ある人の墓標   作:素魔砲.

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湿った空気をかき乱しながら、肌寒さを感じさせる風が通り抜けていく。雨水が風に翻弄され、夕映を打ち付けていた。反射的に目を閉じ、顔を拭う。水に濡れて額に張り付いた前髪に、むず痒さをおぼえて片手で払いのけた。首元に息苦しさを感じて、制服のリボンの結び目を乱暴な手つきで無理やり解く。

 

連続して起こる予想もできなかった事態に呆然としていたからだろう。だらしなく開いていた口元から一筋の涎が滴り落ちた。普段なら赤面しながら慌てる場面だ。しかし今の夕映にはどうでもいい事だった。そんな無駄な事に脳細胞を使う余裕が一切なかったからだ。

 

夕映の瞳にのどかが映っていた。黒い悪魔の隣に親友が立っている。顔から表情が失われ、目には光がない。虚ろに開かれた瞳は倦み疲れ果てていた。力なく垂れ下がった両腕が、ぶらぶらと風に揺られている。頼りなげなその姿にそのまま倒れこんでしまうのではないかと心配になる。彼女はまるで怪談に出てくる幽霊のように、生気を感じさせない姿でそこにいた。

 

 

「の・・ぉ・か」

 

 

そんな彼女の名前を呼び掛けて失敗する。喉が詰まってまともに声を発することができなかった。意識して何度も唾を飲み込む。咳き込みながら呼吸を整え、今度こそ夕映はのどかの名前を呼んだ。

 

 

「・・・のどか」

 

 

蚊の鳴くような声が口からこぼれる。

自分の耳にさえ僅かにしか響いてこなかった。

 

動揺している。

 

頭の中の冷静な部分がそう判断していた。混乱して戸惑っている。訳が分からない事が多すぎて、叫びだしてしまいたくなる。そんな自分を持て余して夕映は両手で胸をギュウと押さえつけた。少しでも冷静さを取り戻そうと頭を振って激情を追い払う。そして、フワフワと地に足がついていない精神状態で辺りに視線を向けた。

 

自分たちを取り囲んでいた水の檻は、きれいさっぱりなくなっている。先程突然消失した。ヘルマンとすらむぃが何事かを話していた時、急に壊れたのだ。緊急の事態に慌てていたため誤って消失させたのか。それとも、もう人質を必要としてはいないのか。とにかく言えるのは、再び檻を作って夕映達を閉じ込めようとはしていないようだ。

 

ふと気になって隣を見ると、刹那に縋り付き木乃香が泣いている。その横ではいまだに意識を取り戻していない那波千鶴が倒れている。どうやら夕映達を捕らえていたものだけでなく、すべての水牢が一斉に消えたようだった。

 

 

「しかしよくやってくれたな、のどか。お前のおかげでなかなか上等な体を乗っ取れたぜ」

 

 

声が聞こえて、夕映は視線をのどか達に戻した。悪魔が彼女を労っている。鉤爪のついた大きな手でグリグリと頭を撫でていた。些か力が強すぎるためか結構な勢いで左右に揺れている。それでも彼女は嫌がる様子もなく無表情でされるがままになっていた。そんな態度がお気に召さなかったのか、悪魔は首を傾げて訝しげに声を掛けた。

 

 

「おいおい、ちょっとは喜んだらどうだよ。お前の望み通りなんじゃないのか?この展開は。結局親友は死なずに済んだし、思い人も生きてる。万々歳だろ?」

 

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 

「ちっ。おい、のどか!・・・・・わらえ」

 

 

突然機嫌を損ねた様子で不機嫌に吐き出された言葉に、ビクリとのどかの身体がのけ反った。そして彼女は悪魔に言われるがまま、無理やり口元を動かし歪な表情で壊れた笑みを浮かべた。

 

 

「よしよし、やればできるじゃねーか!・・・まぁ、ちょおっと目が死んでるし、笑顔も引き攣ってるけどな!OKOK!」

 

 

のどかの顔を覗き込みながら悪魔が笑った。のっぺりとした質感の表皮に不気味に光る二つの丸い穴とギザギザに尖った口しかないので表情はまるで読めないが、それでも声の調子は笑い声のそれだ。よく言えば豪快な悪く言えば下品に口元を震わせている。夕映はぼんやりとうまく働かない頭でそれを聞いていた。延々と同じ言葉が頭蓋骨に反響して繰り返される。

 

 

・・・親友は死なずに済んだ。

 

・・・思い人も生きている。

 

・・・万々歳。

 

 

(・・・・・死なずに・・・済んだ?)

 

 

ふと何かが引っ掛かり、霞がかった思考が少しだけクリアになる。

恐れや躊躇が一時的に吹き飛び、気が付けば夕映は悪魔に問いただしていた。

 

 

「どういうことですか?」

 

 

ほとんど無意識だ。頭の中に浮かんだ疑問が勝手に口から飛び出していた。それでも疑問を直接口に出したことで、夕映は何が引っ掛かったのか、ほんの少しだけ分かった気がした。

 

今の言葉は聞き捨てならない。のどかの望み。親友。思い人。死なずに済む。具体的な事は何一つわからないが、断片的なそれらの単語だけでも不穏な気配が漂っている。

 

のどかが何らかの形でこの悪魔と関わりを持っているのは、今の二人の様子からするともはや疑いようがない。しかし考えてみれば何故そんな事になっているのか、事の経緯が全く分かっていないのだ。それに、あの悪魔の様子も何か変だ。妙に親しげで馴れ馴れしくのどかに接している。まるで突然別の人格にでもなってしまったかのように性格が変わっている。

 

目の前にいる悪魔はヘルマンと名乗った老人が変貌した姿のはずだ。夕映はそれを両の目でしっかりと見ていた。確かにあの老人は夕映達を浚ってここに監禁した張本人であったが、少なくとも紳士的ではあった。何らかの目的があってネギ達と戦っていたらしいが、夕映達人質には手を出すつもりはないとも言っていた。現にすらむぃが暴走した後もヘルマンは彼女を止めようとしていた。実際あと少しで彼女の凶行は抑えられたはずだ。

 

だが・・・。

 

水牢が破壊されたあの時、のどかが彼に何かをしたのだ。あまりに急な出来事だったのではっきりとは見えていなかったが、その後だ。彼が突然苦しみだし、今のように人が変わったのは。それからの事は混乱のさなかにあったためか記憶が曖昧としているが、確か妙な事を言ってはいなかったろうか?

 

 

(のどかのおかげで上等な体を乗っ取れた・・・?)

 

 

そんな言葉を聞いた気がする。・・・体を乗っ取る。もしそれが言葉通りの意味なら。

 

 

(信じられませんが、ヘルマンさんと目の前の悪魔は・・・・・別人?)

 

 

夕映は緊張のあまりブルブルと震えそうになる体を両腕で抱きしめながら口を開いた。

 

 

「教えてください。のどかに何をしたですか?それにあなたはヘルマンさんじゃ・・・」

 

 

「あん?そんな事が気になるのか?綾瀬夕映」

 

 

「私の名前を・・・」

 

 

「当然知ってるさ。のどかの親友だからな。お前だけじゃない。お前らのクラスにいるやつなら全員の名前を言えるぜ」

 

 

まるでそれが当たり前の事であるかのように言い放つ。そして指折り数えながら、本当に出席番号順に名前を呼び始めた。悪魔の口から、クラスメイトの名前が次々と呟かれる。軽い調子で一切のよどみがない。本当に記憶しているようだ。やがて、クラス全員分の名前を言い終えると、あっているかと確認してきた。夕映が思わず首を縦に振ると悪魔は満足そうに頷いた。

 

 

「な、なんで・・・?」

 

 

「あ~、そこら辺の事情を教えてやってもいいんだが、その前にする事がある。綾瀬夕映、朝倉和美の携帯で横島を呼び出せ」

 

 

「え?」

 

 

「朝倉和美の携帯なら番号が登録されているはずだろ?ちゃちゃっと呼び出してくれ」

 

 

「ちょ、ちょっと待ってください。横島って・・・横島忠夫さんですか?」

 

 

唐突に最近知り合ったばかりの知人の名前が出てきたことで、夕映は思わず聞き返していた。

 

 

「ああ、そうだ。奴に用があるんでね」

 

 

「よ、用って・・・何であの人が・・・」

 

 

「まぁいいじゃねーかそんな事は。そいつも後で話してやるよ。それに質問も結構だが・・・早くしないと、思わず肩に力が入っちまうぜ?」

 

 

悪魔が夕映に顔を向けながら、これ見よがしにのどかの肩に手を置いた。鋭く伸びた鉤爪が首筋を撫でている。分かりやすい脅しだ。しかしそれが分かったからといって、どうすることもできなかった。夕映は悔しそうに唇を噛みしめ、それでも言われた通り和美に近づく。そして怖くなってピタリと動きを止めた。あまりにその姿が静かすぎたからだ。床に横たわる彼女は表面的にはただ意識を失って倒れているようにも見える。しかしよく見ればそうでないことは明白だった。

 

