風呂から上がり、着替えやら何やらも済ませ、部屋に戻った後は、皐月と雑談をしつつ、部屋に備え付けられた共用のパソコンで適当にネットを見て――僕がよく利用していたサイトやネットゲームは、大半がそのまま存在したが、さすがに艦これは無かった。当たり前だ――時間を潰し、その内に消灯時間になり、ベッドで横になる。部屋にあるのは二段ベッドで、僕が上、皐月が下だ。
明日も上手くやっていけるだろうか。いや、今日でさえ、決して上手くやれたとは言えないけど――なんて考えながら、僕は瞼を閉じ、眠りに就いたわけなんだけど。
「……腹が、減った」
――空腹で、目が覚めた。枕元の時計を見ると、深夜の一時。
「くそっ、なんで……って、そうか」
原因を考え始めてすぐ、思い当たる。そうだ、今日は、夕飯を少なめにしたんだった。
「こんなことなら、大盛りにするんだったな……」
愚痴ってみるが、それで腹が膨れるなら苦労はしない。
我慢して寝るか? ――いや、無理だ。そもそも、眼が覚めるほどの空腹だ、寝れっこ無い。
じゃあ、近場にコンビニでも無いか、探しに行くか? ――いや、それも却下だ。迷って帰ってこれなくなったら大変だし、勝手に外出したら多分怒られるし、そもそもお金なんて持ってない。
「――よし」
――決めた。銀蠅しよう。
駆逐艦長月(偽)、着任初日にして盗み食いを決意。素行不良にも程があるが、しかし今は緊急事態だ。
物音を立てないようにしつつ、ゆっくりと布団から這い出す。そろりそろりと、二段ベッドの梯子を降りる。
「んん……むにゃ……」
皐月は、完全に寝ているようだった。好都合だ。そのまま、靴を履いて廊下に出る。勿論、細心の注意を払いながら。
さて――どこに忍び込もう。食堂の調理室か、それとも酒保か。どちらにせよ、まずは寮から出る必要がある。誰とも出くわさないことを祈りつつ、忍び足で廊下を進み、外へ。
「……風が、気持ち良いな」
ぽつり、と。外に出た瞬間、思わず、独り言が口をついた。今、この世界は、夏の季節らしい。だからだろう、夜の外気と潮風が、ちょうど良い具合に涼しげで、心地良かった。本来の目的も忘れ、しばらく、そのまま風を浴びる。
「涼しい――」
「――だろう? 海辺の特権だ」
「――っ⁉︎」
――どこからか、声が響く。まずい、見つかった。
「おう、長月。消灯時間はとっくに過ぎてるぞ? 着任初日から軍規違反たぁ、良い度胸じゃねえか」
声の方を向くと、そこにいたのは、下だけ軍服の、くたびれたおっさん。要するに、提督だった――って、よりにもよって、一番見つかっちゃいけない相手じゃないか!
「す、すまない!」
とりあえず、頭を下げる。銀蠅しようとしていたことは、言わなきゃバレないだろうし、夜中に寮を抜け出したくらいなら、謝ればきっとなんとか――
「んー? おうおう、謝るなら誠意ってもんがあるだろ?」
――そんな考えを巡らせる僕に、提督はニヤニヤとした顔で歩み寄り。
「――許せってんなら、代わりに相手して貰おうか」
僕の肩に手を置いて、ゲスい笑いを浮かべた。
「そ――そそそそそれだけは勘弁してくれ‼︎」
――思わず、提督の手を振り払って、後ずさりする。いや、中身は男だって! 言えないけど! 男とするのなんて嫌だぞ! いや、そもそも、良い歳したおっさんが、年端もいかない少女にいかがわしい行為を要求する様は、中身がどうとか以前に完全に犯罪だし!
「……冗談だよ。じょーだん。ったく、そんなにビビんなくても良いじゃねーか」
僕の盛大な拒絶に、苦笑いする提督。
「じょ、冗談か。なんだ……」
思わず、安堵のため息が漏れる。本気で貞操の危機かと思った。
「それに、そういうことしてえってんなら、俺にゃもう相手がいるしな。浮気するつもりはねえよ」
「そう、なのか」
誰かと、いわゆるケッコンカッコカリでもしたんだろうか。まあ、ともかく、僕が提督の相手をするという展開にはならないらしい。安心した。
「だがお前さん、なんだってこんな時間に、うろついてんだ?」
「それは、その……」
銀蠅しようとしていたと言うわけにもいかず、口ごもり――
――ぐう、と。
「……あ」
腹が、鳴った。
「……なんだ、そういうことかよ。腹減って、眠れなかったんだな?」
「ま、まあ、な」
正確に言うと、だから盗み食いを決行しようとした、と続くのだけど。
「じゃあ、ちょうど良かったな。付いて来いよ」
提督は、そう言って歩き出す。
「ど、何処へ行くんだ?」
「――ま、俺からの着任祝いってことで。夜食、奢ってやるよ」
言いながら、すたすたと歩いて行く提督の後を、僕は慌てて追いかける。
――提督の後に付いて辿り着いたのは、警備府敷地内の、小さな和風の建物だった。提督は、入り口らしき引き戸を、勢いよく開ける。
「――あら、提督。と……後ろにいるのは、駆逐艦の子ですか?」
「おう、それも新人だ。腹ぁ空いてるってんで、着任祝いついでに、お前の料理を食わせてやろうと思ったんだよ。っつーわけで、軽めの夜食を頼む」
誰かと会話を交わしながら、提督は建物の中へと足を踏み入れる。僕も、それに続いた。
建物の中は、飲食店――より正確に言うなら、居酒屋風だ。そして、カウンターには、和服の女性。というか多分、この人は――
「――初めまして。航空母艦、鳳翔です」
――僕と目が合うと同時に、その女性は微笑んで、名乗った。
ああ、やっぱりか。鳳翔さんだ。となると、ここはいわゆる居酒屋鳳翔か?
