいきなりっ!!!」

 

 

直前まで今にも死に絶えてしまいそうだった男が、仰向けの体勢から突然バッタのように飛び跳ねて目の前にある豊満な胸にダイブし、グリグリと顔を押し付けた。

 

 

「これや!!これなんやぁ!!俺が求めてたのはこれだあああ!!!こっちきてから何かしらんが知り合う女の子がみんな手が出せん年齢の娘ばっかりやったから、俺の煩悩もすっかり引っ込んでたけど、本当にほしかったのはこれじゃあああああああああああ!!!!!」

 

 

「やっ!ちょっ、ど、どこを触って!わっ、顔を押し付けるな!!匂いを嗅ぐなあああああ!!!いい加減にせんか!!!」

 

 

「ぎゃあああああああああああああああああああああああ!!!!!」

 

 

熟練された動きで本人の意識を超越した何がしかの・・こう・・・いろいろと・・・あれな感じのエロ技を繰り出していた男が瞬間冷凍される。お世辞にも見目麗しいとは言えない間の抜けた氷像が一体その場に生み出され、ゴトリと鈍い音を立てて倒れた。

 

 

「さ、寒い!痛い!!動けん!!あああ、ちくしょー!!目の前に辛抱たまらんほど美味しそうな美女がおるのにぃぃぃ!!!」

 

 

全身が氷漬けにされているにも拘らず、ジタバタと手足を動かしながらその男・・・横島忠夫は涙交じりで絶叫した。

 

 

「な、なんだというんだまったく!貴様さっきまで死に掛けてたんじゃないのか!?」

 

 

「へ?そう言われりゃそうだった気もするけど。そんなことよりそこの美味しい乳!!いや美しい人!!名前はなんていうんですか!?俺は横島っす!!」

 

 

身動きが取れないまま謎の動きで腹這いに近づいてくる横島に本気でゾッとした視線を向けながら、金髪の美女・・・エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル(大人バージョン)はさりげなく距離を取った。

 

 

「き、キモい動きをするなっ!ちょ、わ、わかったから近づくな!!なんか生理的に怖い!!」

 

 

彼女の制止を聞かずにカサカサと接近していた横島だったが、結局その二秒後に再び全身を氷漬けにされた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

「う、うぅぅ、ちくしょ~。こんなん詐欺やないかぁぁぁ」

 

 

部屋の隅っこでえぐえぐと涙をながしながら膝を抱える。信じたくない事実を突き付けられて横島の心はポッキリと折れてしまっていた。先程まで目の前にいた美女の姿はもうどこにもいない。いや、最初からそんなものは存在しなかったのだ。豊満な乳、揉み応えのありそうな尻、ピチピチとしたふともも。全てが虚構に塗り固められた偽りだった。

 

 

「せ、せっかく合法的にセクハラできる美人と巡り合えたと思ったのにぃぃ!!あの巨乳がまさかの虚乳やったなんてぇぇ!!」

 

 

「ええい、うるさい!!セクハラに合法もくそもあるかっ!!」

 

 

「ぶほぅっ!!」

 

 

グシグシと袖口で涙を拭っていた横島の後頭部に鉄拳が振り下ろされた。変な悲鳴を上げながら床に倒れ伏す。その背中に足を乗っけて、エヴァが鼻息荒くグリグリと踏みつけ始めた。

 

 

「まったく、仏心なんぞ起こすものではないな。看病も茶々丸に任せてしまえばよかった」

 

 

「へ?ひょっとしてエヴァちゃんが看病してくれてたんか?」

 

 

床に押さえつけられながら、バタバタと手足を動かして脱出を試みていた横島が意外そうにエヴァを見つめる。うつ伏せから無理やり首をひねっているので相当苦しい体勢だったが、ギリギリの角度でエヴァの顔が見れた。目が合うと彼女は顔を真っ赤にして、渾身の力で床(横島)を踏み抜いた。

 

 

「ぶぅむぎゅ・・・」

 

 

潰れたカエルのように押し潰される。そのままエヴァがテンポよくステップを踏むたび、横島忠夫という楽器から奇妙な音が鳴っていた。しばらくはそんな調子で仲睦まじいコミュニケーションが行われていたが、あっさりと飽きてしまったエヴァが最後に勢いをつけて飛び降りた。ぴくぴくと痙攣しながら横島は何も言えずに撃沈した。

