そしてふたりは。
ではどうぞ。
23 彼は彼女に翻弄されまくる
雪ノ下雪乃のマンションのリビング。
ソファーに戻って、紅茶を飲む。といっても満足に両手の使えない俺は、隣に腰掛けた雪ノ下に飲ませてもらっている。
「なんか、かえって悪いな」
「いいえ。気にしないで欲しいわ。それに」
カップを皿に置いた雪ノ下の頭が、俺の肩にとんっ、と乗せられる。
「私、今幸せよ」
『あなたに何かあったら、私も生きてはいないのだから』
――あの時の雪ノ下の言葉が甦る。
今、あらためて実感している。
雪ノ下の上目遣いは凄まじい威力だ。
頭がクラクラするほどの破壊力を持っている。
雪ノ下クラスになると空気感染型の神経毒を体内生成できるのか、などと下らないことを考えていないと、すぐに魅力に負けてしまう。いやすでに不戦敗だ。白旗上げまくりである。
「私の事を必死で守ってくれた人。私を救ってくれたナイト…いいえ、ヒーローさんに私の料理を食べてもらって、一緒に紅茶を飲んでくれている。すごく幸せなことよ」
俺のシャツの襟元が雪ノ下の吐息で微かに湿気を帯びる。
「別に俺は、お前じゃなくても同じようにしたと思うぞ」
それは半分本心で半分嘘だった。俺はきっと、他の誰かが傷つけられても怒るに違いない。しかし、ここまで俺にさせてしまう人間は限られる気がする。
「知っている、いいえ、解っているわ。あなたは優しいもの」
虚も実も、全てを見透かされそうな雪ノ下の目。
「あなたは、私を含めてみんなを守ろうとする。私の為に…こんなケガまでして」
雪ノ下の光が弱くなり目に涙が溜まる、が、すぐに決意の目に変わる。
「だから私は、そのあなたを守るわ。全力で」
そう言い放つ彼女は、柔和な笑顔と優しい光を放っていた。
「おまえ、何を…」
「言ったはずよ。あなたに何かあったら、私も生きてはいないと」
瞬時には理解出来なかった。何しろ俺にはこんな経験は無い。皆無。南無。
挙句俺は、解に到るまでに数秒を要した。
「おまえ、それって…」
まさかとは思うが一応問う。
「ええ、一応…告白のつもりよ」
くすっと笑う雪ノ下。そしてこの事態に対応しきれない、あわあわしてる俺。
「でも、まだ応えてくれなくていいわ。あなたを好きなのは私だけではないから」
「ほ、他に誰がいるってんだよ」
「由比ヶ浜さん」
即答だった。
「それに、川崎さん、一色さん、城廻先輩、もしかしたら姉さんも。あ、勿論小町さんもね」
想像力豊かなのは結構だが、全く思い当たる節が無い。小町以外は。
「なんだよそれ、ぜんぜん身に覚えがないぞ」
構わず雪ノ下は続ける。
「あと平塚先生も、かしら。そう考えてみると…あなたは相当な女たらしなのね」
そう自分で結論付けて、額に手をやり溜息をつく。
「だから知らないって」
しかし話は進んでいく。俺の意思とは無関係に。
「こんな女たらし、好きになったのは間違いだったのかも」
「おいおいちょっと待て、全部仮定の話だろう」
「…女どうしって、何となくわかるのよ」
「私は、あなたを知ってからずっとあなたを見てきたわ。気づかれないように」
おいおい、どこの女スパイだよ。
「だから、あなたが好意を向けている相手もわかるわ」
心臓を掴まれた気がした。俺の想いも解っていたんだと思うと、自然と顔が紅潮してしまう。
「でも、まだ選ばなくて良いわ。何よりあなた自身がそれを望んでいないもの」
氷の女王は、その冷たい視線で万物を見通す。まさしくそんな感じだ。
「おまえ、エスパーか。」
「言ったはずよ。ずっとあなたを見ていたと」
あらためて言われると恥ずかしいな、こういうの。
「あなたに最初に抱いた感情は、苛立ちだったわ」
お互い苦笑いを浮かべる。
「出だし最悪だな」
「そうかしら、私は悪くないと思っているわ。今となっては、だけれども」
「あなたが抱えるものを少し理解できた頃に、苛立ちの原因に気づいた」
「まるで鏡を見ているみたいだったのよ。私が貴方を見ていて苛立ったことは、そのまま私に当て嵌まったの」
「性格も性質も違うのに、抱える物は共通のものが多かったわ。貴方のことだから、私より先にそれに気づいていたのかも知れないけれど」
そうだな。そうかも知れない。
「そうやってあなたを観察しているうちに、もっと貴方のことを知りたくなった」
「観察って、学術的興味かよ」