「駆逐艦、長月だ。つい昨日、この警備府に着任した」
とりあえず、僕からも名乗り返す。長月としての自己紹介は、これで何度目だったっけ? ともかく、もうすんなりと言えるようになっていた。慣れって怖い。
「長月ちゃんですね。少し待ってて下さい、今お夜食を用意しますから。提督は、いつもので?」
「おう、頼む」
答えて、提督は奥の座敷席に上がって座り、手招きする。僕はそれに従って、提督の向かいに座った。
「しかし、どうだ。慣れたか、ここには?」
「まだ一日も経っていない。そんなにすぐに慣れられるものか」
どっちかというと、警備府というよりは、長月の身体に慣れるのを先にするべきだと思うけど。
「そりゃそうか。まあ、嫌でも慣れるぜ、そのうちな」
言って、提督は笑う。慣れられらば、良いんだけど。
「――はい、どうぞ。提督は、いつものと、おつまみ。長月ちゃんには、お茶漬けと、お魚です」
そんな話をしているうちに、鳳翔さんが、料理やお酒を運んできた。
「おう、サンキューな」
提督は、早速お酒に口を付ける。僕も、「いただきます」と小声で言ってから、お茶漬けに口を付けた。
「……美味しい」
一口食べた瞬間――素直な感想が口をつく。ただのお茶漬けに、良いも悪いも無いと思っていたけれど、その認識を改めるべきかもしれない。
「はは、そうだろう。鳳翔の料理は美味いぞぉ」
「もう、提督ったら」
提督の言葉に、カウンターの奥に戻った鳳翔さんが反応し、軽く頬を赤らめる。
「事実じゃねえか。だよな、長月?」
「確かに、美味しいと思うぞ」
答えつつ、焼き魚にも手を付ける。うん、美味しい。
「……まあ、半引退の私には、こんなことくらいしか出来ませんから」
――鳳翔さんは、照れ臭そうにしつつも、どこか寂しげな顔で、呟いた。
「半引退?」
「ええ。私は、艦娘としてはもう、おばさんですから。艤装の性能を、十全に引き出せないんです。けれど、今のところ後任の『鳳翔』 は決まっていないので、引退するに引退出来なくて。だからと言って、前線に出ても、足を引っ張るだけですから――少しでも皆さんの役に立てればと、こんな風に、居酒屋の女将みたいな真似を、させて頂いています」
へえ、そうだったのか。確かに、給糧艦でも無い艦娘が、店を開いているのは何故だろうという疑問はあったけど、なるほどそういう理由らしい。
「ま、おかげでこうやって、美味い酒と飯にありつけてるわけだ。感謝しねえとな」
言いながら、提督は魚型の容れ物から、杯にお酒を注ぐ。そんな様子を眺めつつ、僕も夜食を食べ進め――気が付けば、完食していた。
「おう、食い終わったか。どうだ、足りるか?」
「ああ、大丈夫だ。ごちそうさま」
僕が答えると、提督は「そいつぁ良かった」と呟いて、赤ら顔で笑った。
「じゃ、お前さんは、部屋に帰ってさっさと寝ろ。起きられなくなっちまうぞ」
「そうだな。しかし……司令官は?」
「俺ぁもうちょっと飲んでくよ。なぁに、仕事に支障は出さねえさ」
答えながら、ぐいぐいと杯を傾ける提督。本当に大丈夫なんだろうかと思いつつも、鳳翔さんが付いているし、心配はいらないだろう。多分。
僕は箸を置いて、靴を履き直し、立ち上がる。
「――では、司令官、鳳翔さん。おやすみ」
「おう、おやすみ」
「ええ、おやすみなさい」
二人の返事を受けながら――僕は、その場を後にし、自室へと向かった。
今度はきっと、よく眠れるはずだ。