 

 

そして・・・。

 

 

なんとかまともに話ができる位には回復した横島だったが、茶々丸の手によって半ば無理やりベッドに寝かしつけられた。そのまま目付きの角度を急上昇させたエヴァによる楽しい楽しい尋問タイムが開始される。右手には茶々丸。左手には口の悪い小さな茶々丸と左右をかためられ、どこにも逃げ場がなかった。さすがに今回は、何も聞かずに横島を解放するつもりはなかったようだ。どうやら死にかけていた所を助けてもらったらしいので、断るわけにもいかず、横島は観念してしどろもどろに説明を始めた。

 

自分たちが魔族を追って麻帆良にやってきた事、そいつは普通の魔族とは違って特殊な能力がないと倒せない厄介な存在である事、自分はそういった魔族を狩るためのエキスパートである事、今回の一件が片付いたので似たようなのはもう現れないだろうという事等、虚実ないまぜにしつつ語っていった。

 

 

「魔力を持たない悪魔・・・ねぇ?」

 

 

女王様の視線が横島を見下す。舐めるようにこちらを観察し、嘘がないかを表情からチェックしている。物理的な圧力が伴っているような視線を注がれ、横島の頬からダラダラと汗が流れた。その度に隣にいる茶々丸が冷えたタオルで丁寧に拭ってくれる。

 

キョロキョロとあちこちに目を泳がせながら、なんとかエヴァの追及から逃れようとする。一応嘘をついてはいないので、内容が破綻しているわけではないはずだ。ただ、異世界の話だけは避けているため、魔族の素性について詳しく語る事が出来ない。それがエヴァの疑いを招いてしまっているようだった。

 

 

「私も長いこと生きているが・・・そんな奴らの話など聞いたこともない」

 

 

「い、いやぁ、べつに有名な奴らでもないからさ。なんちゅーかほら、売れない演歌歌手みたいなもんで、ごく一部で知られてるみたいな」

 

 

引き攣った愛想笑いを浮かべる。エヴァにしてみれば苦しい言い訳にしか聞こえないのだろう。結局、話が終わっても疑惑はさっぱり晴れなかったようだ。ただそれ以上の追及をする気もなかったようで、彼女は大げさに嘆息すると、せいぜい安静にしていろと横島に告げた。そして座っていたベットから腰を上げて、部屋を出ていこうとしたエヴァだったが、何を思ったのかピタリと歩みを止めた。

 

 

「念のためもう一度確認するが、本当にこれで最後なのか?」

 

 

問い掛けと共に横島を見つめる彼女は、驚くほど真剣な目をしていた。

 

 

「あ、ああ。俺が聞いた話だと今回の奴でもう終わりだって・・・どうかした?」

 

 

「・・・・・いや・・・」

 

 

こちらの質問には答えず顔を伏せる。何か腑に落ちない表情を浮かべている。

そんな彼女を見ているうちに、横島の脳裏にひらめくものがあった。

 

 

「ひょっとしてエヴァちゃん。あのガキに会ったのか?」

 

 

「それはお前の近くにいたガキの事か?」

 

 

「俺は気絶してたからはっきりとは言えないけど、たぶんそいつだ。なんか妙に大人ぶっててむかつく感じの」

 

 

「ああ確かに小生意気でいけ好かないガキだったな。やはりあいつもお前らと関係があるのか?」

 

 

エヴァが片眉を吊り上げつつ尋ねてくるが、横島は力なく首を振った。

 

 

「うーん、それなんだけど正直俺にもさっぱりわからん。名前も知らねーし、チラッと会って話しただけの奴だし」

 

 

「そうか・・・」

 

 

二人そろって難しい顔で黙り込む。お互いあの少年について思う所がある様子だったが、具体的に何が心に引っかかっているのかうまく言葉にできなかった。しばらく腕を組んだまま悩んでいた横島だったが、ふとある事を思い出した。

 

 

「なぁエヴァちゃん、超鈴音って子・・・知ってる?」

 

 

「・・・なに?」

 

 