だらりと手足が投げ出され、血の気を失った肌は不自然なほど青白かった。大きめの胸は、規則正しく上下することもない。よくできた人形のようだ。心のどこかでそう思った。いつもしているヘアピンが外れ、前髪が顔の上半分を覆い隠している。どんな表情を浮かべているのか、ここからではよく見えなかった。その事が幸運だったのかそれは分からない。だがもし和美の顔が見えていたら、夕映はいつまでも尻込みしたまま、彼女の体をまさぐって携帯を探す事はできなかっただろう。

 

覚悟を決めて身を乗り出し、和美の体にそっと手を伸ばす。ひんやりとした感触が掌に伝わり、夕映は泣きそうになった。眉間に力を入れて、緩んだ涙腺に活を入れる。震えて思う通りに動かない体にやきもきしつつ、なるべく余計な事を考えないように心掛けた。

 

和美が着ている制服のベスト。その脇についているポケットから探すことにして、ガサガサと遠慮がちに手を突っ込み有無を確認する。服が雨に濡れて湿っているせいでなかなかうまくいかない。どこか固くなっているように感じる彼女の体に触れながら、夕映はひたすら捜索に没頭した。しばらくはそんな調子で探していたのだが、思いつく限りの場所を探しても彼女の携帯は一向に見つからなかった。

 

そもそも探すべき個所がほとんどない。ポケットの類は全部探したし、念のためスカートの中にまで手を入れた。それでも見つからない。のどかを探し回っている時に携帯で連絡を取り合っていたので、寮に置いてきたという事はないはずなのだが・・・。

 

焦りで変な汗が額に滲む。いつあの悪魔がヒステリーを起こすか気が気でないのだ。短気を起こしてあいつがのどかに何かをする前に携帯を見つけなければならなかった。とにかくもう一度最初から探そうと和美の体に向き直る。だがその時、ふと思いついてステージの床に視線を落とした。

 

ざっと周りを見回す。そして夕映はぽかんと口を開けた。誰かが蹴とばしたのか先程いた場所から遠く離れたところに和美の携帯があった。これではいくら探しても見つからないはずだ。

 

長時間座りこんだままだったためうまく動かない膝に力を入れて立ち上がる。バランスを崩して倒れそうになりながらも夕映は足を動かし前に進んだ。携帯の元までたどり着き、拾い上げる。多少雨に濡れてはいるが壊れてはいない。問題なく使えそうだった。

 

液晶画面を見ながら携帯を操作し、登録してある番号から横島の名前を探して通話ボタンを押した。呼び出し音が鳴る。頼むから出てくれと空中を睨み付けて念じながら、夕映は重い空気を吐き出した。

 

 

「もしもし、和美ちゃんか?どした?」

 

 

少し眠たそうな間の抜けた声が電話越しに聞こえる。寝起きだったのかもしれない。まだそんな時間ではないはずだが、昼寝でもしていたのか。こちらの状況など一切分かっていないのだろうし責めるのはお門違いなのかもしれないが、耳に聞こえてくる無自覚なその呑気な声に夕映は眉をしかめた。

 

 

「和美ちゃん?」

 

 

押し黙って無視していたからか、訝しげに名前を呼ぶ声が聞こえた。和美の携帯電話を使っているので当然だが、夕映の名前ではなく和美の名前を呼んでいる。その事を意識した時、不意に夕映の心に悲しみがあふれてきた。

 

 

和美は・・・・・もういないのだ。

 

 

和美と過ごした思い出が脳裏をよぎる。彼女にはなにかと世話になっていた。修学旅行では学生服を着た白髪の少年に襲われたところを、体を張って庇ってくれた。今日だってそうだ。のどかの事で頭に血が上っていた自分に協力して、探すのを手伝ってくれた。いつもカメラ片手にスクープを探していて、ときどき妙な事を企んでは騒ぎを大きくさせたりもしていたが、意外に分別がある事も知っている。なんだかんだで優しい性格をしているのだ。そんな事を本人に言えば否定するかもしれないが・・・。

 

 

(・・・否定・・・・・・する・・・かも・・・)

 

 

ポロリと涙がこぼれる。慌てて止めようと目元を押さえて、握っていた携帯を落としそうになった。視界が歪み、声が震えそうになる。呼吸するたびに肺の奥が熱くなり、その空気が喉を通って口から出ていく。俯いた顔を伝って、次々と涙が地面に落ちていった。悲しい・・・とても悲しい・・・何でこんなことになったのか、答えの出ない疑問で頭がいっぱいになる。

 

 

「・・・・・・・・和美・・・ちゃん?」

 

 

こちらの様子がおかしい事に気付いたのか、困惑したような低い声が聞こえてくる。

夕映はその言葉に答えようとして、涙声で彼の名前を呼んだ。

 

 

「・・・・・・・・・・・横島・・・さん・・・」

 

 

途切れ途切れで、聞き取り難い。こんな声量では相手に伝わらないかもしれない。電話越しならなおさらだ。しかしこれが今の夕映にできる精一杯だった。本当は顔を押さえて蹲ってしまいたかったのだ。何も考えずに感情のまま泣いてしまいたかった。それでもそんな贅沢が許される状況でないのは、よく理解していた。今ここで自分が折れてしまえば、のどかを裏切ってしまう。その気持ちだけが夕映を支えていた。

 

 

「・・・・・君は・・・夕映・・・ちゃんか?」

 

 

少しだけ驚いて顔を上げる。横島はたった一言で話しているのが和美ではない事に気が付いたらしい。時間がない状況でいちいち説明しなくて済むのは正直助かる。それでも確信が持てているわけではないのか若干自信がなさそうだ。

 

夕映はとにかくもう一度何か言おうと口を開きかけて・・・何も言い出せずに声を詰まらせた。・・・・・・・何と言えばいいのか分からなかったのだ。

 

悪魔は横島をここに呼び出せと言っていた。彼に用があるのだとも。それがどんなものなのか理由を知らされてはいないが、どうせろくでもない事のはずだ。問答無用で命を奪われるかもしれない。そんな状況に何も知らない彼を巻き込んでいいのだろうか?持っている携帯を握りしめる。

 

・・・だが、だがもしここで悪魔の言う事に逆らえば、のどかがどんな目にあわされるか分かったものではない。一応、彼女と悪魔は協力関係を結んでいるようにも見える。しかし、それが唯一無二であるという保証はどこにもないのだ。万が一にでものどかが傷つけられる可能性がある限り、あの悪魔に逆らうわけにはいかなかった。

 

夕映は唇を噛んで、心の中で電話の向こうにいる横島に何度も頭を下げた。そんな事をしたところで許される訳がないのは分かっていた。友達を助けるためと、綺麗事を口にしても意味などないのだと。それでも、夕映はどうしてものどかを助けたかった。たとえそれで無関係な人間を巻き込むとしてもだ。

 

・・・・・・・・・・・それに、実を言えば、頭の中である考えが浮かんでいた。

 

夕映が初めて横島を見た時のことだ。常識と現実が揺らぎ、空想と非日常が溢れていた京都の夜。すべてが終わって誰もが安堵していたその場所に、何故か横島がいた。彼はひどく調子を悪そうにしていて、連れの女の子に肩を借りていた。

 

そして慌ただしく帰ってしまったので、その時は結局何も話せなかったのだが、考えてみればあの場に彼がいた事自体がおかしいのだ。夕映のようにただ巻き込まれただけの一般人である可能性もある。だが、南の島で魔法使いであるネギが言っていた。

 

・・・京都で横島に助けられたと。

 

もし、・・・もしそれがあの時のことを指しているのだとすれば。

 

 

「・・・・・・・・・けて・・・だ・い」

 

 

乾いた口の中で舌が張り付き、うまく発音できなかった。自分は勘違いをしているのかもしれない。そんな思いが頭に浮かぶ。彼は本当に何の力もないただの一般人で、夕映が考えているようなことはないのかもしれない。絶望的な状況で藁にも縋りたい思いが、取るに足らない願望を生み出しているのかもしれなった。

 

それでも、それがどんなに僅かな可能性だったとしても、夕映はどうしてもその考えを捨てることができなかった。

 

 

「たすけてください」

 

 

胸の奥はドロドロと熱いのに出てきた声は冷たかった。もっと必死になって助けを呼ぶべきなのに、自分の感情をうまく言葉に乗せられない。その事に焦ってみても、どうしても感情と口調に齟齬があった。

 

 

「・・・お・・・おねがい・・・します。・・・のどかを・・・私の友達を・・・どうか・・・」

 

 

自分の言葉は彼に届くだろうか。こんな事をいきなり言い出して悪戯だと思われないだろうか。そんな不安が頭をよぎっていた。祈るような気持ちで横島の返事を待つ。

 

 

「・・・・・・・夕映ちゃん。・・・君は・・・」

 

 

彼が何かを言いかけて夕映が思わず息を止めてその言葉を聞こうとしたその時、突然頭の上から伸ばされた太い腕が持っていた携帯を奪い取った。

 

 

「聞こえたか?横島忠夫」

 

 

悪魔が鉤爪を器用に操って、携帯を挟み込んでいる。窮屈そうに耳に当てながら横島に話しかけていた。

 

