ある人の墓標   作:素魔砲.

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曇天の空、厚い雲に覆われたその場所で、光が生まれる。一瞬だが鮮烈な強い光だ。僅かな雲の切れ間に帯電している稲妻が、青白い輝きを放っている。そこには太陽の暖かさも感じられない。薄暗く周囲の色さえ滲ませて見える景色は、まるで世界が灰色のカーテンに包まれているようだった。そして、天空からは無数の雨が降り注いでいる。それらは無秩序に盛大な音を立てていた。

 

それを耳障りだと感じるかどうかは、人それぞれなのだろう。当然のように自分の身にも落ちてくる雨粒を見ながら、ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヘルマンはそう思った。

 

なぜなら今、自分はその雨音に静寂を感じているからだ。人通りの全くないその場所には、普段いくらでも聞こえてくるだろう、人々の生活音がまったくしない。雨音がそれ以外のすべての音を、飲み込んでしまっているようだった。

 

ひどく印象深い風体の男だ。年は六十歳から七十歳前後。かなりの長身で、背筋が曲がっている様子もない。外国人然とした体格と容貌の持ち主で、丹念に手入れされた長い髭と、奇妙な形に整えられた白髪は、どこかの貴族のようでもあった。夏場も近いこの時期に、レインコートではなく、丈が膝下まである厚手のロングコートを着込んでいる。つば広の帽子を目深にかぶり、頑強なブーツを履き、手袋までしている。そのどれもが黒一色であり、男の長身と相まって、変に目立ってしまっていた。もしこの場に、彼を目にする者がいたとしたら、間違いなく注目を集めていただろう。彼にとって幸いにも、そういう事態にはならなかったのだが。

 

そんな幸運を意識することもなく、彼はこの大雨の中、傘も差さずに道のど真ん中で、ただ突っ立っていた。

 

 

「・・・首尾は?」

 

 

男は相応の年齢を感じさせる、口元の皺を深くしながら、ポツリと呟く。まるで近くに話し相手がいるような、気やすい口調だ。しかしその場には男以外の気配が一切なかった。それでも男は、その言葉を聞いている者がいるのだと確信しているかのように、返事が来るのを待っていた。

 

 

「・・・対象は一人を除いて全員監視中。例のガキは、おっさんにやられて気絶してた所を、まったく関係ないやつに拾われたみたいダナ。場所は特定してあるから、あとは捕まえるだけだゼ」

 

 

「京都での一件で、能力を封じられている今なら、どうとでもできるはずデス」

 

 

鈴を転がすような二つの幼い声が聞こえてくる。一方がいささか乱暴な言葉使いで報告し、もう一方が丁寧な口調でそれを補足した。肉声ではなく念話の類なので、耳に直接響いているわけではない。相も変わらず聞こえてくる雨音の中にあっても、クリアな音声として認識できている。

 

 

「・・・ふむ、一人を除いてというのは?」

 

 

顎鬚を撫でつつ、片側の眉を吊り上げる。かぶっている帽子のつばから流れ落ちる水滴に視線を向けて、ヘルマンは聞こえてくる声に問い返した。

 

 

「監視対象の中に、見つけられなかったのがいるんダ」

 

 

「一応今も探しているんですけどネ」

 

 

言葉自体は言い訳に近かったが、一切悪びれている様子もない。

その事に苦笑しながら、それでも最低限聞いておかなければならない事を尋ねる。

 

 

「・・・まさか、神楽坂明日菜君かね?」

 

 

これから自分達が行うことを考えれば、最優先で確保しなければならない少女の名前を告げる。彼女だけは見つかりませんでしたではすまないのだ。計画に支障が出てしまう。しがない雇われの身としては、依頼の完璧な遂行のために、万全の準備をしておきたい。彼女自身も調査依頼の対象に含まれていることもあるが、なにより本命の相手である彼に対する切り札としてだ。

 

 

「いんや違う、そっちの心配ならいらねーヨ。GOサインがあればいつでも行けるゼ」

 

 

「彼女なら今、近衛木乃香と一緒にいマス。厄介そうな剣士は確保済みなので、それほど手間でもないはずデス」

 

 

どうやらこちらの心配は杞憂で済みそうだと、ヘルマンはわずかに口元を緩めた。

 

 

「ふむ、それならばいいだろう。ある程度の人質さえいれば、彼は動く。・・・そうだな、私はこれから小太郎少年の方を片付けてくる。君たちはそのほかの対象を確保してくれたまえ」

 

 

「ラジャー」

 

 

威勢のいい返事を聞きつつ、ヘルマンはとりあえずの目標に向かって歩みを進めた。犬上小太郎本人に、それほど興味があるわけではないが、彼が持って逃げた封魔の瓶には用がある。不安要素の一つを消しておくといった意味でしかないが、必要な事でもあった。頭の中に送られてきた少年の居場所を、記憶している地図と一緒に参照しながら、大通りを通り抜ける。今いる場所から、そう遠くは離れていないようだった。長い足を交互に動かしながら、雨の中を歩いていく。その時、ふと自分が見つかっていない監視対象の名前を聞きそびれていることに気が付いた。正直なところ、ネギの関係者を誘拐するというのは、彼に本気を出させるための方便でしかないので、神楽坂明日菜の居場所がはっきりしている以上、それほど重要な問題というわけではない。だが、それでも一応聞いておくべきかと、ヘルマンは自分の協力者に、再び問いかけた。

 

 

「それで、見つかっていない一人というのは誰なのかね?」

 

 

「うん?あぁ、そいつカ。名前はえーと・・・ナンダッケ?」

 

 

「これから誘拐する人間の名前も忘れてるですカ?まったくやれやれデス」

 

 

「ケッ!別にいいだろ名前なんテ。顔さえ覚えてれば問題ねーゼ」

 

 

「まぁ、すらむぃが大雑把なのは、今に始まったことではないですケド・・・」

 

 

虚勢を張るように声を上げた一人に対して、もう一方が何かを諦めた様子でポツリと呟く。そのまま不毛な言い争いが発展しそうな気配を感じたヘルマンは、慌てて二人を止めるべく声をかけた。

 

 

「すまないが、言い争いなら後にしてほしいのだが・・・」

 

 

一応のボスでもある自分の問いを、あっさり無視してのける二人に、呆れた口調で呟く。別に敬えとまで言うつもりもないが、もう少しくらい気を使ってくれても罰は当たらないはずだ。ボスとしての威厳が足りないのだろうかと、ヘルマンは僅かに肩を落とした。すると、声の調子からこちらの意図を正確に読み取ったらしい。彼の制止を無視して、言い争いを始めた二人とは別に、最後の部下である三人目が、いようにテンションの低い平坦な声で、報告してきた。

 

 

「見つからないのは、宮崎のどか。・・・ネギ・スプリングフィールドの仮契約者デス」

 

 

記憶にある名前が耳に届く。確か少々特殊なアーティファクトを持っている少女だ。ごく最近まで裏側の事情とは、全くの疎遠であった一般人であり、ネギと契約を交わしたことで、ほんの半歩にも満たないだろうが、裏の世界に足を踏み入れている。

 

だからこそ人質候補の一人に選んだ。さすがに何も知らない一般人を巻き込むのもどうかといった話だし、彼女はネギとの関わりも深い。彼に対する人質として使うなら、効果的な人物と言える。

 

・・・だが逆に言えば、そんな理由でしかないのだ。言葉は悪いが、せいぜいネギに対する良い餌になってくれれば・・・その程度の意味しかない。自分にとって、宮崎のどかという少女の価値は、ネギの仮契約者ということくらいなのだ。固執するほどの理由もなかった。彼女が見つからないからといって、計画自体には何の影響もないだろう。