「いや、意識を失う直前にあいつが言ってたんだよ。もうすぐ超って子が何かするとか、俺にとっても関係がある事だとかなんとか・・・」

 

 

あの時は意識が朦朧としていたからはっきりとは思いだせないが、確かそんな話を聞いた気がする。比喩でなく本当に死にかけていたので自信はないのだが。

 

横島が眉間に皺を寄せながら記憶の糸を辿っていると、何故かエヴァがこちらを物凄い目つきで睨み付けてきた。思わずビクリと体が仰け反る。彼女の折檻は美神よりも単純なものだったが、命の危険度はそれほど変わらない。全身氷漬けは二度と御免だった。反射的にシーツを被り、おそるおそる顔を覗かせる。

 

彼女は相変わらず怖い顔で睨んでいる・・・と思ったのだが、微妙に横島から焦点がずれていた。どうもこちらに顔を向けていただけで、特にどこかを見ているわけではないらしい。ただ深く考え込んでいるのは確かなようだが。

 

 

「超だと?なぜここで奴の名前が出てくる?あのガキが計画を知っているのか?こいつと関係があるだと・・・」

 

 

一点を見つめてブツブツと呟いている。気軽に言葉を掛けられるような雰囲気ではない。何となく不安になって茶々丸に視線を向けるが、彼女はいつもよりも冷たい無表情で横島を無視していた。仕方がないのでもう一人に話し掛ける事にする。正直こういうあからさまに人形めいた輩には嫌な思い出しかないので、先程から意識して視線の外側に置いていたのだが。

 

 

「なぁ、エヴァちゃんどうしたんだ?」

 

 

「アン?御主人ガ何考エテルカナンテ分カルワケネーダロ。マァ知ッテテモオマエニ教エル義理ハネーケドナ」

 

 

身体のサイズには不釣り合いの大きな鋏をシャキンシャキンと小気味よく鳴らせているパチ丸(茶々丸のパチモン)がケケケと厭らしく笑っている。毛色は違うが昔人形に髪を丸々剃られた過去があるので、横島は頭を押さえつつパチ丸から距離を取った。そんな調子で何となく気まずい思いをしていると、エヴァが小さく舌打ちした。

 

 

「ちっ、これ以上ここで考え込んでも埒が明かんか」

 

 

「・・・?」

 

 

訳が分からずに首をひねる。結局横島の質問には答えてくれないようだ。一応エヴァに頼らずとも、超という人物には心当たりあるから何とかなりそうではあるのだが。確か前に食事した屋台のオーナーが超といったはずだ。日本では珍しい名前だし、おそらく本人で間違いないだろう。あそこはネギのクラスの人間がやっている店だと聞いていたから、彼に頼めば本人と接触できるかもしれない。

 

本当は名前も知らないガキの言う事を素直に聞くのはしゃくなのだが、無視するにはあまりに思わせぶりなので気になって仕方がないのだ。それに奴が近くにいる以上、超という娘自身も心配だった。これはあくまで勘に過ぎないし何の確証もない話だから、エヴァには黙っていたのだが、あの少年は・・・。

 

 

「どうした?」

 

 

今度は横島の方が黙りこくってしまったので、不審に思ったのかエヴァが尋ねてきた。

 

 

「ああ、うん」

 

 

横島は気のない生返事をしつつ。

 

 

「もしかしたらなんだけど・・・」

 

 

自信なさそうに呟いた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

「お邪魔しとるよ」

 

 

地下室の階段を上りきった先で目に入ってきたのは、後頭部が不自然に伸びた皺だらけの禿げた髭爺だった。伸ばし過ぎて垂れ下がった眉毛の下から、僅かに開いた瞳をのぞかせ、茶目っ気たっぷりの笑顔を向けてくる。手土産のつもりだろうか、傍らには綺麗に包装された和菓子の箱がぶら下がっていた。おそらく中身は羊羹だろう。最近二人で囲碁を指している最中によく食べている店と柄が同じだ。

 

 

「ちっ、用件は・・・察しが付くが、訪ねてくるなら前もって連絡くらい入れろ」

 

 

「なーに、冷たい事を言うでない。わしとおぬしの仲じゃろ?」

 

 

「気色の悪い事を。短い寿命をここで終わらせたいのなら、手伝ってやらんこともないぞ」

 