 

「なっ、なんだ!?夕映ちゃんの声がいきなり野太いおっさん声に!」

 

 

「・・・・・・・おっさんで悪かったな」

 

 

「お前誰だ!?夕映ちゃんはどうした!?」

 

 

「綾瀬夕映は隣にいるよ。俺が誰なのかは・・・まぁ、だいたい想像がつくんじゃねーか?」

 

 

「・・・・・・・夕映ちゃんのお父さんじゃねーよな」

 

 

「違うわっ!!ったく、めんどくせーなお前は。・・・もういい、用件だけ言うぞ。今から言う場所に一人で来い。なるべく急いで来いよ。あんまり遅いようだと、どんどん死体が増えていく・・・」

 

 

「し、死体って・・・ナチュラルに物騒な事言いやがって・・・」

 

 

「物騒な話だからな。いいか、必ず一人で来い。もし仲間を呼んできやがったら、人質の命はねーと思え」

 

 

「人質?ちょっ、ちょっと待て!一体何が起こって・・・」

 

 

悪魔は簡潔にここの場所だけを告げて会話を切り上げると乱暴に携帯を放り投げた。放物線を描き地面に落下しそうになるそれを、夕映が慌てて受け取ろうとする。掌の上で二回ほど跳ねた携帯電話をかろうじてキャッチして安堵の息をつく。悪魔が皮肉まじりの声を掛けてきた。

 

 

「もう持ち主もいないのに、そんな大事にすることはないだろう?」

 

 

その言葉を言い放った悪魔を夕映は反射的に睨み付けた。悪魔は大げさに、おお怖い怖い、などと言って肩をすくめている。そして舞台を降りると、客席の一つに腰を下ろした。メキリと音を立てて椅子がきしむ。そして夕映に向き直り、こう言った。

 

 

「それじゃあ、答えてやろうか。何が聞きたい?」

 

 

「・・・え?」

 

 

「約束したろう?事情を説明してやるって。横島忠夫が来るまでの暇つぶしだ。答えられることなら答えてやるぜ」

 

 

確かにそんな事を言っていたような気がしたが、まさか本気だとは思わなかった。あまりの都合のよさに驚いて目を見開く。疑心に心がざわついていて夕映は表情を曇らせた。

 

今の言葉を素直に受け取るべきだろうか・・・。正直、この悪魔の人格を信じる気には到底なれないのだが。取引の基準を明確にせず、一方的にこちらに事情を説明した後で無理やり何かを要求する・・・そんな事も普通にありえそうだ。しかしこれが好機だという事も確かだった。向こうが勝手に説明してくれると言うのなら、素直に聞いておくべきだ。

 

夕映はそう心に決め、まず初めに一番気になっている事から聞くことにした。

 

 

「・・・あなたは、のどかに何をしたですか?」

 

 

「そんな大した事はしてないさ。ただ人探しを頼んだだけだ」

 

 

「人探し?」

 

 

「ああ。俺はちょっとした事情で元いた場所からここに逃げてきたんだが、ご苦労な事にわざわざ追いかけてきた連中がいてね。一緒に逃げてきた仲間はそいつらに殺された。そんなわけで、ただ逃げ回っていてもいずれは見つかっちまうと思ってな。こっちからそいつらをあぶりだしてやろうと考えたんだよ。つまり、のどかには追跡者が誰なのか探してもらっていたんだ」

 

 

膝に肘をついて、手の上に顎を乗せた悪魔が淡々と説明する。

どこかけだるそうに見える。のっぺりとして表情がないので、気のせいかもしれないが。

 

 

「そんな・・・でも、なんでのどかに」

 

 

「別に最初から目を付けていたわけじゃない。こいつを選んだのは偶々だ。つっても、全くの偶然って訳でもないけどな。俺はお前ら、麻帆良学園中等部3年A組に注目していたわけだから・・・」

 

 

「わ、私のクラスに?一体なんで」

 

 

「正確に言えば、ネギ・スプリングフィールド。神楽坂明日菜。エヴァンジェリンA・K・マクダウェル。絡繰茶々丸。この四人だな。ほかの連中は・・・まぁ念のためってところか」

 

 

「どういう・・・ことですか?」

 

 

「今言った四人は俺の仲間が死んだ時その場にいたからさ。ってことは、追跡者も間違いなくそこにいたはずなんだ。ネギ・スプリングフィールド達がその姿を見ていたかどうかは分からなかったが、二回も仲間の死に関わっているからな。うまくすれば追跡者と直接接触した可能性すらあった。注目しないわけがないだろう?・・・っと、重要な奴を忘れてたぜ。近衛木乃香もだ。こいつは俺の仲間に狙われた張本人だからな」

 

 

「狙われた?」

 

 

「俺たちはこっちに逃亡する際に、力の大半を失っちまってたんだよ。それを補うためには莫大な魔力が必要だった。それが潜在的なものであっても、魔力量さえ多ければそれでいいからな。未熟な魔法使い。力を封じられた吸血鬼。魔法の事なんざ全く知らないただの素人。そんな奴らでも、・・・いやそんな奴らだからこそ、狙いやすかったわけだが。・・・心当たりがあるだろう?ネギ・スプリングフィールド」

 

 

「えっ!?こ、心当たりって言われても・・・」

 

 

突然話を振られたネギが、ビクリと肩を震わせる。戸惑う仕草でモゴモゴと口ごもっていた。実は先程から何度かこちらに接近しようと試みていたネギと小太郎だったが、そのたびにすらむぃの妨害にあっていた。と言っても直接邪魔されているわけではなく、人質を盾にされてだが。もはや涙すら枯れたのか全く動こうとしない木乃香の近くに、すらむぃが陣取っているのだ。あれでは迂闊に手が出せない。

 

それに夕映達の会話にも全く興味がないというわけではないだろう。生徒たちの事は気がかりだが、この訳の分からない状況を説明してくれるのなら、話を聞くべきだと思っているのかもしれない。悩むように俯いていたネギだったが、やがて何かに気付いたのか慌てて顔を上げた。

 

 

「まさか、大停電の時の!」

 

 

「京都の時もだ。お前らは俺の仲間に会っている。おそらく追跡者にもな。ま、その事はある程度予想できていたんだが、それでも確信は持てなかった。確信が持てないままお前たちに不用意に接触すれば、逆に追跡者に俺の存在が発覚する恐れもあった。そこで俺は、なるべく自分の気配を消したままでお前らに近づくことにしたのさ」

 

 

長々と話していても、その語調に乱れはなかった。声の調子にも淀みがない。論旨にも筋が通っているように聞こえたし、矛盾があるわけでもなさそうだ。少なくとも嘘をついているようには見えなかった。もっとも、しっかりと表情を作れる程、顔の造形に起伏がないので断言はできないのだが。そんなこちらの考えなど一切関係なく悪魔が話を続ける。

 

 

「都合のいい事に俺の能力はそういう諜報向けの仕事に打って付けだった。それでも一応警戒して、関係者と直接接触することは控えて、その周辺にいるやつらから探りを入れることにしたんだが・・・。そこで偶々俺の目に留まったのが・・・のどかだった」

 

 

悪魔がのどかのいる方向に顔を向ける。彼女は相変わらずの無表情だ。ただ静かに遠くを見ている。自分の名前を呼ばれ、自分の事が語られようとしているのに、そんな事にはまるで関心がない様子だった。

 

 

「・・・・・あるところに。一人の女の子がいました」

 

 

突然、悪魔が語り口を変えて話し始めた。低いバリトンボイスで紡がれていく言葉は、妙に響いて耳の奥にこびり付く。昔話の定型句から始まった物語は一定のリズムで語られていった。

 

 

「その女の子は内気で引っ込み思案な性格をしていました。恥ずかしがり屋な女の子は、わざと前髪を伸ばして、なるべく人と目を合わせないようにしているくらいでした。静かな場所で本を読むのが好きで、クラスメイトからは本屋なんて呼ばれてもいました。

 

けれど本当は、内向的な自分の性格を何とかしたいと常々思っていました。そんな時です。女の子の前に一人の男の子が現われました。その男の子は自分の目標をしっかりと持っていて、それに向かって努力する事を惜しまない人でした。自分とは違う。まるでキラキラと輝いているように見えるその男の子の事を、女の子はいつしか好きになっていました。

 

ある時、女の子は決心します。男の子に告白する事を。なけなしの勇気を振り絞り、おろしていた前髪を上げて、男の子を呼び出した女の子はドキドキしながらとうとう自分の気持ちを彼に伝えました。

 

結果は・・・・・・・よくある先延ばしというやつでした。好きでも嫌いでもない。

 

何ともはっきりとしないその結果に、それでも女の子は満足していました。なぜなら自分の気持ちを彼に伝える事ができただけで満足だったからです。けれど・・・けれど本当は、とてもとても気になっていました。男の子が自分の事をどう思っているのかを。

 