 

 

(・・・・・ふむ)

 

 

ヘルマンは心の中で一度頷くと、次の瞬間には今聞いた報告を忘れたかのように、歩みを再開した。

 

 

どうでもよいことだと思ったのだ。

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・その時は。

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

はるか先の空から遠雷の音が聞こえていた。重く腹に響く音だ。聞いているだけで、否応なしに不安をかきたてられるような、思わず身がすくんでしまいそうになる、そんな音。まるで今の気分を表しているようだ。すっきりとしない空模様に眉をしかめ、そう思う。自分が寄宿している寮の廊下を歩きながら、綾瀬夕映は、そんな益体もない事を考えていた。

 

 

最近、彼女には、思い悩んでいる事が二つあった。一つは自分の担任教師であり、現代に生きる魔法使いでもあるネギ・スプリングフィールドから、魔法を習うという計画が、全く進展していないこと。

 

京都での事件以降、自分の常識とはかけ離れた世界があることを知り、当たり前の退屈な日常に飽き飽きしていた夕映は、現状を打破するための切っ掛けを、ネギに求めた。

 

つまらない学校の授業などより、はるかに興奮する非日常の体験が自分を待っているはずだと、そう期待して。しかし、なかなかうまくはいかないもので、どれだけ夕映が頼んでもネギは首を縦には振ってくれなかった。

 

曰く、生徒を危険な世界に関わらせたくないだとか、自分の都合で迷惑をかけたくはないとか、夕映がそんな事は百も承知だと、いくら告げても全くの無駄だった。少し流されやすい所があるネギだったが、この件に対しては頑なな態度で、こちらの要求を拒否し続けていた。それは自分だけでなく、すでに仮契約という形で魔法に関わりを持っているのどかに対しても同じ事で、最近では魔法関係の話をしようとすると、いち早く気配を察知して、逃げ出してしまう始末だ。

 

 

同じ立場であるはずの明日菜は受け入れているというのに・・・・・。

 

 

思わず愚痴めいた言葉が頭をよぎる。そう、なぜか彼女だけは、あちら側の事情に関わる事を、ネギに認められている節があった。どういう経緯でそうなったのかは知らないが、あの南の島のバカンス以降、二人の態度が何やら親密になっている気がするのだ。

 

放課後、ネギは授業が終わった後に、明日菜と木乃香、そして刹那を連れて消えることが多い。同じクラスの佐々木まき絵から聞いた情報によると、ネギは今、自分の生徒であるエヴァンジェリンに何かの教えを受けているらしい。まき絵自身は、彼がエヴァから何を教わっているのか詳しくは知らないようなのだが、京都で特別な夜を経験した夕映は知っている。エヴァが凄腕の魔法使いであることを・・・。

 

おそらくネギは彼女から魔法を教わっているのだ。そしてそれに付いて行っているという事は、明日菜や木乃香も彼女から何らかの教授を受けている可能性がある。もともと魔法関係者が家族にいるらしい木乃香はともかくとしても、本来明日菜は自分たちと同じで魔法とは無縁の存在であるはずだ。にもかかわらず特別扱いを受けているというのは納得がいかない。それに魔法云々を置いておくとしても、必要以上にネギと明日菜が接近するのは好ましい事ではない。。

 

 

なぜなら、自分の親友はネギに対して特別な感情を持っているのだから・・・。

 

 

そこまで考えて、夕映は小さく嘆息した。二つ目の悩みを思い出して、気分が重くなる。その悩みとは、親友であるのどかの事だった。最近、のどかは夕映に対して、妙に距離を置くようになっていた。いや、正確には自分だけでなく、クラスメイトに対しても壁を作っているように感じる。修学旅行中や、南の島では、以前と変わらない様子だった。だが、そこから帰ってきてしばらくしてから、どこかよそよそしさを感じるようになったのだ。

 

本人は、いつも通りに振る舞っているつもりなのだろうが、夕映にしてみれば無理をしているのが丸分かりだった。もともと愛想がいい方とは言えなかったが、それでも自分や早乙女ハルナには、だいぶ心を開いてくれたと実感していたのだ。しかし、夕映がどれだけ、何かあったのか、悩み事があるなら相談に乗るからと尋ねても、のどかは、大丈夫だから気にしないでと、曖昧な表情で作り笑いを浮かべるだけだった。

 

それにここ数日の間、彼女は体調がすぐれないのか学校も休んでいる。心配で様子を見にいっても、遠まわしに放っておいてくれと言われるだけだった。一人になりたい時もあるのだろうし、しばらく様子を見ようと、ハルナは言っていたが、気になるものは気になる。たとえお節介と言われようが、親友の悩み事には親身になって相談に乗るべきではないのだろうか・・・。

 

答えの出ない問いに頭を悩ませる。再び憂鬱なため息をついて、夕映は自分の部屋へと、重い足取りを引きずって行った。階段を上り、曲がり角を曲がる。うつむき気味で、足元に目線を落としながら歩いていた夕映だったが、いつの間にか自分の部屋がすぐ近くである事に気が付いて顔を上げた。すると、自室の前で、今まで頭を悩ませていた心配事の中心人物が、扉を背にして佇んでいた。学校を休んだにも拘らず、いつもの見慣れた制服姿で、長い前髪に目元を隠し、頭を垂れている。僅かに覗く瞳はじっと一点を見続け、何の感情もうかがえない無表情で、ただ静かに立ち尽くしていた。

 

 

「・・・・・のどか?」

 

 

のどからしくない・・・。

とっさに浮かんできたのは、そんな思いだった。

親友に訝しげな声を掛け、その場で立ち止まる。

 

おとなしい性格をしているのどかは、基本的に物静かだ。本を読むのが好きで、集中している時などはこちらの呼びかけにも応じない事もある。だが今、夕映の瞳に映っている彼女からは、そういった静けさを感じ取ることはできなかった。むしろ、なにか妙な緊張感さえ漂っているように思える。

 

 

「・・・・・」

 

 

声が聞こえたのだろう。

のどかは伏せていた顔を上げ、ゆっくりと近づいてきた。

こちらに返事をすることもなく、無言のまま夕映の前に立つ。

いつもとは違う雰囲気を漂わせている少女に、夕映は思わずたじろいだ。

 

 

「ど、どうしたですか?」

 

 

上ずった声がこぼれる。気圧され、こわばった表情で無理やり笑顔を浮かべた。顔を背けずにいるには注意が必要だった。それほど今ののどかには表情がない。

 

数秒ごとに瞬きをしている。小さな呼吸音も聞こえている。それによってわずかに上下している胸も、観察すればよくわかる。だがそれでも、ほとんど身動きもせずに、ただ立っている彼女には人形じみた無機質さがあった。

 

 

「あ、あの、その、えっと・・・・・そ、そうだ!何か話があるんですよね。立ち話もなんですし、な、中で話しましょう・・・」

 

 

能面のような無表情に耐えられなくなった夕映が、のどかから目を逸らせ、自室の扉に近づく。挙動不審になりながら、自分でもどんな表情をしているのか分からない中途半端な笑みでドアノブを掴んだ。

 

・・・その時。

 

最初に感じたのは首筋を撫でる熱だった。敏感な部分を刺激され、ビクリと体が上下する。それが息遣いだと気付いたのは、背後から自分を抱きしめる、のどかの体温を感じ取った直後だった。嗚咽交じりの、吐息が聞こえてくる。ギュッと夕映を抱きしめる腕の力を強くし、ぐずる子供が親に甘えるように、額を押し付けていた。

 

 

「の、の・・・どか?」

 

 

締め付けられて、少しだけ苦しげな声で、のどかの名前を呼ぶ。

それでも彼女は何も答えずに、ただ体を震わせていた。

 

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 

いや、ちがう。無言ではない。のどかは何かを言ってる。あまりに小さな声なので、気が付かなかった。嗚咽だと勘違いしていたそれは、低い声で何事かを繰り返している彼女の呟きだった。夕映はその呟きを聞こうと、耳を澄ませた。

 

 

「・・・な・い・・んな・・・め・・・・・・・・さ・」

 

 

うまく聞き取ることができない。

それほどその囁き声は小さいものだった。

埒が明かない。

そう考えた夕映は、真正面からのどかと向き合うために振り返ろうとした。

 

・・・だが。

 

全く体を動かせない。強い力で固定されてしまっている。

もともと10センチ以上の身長差がある二人だったが、のどかはこんなにも力持ちだっただろうか?