 

「やれやれおっかないのう。不機嫌の理由は下にいる彼かね?」

 

 

目線で地下室の方向を指して尋ねてくる。エヴァは小さく嘆息すると茶々丸にお茶の用意をするように指示を出した。彼女は一度頷くと、髭爺・・・麻帆良学園の学園長兼、関東魔法協会の理事長でもある近衛近右衛門に黙礼し、台所に向かった。その姿を確認したエヴァが手近の椅子を引き寄せ、ドカリと音を立てて座る。対面の椅子を顎で示し、近右衛門に座るよう促した。素直に従い席に着いた彼が、さっそくといった様子で口火を切った。

 

 

「それで、彼に話は聞けたかの?」

 

 

「ああ。お前が手荒な真似はするなと言うから面倒だったがな」

 

 

全身を氷漬けにしたりはしたが・・・まぁ無傷であるようだし問題はないだろう。都合の悪い事実は即座に忘れつつ、横島に聞いた話をそのまま伝えていく。

 

 

「一応嘘はついていない様子だったが、まだ何か隠しているのは間違いないな」

 

 

当初は無理やり記憶を覗いてやろうかとも考えていたのだが、一応横島には借りがあるうえに目の前の爺には色々と釘を刺されていた。そしてなにより当の本人が尋常でないくらいに衰弱していたので結局強行案は見送る事にしたのだが・・・。

 

 

「あの様子じゃ多少強引に聞き出したところで問題はなさそうだぞ」

 

 

「そうもいかん。彼は木乃香達の恩人なんじゃろ?それに魔法でもない妙な力を使うとか。万が一下手を打ってこちらと敵対なんて事になれば面倒じゃ」

 

 

「ふん、慎重なのもいいがな。そんな調子では足元をすくわれかねんぞ。今回の件がいい例だ。貴様がもっと真剣に私の言う事を聞いていれば・・・」

 

 

「・・・返す言葉もない」

 

 

ただでさえ開いているのか分からない目を伏せ、小さく体を丸めている。エヴァはわざと聞こえるように舌打ちし、そっぽを向いた。

 

実を言えば近右衛門にだけは前々からある程度の事情を説明していた。大停電の時はエヴァ自身何が起こったのか状況をよく理解していなかったので、説明のしようがなかったのだが、京都で再び似たような怪物と邂逅したため、近右衛門に相談を持ちかけた。恐ろしい怪物とそれを倒した魔法でも気でもない妙な力を持った人間の事。その人物が麻帆良に住んでいるのも説明した。

 

得体のしれない人間が麻帆良にいる。それだけで学園を統括している近右衛門は警戒せざるを得ない。実際スパイの可能性を疑って監視もしていた。だが当の本人はブラブラと外を出歩きそのまま家に帰るといった、何をしたいのかよく分からない行動をとっていて、単なる囮である可能性も捨てきれなかったため、不用意に接触できなかった。囮を拘束した途端に危険を察知した本命が脱出するというのもよくある話だからだ。

 

結局積極的にスパイ活動をするでもなく、一応ネギ達の恩人でもあるので、わざと泳がす事になった。念のため監視と背後関係の洗い出しは継続して、時期を見て事情を知っている数人が接触する手はずになっていたのだが・・・。

 

 

「後手に回ったの。結界が反応せんのがこれほど厄介だとは・・・」

 

 

近右衛門が悔恨の表情を浮かべ黙り込んだ。こんな事になるなら素直に横島を拘束・・・いや協力を求めるべきだったという所か。こちらが味方であるかもしれない彼を疑っている間に、水面下で最悪の事態が進行していたわけだ。都市防衛の要である大結界が通用しない以上、敵の侵入を事前に察知するのは不可能に近い。せいぜい見回りの人員を増やすか、監視カメラの数を増設するかだがそうしたところで・・・。

 

 

「事が超常の類である以上、一般人を巻き込むことはできない。麻帆良中の魔法関係者を動員したとしても・・・無理だな」

 

 

エヴァがあっさりと言い切った。何しろこの麻帆良学園はあまりに広大すぎる。常時監視の目を光らせるにも限界があった。

 

 