そんな風に心の奥ではずっとヤキモキしながら日々を送っていた女の子でしたが、肝心の男の子は一向に明確な返事をしてはくれませんでした。それどころか、別の女の子とどんどん仲良くなっていく始末です。自分の告白は忘れられてしまったのか。男の子にはもう別に好きな女の子がいるのか。不安に胸を締め付けられていた女の子は、とうとうしてはならない事をしてしまいます。

 

人の心を読む事ができる魔法の本を使って、男の子の心の中を覗き見てしまったのです。普段はそんな事を考えもしない女の子でしたが、その時はどうしても我慢が出来なかったのです。魔が差してしまったのでした。

 

それを・・・・・本物の悪魔に見られているとも知らずに・・・・・・・」

 

 

それこそ本の内容を読むように、のどかの心を暴いていく。悪魔は静かに語り終えると元の口調に戻って再び口を開いた。

 

 

「いどのえにっき・・・って言ったか?あの本。随分と便利だよなぁ。表層意識しか読む事が出来ないって縛りはあるが、それも使いようだ。まぁそんなわけで、俺はのどかを利用する事を思いついた。俺があいつにした頼み事は二つ。一つは追跡者の正体を突き止める事。そしてもう一つは、俺が憑代を得るために協力する事だ」

 

 

「憑代?」

 

 

「さっきも言ったが、力を失っていた俺達には膨大な魔力が必要だったんだ。そいつを得るには魔力の保有者に憑りつく必要があるのさ。候補者はいたんだが、俺が自力で接近した場合、力を失った状態では下手をしたら霊力が一切ない奴にも殺されかねなかった。本命に近づくためには、まず協力者が必要だった。のどかにはそれを頼んだんだ」

 

 

「待ってください!」

 

 

ただ相槌を打ってなるべく話の腰を折らないようにと心がけていた夕映だったが、その言葉だけはどうしても流す事ができずに思わず声を張り上げていた。

 

 

「憑りつくって言いましたか?じゃ、じゃあやっぱりあなたは・・・」

 

 

「ヘルマンじゃあねーぞ。あのおっさんはもういない。体だけ頂いて俺が食っちまったからな。でもまぁ、本当はこいつの体を乗っ取る予定じゃなかったんだけどな。俺とのどかが誘拐されたのは、あくまで偶然だしよ」

 

 

「え?」

 

 

「本来の憑代候補は別にいたのさ。俺がのどかにプレゼントして貰うはずだったのは・・・誰だと思う?ネギ・スプリングフィールド」

 

 

背中にある蝙蝠羽を羽ばたかせ、矢印のような先端をしている尻尾をプラプラと揺らしている悪魔が、再度意味ありげな視線をネギに送った。

 

 

「・・・え?、だ、誰って・・・」

 

 

またしても急に話を振られたネギが、うまく答えられずに聞き取りずらい声を上げる。

 

 

「分からねーかなぁ。すげー簡単な話だぜ」

 

 

「そ、そんな事言われても・・・」

 

 

「それじゃヒントをやろうか?一つ、憑代候補は莫大な魔力を持っていなければならない。一つ、そいつはできるだけ、すっとろい奴の方がいい。のどかの手におえる位のな。最後に、すげー分かりやすいヒントをやる。そいつは・・・・・10歳のガキだ」

 

 

困惑した様子で悪魔のヒントを聞いていたネギが、限界まで目を見開いた。唇が震えて、持っていた杖がカランと音を立てて床に転がる。そして呆然としたまま、視線を舞台にいるのどかに向けた。

 

 

「わかったか?お前だ。お前こそが本来の憑代候補だった。そいつをのどかに告げた時、あいつは泣いて懇願したぜ?どうかやめてください、お願いしますってよ。でもなぁ、お前みたいな優良物件は、なかなかいなかったんだ。

 

強大な力を秘めてる割に、精神年齢は年相応。ユルユルに油断していて隙だらけ。そういった意味じゃ、力を封印されているエヴァンジェリンの方が遥かに厄介だった。あいつはちゃんとその事を自覚していて、なかなか隙を見せなかったからな。なもんで、俺はのどかのお願いを却下しようとした。あの吸血鬼はのどかの手には余る。無理だってな。

 

だが同時に少し可哀想にもなってね。ネギ・スプリングフィールド。お前はのどかの思い人だ。そいつをのどか自身の手で、俺に差し出させるのは流石に心が痛む。

 

だから・・・・・賭けをした」

 

 

「・・・・・・・賭け?」

 

 

「ああ、もう一つの目的。追跡者の正体を俺が設定した期限以内に暴くことができれば、ネギ・スプリングフィールドの身体は諦めてやるってな。それからののどかは見物だったぜぇ。今までタブー視していた覗き見を、誰彼構わずやっちまった。

 

俺が追跡者は3年A組の近くにいるかもしれないと言えば、クラスメイトの心を覗いた。それから段々と怪しい人物を絞り込んでいき、僅かな可能性でも拾っていく。そんな事を繰り返していくうちに、のどかは弱っていった。心優しいのどかには負担だったんだな。

 

クラスメイトと距離を置き、心配してくれる親友を拒絶した。だってどの面下げて接すればいいんだ?勝手に心の中を覗き見てるんだぜ?そりゃ、いつも通りではいられないだろう?だがその甲斐あって、のどかはとうとう見つけたんだ。追跡者をな。そいつは意外にものどかと面識のある男だった。そいつの名は・・・横島忠夫といった」

 

 

呆然としながら、夕映はそれを聞いていた。ポタリと雨に濡れた髪から、雫が滴り落ちる。首筋を濡らし、背中まで伝っていく。眩暈を起こしたように、クラクラと足元がふらついた。頭の中が真っ白になり、その空白を悪魔の言葉が埋めていった。次々と語られていく言葉の意味を、うまく理解する事ができない。役立たずの脳は耳から入ってくる文字をひたすら記憶するレコーダーのようなものだった。

 

のどかが・・・夕映にとってかけがえのない友達が、悩んでいる事には気が付いていた。話し掛けてもいつもどこか上の空で生返事をしていた。教室でも気が付けば下を向いていて、気分がすぐれない様子だった。

 

そんな彼女が心配だったから、何度も相談に乗ると声を掛けた。それがどんな悩み事であったとしても力になれるつもりだったのだ。しかし、そんな風に思い上がって言葉を掛ける度に、のどかは傷ついていたのか。クラスメイトを、友達を騙している事に、自責の念を抱いていたのか。

 

 

「そうだ。お前らも知ってる、あの間抜けだよ。綾瀬夕映。お前この間あいつと飯食った時の事を覚えてるか?実はあの時、のどかは横島の心を読んでたんだぜ?こっちで会話を誘導する前に余計な事を考えていたみたいで都合がよかったんだがな・・・。

 

あれで確信できた。あいつこそが追跡者だった。のどかは見事に俺の期待に応えてくれたよ。だからご褒美に、お願いを叶えてやる事にしたんだ。ネギ・スプリングフィールドの身体からは手を引く事をな。

 

まぁ・・・・・・・・・代りに、別の憑代を要求したんだがね」

 

 

椅子に深く座り直し悪魔は言葉を続ける。

 

 

「俺がネギ・スプリングフィールドの代わりに選んだのは・・・」

 

 

そして視線を絶望に沈んでいる木乃香に向けた。

 

 

「おまえだ、近衛木乃香」

 

 

雨が強くなっていく。灰色のキャンパスに白い線を書き殴ったような光景が悪魔の姿を朧にさせた。強風に煽られて、周囲にある木々がザワザワと不吉な音を立てる。天空に光が生まれる度、身が竦むように轟音が鳴り響いた。それらの音の中にあっても全くかき消される事なく、悪魔の囁きはその場にいる者たち全員に平等にもたらされる。

 

 

「そう、のどかのクラスにはもう一人、与し易そうな奴がいた。凄まじい力を持ってはいるのに、それを全く生かし切れていない娘がね。女の身体ってのが少々気に入らなかったが、それも我慢出来ないほどじゃない。

 

でもなぁ、のどかはまた俺の要求を拒否しやがったんだ。そんな事は無理だ!絶対できない!!・・・てな。泣いて縋り付き、仕舞いには自分の体を明け渡すとまで言いやがった。

 

ははっ、まぁそれがのどかと近衛木乃香の違いだ。大好きなせっちゃんの代わりに自分が死ぬとは言えなかったもんなぁ?

木乃香ちゃんよぉ」

 

 

その言葉を聞いた瞬間、自分が悪魔に狙われていたと聞いた時も全く反応しなかった木乃香の肩が、ピクリと揺れた。自分自身を抱きしめ、刹那の体に額を押し付ける。声を出さずに泣きながら、彼女は全身を震わせていた。その姿を鼻で笑い悪魔は再び語りだす。

 

 

「のどかの体も悪くはないが、それでも他の連中に比べりゃ見劣りする。今度ばかりは、いくらのどかの頼みでも受け入れる訳にはいかなかった。あっちもダメ、こっちもダメってんじゃ、俺はいつまでたっても体がないまんまだからな。心を鬼にして、要求を突っぱねようとした・・・んだが。

 

まぁ、ここまで頑張ってくれたからな。大サービスで選ばせてやったんだ。・・・どっちにするか」

 

 

労いの後に、さらりと口に出したその言葉は途轍もなく軽いものだった。軽薄で綿毛のようにフワフワと空中に浮かんできそうだ。夕映は、この悪魔が冗談を口にしているのではないかと本気で疑った。

 

・・・・・選ぶ?選ぶってなんだ?悪魔に差し出す?好きな人と、友達を?