 

 

「・・・・・・ご・・・・い・・ん・さ・・・・な・・」

 

 

夕映が微かな違和感を覚えている間も、彼女の繰り言は変わらずに行われている。身動き一つできない己の体に内心で舌を打ちながら、夕映は必死になってその言葉を聞き取ろうとした。途切れ途切れに聞こえてくる文字を注意深く拾い集めながら、頭の中で組み立てていく。クイズ番組で似たような問題があったな・・・そう思いながらも、夕映の頭は高速に回転し答えを導き出す。バラバラだった文字は、やがて意味を持つ一つの単語になった。

 

 

 

ごめんなさい

 

 

 

 

親友は自分の背中に体を預けながら、延々と何かに向けて謝罪の言葉を繰り返していた。

 

 

「のどか!どうしたですか?何を、何を謝ってるですか!?」

 

 

肌が粟立ち、背筋に悪寒が走る。夕映は慌ててのどかを問いただした。自分自身にも説明できない不安が脳裏をよぎっていた。

 

 

(なんだろう。なにか、なにか・・このままじゃ・・このままじゃ・・まずいっ!!)

 

 

予感・・・などという生易しいものではない。もっと確信めいたものが、心の奥底を圧迫している。詳しい話を聞かなければならない。どれだけのどかが嫌がっても、今この場で今度こそ彼女の話を聞かなければならなかった。

 

 

「のどか!のどか!答えてくださいっ!いったい何がっ!!」

 

 

じたばたと暴れつつ、自分を拘束するのどかの腕を振りほどこうともがく。だが、やはりそんな行為は無意味だった。どうしても彼女と向き合うことができない。まるでそれを彼女自身が望んでいるかのように。

 

 

「のどかっ!!お願いです!お願いですからっ!!」

 

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・夕映」

 

 

ぽつりとのどかが夕映の名前を呼んだ。

 

 

「・・・・・・・・のどか?」

 

 

名前を呼ばれ、夕映は暴れるのをやめた。自分の希望がかなった。そう思ったのだ。今度こそ自分に相談してくれるのだと。今までのどかが何を悩んでいたのか、夕映は知らない。でもこれからは違う。どんな悩みを打ち明けられたとしても、夕映は全力でのどかに協力すると決めていた。

 

 

「・・・のどか。話してください。何か、何か悩みがあるんですよね?私、ちゃんと聞きますから。だから・・・」

 

 

自身も動揺した心を落ち着かせるために、極力冷静さを意識した声音で話しかける。

幼い子供に言い聞かせるような口調だったが、これは夕映の懇願だった。

すると、その願いに答えるように、重い吐息交じりの震え声が紡ぎだされていく。

 

 

「・・・ごめん。ごめんね夕映・・・わ、私・・・私が悪いの・・・私のせいで・・・こんな・・・」

 

 

「・・・・・・のどか?」

 

 

「全部が手遅れになっちゃった。・・・そうなる前に何とかしようとしたけど・・・できなかった」

 

 

背後ですすり泣く彼女の表情は見えない。

口下手な少女の説明は、全く要領を得るものではなかった。

中途半端で夕映の問いかけにまるで答えようともしていない。

ただ自分の感情の赴くままに語っているかのようだった。

 

 

・・・・・だが、だからこそそれは、限りなく何の偽りもない、のどかの本心だった。

 

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい・・・・・・私はあなたを助けられなかった。・・・・・でも・・・だから・・・・だからもう、こうするよりほか・・・・・ない」

 

 

どんっ、と体に衝撃が走った。強い力で突き飛ばされ、数歩ほど前につんのめる。危うく自室の扉に激突しそうになりながら、夕映は反射的に両手をついて回避した。それでも完全に勢いを殺すことができずに、肩を扉にぶつけて膝をつく。のどかの言葉に集中していたために、僅かに反応が遅れた。幸い怪我らしい怪我はなかったが。その事に安堵の息をつく間もなく、慌てて背後を振り返る。体勢を立て直した夕映の瞳に映ったのは、すごい速さで走り去っていくのどかの後姿だった。

 

 

「のどかっ!!」

 

 

その声は悲鳴に等しかった。大きく口を開き、声帯が引き攣ったような声が、喉の奥から絞り出される。だがそんな夕映の叫びを無視して、のどかは曲がり角を曲がって見えなくなってしまった。

 

 

「くっ!」

 

 

足に力を入れ、すぐさま起き上がる。そして蹴躓き、転びそうになりながら、夕映はのどかの後を追い始めた。いつもよりも大きな靴音を立てて、廊下を走る。踊り場へと続く曲がり角でスピードを落とさないように飛び出した。そのままの勢いで階段を駆け下りようとした夕映だったが、丁度階段をゆっくりと登ってくる人影が目に移り、慌てて急制動を掛けた。たたらを踏み、危うく体ごと落下しそうになりながらも、何とか階段の手前でギリギリ踏みとどまる事に成功する。心臓が飛び出してしまいそうなほど驚いたが、それは階下にいる者も同じだったらしい。目を丸くしながらこちらを見ている。学校帰りなのだろう。制服を着たまま学生鞄を肩に担いだ朝倉和美と古菲が口を開いて呆然としていた。

 

 

「あっぶないなぁ。どったの?ゆえっち」

 

 

「あんまり急ぎすぎると怪我するアルよ?」

 

 

下からこちらを見上げ、声を掛けてくる。同時に夕映の様子がおかしい事にも気が付いたらしい、小さく首をかしげていた。

 

 

「あっ、朝倉さん!の、のどか、のどかを見ませんでしたか!?」

 

 

暴れるように鼓動を刻む心臓を抑えながら、口早にのどかの行方を問いただす。もしのどかが階段を通って下に降りたのだとすれば、和美たちが目撃しているはずだった。

 

 

「宮崎?ああ、そういえばあっちも何か慌ててたみたいに、走ってったけど・・・」

 

 

「どこに行きましたか!?」

 

 

「いや、どこって・・・分かんないよ。声かける間もなくすれ違って行ったからさ」

 

 

「なかなかの速さだったアルな」

 

 

和美が困惑したように返答し、隣にいる古菲が、うんうんと頷きながら感想を口にしていた。

 

 

「でも、すれ違ったのは玄関の近くだったから多分外に行ったんじゃないかな?・・・それより何かあったの?」

 

 

必死になってのどかの行方を尋ねる夕映に違和感を覚えたのか、和美が真剣な視線を向けてくる。夕映は今すぐにでものどかの後を追いたい気持ちを抑えながら、手早く事情を伝えていった。ここ最近、のどかの様子がおかしかった事。何がしかの悩みを抱えているようなのだが、自分には相談してくれなかった事。ついさっき自分の部屋の前で、のどかと話した事。その時ののどかはいつもと違い、どこか危なげな雰囲気を持っていた事等。