「まぁ、侵入した悪魔とやらは今回で全員倒したらしいしな。それにその悪魔自体の絶対数も、下手な絶滅危惧種より少ないそうだ。横島の話ではもう二度と麻帆良に現れる事はないだろうとさ」

 

 

落ち込んでいる近右衛門を慰めるためではないが、声の調子を幾分か柔らかくして言う。

 

 

「それは本当か?」

 

 

「一応な・・・・・ただ」

 

 

言葉尻を濁し目を細める。さっきまで一緒にいた男の言葉を思い出していた。

 

 

「ただ・・・なんじゃ?」

 

 

「いや、最後にあいつが妙な事を言っていたのを思い出してな・・・なんでも・・・」

 

 

その言葉を伝えてきた男と似たような表情のままエヴァは口を開いた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

「四人目?」

 

 

品のいい紅茶の香りが仄かに漂っている。時刻は三時を少し回った所か。仕事帰りに立ち寄った有名店のスイーツを口にしつつ、美神令子はピクリと眉を動かした。片方の手でケーキを攻略しながら、もう一方の手で先程届いたばかりの書類をめくり上げる。他人には本当に読んでいるのかと疑わしいらしいが、一応これでも頭に入っている。自分でも少々行儀が悪いと思わなくもないが、それを咎めそうな人物は、既にここにいなかった。

 

少し前に、今読んでいる書類と妹であるひのめを預けて、仕事に向かってしまったからだ。ちなみに現在屋根裏部屋では、シロとタマモのタッグが決して勝つことのできない無謀な挑戦(育児)を強いられている。

 

 

居候の義務というわけではないが、まぁひのめが疲れて眠るまでの辛抱だ。せいぜい犠牲になってもらうとしよう。そう思いながら書類に目を通す。すると最近お気に入りの小物店で購入したらしい紅茶ポットを手にして、おキヌがお代わりを注いでくれた。透き通った綺麗な朱色がティーカップを満たしていく。零さないように最後の一滴まで注ぎ込み、彼女は言った。

 

 

「はい。詳しくは知らないんですけど、横島さんが見つけたかもしれないって」

 

 

「依頼が終わったってのに、まだ向こうにいるのはそれが原因か・・・」

 

 

ナプキンで口周りのクリームを拭きながら呟く。

 

 

「どういう事なんでしょう?」

 

 

遠慮がちに問いかけてくるおキヌに視線を向けながら答える。

 

 

「うーん。依頼された悪魔は全員倒したんだし、普通に考えれば横島君の気のせいなんでしょうけど・・・」

 

 

口の中でモゴモゴと呟きながら読み終わった書類をケースファイルに仕舞う。そして別の書類を新しく取り出して読み始めた。

 

 

「四人目ってのは知らないけど、ちょっと気になる事があるのは確かなのよね」

 

 

「気になる事・・・ですか?」

 

 

向かいの席に腰を下ろしたおキヌが首を傾げている。コクリと頷きながら、美神は彼女のいれてくれた紅茶に口を付けた。おキヌが専門店で仕入れてきた良質の茶葉だったが、香りも口当たりも相当なものだ。最近ではいれ方にもこだわっているようで、洋食屋を経営している魔鈴にこっそり師事しているのを美神は知っていた。こちらには内緒にしているつもりのようで、追及はしていない。師匠の方は気に入らないが、おキヌの腕が上がればこちらにもメリットはある。彼女が入れてくれる紅茶を一番飲んでいるのは間違いなく自分だからだ。そんな事を考えながらケースファイルを指さし、美神は言った。

 

 

「まぁ、これを見るまでは半信半疑だったんだけど・・・」

 

 

「えっと、何の書類なんですか?」

 

 

「例の悪魔が異世界に逃亡した当時の状況が書かれたGメンの内部資料」

 

 

「えっ!!」

 

 

何でもないように言った言葉を受けて、おキヌが目を丸くする。警察関係者でもない美神がこんなものを読むのはキッパリと違法行為だったが、そういう常識的な判断はとりあえずどうでもよかった。

 

 

「で、今読んでるのが最初にワルキューレが持ってきたやつ」

 

 

口に出しながら目線を落とす。書類には例の悪魔が異世界に逃亡したと思われる当時の状況が書かれていた。侵入された時間帯の警備状況。侵入経路と具体的な侵入方法。そして幾つかの現場写真と共に被害状況が記されていた。