 

ぞっと背筋が凍る気がした。伝えられた事実に拒絶反応が起こる。辺り構わず叫びだしたい衝動があった。胸が苦しくなって、体を丸め呻き声を上げる。濡れた制服が皺になり、ポタリポタリと水が滴った。

 

目の奥がどうしようもなく熱くなる。瞳に水の膜が張り、視界が霞んで何も見えなくなってしまう。込み上げた思いが眼球を通して溢れ出てくる。とうとう堪えきれなくなって目の縁から零れ落ちていった。泣きすぎて荒れてしまった頬に涙がしみる。パシャリと微かな水音が耳に届いた。いつのまにか足元の小さな水たまりに膝をついている。立っている事もできなくなって、夕映はその上に両手をついた。

 

 

そんな・・・そんなのは・・・・・あんまりだ・・・・・あんまりではないか・・・。

 

 

(・・・・・のどか・・・)

 

 

喰いしばった歯の間から、小さく嗚咽がこぼれる。伏せたまつ毛から次々と落ちてくる涙が、床の水たまりに落ちて一体となった。

 

 

「のどかは・・・どっちを選んだと思う?綾瀬夕映・・・」

 

 

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 

「ちなみに期限は今日まで。ここ数日、のどかは学校を休んでたろ?食事を取る事も、満足に眠る事も出来ずに、あいつは苦悩し続けたんだ」

 

 

語る言葉が止まらない。不快で汚らわしいその声がただその場に流れ続ける。

 

 

「悩んで悩んで悩んで悩んで悩んで悩んで悩んで・・・そして・・・・選べなかった」

 

 

その苦悩こそが聖人のそれであるとでも言いたげに、のどかを見ながら悪魔が優しい声で呟く。座っていた椅子から立ち上がり、ゆっくりとした足取りで、再び壇上に登った。そしてのどかの元まで歩いて行き、隣に並び立つ。

 

 

「そう、のどかは結局どちらを俺に売り渡すか選べなかった。それが何を意味するのか、本人が一番よく分かってたのにな」

 

 

呆れた様子で苦笑している。頭の上から降ってくるそれに反応し、夕映は力なく項垂れていた顔を上げた。視線が交差する。いつの間にか悪魔がこちらを見つめていた。顔を合わせ目が釘付けになる。

 

蹲った姿勢で見上げると、余計にその姿は大きくそして恐ろしく感じられた。生物的な質感を持った甲冑のような胴体と、体型に比べて不自然なほど長く伸びた手足を持っている。人間の姿だった時もかなりの長身だったが、今は二回り程全体が大きくなっているように見えた。節くれだった指先が鋭く伸びた鉤爪と一体となっており、軽く撫でられただけでも傷を負ってしまいそうだ。精巧な作りの仮面をかぶっているような顔立ちは、ある意味機械のようでもある。本来目や口があったその部分が、時々明滅するので余計にそう思えた。

 

その姿を視界にとらえ、夕映は暗い目をしたまま口を引き結んだ。正直に言えば、もうこの悪魔の言葉を何一つ聞いていたくはなかった。それでも脱力した両手では満足に耳を塞ぐ事もできない。勝手に届いてくる言葉によって、自分の魂が削られていく錯覚を感じながらここに居続けるしかなかった。その事に失望を覚えて、細く息を漏らす。見られていると自覚するだけで、何かが失われていくような喪失感があった。思わず目を伏せ再び俯く。後頭部に視線を感じたまま、夕映は小さな自分の両手を握りしめた。

 

 

「・・・全く、単純な計算だろうに。一人見捨てれば、二人は助かるんだぜ?にも関わらず、どっちも選ばねーってんじゃ、誰も救われねーのになぁ」

 

 

その言葉を聞いた途端、何かが引っ掛かって突然夕映の心がざわめき始めた。焦りが動悸を速めて血の巡りが速くなっていく。背中に寒気を覚えて体が僅かにふらついた。

 

・・・今、目の前にいる悪魔が妙な事を言わなかったろうか?

 

疲労しきった頭では満足に考える事も出来ない。それでも、薄い霧がかかったようなその思考で、無理やり答えを導き出そうとする。

 

一人見捨てれば二人助かる・・・・・・。

 

 

(・・・え?)

 

 

動揺が夕映の精神をかき乱す。混乱し、思わず声を上げそうになる。一人・・・二人?なぜ?そのままフリーズしてしまいそうな意識をかろうじて繋ぎ止める。夕映は何度も落ち着けと心の中で念じながら、ゆっくりと頭の中を整理した。先程の悪魔の言葉を脳内で再生する。

 

悪魔は言っていた。自分の憑代にネギと木乃香のどちらを選ぶか、のどかに決めさせたと。選ばれた方が悪魔に食われるのだとすれば、助かるのは選ばれなかったもう一人だけのはずだ。

 

・・・・・何故悪魔は二人が助かると言ったのか。

 

 

「二人・・・ってどういう事ですか?」

 

 

「あん?」

 

 

「今、二人助かるって言ったですよね」

 

 

「ああ、気付いたのか、綾瀬夕映」

 

 

顎を撫でながら、悪魔が笑う。この悪魔と向き合うたび、慣れる事のない恐怖に心臓が跳ねあがる。真綿に包まれるような圧迫感に身が竦みあがった。心が委縮し思わず下を向きそうになるが、なんとか耐える。どうしても聞かなければならないのだ。湧き上がってくる嫌な予感に怯みそうになりながらも、夕映は何とか踏みとどまった。

 

 

「のどかが・・・」

 

 

悪魔がチラリとのどかに視線を送る。彼女は相変わらず無言のままそこにいた。雨に濡れて重くなった髪は、吹きさらしの風にもなびくことはない。陰になってこの位置からでは顔がよく見えなかったが。

 

 

「のどかが、なぜこんなに俺の言う事に従順なのか・・・不思議じゃないか?」

 

 

質問に質問で返される。はぐらかされたのかと一瞬頭に血が上りかけるが自制する。表情がないので考えている事をほとんど読むことができないが、どうもそうではないらしい。話し掛けてくる悪魔の口調は、いっそ穏やかと言ってもいい程だった。試すように見つめてくる。それもただの勘違いなのかもしれなかったが、とにかく悪魔はこちらの答えを待っているように思えた。あんたがそれを言うのかと唇が吊り上りそうになる。夕映は頭に浮かんだ答えをそのまま返した。

 

 

「それは・・・あなたに脅されていたからでしょう?殺されると思えば誰だって・・・」

 

 

いまさら何を分かり切ったことをと不快に感じて目元を険しくさせる。自分の命をつりあいに出されれば従うしかないではないか。悪魔は納得したのか一度こちらに頷きかけると、それでも夕映の言葉を否定した。

 

 

「確かにな。だが俺は一度ものどかを殺すと脅した覚えはないぞ?・・・少なくとも直接的にはな」

 

 

「え?」

 

 

それは意外な事のように思えた。今までの経緯から当然そんな事を繰り返しているのだとばかり思っていたのだが。

 

 

「考えてもみろ。好きな奴と友達を天秤にかける事が出来なくて、自分の体まで差し出そうとした女だぞ?てめーの命惜しさで俺に服従すると思うか?別の理由があんだよ」

 

 

「別の・・・理由?」

 

 

「まぁ、実際に見せるのが手っ取り早いな。おい、”俺”。・・・起きろ」

 

 

その言葉が聞こえた瞬間。項の辺りで何かがゾワリと蠢いた。無理やり脊髄を引きずり出されるような、途轍もない悪寒が肌を粟立たせる。脳神経が焼き切れてしまいそうな衝撃が、チカチカと目の奥で火花を散らす。胃が収縮し、体温が上昇する。微かな痛痒感が、抑えきれない吐き気と熱を伴った恍惚を同時に引き起こす。

 

自分の体に突然起こった変化に耐えられなくなって、夕映は小さく悲鳴を上げた。何かが・・・異常な何かが自分の中から這いずり出てくる。黒く不吉で邪悪なその気配が急速に高まり、そして・・・・・それが現われた。

 

 

「ああ、出番か。よう、夕映。こうやって話すのは初めてだな」

 

 

耳の後ろから明るい声で話し掛けられる。いや正確には後ろの方からとしか分からない。方向性は不明瞭で、距離感がつかめない。すぐ近くであるような気もするし、すごく遠くであるような気もする。ただ一つはっきりしているのは、その声が目の前にいる悪魔と全く同じものであるという事だった。

 

 

「わっ!わああぁあ!!いぃぃいいやぁ、あああああああああ!!!」

 

 