 

 

「とにかく、このままのどかを放っておく事なんてできないです。絶対に見つけなければ・・・」

 

 

気がはやり、イライラが抑えきれない様子の夕映が、体を小刻みに動かしつつ、唇を噛む。こうして話しているだけの時間も、勿体ないとでもいう態度だった。そんな夕映の姿を見た和美は、一度隣にいる古菲に顔を向けてから、表情を引き締めた。

 

 

「・・・分かった。とにかく宮崎を探せばいいってわけね。緊急事態みたいだし私たちも探すの手伝うよ。くーもいいでしょ?」

 

 

「もちろんアル!クラスメイトの危機は見過ごせないアルよ!」

 

 

ぶら下げていた鞄を抱えなおした和美と力こぶを作った古菲が、頼もしい声を上げて夕映に協力することを約束した。

 

 

「・・・朝倉さん、古菲さん。ありがとうございます!」

 

 

「べつにいいよ。それにちょっと気にはなってたんだ。この間ご飯食べた時も、何か様子が変だったし」

 

 

小さく手を振り、和美が夕映に頷きかける。そういえばそんな事があったか・・・こくりと頷き返しながら思い出す。しばらく前、夕映とのどかと和美、そして知り合ったばかりの横島を含めた四人はクラスメイトの屋台で一緒に食事をとった。他愛のない談笑をしながら、おいしい料理に舌鼓を打っていたのだが、そんな時、唐突にのどかが大きな声をだしたのだ。あまり男性に免疫があるとは言えないない恥ずかしがり屋ののどかが、知り合いとはいえ、ほとんど一緒に話した事もない男に自分から声を掛けた事に、和美と夕映は驚いた。

 

そして、その事を指摘した二人にのどかは動揺し、慌てて逃げるように席を立ってしまった。結局、それで食事はお開きになり、戸惑った様子の横島をその場に残して、二人はのどかの後を追いかけた。その後、何とかのどかに追いついた夕映達だったが、どうかしたのかと尋ねても、彼女は何も答えず愛想笑いをするだけだった。

 

夕映はその時のことを思い出し、眉をひそめた。言われてみれば、確かにあの時ののどかの態度はおかしかった。他人と距離をとるとか、それを誤魔化すために愛想笑いを浮かべるとかではなく、もっとわかりやすい差異だ。そういえばあの時、のどかは何と言ったのだったか・・・。たしか和美と横島が何かを話していたのだ。仕事で海外に行ったとか、そんな話をしていたように思う。それ自体は別に不審な話題でもなんでもない・・・・・はずだ。だが、その話題にのどかは反応した。いったいなんでだろう。

 

 

「それでゆえっち。どこから探す?外に出てるなら、心当たりでもないと見つからないんじゃない?」

 

 

難しい顔でむっつりと押し黙って考え込んだ夕映に、和美が声を掛けてきた。夕映はその言葉にハッとした様子で顔を上げた。今はおとなしく考え事をしている場合ではないのだ。気にはなるが、そんな事は後回しにして、のどかを探しに行かなければならない。頭の中でのどかが行きそうな場所を検索する。彼女は、どちらかといえば人気があまりない静かな場所を好む。そんな場所で本を読むのがお気に入りらしい。だが今、外は結構な勢いで雨が降っている。屋外の施設は軒並み使えない状態だろうし、雨を避けるために屋内にいると考えるのが自然だ。

 

だが、普段の様子から、雨の日にわざわざ外に出て何かをするのどかというのが、なかなか想像できない。そもそも、それほど活動的な性格ではない彼女は、一人で外出する事自体があまりない。たいていは自分か、ハルナ、あるいは部活つながりで木乃香などと一緒にいることがほとんどだ。しかもさっきののどかは精神状態が不安定だった。普段通りならばともかく、今の彼女がいそうな場所の予測を立てる事は難しい。次々と候補が浮かんでは消えていく。

 

 

「・・・・・・・すみません。よく二人で利用する公園とかカフェなら浮かんでくるんですが、あんな状態ののどかがいそうな場所となると・・・」

 

 

「分からないか・・・。まぁ、それじゃ手当たり次第に探すしかないかね」

 

 

「はい。・・・あの、朝倉さんと古菲さんは寮の近くを探してくれませんか?私は一応図書館島に行ってみようと思います」

 

 

「なるほど、本屋だもんねぇ。図書館探検部繋がりか・・・」

 

 

「はい。部活でよく行く場所に行ってみようかと」

 

 

「OK。それじゃ手分けするとしますか!っと、そうだゆえっち、一応宮崎の携帯にかけてみなよ。聞いた様子じゃ、でてくれるかはわからないけどさ・・・」

 

 

和美に言われてそんな事に気が付いた。慌てて携帯電話を取り出し、のどかの番号をコールする。しかし、十回ほど呼び出し音が鳴っても、のどかが電話に出る気配はなかった。

 

 

「・・・・・ダメみたいです」

 

 

「う~ん。一応定期的にかけ直してみなよ。着信に気が付いてないだけかもしれないし」

 

 

「・・・はい」

 

 

小さく嘆息しながら夕映は携帯電話を仕舞った。それから三人は、時間を決めて連絡を取り合うことにし、寮を飛び出した。打ち合わせ通り、和美と古菲に寮や学校周辺の探索を任せ、夕映は図書館島へと一直線に向かった。小さなコンパスを懸命に動かし、息を切らせながら、歩道を疾走する。

 

走り始めて気付いたが、この大雨の中で全力疾走すればほとんど傘が役に立たない。前から降ってくる雨水が制服を濡らしていく。肌に張り付き、動きを阻害する。走る分には大して問題ではないが、それでも微かな違和感が、夕映をイラつかせた。靴の中はとっくに水が染み込んで、不快な感触が足裏に伝わっていた。びしゃびしゃと音を立てながら、大きめの水たまりをやけくそ気味に踏み抜く。広範囲に水滴が飛び散り、歩道の脇に植えてある紫陽花の葉が微かに揺れていた。

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ」

 

 

周りはこれだけ湿気であふれているというのに、喉がヒリついて水分がほしくなる。肺が酸素を希求し、横っ腹が痛み始めた。それでも速度を落とすことをせずに足を交互に動かす。

 

夕映は顔を歪めながら、あまり知られていない図書館島への近道を使うべく、大通りから脇道へとそれた。この道は図書館探検部の活動中に、みんなで発見した道だった。狭い路地に入るため邪魔になった傘は、結局折りたたまれて、今は何の役にも立っていない。心持ち勢いを増して感じられる雨を、片手で作った日差しで遮る。顔中を濡らす雨水に目を細めながら、夕映は慎重に、それでもなるべく急ぎ足で進んでいった。

 

・・・・・そして。

 

唐突に、あまりに突然に、夕映はのどかを見つけた。左右を壁に囲まれ、大人三人が横に並べば、それだけでいっぱいになってしまうような、狭い道幅。その道の真ん中で、のどかは夕映に背中を向けて佇んでいた。

 

 

「のどかっ!!」

 

 

雨音にかき消されないように、大声を上げる。吹き付けてくる風と共に、まつ毛にたまった水滴が目に入ってきたため、瞬きする。一度、二度、三度。そのたびに視界から消える彼女は、それでもいなくなる事なく夕映の目の前に存在していた。

 

 

「よ、よかった。・・・いてくれた」

 

 

安堵のあまり、疲労していた足の力が抜けて、その場で屈みこみそうになる。無意識のうちに力が緩んでいたのだろう、握っていた安っぽいビニール傘が、パシャリと音を立てて倒れた。そんな事にも気が付かず、夕映はのどかの元に駆け出した。覚束ない足取りで転ばないように注意しながら、彼女の前に立つ。

