一マス空白を開けることがどうしてもできない…何故に?
「…君のご両親が亡くなった…自殺、だったらしい…」
意味が分からなかった。常日頃お世話になっている恩人とは言えこの時ばかりは先生の言葉を疑った。疑うしかなかった。
「ご両親の保険金とこれまでお二人が貯めてきたお金を合わせると君の手術費とその後の当面の貯蓄として十分な額に届く。これは最後の手段として前々から準備していたのだろうな。」
先生の言葉がどこか遠くから聞こえてくる。そんな、ウソだ、なんで、こんな想いが渦巻いて収まらない。
「一息に説明されても君も飲み込めないだろう。だが、君も 承知の通り手術に踏みきるにはもう時間がないのだ。ご両親の想いを無駄にしないためにもこちらにできる準備は進めておく。気の毒だが、今週中に君の手術への意思確認と手続きをしたい。それまでに、一時的でいい。気持ちを整理しておいてほしい。」
待ってください、なんで、二人は、
聞きたいことはいくらでもあるのに、口からはいつもより荒い呼吸音しか出てこない。徐々に意識が遠のく感覚をどこか他人事のように感じつつ、最後に見た両親の顔を思い出した。
また明日、って言ったじゃんかよ
「…夢か、久しぶりに見たなぁ…」
若干の気怠さを残したまま、上体を起こすと朝特有の澄んだ、かつ暖かい空気を胸一杯に吸い込んで意識を覚醒させて、
「ゲホッ、ガハッ、カフッ、…はぁ〜ぁ…」
直後、派手にむせた。意識は覚醒したが、夢の内容も手伝って目覚めの気分は最悪である。
「今日は火曜日…出勤日だってのに…ダメダメ、しっかりしろ、ぼ……私」
そう、今日は一週間ぶりの出勤日。前回は体調不良で病室を出れなかったため、それなりに日が空いてしまった。
「少ないとは言え、相談に来てくれる生徒もいるんだからもっと頑張らないと。」
それに、たくさんの人に迷惑をかけた上での、僕の我儘なんだから
そう思うと不思議とさっきまでの陰鬱とした気持ちが晴れた気がした。…気がしただけかもしれないが。
ここは西木野総合病院の病室。ちなみに1番ナースステーションに近い個室である。ここに入れられている時点で、自分の病状の不安定さは推して知るべし、だ。にもかかわらず、自分はこれから病院の外に出る。もちろん付き添いの方はいるが、普通は許されないことだろう。それも出勤だ。まぁ正式な就職はしていないが。というか、齢18の重病人(動く時は車椅子装備)が就ける正式な仕事なんてあるのだろうか?
私が働いている、というか置いてもらっているのは国立音ノ木坂学院、まぁ女子校である。そこでスクールカウンセラーの真似事のような立場につかせてもらっている。
ほとんど同じ年頃の女子達とのお話は、やはり最初は緊張したものの、回を重ねるごとに慣れてきた。今では不意にコイバナを振られても冷静に対処できるほどだ。
元々は教師志望だった私だが、到底無理な望みであるのはすぐに分かった。その上で憧れを捨てきれなかった私に恩人2人はスクールカウンセラーという落とし所を与えてくれた。生涯、という言葉は私のような人間が使ってもイマイチ重みがないが、2人は私の生涯の恩人だ。
両親の命を使って永らえた私は、その後の生を意味あるものにしようと、自分にできることをとにかく調べた。外で働くのが難しいなら病院内でできることを、と考えた結果、カウンセリングにたどり着いた。
家族が恋しくなって泣いてしまう子供、手術を恐れて足踏みしてしまうお年寄り、病院にいる患者は大なり小なり不安を抱いている。もちろん心療内科や精神科、といった心理関係専門の機関も存在する。だが、それらもまた医者の形の1つであり、なんでも気軽に話せるか、と言われれば頷けない場合もあるだろう。
その点私なら、患者であることは病院着と車椅子で一目瞭然。病弱丸出しの白い肌と髪は、一見弱々しくて気を遣いそうになるが、生来声音と口調が穏やかなこともあり、自然と話を続けたくなる、というのは私のお話友達第一号の西木野先生の奥様の談だ。
院内でそこそこ有名なカウンセラー(仮)の立ち位置を確立した頃、私は西木野先生に続く2人目の恩人と出会った。
音ノ木坂学院の理事長様だ。西木野夫妻と古い付き合いらしい彼女は2人に相談され、私との数回の面談を経て、私を非正規のカウンセラーとして日当3,000円で雇って下さった。ちなみに給料は私が決めさせてもらった。(最初は5,000円という不相応な高待遇だった。)
1人ではロクに動けもしない上に保護者もいない私なんかを側に置いてもメリットよりデメリットの方が圧倒的に多い。経営者の彼女にその計算が出来ないわけがない。分かった上でこんなお荷物に仕事を与えてくれた理事長にはもう足を向けて寝られない。西木野夫妻と並んで今の私にとって親代わりのような存在だ。
手術後に自分にできることを探す合間に調べて分かったことだが、生命保険とは、本来自殺では保険金がおりないものらしい。それでも保険金が手に入ったのは免責期間、というのを過ぎていたかららしい。
基本的に自殺を決意した人間が長期間生き続けるのは難しいだろう、という考えから期間内に死亡した場合は保険金がおりない、という仕組みだ。両親の場合はその期間は3年間だったそうだ。つまり3年前から準備していたことになる。
その頃を思い返してみると、私の病名や治療法、手術費用が大まかに把握できた頃だ。両親が仕事を増やしたのもその頃。確かな計画のもと動いていたのは明らかだ。その頃の自分はと言えば回復が難しいと分かったこと、両親が会いに来る回数が減ったことに拗ねていた記憶しかない。想い返す度に情けなさと申し訳なさが溢れてくる。
人生を捨てて私に時間をくれた両親、私の生に意味を与えてくれた西木野夫妻と南理事長、自分と話すことで笑顔になってくれる病院の患者さんや学院の生徒たち。病室に籠りきりだった頃からは考えられない程に自分の人生を充実させてくれている人達。みんなのためにも私は私の時間を精一杯生きるのだ、夢見の悪さごときに負けてられん、と自分に喝を入れながら、朝食と支度を済ませ、付き添いの看護師さんを呼ぶべくナースコールを鳴らす。
「さて、今日もいい日…にするべく、頑張りますか!」
閲覧ありがとうございます。
精神科や保険金の描写は、ウソは書いていないはずですが、あくまでここではこういう風になっている、と思っていただければ…なんて予防線を後書きに張っている時点でダメな気もしますが…実際自分がお世話になった精神科の先生は話しやすいいい人でした。皆さんも遠慮なく相談しましょうね!何に対するフォローだろ、これ…