例えようもない違和感に、全身の産毛が逆立った。こめかみから頭頂部にかけて引き千切るような勢いで髪をかき乱す。血の気が引いて眩暈がする。胃液が逆流し、喉を通って吐き出される。生理現象で目元に涙がたまり、鼻の奥が熱くなる。夕映は蹲ったまま、止める事も出来ずにひたすら嘔吐し続けた。その様子を”頭”の中にいる声が嘲笑う。おいおい、いきなり失礼な奴だなと、呆れた様子で嘆息していた。

 

 

「つまりそういうわけだ。のどかの親友であるお前が人質だったんだよ。俺のクローンは、本体のように体を完全に乗っ取れるわけじゃないが、一時的に肉体を操る位の芸当はできる。

 

綾瀬夕映。お前は眠っていたから知るわけないだろうが、俺はちょくちょくその体を操っていたんだぜ?のどかの脅しにお前ほど効果的な奴はいなかったからな。俺がちょいとカッターナイフを首筋にあてがってやると、のどかは面白いように言う事を聞いてくれた。

 

ネギ・スプリングフィールドと近衛木乃香。

 

どちらかを俺に差し出せば、残った方とお前の命は救われる。一人を失い二人が助かる。単純な計算と言ったのはこれさ。選べなかった時点で、お前は死ぬ・・・・・・それをのどかは知っていたんだ。だから、あの時謝っていたのさ。ごめんなさいってな」

 

 

悪魔が肩をすくめる。何事かを言っているようだが、夕映はそんな話を聞くどころではなかった。自分以外の意識が頭の中に巣くっている。その異常に悶絶していたからだ。脳髄が震えて、精神の均衡が崩れかかる。恐怖が・・・恐怖だけが思考の全てを覆い尽くしていく。強く胸を打った時のように、うまく呼吸ができない。視界が黒に染まりかけ、失神しかけていた。

 

 

「あ・・・あ・・・あ・・・あああああああああああああああああああ!!!!!!」

 

 

自分を構成する細胞の一片が、強制的に書き換えられている錯覚に、夕映の嫌悪感が限界を迎えた。

 

 

「ははっ、大げさな奴だな。”俺”がいるからって、肉体には大して影響もないはずだぞ。実際あのスライム女も、今は気を失っているだけで、意識を取り戻せば操られていた事自体覚えていないだろうしな。

 

しかしあいつも間抜けだよなぁ。よりにもよって、俺を取り込んでいたのどかを食っちまうんだから。何となく面白そうだったんで、しばらく成り行きを見守っていたが、まさか旨そうな獲物が自分から食われに来るとは思わなかったぜ。ある意味じゃ、どんなものよりも相性がいいかもしれないな。同じ”悪魔”の身体ってのは・・・」

 

 

悪魔が自分の体に爪を這わせ、物理的に目を光らせる。そして叫び続ける夕映の声が耳障りだったのか、それとも単純にこのままでは会話にならないと思ったのか、自分のクローンに引っ込んでいろと命令した。なんだよ出て来いっつったり、引っ込めっつったりよ~と、ブツクサ文句を言いながら夕映の中から不快な感覚が消えうせた。

 

突然苦痛から解放された事で、全身の力が抜けてガクリと床に倒れ伏す。涙を流しながら荒い呼吸を繰り返した。そのまま頭を抱えて蹲る。目を閉じ、耳を塞いで、口を引き結ぶ。夕映は胎児のように丸くなったまま一切の動きを止めた。無理だ。もう無理だ。何も考えられない。考えたくない。考えてはいけない。少しでも気を緩めれば再びあれが出てくるような気がして、夕映は恐怖に怯えながら思考を放棄した。

 

・・・・・それでも、悪魔の言葉からは逃れられない。

 

 

「これも日ごろの行いがいいせいかね。幸運ってのは突然降ってくるものらしい。ああ、これはのどかにもいえる話だな。ヘルマンのおっさんが現われたおかげで、誰も失う事がなくなったわけだからよ。

 

ははっ、これで死ぬ必要はなくなったな・・・のどか」

 

 

 

 

あまりに・・・あまりにサラッと吐き出されたその言葉に、壊れかけた意識が再び目を覚ました。

 

 

 

 

「の、のどかが・・・・・・・し・・・ぬ?・・・・・な・・・なんで・・・」

 

 

「うん?あぁ、さっき期限は今日までって言っただろ?結局どっちも選ばなかったから、俺はお前を殺すつもりだったんだが・・・のどかはな、お前と一緒に死のうとしたんだよ。綾瀬夕映」

 

 

「・・・・・・・・・・・・・・・え?」

 

 

「いわゆる後追い自殺ってやつだ。・・・ちょっと違うか?まぁいいか。のどかは最後にお前に会って、お前を助ける事が出来なかったことを詫びて、その後に死ぬつもりだったんだ。死に場所を求めて飛び出していったところに、ちょうど誘拐犯が現われたって話さ」

 

 

「・・・・・そ・・・・・そ・・・んな・・・」

 

 

力ない言葉が口からこぼれた。ゆっくりとのどかに視線を送る。

 

あの時・・・自室の前でのどかに出会ったあの時。もう既に・・・彼女は死ぬもりだったのか。夕映を・・・自分を助ける事が出来ないから・・・だから、自らの命を捨て去るつもりだったというのか。

 

抱きしめられた時、背中に感じた体温を思い出す。ぐずりながら首筋に顔を押し付けていたことを思い出す。震えながら、涙声で何度も何度も謝罪の言葉を繰り返していた姿を思い出す。

 

どれだけ・・・・・・怖かったろうか。

 

恐ろしい悪魔に人質を取られ、好き勝手に利用され脅迫されていた。自分の行動いかんで大切な人たちを失ってしまうという恐怖に・・・さらされ続けていた。

 

そう・・・のどかは、誰にも相談する事ができないまま、ずっと戦っていたのだ。自分達を必死になって守ろうとしてくれた。他人の心を暴くという罪に、心を押し潰されそうになっても・・・それでも彼女は何も言わずに・・・たった一人で・・・。

 

 

「全く・・・人間ってのはどうしてこんなに愚かかねぇ。所詮他人の命だぜ?どうでもいいじゃねーかよなぁ。自分が死ぬ理由なんて一つもねーじゃねーか。それなのに、守る事が出来なくてごめんなさいだとよ。はっ・・・・・・・くっだらねぇ」

 

 

笑う。悪魔が嗤う。のどかを、のどかの苦悩を、のどかの思いを、嘲笑う。

愚かだと、くだらないと。

好きな人を、友達を・・・夕映を守ろうとしてくれたその心を・・・踏みにじる。

お前のしてきた事に価値などないのだと・・・見下し、貶め、蔑んで、侮辱した。

 

 

 

笑う、嗤う、ワラウ、わらう、笑う、嗤う、ワラウ、わらう、笑う、嗤う、ワラウ、わらう。

 

 

 

頭の中が空白で満たされて、何も考えられない。

 

 

 

何かが・・・・・・・解放された気がした。

 

 

 

「ぁぁぁぁぁああああああああああああああああ!!!!!!」

 

 

 

灼熱した視界が何もかもを歪ませる。錆びついて軋んだ関節が、委縮し役目を放棄していた筋肉が、唸りを上げた。屈服し、腐りかけていた意思に炎が灯る。全身の細胞がただ一つの事だけを叫んでいた。

 

許せない・・・・・許す事ができない。

あれを・・・目の前でのどかを嗤うあれを・・・絶対に・・・絶対に許してはいけない。

 

心が暴れだし、雄叫びを上げる。そして夕映は・・・・・・・。

 

 

気が付くと目の前の悪魔に全力で殴り掛かっていた。

 

 

「あああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」

 

 

もはや・・・もはやどうでもよかった。なんの力もない非力な自分が、悪魔に殴り掛かったところでどうせ無駄な事だとか。下手をすれば、虫けらのように殺されるとか。頭の中に巣くう悪魔が、自分の身体を操ろうとするかもしれないだとか。

 

そんなものは・・・・・本当に、心の底からどうでもよかった。

 

夕映の心を占めているものはたった一つだ。恐怖も、プレッシャーも、今この瞬間だけは全てが吹き飛んでいた。血液が沸騰するような赤が、ドロドロとして何物にも染まる事のない黒が、夕映の中から止めどもなく溢れてくる。そこには、ただ一つの感情しかない。ただ一個の塊でしかない。自分という存在が、明確な一つの意思によって統制されている。

 

怒りだった。

夕映は生まれて初めて、気が狂うほどの怒りを味わっていた。

純粋で、混じりけのないもの。どこまでも透き通っている鈍く暗い輝き。

 

いまここであの存在を許してしまえば、自分は一生のどかを親友とは呼べなくなるだろう。二度とあいつの口からのどかの名前を呼ばせないようにする。触れる事も、同じ場所で呼吸する事さえできないようにする。

 

それは・・・或いは殺意と呼べるかもしれない。相手の存在を亡き者にする。消えてくれと全身全霊で願う行為。そんなものを殺意と呼ぶのなら。今、自分を支配しているものはまさしくそれだった。

 

たとえ何もできずに終わる事になったとしても・・・。

 

目の前の敵を・・・。

 

力を入れ過ぎて、震えるまで固めた拳を握りしめ、夕映は悪魔に向かって特攻した。

 