 

 

「の、のどか、はぁ、はぁ、ご、ごめんなさい。のどかの事は心配ですけど、もう無理やり聞き出そうなんてしませんから、だから、だからもう逃げないでください。お願いしますから・・・・・・・」

 

 

とりあえず、のどかを落ち着かせる事が先決だと、自分の感情を一時封印して謝罪する。本当は・・・今でも彼女が直面しているであろう深刻な事態を、一刻も早く把握すべきだと思っている。だが先程の様子から、のどかが素直に事情を話してくれるとは思えなかった。ならばいったんこちらから引いてみる必要がある。夕映はそう考えながら、声を掛けても振り返ろうとしないのどかの肩に手を置いた。

 

 

そして、そのまま彼女に触れたその手は、肩を通り越し、ずぶずぶと背中までめり込んだ。

 

 

夕映がふれている部分から、のどかの輪郭が形を失う。不定形に揺らめくそれは、前にテレビで見た、無重力中の水の塊のようだった。彼女の着ている制服、いや、露出している顔、首、腕、手、太もも、ふくらはぎ、人体までもが色を無くし、透明になる。水桶に手を沈めたように波紋を作っていた。そう、のどかを形成している全てが、何もかも変質してしまっている。そして次の瞬間、彼女の身体が一斉に”はじけた”。

 

 

「ひっっ!!!」

 

 

全身に鳥肌が立つと同時に、引き攣った声で悲鳴が上がる。いや、それはもはや声でさえなかった。驚きのあまり肺から絞り出された空気が、痙攣した喉を通って口から出てきたに過ぎない。硬直した体、そして一切の役目を放棄した思考は、全く働こうとせず、逃げることも思いつかなかった。彫像のように固まってしまった夕映に、うねうねと形容しがたい動きをしている水の塊が、無理やり顔らしきものを作り、にやりと笑う。

 

 

「・・・・・・自分から人気のない所に来てくれてありがとうございマス。それでは、パーティー会場までご案内しますネ」

 

 

その部分だけは、童女のように愛らしいまま、それは夕映を覆い尽くした。暗転した視界。動かない身体。真っ白な思考。それらがすべて水流に流される。意識を失うその前に、夕映がやっと思いつくことができたのは、この中でも呼吸をする事はできるのだろうかといった、そんなあまりに場違いなくだらない考えだった。

 

・・・そして。

 

とぷん。

 

何かが沈み込んだ小さな水音と共に、その場所から誰もいなくなった。

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

・・・半ば夢のような微睡に包まれている。覚醒しきれていない意識は、ふわふわと浮いているようで心地いいが、その分不安定だ。今自分がいるのは夢なのか、それとも現実なのか、そんな事を考えながら小さく声を上げる。

 

 

「・・・・・う」

 

 

頭も体も鉛のように重い。どちらもまともに働きそうもなかった。関節の節々から鈍痛を感じる。まるで体中が錆びついて、ギシギシと音を立てているかのようだった。目蓋を開くのも億劫だ。だがそれでも、目を開けなければならない。夢と現実、その狭間から抜け出さなければ。瞳の表面に油膜が張り付けられているのかと勘違いするくらいに、視界はぼやけてしまっている。かすんで見える光景では、見えている物が何なのかもうまく理解できなかった。何度も瞬きを繰り返す。そうしているうちにようやく、まともに周りが見えるようになってきた。同時に休暇中だった頭が、職場復帰を果たす。意識を失っていた直後なので、寝起きのように鈍かったが。それでも、とりあえず自分の今の状況を把握しようと、上体を起こす。うまく力の入らない身体で何とか起き上がり、きょろきょろと周囲を見渡した。

 

 

「あっ、起きたアル」

 

 

心なしか痛む頭を抱えながら、声の聞こえた方を振り向く。するとそこには、見知ったクラスメイトが心配そうにこちらを見ていた。

 

 

「やっとお目覚め?まったく、何度も呼んだのに全然起きないから心配したよ」

 

 

「あ・・さくら・・さん。くー・・ふぇー・・・さん・・も」

 

 

うまく口が回らない。舌足らずな口調で、話しかけたことに、僅かに頬が紅潮する。そんな自分の様子を見て、和美が呆れたようにやれやれと首を振っている。それでも夕映が目覚めたことに安堵したのだろう。表情が和らいで見える。寝ぼけ眼で目尻を擦っている自分に声を掛けてきたのは、寮を出るときに別れた朝倉和美と古菲だった。

 

 

「おーい、綾瀬が起きたよ」

 

 

和美が近くにいるもう一人の人物に声を掛ける。

 

 

「えっ、あっ!ホンマや。も~心配してたんよ。夕映」

 

 

「え?・・・木乃香さん?なんで?それにあっちにいるのは明日菜さんと・・・」

 

 

自分たちと少しだけ離れた場所で、なぜか下着姿のまま拘束されている明日菜に視線を向ける。どうも気を失っているようだ。天井から垂れ下がったひも状の何かに両腕を吊るされ、ぐったりとしている。その背後には、両手を後ろ側で縛られている桜咲刹那がいた。明日菜と同じく意識を失っているのか両目を閉じている。そして、不思議なことに・・・本当に奇妙な事に、なぜか彼女は宙に浮いていた。いつか見たイリュージョンのごとく、支えもなしに重力にケンカを売っている。何かの見間違いかと夕映は両目を擦った。しかし現実に彼女はふわふわとその場に浮かんでいる。

 

そんな馬鹿なと思いながら、もう一度よく観察してみる。すると、どうも空中に浮かんでいるわけではないようだ。何と言うか、例えるならプールの中でプカプカと浮かんでいるときに近い。彼女は水の中にいるようだった。なんだそういう事かと納得して頷いた夕映だったが、次の瞬間ハッと息をのんだ。

 

 

(水中?水の中?そんな場所に長時間いたら・・・)

 

 

もし・・・・・もし自分が意識を失っている間もあの状態だったのだとしたら・・・。

ぞっとしながら、慌てて彼女の元まで駆け寄ろうとする。そして、自分たちもまた、得体のしれない何かによって囚われている事に気が付いた。

 

見た目はプールの底から水面を仰ぎ見ているようだ。透明でありながら、光の加減でゆらゆらと風景を歪めている。形は夕映達を囲むようなドーム状のもので、ありのままを簡潔に言ってしまえば、天井を含めた四方を、水でできた壁のようなものに囲まれている。それは見るからに異常な光景だった。

 

一見すると何かのアトラクションのようでもあったが、ガラスで覆われているわけでもないのに、水が重力に逆らって檻を作っている。警戒心が刺激されたが、興味が先に立って、夕映はその水の壁にそっと触れてみた。冷たい。肌を刺すほどとは言えないが、少なくとも常温ではある。しかし感触は明らかに違っていた。ブヨブヨと弾力性があって、それなりの厚みがあることもわかる。ゴムの感触に近いかもしれない。ためしに力いっぱい叩いてみたが、結果は予想通りで、素手で叩いた程度ではどうしようもなさそうだ。

 

 

(・・・・・もしかして)

 

 

夕映は刹那に注意を戻した。自分たちが囚われている場所は、確かに水中のようであったが、少なくとも正常に呼吸はできている。息苦しいという事もない。だったら、似たような場所にいる刹那は・・・・・。そう思い、もう一度彼女の様子を調べることにした。一定の間隔で、胸が上下している。苦しそうにしている様子もない。顔色が悪くなっているというわけでもないし、寝顔も穏やかなものだ。どういう原理かさっぱりわからないが、一応あの中でもまともに呼吸は可能らしい。ほっと安堵の息をつく。どうやら刹那は無事なようだった。