 

 

「どっちも同じ日の同じ時間、同じ場所であった事について書かれてる。さすがにGメンの方だと内部の詳しい状況まではわからないけど、その代りちょっと面白い事が書かれてるわ」

 

 

「面白い事・・・ですか?」

 

 

「コスモプロセッサの管轄は神魔族にあるから、あそこは一種の空白地帯だったのよ。ただ日本国内でもあるし、何らかの取引が行われているんじゃないかと、余計な心配した人たちも大勢いてね。で、当時あの場所はいろんな国の諜報機関が、頼まれてもいないのに常時監視してくれていたわけ。日本の警察も当然警戒していて、結局撤去作業が終わるまでそんな調子がしばらく続いたみたいなんだけど・・・」

 

 

そこで言葉を切った美神はファイルからGメンの資料を取りだし、おキヌに渡した。頬をひくつかせた彼女が僅かに躊躇し、それでも好奇心が勝ったのか資料を受け取る。ペラペラと頁をめくる音を聞きながら美神は説明を再開した。

 

 

「悪魔が侵入したと思われる時間帯、どの国の諜報機関にも全く動きはなかったそうよ。なかには大掛かりな霊体センサーまで持ち込んでたのもいたらしいけど、そいつらも反応なし」

 

 

「え・・・?」

 

 

「もしコスモプロセッサに侵入した不審者がいたんだとしたら、内部の警備云々よりまず最初に外部が反応したでしょうね。でもそんな騒ぎは起こらなかった」

 

 

「ど、どういうことですか?」

 

 

「ワルキューレの資料を全面的に信じるとすれば、逃亡した魔族は監視している全員の目を盗んでコスモプロセッサに侵入し、警備を担当していた魔族のエリートを、やっぱり誰にも気付かれる事なく皆殺しにして異世界に逃亡したことになるわ・・・大した悪魔よね」

 

 

「そんな事・・・可能なんでしょうか?」

 

 

「間違いなく無理よ。警備を排除するまではできるかもしれない。ただ、それをあの晩あそこにいた全ての目から逃れて実行するなんてできる訳がない。もしもそんな真似ができる奴がいたとしたら・・・」

 

 

厳しい表情で資料を睨み付けた美神が意味ありげに言葉を切った。

緊張したおキヌがゴクリと生唾を飲み込む。

 

 

「・・・いたとしたら?」

 

 

「間違いなくアシュタロス級の魔神でしょうね。横島君が勝てるわけないわ」

 

 

実際には横島が全員倒している。ならばそんな魔族はいないという事だ。

だがそうだとすれば・・・。

 

 

「ワルキューレの資料は嘘ってことになる。彼女自身がその事を知っていたのかは分からないけど」

 

 

言葉に出しつつ考えてみる。資料が作成されたのは誰の意図によるもので、その目的はなんなのか。自分たちを巻き込んだのも誰かが仕組んだ必然だったのか。一応ワルキューレ本人に問い質してみるつもりはあるが、美神の勘ではおそらく彼女は何も知らない。もっと特別な策謀の匂いがする。美神は喉の渇きを覚えて紅茶を飲みほした。僅かな苦みが脳を刺激する。

 

 

「四人目・・・か」

 

 

湿らした唇から吐息がこぼれた。横島が見たという、いるはずのない悪魔。こうなってくるとその四人目が謎を解く手がかりなのかもしれない。

 

 

「なんにしろ・・・私をコケにしようとしてる奴がいるなら、思い知らせなきゃなんないわよね」

 

 

犬歯を尖らせた美神が不敵に微笑んだ。その笑みを見たおキヌが体を震わせて椅子から転びそうになり悲鳴を上げる。そんな彼女を見返しつつ美神は言った。

 

 

「おキヌちゃん。もしこれから依頼が来ても、しばらくはお休みですって言っといて頂戴」

 

 

「え、なんでですか?」

 

 

体勢を立て直したおキヌが、椅子のヘリにつかまりながら問いかける。

美神は肩にかかった亜麻色の髪をかき上げて宣言した。

 

 

 

 

「私たちも行くからよ。異世界にね」

 

 

 

 

 


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