 

・・・そして。

 

 

見えない何かに押され、あっけなく空中を弾き飛ばされた。

 

眼前にいたはずの敵の姿が、掻き消える。景色が歪み、視界が上下した。平衡感覚が失われると同時に、一瞬くるりと体が宙を舞う浮遊感を感じ、直後に冷たい床の上に落下する。身体が叩きつけられる鈍い音を耳ではなく全身の骨によって感じながら、フロアシートを滑っていく。

 

衝撃に肺の空気が押し出され息が詰まった。自分の喉から無理やり絞り出されるような、か細い声が聞こえてくる。不思議と痛みはあまり感じなかった。ただ・・・幕が閉じるように暗転していく光景にぞっと背筋が凍りつく。自分は今意識を失いかけている。何もできずに床を転がされ、なすすべなく気絶しようとしている。

 

のどかを・・・・・あんな状態の彼女を置き去りにしたままで・・・。

 

 

「か・・あぁ・・・・ぐ・・ぅ」

 

 

襲い掛かってくる闇に必死で抵抗する。強制的にこちらの意識を奪おうとするそれは、甘美な感覚を伴う麻薬のようなものだった。心地よい眠りに夕映を誘おうとしている。辛い現実を・・・親友を忘れて、痛みのない世界に連れて行こうとしていた。

 

抗う事は困難だった。なぜなら夕映自身そうしてしまいたいという欲求を、心のどこかで持っているからだ。肉体も精神も限界に近かった。次々に訪れる悲しい出来事に、我を失いそうになっている。消耗し、疲弊している。抵抗すること自体が無意味な事のように思えた。

 

しかし。

 

ちっともこちらの言う事を聞かない体に悪態をつきながら、立ち上がろうと肘に力を入れる。体重を支えている両腕が震えながら悲鳴を上げていた。がくりとバランスを崩して再び床に転倒する。・・・もう一度。霞がかった頭でそれだけを考える。何度倒れても、その度に立ちあがって、そして・・・。

 

失神しかけながら、羽を毟られた蝶のように、もがき、足掻いている夕映に悪魔が言葉を投げかけた。

 

 

「弱さってのは・・・哀れだねぇ。お前今、俺に何をされたかも分かってないだろう?デコピンだぜ。しかも当てないように衝撃だけ飛ばして、滅茶苦茶手加減したやつ。そんなカスみたいな攻撃でお前は前後不覚の有様だ。理解できるか?要するに、お前がどれだけ俺を殺したいと願っても、そんなものは俺のデコピン程の価値もないってことだ。お前の感情も存在も、弱いってだけで無価値になる。まったく・・・惨めなもんだ。人間は・・・」

 

 

耳でその声を聴いていた。頭でも理解していた。それでも夕映は止まらなかった。止まろうとも思わない。弱くて、哀れで、惨めだったとしても・・・どうしても、やらなければならない事があったからだ。

 

膝が笑ってうまく立てない。目が霞んで前がよく見えない。気付いていないだけで強く頭を打っていたのかもしれない。クラクラとして今にも倒れてしまいそうだった。這いつくばるように腰から体を起こしていく。そして深呼吸を一回。長い髪が顔にまとわりついて気持ちが悪かった。だがそれを振り払う余裕がない。

 

震えている膝を擦るように押さえながら、渾身の力で立ち上がる。フラリと体が傾いた。覚束ない足で何とか踏みとどまる。そして、そのままゆっくりと悪魔に向かって歩き出した。眠りながら歩いているかのように、虚ろに開いた瞳は焦点が定まっていない。当然のようにその足取りも安定性を欠いていた。

 

あと数歩進めば何もしなくても勝手に倒れてしまうと、それを見ていた誰もが思った。

しかし・・・全員の予想に反して、夕映は転びもしなければ倒れもしなかった。

 

老人のように遅い歩みは、それでも呆れた視線を向けてくる悪魔の元まで続いた。

面倒そうに腕を振って、悪魔が纏わりつこうとする夕映を払い除けようとした。

 

・・・しかし。

 

彼の腕は身を屈めた夕映の頭上を空しく空振りした。ギョッとして悪魔が振り返る。そこには先程までと違って、機敏な動作で明日菜の元に走り寄る彼女の姿があった。蹴躓き、転びそうになりながら、夕映は意識を失ったまま眠りについている明日菜の首飾りを強引に掴んだ。そして、力任せに引き千切る。見た目に反してあまり頑丈にはできていなかったらしい。鎖の部分からバラバラと壊れていった。

 

やった・・・と僅かに笑顔を浮かべた夕映がその場に頽れる。これで少なくともネギの魔法は無効化できなくなった。怒りのままに殴り掛かってなすすべなく吹き飛ばされた時、これを閃いた。あの首飾りを破壊する事を。確かに悪魔の言う通り、夕映の存在など彼にとっては取るに足らないものでしかないのだろう。仮にあのまま拳を当てる事が出来たとしても、何のダメージも与えられなかったはずだ。しかし、それならば別の誰かに頼めばいいのだ。自分の、和美たちの、そしてのどかの無念を晴らす事ができる人物に後を託せばいい。

 

たとえそれで死ぬことになったとしても夕映は満足だった。あの悪魔を出し抜いた。自分にできる精一杯をやった。のどかと同じように戦ったのだ。諦めずに最後まで。膝をつき、前のめりに倒れこむ。とうとう限界が来てしまったらしい。全身が弛緩し、徐々に目蓋が閉じていく。

 

 

口元を綻ばせたまま・・・。

 

 

夕映は今度こそ甘い眠りに落ちていった。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

絶え間なく降り注いでいる雨音だけが規則正しく聞こえていた。

夕映の行動に誰もが意表を突かれ、身動き一つできずに佇んでいる。

そこには、ある種の空白が生み出されていた。

 

だがそれもほんの一瞬にすぎないだろう。

幾度が瞬きするだけで壊れてしまうような儚い緊張でしかない。

 

・・・はずだった。

 

彼女が生み出した間隙に唯一反応し、飛び出した者がいた。

小さな人影がコンクリートを蹴りつけ、雨の中を疾走している。

ほとんど飛ぶように跳躍したその影は、標的に接近しながら愛用の杖を振りかざし呪文を唱えた。

 

 

「魔法の射手!戒めの風矢!!」

 

 

甲高い声と共に、風を纏った捕縛属性の魔法の射手が杖の先端から発射される。舞台中央にいた悪魔の横をすり抜けて、驚きの表情で目を見開いていたすらむぃに接触した。

 

瞬間。見えざる風の拘束具が全身をその場に縫い付ける。身動き一つ取れないほど雁字搦めにされた彼女は、口を動かす事すらままならない。

 

人影・・・ネギ・スプリングフィールドの目の端にチラリとその姿が映りこんだ。

 

・・・そして。

 

 

 

「うわあああああああああああああああああああああ!!!!!」

 

 

 

彼は絶叫した。

 

 

今までため込んできた鬱憤を晴らすように、全身から発せられた魔力の奔流が渦を巻いている。暴風が周囲にいる人間を僅かにぐらつかせ、風のカーテンが視界を遮った。ネギはそれに紛れながら小さな拳を握りしめた。体を捻りこみ力をためる。呼気は短く鋭い。自分自身を一振りの武器として突き上げる。

 

踏込と打ち込みは、ほとんど同時に行われた。凝縮した魔力が圧力を伴い暴れだす。拳が接触した瞬間それは標的の肉体にばらまかれた。体格差などものともせずに、重力など知った事ではないと悪魔が空に飛び立っていく。そのまま馬鹿げた速度で天井に激突し、鉄骨を歪ませ、周りの照明を破壊した。残骸と複雑に絡み合い、完全に固定されている。

 

ネギは続けざまに呪文を唱えた。

 

 

「雷を纏いて吹きすさべ、南洋の嵐!雷の暴風っ!!」

 

 

自然現象を無視して局地的に発生した竜巻が、膨大な力となって解き放たれていく。大気を吹き飛ばし、破壊が創造される。雨水が吸い寄せられ、暴風雨となって雷撃と共に突き進んでいく。瞬間的に発生した白光が悪魔を飲み込んでいった。完膚なきまでに天井を壊しつくし、空の彼方へ吹き飛ばす。

 

ネギは杖に跨りそのまま空中に飛び上がった。魔法の直撃を食らって落下していく悪魔を追撃する。組み合わせた両手の先にバチバチと物騒な音を立てながら魔力が収束していく。無防備な敵の頭部にそれを全力で振り下ろした。硬い物体を鈍器で殴りつけたような鈍い音と共に、悪魔が大地に墜落する。その姿を上空から睨み付け、ネギは呼吸を整えた。心の内側が沸き立つように熱くなっている。少年は冷静になる事を諦めていた。むしろ意図的に無視していたと言っていい。これからする事にそんなものなど必要ないからだ。

 

 

きつく目蓋を閉じ、拳で心臓を叩く。ネギは二つの事を覚悟した。

 

 

「があああああああああああぁぁぁ!!!」

 

 