 

ふと気になり、木乃香に視線を向ける。考えてみれば親友である彼女が落ち着いているのだ。そうそうめったな事になっているはずがなかった。

 

なんだか異様に疲れた。そう思いながら、そっとため息をこぼして周囲を見渡す。そこで、ようやくここはどこなんだろうという疑問が芽生えた。なにか劇場の舞台のような場所に自分たちはいる。夕映たちがいる場所を中心として、扇状に広がった客席が囲むようにして設置されている。頭上では複数の鉄骨が複雑に組み合わさり、要所要所に照明器具が取り付けられていた。いや、普通に外の景色が見えているという事は、劇場というよりは野外コンサートのそれが近いのだろうか。うろ覚えだが・・・・・学園祭で使う予定のステージが確かこんな感じだった気がする。

 

 

「あの皆さんは何でここに?私は?」

 

 

「いや~、私たちもよく分かんないんだけどさ。くーと一緒に宮崎を探してたらいきなりへんなのに・・。っと、そうだ。ゆえっち!宮崎もここにいるんだよ!」

 

 

「えっ!!」

 

 

首をかしげながら事情を話そうとしていた和美が、慌てて何かに気が付いた様子で夕映を手招きする。彼女たちの体に隠れて気が付かなかったが、もう一人誰かがそこにいるようだ。和美の言葉に導かれ、夕映はいまだにうまく動かない体で、彼女が示す場所に視線を向けた。小さく体を折りたたんで膝を抱えながら、誰かがこちらに背を向けて座り込んでいる。後ろ向きでもすぐにわかるその姿は、和美の言うとおり、夕映の親友である宮崎のどかだった。

 

彼女の姿が目に入った瞬間、状況が理解できないまま、無意識のうち体が動いた。膝立ちのまま彼女の元まで這いずるように進む。そして背後から肩をつかもうと腕を上げたところで・・・夕映はぴたりと動きを止めた。

 

 

「・・・・・・本当にのどかですか?」

 

 

恐る恐るといった様子で声を掛ける。ようやく普段通りに頭が働きだしていた。意識を失う直前の記憶が脳内で再生される。

 

 

「ははっ。ゆえっちもやられたのか」

 

 

隣でそれを見ていた和美が、片目を瞑った半笑いで、こめかみを掻いている。

台詞から察すると、彼女も夕映と同じように何者かに騙されたようだ。

 

 

「大丈夫だと思うよ。一応ちゃんと触れるし・・・まぁ、いくら呼んでも全然返事してくれないんだけどさ」

 

 

「のどか・・・どうしたんやろ?」

 

 

どうも夕映が起きる前から、何度かのどかに声を掛けていたようだ。胸の前で両手を組んだ木乃香が、心配そうに目じりを下げている。木乃香はのどかと比較的仲のいい友達でもあった。図書館探検部として部活でも、夕映やのどか、ハルナと一緒に活動している。だからもちろん木乃香も、ここ最近のどかの様子がおかしかった事に気が付いていた。気遣うように、夕映とのどかを交互に見ている。

 

 

「のどか?」

 

 

夕映が遠慮がちに声を掛けた。皆と顔を合わせないように背を向けているのどかに近づく。そして彼女の顔を覗き込んで・・・言葉を失った。あの時、自分の部屋の前で話した時と全く同じ無表情だ。虚ろに開かれた瞳は、まるで焦点が合っていないかのように、遠くを見つめている。目の周りが落ちくぼんだように見えるのは、黒いクマができているせいだろうか。荒れた肌や、かさついた唇からも、満足な睡眠がとれていないのだろうと推察できた。

 

・・・こんな、こんな状態だったのか。夕映は絶句したまま後ずさる。これではまるで病人のようではないか。まともに食事もとっていないのかもしれない。雨に濡れて張り付いた制服姿は体のラインを強調させている。彼女は少しだけ痩せたように見えた。

 

・・・・・もっと、もっと早く彼女と話しておくべきだったと夕映は後悔した。放っておいてくれという、のどかの言葉を真に受けて、彼女を一人にした。素直に従うべきではなかったのだ。たとえ嫌われたとしても、強引に彼女と一緒にいるべきだった。のどかの様子がおかしかった事は、とっくに気づいていたというのに・・・。唇を噛みながら俯いた夕映を和美たちが心配そうに見つめていた。自己嫌悪に押しつぶされそうだったが、今はそんな場合ではないと思い直す。

 

 

「・・・あの、誰か今の状況を詳しく説明できる人はいるですか?私の場合、突然何かに襲われて意識を失ってしまったので、ほとんど状況がつかめなくて」

 

 

とにかく現状を把握しようと、夕映はのどかの背中を優しく撫でながら、クラスメイト達に尋ねた。のどかの様子は気になるが、今は一刻も早く彼女を温かい場所に連れて行きたい。夕映自身もそうであるが、雨に濡れた制服が肌に張り付いて気持ちが悪いのだ。それに生乾きのままでは体温が奪われてしまう。時期的にいくら暖かくなってきたとはいえ、この雨では気温もそう高いものではない。このままでは風邪をひいてしまうだろう。ただでさえのどかの体調はあまり良いとは言えないのだ。

 

 

「う~ん。さっき言いかけたけど私らも同じだよ。なんか水みたいな変なのに騙されてさぁ」

 

 

「うー。面目ないアル」

 

 

「あっ、ウチも同じや。明日菜と一緒にいた時にぐわわーって」

 

 

どうやら夕映のように、皆同じ何かに襲われてここに連れてこられたようだ。あの時は一瞬の出来事だったので、あまりよく覚えていないのだが、とにかく言えるのは、自分を襲ったあの・・・生物?よく分からないが、あれがまともなものではないという事だろう。人間に擬態し、言葉を話す水のような軟体生物など見たことも聞いたこともない。

 

となればだ・・・・・連想されるのは、あの京都での夜。この非日常に足を踏み入れたような感覚はあれに近い。また魔法関係のいざこざだろうか。それに巻き込まれたという事か?だが、もしそうだとしても、どうして魔法使いでもなんでもない自分たちが狙われたのだろうか?いくつかの疑問が頭をよぎり、顎に手を当て思い悩んでいると、唐突にこちらをからかうような声が聞こえてきた。

 

 

「お前らは単なる人質だよ。ネギっつーガキをおびき寄せるためのな」

 

 

夕映が声の聞こえた方向を振り返ると、そこにはよくできた人形のように愛らしい姿の小さな子供が、顔に全く似合わないいやらしい笑いを貼り付けて、にやにやとこちらを見つめていた。

 

 

「まぁ、これも魔法使いに関わったが故の不幸だと思ってほしいデスゥ」

 

 

二人目、いや三人目も一緒に現れる。屈託のない笑顔を向けながら声を掛けてきたのは、夕映が意識を失う直前に見たあの幼い女の子だった。猫の耳のように両端が尖った特徴的な帽子をかぶり、メガネをかけている。無表情で明後日の方向を向きながらぼーっとしている、異様に髪の長い三人目の手を引っ張っていた。

 

 

「ネギ先生に対する人質?・・・・・どういう事ですか?」

 

 

「どういう事も何もそのままさ。あそこにいるおっさんが立てた作戦に巻き込まれたんだよ」

 

 

髪を両サイドで縛った生意気そうな娘が明日菜がいる方を指さす。するといつの間に現れたのか、そこには黒コートに黒い帽子の老紳士が、見知った少女を抱えて佇んでいた。

 

 

「あれは・・・那波さん?」

 

 