「それに近いのかも知れないわね。探究心が止まらないもの」
そのうち論文とか書くんじゃねえだろうな。ぼっちの論文なんか書いても需要は無いぞ。
「そして…文化祭、修学旅行」
背筋が寒くなる。嫌な思い出。一度は関係を壊し始めた思い出。
「あなたは自分を悪者にすることで事態の解決を図ったわね。その時気がついたの」
雪ノ下の言葉の間隙を縫って、壁の時計の秒針が音を響かせる。
「貴方の行動原理と、私自身の気持ちに。だから私は更に苛立ちを覚えたの。自分の無力さと共に、ね」
「貴方は、他人が傷つく前にまず自分を傷つける人。被害が自分だけで済めば善しとしてしまう人」
「貴方を守りたいと思い始めたのはその頃かしら」
「だって、放っておくと貴方は他人の為に自分ばかり傷つけて、やがて壊れてしまうもの。それは嫌だわ」
短い沈黙の後、雪ノ下は立ち上がった。
「…紅茶が冷めてしまったわね。淹れ直してくるわ」
一人残されたソファーで俺は雪ノ下の話を頭の中で反芻していた。
おそらくは、雪ノ下の話した内容は全て正しい。俺の考えや心の中を見透かされていたのは癪だったが。
そして、そのうちひとつの『解』にたどり着いてしまった。正解が誤解かは、まだ解らない。その正誤は、これからの時間の中でゆっくり実感していくのだろう。
雪ノ下が紅茶を運んできた。そして俺の口元にカップを寄せる。ふわりと紅茶の香りに包まれた後、その香りは口の中に広がり、鼻孔へと抜ける。俺の飲み頃の温度。
「なあ雪ノ下」
「なにかしら?」
雪ノ下はカップを置いてこちらに向き直る。
「俺も言っておきたい、伝えておきたい」
もう、観念してしまおう。
目の前のこいつに、全部見せてしまおう。
俺の頭の中を。気持ちを。紆余曲折を経て、ようやく導かれようとしているものを。
「別に、今どうこうという話じゃないが…」
「奉仕部に入って、気づいたことがある」
「俺が、実は優柔不断だってことだ。今までぼっちだったから気づかなかった。選択肢が無かったからな」
雪ノ下は真っ直ぐな目で俺を見る。俺は少し視線を外し、深呼吸。吐く息が震える。そしてもう一度雪ノ下をしっかりと視界の正面に捉える。
「雪ノ下、俺はおまえが好き…なようだ」
一瞬、雪ノ下の笑顔が弾け、すぐに微笑に戻る。
「そう、ありがとう。でも由比ヶ浜さんも好き…なのでしょう?」
図星。でも、もう隠さない。
「ああ。たぶん、そうだ。」
雪ノ下は、やっぱり…と言いたげに溜息混じりに笑う。
「俺はずっと『ぼっち』だったからな。同時に二人を好きになるなんて思わなかったし、何より認めたくなかった」
「だから二人から遠ざかろうとしたし、リセットしようとした」
雪ノ下は紅茶で俺の喉を潤してくれた後、同じカップを自分の口に運ぶ。しばしその光景に心を奪われた。が、まだ全部出し切ってはいないことに気づき話を続ける。
「でも、リセット出来ないことに…気がついた」
こんな最低な吐露を、雪ノ下はしっかりと聞いてくれる。
「それからは、三人でずっと居られたら…なんて都合のいいことを考えたりもした」
「あなたは、そんな自分が嫌だった」
やっぱり、雪ノ下も気がついていた。知っていた。
「…そうだ。激しく自己嫌悪した」
そこまで告げた俺は、この先告げなければいけない事を考えて、躊躇した。
「…続けて?」
雪ノ下は俺の髪を撫でながら、俺の言葉を、吐露を待つ。
「…文化祭のとき、そして修学旅行のとき。俺の行動には、事態の解消の他にもうひとつの意図があった」
それは。
「おまえに、おまえと由比ヶ浜に愛想を尽かしてもらう事、だ」
言ってしまった。もう取り返しはつかない。ここで全て終わろうとも。
「でも残念ね、そんなことでは私は、私たちはあなたを嫌いにならないわ。哀しくはなったけれど」
「そうだな。そこで俺は計算違いをしていたんだな」
「また嘘を言ったわ、貴方」
くすっと笑いながら、柔らかく俺を否定する。
「…ああ。本当は、二人に嫌われたくなかった。でもいつかは嫌われてしまう。壊れてしまう。そう思った。だからあの時の俺は、逃げることを考えた」
俺が喋り終わるのを待っていたように紅茶を含み、雪ノ下は問う。
「ひとつ聞いてもいいかしら」
今回もお読みいただきありがとうございます。
第23話、いかがでしたか?
雪ノ下雪乃と比企谷八幡のじれったい感じが堪らなく好きです。
ではまた次回。