再度絶叫が上がる。体全体を覆う魔力が吹き上がり、威力を伴った数条の光線になる。

最初は数えるほどしかなかった光の束が、十本、二十本と増加していき、見る間に五十を超えていく。

 

発光。収束。射出。着弾。切れ間なくそれが繰り返され、地表を丹念に削り取っていった。数十台の削岩機を同時に起動したように、凄まじい破壊音が鳴り響く。湿った土砂があちこちにまき散らされ、衝撃が周囲を揺るがせた。標的の姿は破壊の連鎖に飲み込まれて姿形も見えなくなる。逃げ場など何処にもないのだと、その場に釘付けにしていた。

 

だが、無限にも思える弾幕の嵐は急速にネギの心身を消耗させていった。骨の形がくっきりと浮かび上がり、頬がこけ、目の周りが落ちくぼむ。ただでさえ肉付きの薄い少年の体に尋常でない負荷がかかっていた。

 

それは代償だった。本来なら不可能な量の無詠唱魔法を、限界を超えて使用しているからだ。それも己に宿る魔力をそのまま打ち出すといった不完全なやり方で。いかにネギの魔力容量が強大であろうとも、呪文による術式の選定が明確でない無詠唱魔法は、術者に対して疲労以上の衰弱をもたらす。

 

感情の高まりが潜在能力を極限まで引き出していたとしても、そんな事を続けていればまっているのは確実な死だろう。

 

本人も十分に理解していた。だからこれが一つ目の覚悟だ。自分の命を顧みない術の行使。そんな無茶どころか無謀でしかない暴走を、ネギは実行していた。

 

 

「ぐぅああああああぁぁぁぁぁぁ・・・」

 

 

怒りを表す雄叫びが苦悶の悲鳴に変わっていく。肉体以上に精神が蝕まれているため、まともな思考能力さえほとんどなかった。

 

それでもやるべき事だけは分かっていた。・・・もう一つの覚悟。

 

のどかを苦しめ、夕映達を傷つけ、何より自分の大切な人たちを殺したあの怨敵を、完全な形で消滅させる事。ネギにはその手段があった。日本に来る前に修めた戦闘用呪文の一つ。過去の悪夢に対抗するための切り札。もはやあれを使うのに躊躇いなどなかった。たどたどしい口調で呪文を紡いでいく。

 

失われていく魔力は水道の蛇口を目一杯捻っているように放出されている。

途中でフッと意識が遠のきかけて、気付け代わりに唇を噛みきった。

錆びた鉄の味を舌の上で転がしながら、ネギは最後の一息を口から絞り出そうとした。

 

 

・・・・・だが。

 

 

最後の呪文を唱え、魔法が発動するその瞬間。何故か視界が反転していた。

 

 

(・・・え?)

 

 

地面を睨み付けていたはずなのに、空が見えている。その事に疑問を感じるより前に、視界が猛烈な勢いで”回転”を始めた。眼球自体が万華鏡になってしまったようにクルクルと世界が回っている。空の灰色。木々の緑。土の茶色。人工物の白。人の肌色。そして自らの体から流れ落ちている血の紅が全て混ざり合い、虹のような曲線を描く。そんなありえない光景がただ流れていく。

 

ネギの体に無秩序な回転が加えられていた。遠心力によって内臓が圧迫される。三半規管が役目を放棄し上下感覚が消失する。落下しているのか、それとも浮き上がっているのかもわからなくなり、ただ引き裂かれるような強烈な痛みが襲い掛かってきた。

 

泣き叫ぶことさえできない。肺の空気は残らず搾り取られている。何が起こったのか。何をされたのかも理解できなかった。最後の一息を吐き出す瞬間。おそらく何かに吹き飛ばされたのだろう。正体不明のそれに巻き込まれ、呆然としたまま死にゆく己を止める事が出来ない。ほとんど失神しかけたままネギは地面に墜落していった。

 

 

「ネギ!!」

 

 

まどろんだ意識の中で、誰かの悲痛な叫び声が聞こえた。

目に霧のような白いもやがかかっている。その中を小太郎が必死の形相で走っていた。

視点が定まらず、暗闇に沈んでいく。

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・・・暗い。

 

・・・・・・・・・暗い海の底に沈んでいる。

 

一切の光が届かないその場所は、誰もが孤独で独りぼっちだ。

何一つ変わり映えしない停滞した空間。個々の認識さえ曖昧で、己の感覚も闇に溶けている。

静寂。その一言に尽きる。何もない世界では自我すら必要ではない。

自分は、闇と、世界と、同一のものであると、存分に錯覚する事ができる。

完成された空間。完結した世界。何一つ欠けることなく満ち足りた宇宙。

 

それは一つの完全な・・・・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(何を考えているんだ僕はっ!!)

 

 

 

 

危うく消失しかかっていた自我を無理やりかき集める。全身を襲う痛みに縋り付くようにして己を保つ。生と死の境界に引き寄せられていた。気を失っていたのはおそらく一瞬だ。それでも重力のくびきから逃れられていたわけではない。地表は目の前に迫っていた。

 

とにかく地面への激突を避けなければと、不明瞭な意識のまま杖を引き寄せようとして、絶句する。右手があらぬ方向へと折れ曲がっていた。手首が折れ、爪を剥がされ、幾つもの裂傷を負っている。当然杖など持っていない。このまま自由落下していく自分を止める事が出来ない。背骨の代わりに氷柱を入れられたような悪寒がした。

 

 

・・・・・死・・・ぬ・・・。

 

 

最悪が脳裏をよぎり、それが現実になりかけた時。落下中のネギの体は横合いから飛び出してきた小太郎によって受け止められていた。よほど勢いをつけたのだろう。飛び上がった姿勢のままバランスを崩して客席に突っ込んでいく。

 

小太郎の体越しに振動を感じた。どうやら着地の衝撃から庇ってくれているらしい。痛みを堪えるような呻き声が聞こえてくる。だが、間近で聞いているはずのその声が段々と遠くなっていった。

 

目蓋が閉じかかり視界が半分になる。急激な眠気が襲い掛かってくる。抱きしめられているはずなのに何も感じない。ただ凶悪な寒さだけが全身を覆っていく。心臓がドクリドクリと脈を打っている。

 

それは次第に弱くなっていき・・・やがて・・・。

 

小太郎が泣きそうな表情で何かを叫んでいた。だがそれももう聞こえない。

ネギは自分がこれで終わってしまうのだと理解した。

 

泣いている小太郎。死にゆく自分。

そんな二人に影が落ちた。いつのまにか悪魔が間近に迫っている。

 

あれだけの魔法を打ち込んだにもかかわらず全くの無傷だった。ニヤニヤとこちらの胸を悪くさせる薄笑いを浮かべている。

 

 

嗤う。嗤う。嗤う。

 

 

落ちかけた意識が怒りで復活する。ネギは全く力が入らない体を強引に起こそうとした。だがそれはかなわなかった。なぜなら足が両方とも折れ曲がっているからだ。しかし、そんな事などどうでもいいとネギは小太郎の腕の中で、必死にもがいた。それはあまりにも弱々しいものだったが、少年は鬼のような形相で悪魔に近づこうとする。小太郎が慌ててネギを制止した。これ以上の出血は生命の危機に直結する。危険だと。

 

悪魔はその様子を眺め、一つ溜息をついた後、右腕を上げて力を注ぎこんだ。不穏な光が眼球に突き刺さる。見ているだけで自分の魂が震えてくるようなそんな光だった。そしてそれは絶望の光でもあった。あれが解き放たれれば間違いなく自分たちは死ぬ。そう確信できてしまうような。膨れ上がった光が限界を迎える。もうすぐそこまで死が解き放たれようとしていた。

 

 

なすすべなくそれを見送りながら・・・。

 

 

それでもネギは、目を瞑らなかった。

 

 

怯えた表情も見せない。そんなものを見せてあいつを喜ばせるのは我慢が出来なかった。

 

 

終わりが訪れる最後の瞬間。

 

 

目を見開いたまま光を睨み付けていた少年はそれを目撃した。

 

 

 

 

 

いつの間にか目の前に一人の男が立っている。

 

 

 

 

 

何の脈絡もなく、突然その場に現れた。

 

草臥れたジージャンとジーパン。皺のあるワイシャツに薄汚れたスニーカー。頭には燃えるような赤いバンダナを巻いている。中肉中背のどこにでもいるような高校生くらいの青年。

 

彼はポケットから何かを取りだし、迫ってくる死にそれを掲げた。

直後。猛烈な光がネギ達に襲いかかった。地響きを伴い白い炎が燃え上がる。

 

だが、不思議な事に何も感じなかった。そよ風のひとつも感じない。熱と衝撃、破壊と絶望。何もかもが目の前にある緑色の壁に阻まれている。呆然としたまま、瞬きする事も忘れてネギはそれを見続けていた。やがて光と爆発音が収まると、青年は掲げていた腕を下ろし悪魔に向き直った。眉を歪め、唇を引き結び、険しい表情で睨み付けている。

 

 

 

 

自分たちを助けてくれた人。

 

 

 

 

横島忠夫がそこにいた。

 

 

 

 


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