季節外れの格好をした老紳士に抱えられて現れたのは、クラスメイトの那波千鶴だった。脱力した両腕は、腰まである長い髪と同じく、だらりと垂れさがっている。両目を閉じて意識を失っているようだ。何となく直視しがたい胸は、規則正しく上下しているので、本当に眠っているだけなのだろうが。老紳士は三人娘に何かを命じて、夕映達を閉じ込めている物と同じ水牢を作らせ、その中に千鶴を入れると、落ち着いた足取りで、こちらに近づいてきた。

 

 

「やぁ、お嬢さん方。不自由な思いをさせてすまないね」

 

 

好々爺然とした、柔和な笑顔・・・あるいは裏表を含んだ詐欺師の仮面だろうか。かぶっていた帽子を脱ぎ、その老人は笑っている。あの小さな誘拐犯たちの言葉が本当なら、おそらく彼こそがこの状況を作った張本人なのだろう。否応なしに心拍数が上がり、緊張で顔がこわばる。夕映はごくりと唾を飲み込んだ。とにかくファーストコンタクトを試みるべきだ。少なくとも外見上は話が通じるタイプに見える。

 

 

「あの、あなたは誰ですか?なぜこんなことを・・・」

 

 

「ふむ・・・私はヘルマンという。昔は伯爵などと言われていたが、今はしがない雇われの身でね。まぁ、ちょっとした調査依頼を受けてこの麻帆良に来たのだが・・・。っと、お姫様がお目覚めのようだ」

 

 

ヘルマンと名乗った老人の背後で、微かな声が聞こえた。身じろぎのたびに両腕を縛る拘束が音を立てずに揺れている。閉じていた目を半分ほど開き、寝起き特有の聞き取りずらい言葉で小さく呻いていた。どうやら明日菜が目を覚ましたようだ。ぼんやりとした表情で周りを見渡しながら、首をひねっている。一度目をぱちくりとさせてから、困惑の表情で今度は自分が置かれている状況を確認しようとして・・・。

 

 

「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!」

 

 

当然のように甲高い悲鳴が上がった。とっさに体を隠そうとしたのか、両腕を動かそうとして、拘束に阻まれている。力を入れるたびに体が回転し胸が上下する。下着姿と相まって何というか・・・・・妙に扇情的ですらある動きだ。

 

 

「な、なによこれっ!何でこんな恰好で!!」

 

 

「はっはっは。これは元気なお嬢さんだ。初めまして、神楽坂明日菜君。囚われのお姫様が味気ない姿ではどうかと思ってね。本当は君に似合うドレスを用意したかったのだが、まぁその姿もなかなかに似合っているし・・・・・」

 

 

「黙れこの変質者ーーーーーーっ!!」

 

 

何やら得意顔で説明しだしたヘルマンに、強烈なキックがお見舞いされる。身長差を物ともしないで放たれたその蹴りの軌道は美しい弧を描いて、彼の顎に吸い込まれていった。おぶぅっ!、という風船の空気が抜けていくような濁音を発しながら、ヘルマンの首が背後にまわる。彼は鼻から赤く切ない液体を噴出しながら、それでもなんとか笑顔を維持していた。・・・若干引きつってはいたが。

 

 

「あんたいったい誰よっ!何のつもりか知らないけど、とっととこの・・縄?よく分からないけど、放しなさいよ!警察に突き出してやるから!」

 

 

「う、うむ。すまないがそれはできない。まだネギ君が到着していないのでね」

 

 

「ネギ?・・・えっ、ネギがどうしたって」

 

 

「明日菜ーーーっ!こっちこっち」

 

 

ヘルマンの言葉を聞きとがめ、険しい表情で問い返した明日菜に木乃香が声を掛けた。

周りを囲む水の壁を、両手で叩きながら、大きな声で呼びかけている。この水壁は物理的な力をある程度遮断しているようだが、防音性はそれほど高くない。木乃香の呼び声が聞こえたのか、明日菜が首だけを動かして、夕映達の方に視線を向けた。

 

 

「み、みんな!なんでここに」

 

 

「彼女たちはネギ君をここに呼ぶための人質として招待させてもらった」

 

 

ヘルマンが、強烈な蹴りで脱げてしまっていた帽子を深くかぶり直し、表情を隠しながら落ち着いた声音で説明する。

 

 

「人質って、なんでそんな・・・。あんたいったい何者なの?何が目的っ!?」

 

 

「それは・・・・・・・」

 

 

ヘルマンが真剣な表情で何事かを話そうとしたその時、薄暗い空が眩く光った。上空から撃ち込まれた幾条もの光が、彼自身に突き刺さらんと雨風を巻き込みながら直進してくる。黒を塗りつぶしていく純白のエネルギーは、しかしその役目を果たすことなく、標的に着弾する寸前あっけなく霧消した。

 

 

「あぅ」

 

 

小さな悲鳴が上がる。僅かな痛みを感じた明日菜が身をよじるようにして視線を下げた。彼女の胸元、その場所に自身も身に覚えのないネックレスが掛けられている。首筋を流れる細身の鎖は、繊細にして緻密な細工を施された装飾に繋がり、中央にある宝石が淡い光を放っていた。

 

 

「ふむ、上出来だ」

 

 

それを眺めていたヘルマンが、実験結果に満足した観察者のように、こくりと一つ頷いた。そのまま視線を空から降りてきた少年達に向ける。舞台を囲む客席の入口に二人の少年が立っている。一人は身の丈よりも長い木製の杖を槍のように突き出し、真剣な色を浮かべた瞳を今は険しくさせていた。もう一人も同じような年齢の少年だ。些か量の多い髪がつんつんとはねていて、どことなくやんちゃな印象を与える。そしてその隙間から、何故か獣の耳のようなものがピョコンと飛び出していた。アクセサリーの類ではないのか、時折ぴくりと動いている。こちらの少年も表情を険しくしながら前方を睨み付けていた。

 

 

「みなさん、無事ですかっ!!」

 

 

「約束通り来てやったでおっさん!!」

 

 

そこに現れたのは、夕映や明日菜たちの担任教師でもあるネギ・スプリングフィールドと、京都で知り合った犬上小太郎だった。

 

 

「ネギ!」

 

 

「あっ、おーいネギくーん!」

 

 

ネギの姿を見つけたクラスメイト達が次々と大きな声を上げる。両手をぶんぶんと振りながら、自分たちの存在をアピールしていた。夕映はそんなクラスメイト達の様子を尻目に、目線を落とした。自分の足元で虚ろな瞳のまま、膝を抱えて少しも動こうとしない親友を見つめる。彼女の背中に軽く触れながら、目を伏せる。ほんの少し期待してしまっていたのだ。のどかの思い人であるネギになら、彼女は何らかの反応をするのではないかと。夕映はのどかの背中を温めるように優しく撫でながら、ネギたちの方に視線を戻した。

 

 

「何でこんなことをするんですかっ!あなたは一体」

 

 

「私の目的について語るなら・・・・・」

 

 

自分の生徒たちに視線を向けて、その姿から無事だという事を察したネギが少しだけ口元を和らげた。それでも、すぐに元の表情を取り戻し、ヘルマンに向けて真意を問いただそうとする。その言葉を半ば遮るように、冷たく硬い調子の声が聞こえてきた。

 

 

「それは単純なものだよ。言ってしまえば、この麻帆良の調査だ。だが・・・」

 

 

こきりと首の関節を鳴らしながら、自身の顎髭をしごいている。ネギの瞳を見返しながら、ヘルマンは意味ありげに口元を釣り上げた。そのまま告げる。

 

 

「だがまぁ、本音を言えばそちらにはあまり興味がなくてね。だから君達の方を優先させてもらった」

 

 

「どういう事ですか・・・?」

 

 

「依頼内容の中には君と、そこにいる神楽坂明日菜君の事も含まれていてね。君たち二人がどの程度の脅威になるか調べてこいと・・・まぁそんな内容だ」

 

 

「・・・・・なんでそんな事、いったい誰が」

 

 

「依頼主に関して話すことは何もないな。・・・あぁ、先に言っておくと君の生徒たちにはこれ以上何かするつもりはないよ。あくまで君をここに連れてくる事と、他の者達に邪魔されないための措置だからね」

 

 

「・・・それなら、みんなを解放してください」

 

 

「それはできない」

 

 

簡潔にただそれだけを告げて、ヘルマンはわずかに腰を落とした。半身の体に拳を隠し、重心を前方に移動させる。幾度か手袋の感触を手に馴染ませるように開閉しながら、瞳の色を薄くさせ、感情が凍りついたように表情を消した。

 

 

「彼女たちを助けたいなら、私を倒すことだ。言ったろう、君の力が知りたいのだと・・・」

 

 

ネギは明確な戦闘態勢に入ったヘルマンの姿を見て、顔をこわばらせた。額に汗がにじみ、息遣いが変わる。実戦の空気が漂い始めるにつれて、否応なしにネギの表情も引き締まっていく。緊張しているのか何度も唾を飲み込むように口元を動かし、それでも決意したのだろう。彼はこくりと頷いた。

 

 

「分かりました。お相手します」

 

 

「それでいい」

 

 

長大な杖を脇に抱え、ネギが身構える。つま先を相手の方向に向け、足元を確かめるようにギュッと靴音を鳴らした。そのまま、舞台の中央にいるヘルマン目掛けて突撃しようとした彼だったが、目の前の小さな背中がそれをさせなかった。

 

 

「いや、俺の方が先約や。散々殴られたからな。倍返しにせんと・・気が済まん!」

 

 

尖った犬歯をむき出しにし、不敵な笑みを浮かべた小太郎が、指を鳴らしながら階下を見下ろす。そして突然現れた背中に目を丸くしたネギに、有無も言わせず駆け出して行った。四段跳びで階段を下りながら、背後にいる彼に向かって、声を掛ける。

 

 

「ネギ!わかっとるな!」

 

 

鋭く投げかけられた言葉にネギがハッとした様子で身動ぎする。確認するように背後に隠してあった物を握りしめながら、先行した小太郎に追随した。雨が降っているために滑りやすくなっている地面を注意しながら踏みしめ、呪文を唱える。小声で呟くように発せられた言葉が意味を持ち、それに込められた意思が現実となる。バチバチと帯電しながら空気を震わせ、術者の魔力が形を変えて、思うままに暴れだそうとしていた。

 

 

「小太郎君!」

 

 

発射タイミングを意図的に遅らせて待機させた魔法を右手に宿らせ、ネギはすでに戦闘を始めた小太郎に合図を送った。こちらの意図を理解したのだろう。張り付くように近接戦闘を行っていた小太郎が距離をとる。明日菜たちがいる舞台中央で、動きを封じられていたヘルマンがネギに視線を向けた。その顔を真っ向から見返しながら、力ある言葉の最後を紡ぐ。

 

 

「白き雷っ!!」

 

 

短く吐かれた呼気と共に、純白の稲妻が解き放たれた。波打つように発せられたそれは、見る者の網膜に鮮やかな軌跡を残す。空気中でも全く減衰することなく直進し、標的を貫かんと牙をむいた。

 

・・・だが。

 

先程空中で奇襲を仕掛けた時と同じく、ネギの魔法は見えない何かに衝突したようにあっさりとかき消されてしまった。

 

 

「また、なんでっ!?」

 

 

「アホっ!ぼーっとしてんな!」

 

 

雷の閃光に目を灼かれないように、腕で顔をかばっていた小太郎が、消滅した魔法の後を埋めるため、再びヘルマンへと対峙する。限界近くまで身を沈めて接近し、ほとんど四つん這いの姿勢から掌底を放つ。全身のばねを使い、浮き上がるようにして打ち込んだそれは、威力を期待してのものではない。絶望的なまでの身長差があるため、効果的な部位に、直接打撃を当てることは難しい。だからこれは単なるけん制だった。防ぎにくい下側からの攻撃で、両腕を使わせるための・・・。

 

鳩尾を狙ったそれを防ぐため、ヘルマンが交差するように腕を使ってその打撃を防御した。硬い感触が掌に伝わってくる。舞踏会で踊るパートナーのように接近した二人は、互いの腕で、一瞬視界がふさがれる。その瞬間を待っていた小太郎が、接触していた袖口をぐいっと掴みながら、ぶら下がるようにして体重を掛けた。

 

そして飛び出した勢いを利用し、つかまったままの腕を支えに相手の股下をするりと通り抜ける。背後に回り込んだ小太郎は、背中を向けあった姿勢で、そのまま足を使って相手の膝裏を蹴り抜いた。さすがにそんな動きは予想できなかったのか、ヘルマンは驚いて目を見開いたまま、がくりと膝をつく。

 

 

「いまやっ!ネギ!」

 

 

してやったりと会心の笑みを浮かべながら叫んだ小太郎に答えるようにして、ネギが背後に隠し持っていた瓶のふたを開ける。表面に五芒星が描かれたそれは、もちろんただの瓶ではなかった。早口に唱えた呪文に呼応して、瓶に込められた魔法が発動する。一瞬にして空中に魔方陣が展開し、まばゆい光を放つ。それはそのまま標的を吸い込もうと鈍い音を立てながら振動し、そして・・・・・

 

 

「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 

苦悶の声を上げる明日菜の悲鳴と共に、発動しかけた魔法が霧散する。触媒となった瓶本体は重力に従い地面へと落下して、空間に投影された魔法陣は光の残滓すら残さず消え失せた。

 

 

「言い忘れていたが・・・・・」

 

 

その様子を確認し、ヘルマンがゆっくりと立ち上がった。

驚愕の抜けきっていないネギにポツリと告げる。

 

 

「そこにいる明日菜君の魔法無効化能力は、こちらが利用させてもらっている。放出系の魔法は通じないと考えた方がいい。まだ、試してみるかね?」

 

 

「くっ」

 

 

思わず言い返そうとした言葉を飲み込み、ネギが悔しそうに歯噛みした。

 

 

「だが、気をつけたまえ。その力が強力であるほど彼女に負担がかかる」

 

 

ヘルマンがネギから視線を外し隣を見る。ネギが誘導されるように視線を向けたその先で、両腕を釣り上げられた明日菜が苦しそうに息を荒げていた。

 

 

「明日菜さん!!」

 

 

白い肌に玉のような汗を浮かべ、顔をしかめながら苦痛に耐えている。微弱に震えた唇から小さな呻き声がこぼれた。心配そうに名前を呼ぶ声が聞こえたのだろう。彼女はそれでも気丈に頷き、片目を瞑りウインクしながら答えた。

 

 

「だ、大丈夫。こっちの事は気にしなくていいから・・・」

 

 

明らかに強がりだと分かる。痛みを堪え、喘ぎながら何とか言葉を紡いでいる様子だ。全く平気そうには見えない。ネギが何も言えずに明日菜に向かって気遣わしげな視線を送っていると、その姿を隠すようにヘルマンが彼女の前に立った。

 

 

「状況は理解したかね。ならばあとは・・・拳で語り合うとしようか」

 

 

黒い手袋をはめなおしながら、ヘルマンはネギ達に鋭い視線を向けた。

 

 

 

 

 


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