穴熊寮からごきげんよう   作:秋津島

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或る男

 ……。

 水を吸った着衣が、重りのように体を沈める。

 最後の酸素が小さな泡となってゆらゆら上昇していくのを、霞む視界の中で見た。

 ――ああ、これで私は死ぬのか。

 イギリス観光の途中で、高台から湖を一望していただけなのに。少しの気の緩みと突然の突風で体勢を崩し、そのまま湖に真っ逆さまだなんて……なんて間抜けな死に様だろうか。

 死の間際で贅沢を言うつもりはないが、せめて溺れた少女を助けてそのまま……とか、もう少し格好がつく最期がよかったのになあ……。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、男は自嘲気味に笑って、静かに瞳を閉じた。

 

 ――次に目を開いた時、男はまだ水中にいた。

 なんだこれは。どういう事だ?

 男は死後の世界を信じていたわけではないが、それにしたって、水中で死んで目を覚ましたらまだ水中だなんて、にわかに受け入れ難い出来事だった。

 まさか、あの時私はまだ死んでいなくて、これはその続きなのか? ……違う、それにしては目の前の景色が変わりすぎている。一体どうなっている? 男は激しく狼狽した。こんなの、性質の悪い冗談にしか思えない!

 いや……冗談や嘘の方がまだよかった。

 

 単純な酸素不足だけとは思えない息苦しさ。

 体中を強く掴んでいる骨ばった手の感触。

 周囲に浮かぶ死体のような“何か”。見開かれた両眼は虚ろに濁っており、落ち窪んだ顔には不気味な薄笑いが浮かんでいる。肌の色は不気味なほどに真っ白で、身に纏っているのはぼろきれのような布だけだ。

 男、女、子供……姿かたちの様々なその死人のような“何か”が、男を水底に引きずり込まんと、大群で押し寄せてきている。

 この生々しさが。

 この不気味さが。

 この恐ろしさが。

 今の状況が夢や冗談ではなく現実のことだと、男に強く訴えかけていた。

 

(どうしろと言うんだ……!)

 

 男は混乱したが、とにもかくにも脱出を試みた。

 水の中なのに冷たさがわかる手を振りほどこうと、身を捩ろうとした。男を取り囲むように泳いでいる“何か”を遠ざけようと、手足を激しく動かそうとした。けれど、それらはすべて不発に終わった。彼らが男を押さえる力は見た目より強かったのだ。

 このまま、また死ぬのか?

 前回よりも恐ろしい死に方で?

 冗談じゃない、そんな終わり方を受け入れてたまるか。こんな気味の悪い場所で命を落としてなるものか――男は残った気力を振り絞り、腕を掴む手を振りほどいて、はるか遠くに見える微かな灯りに手を伸ばした。

 誰か――誰でもいい――ここから救い上げてくれ……!

 

 伸ばした腕が再び沈む直前、周囲のものとは違う、温かくて柔らかい手が手首に触れた。何かを考える前に、残された最後の力でその手を握る。肩が外れるかと思うくらい力強く腕が引かれ、気づけば男は水底から引き上げられていた。……手の持ち主と思わしき女性に抱き留められて。

 

「こ――っの、ばかレグ! なんて無茶するのよ!」

 

 女性は強く男を抱きしめ、泣きそうな声で言った。美しい声だ。いつの間にか瞼が閉じていて、しかも縫い止められたようにくっついて開かないから彼女の顔は見えないが、きっと美人なのだろうと思った。

 男は何か返事をしたかったのに、焼けつくような喉の痛みと自由が利かない重たい体のせいで、呻き声すら出せなかった。

 

「ああ、ああ……坊ちゃま……!」

「……レグ? ど、どうしようオーソン、レグが全然動かないわ……!」

「落ち着け、ルイーズ。その子はまだ――おい、何をする気だ?」

「治療よ! ねえ、レグ、お願いだから目を覚まして……」

 

 女性の抱きしめる力が一層強くなり、次の瞬間、男の体全体がじんわりと温かくなった。まるで陽の光に包まれているようだった。ゆっくりと体の力が抜けていくのを感じる……。

 

「ルイーズ!」

「ルイーズ様!」

「オーソンもクリーチャーも静かにして! 私は今集中しているの!」

「気付かないのか?」

「何が――え、あれ、うそ……どうして?」

 

 狼狽する声が聞こえたのと、自分の体がいとも簡単に女性に抱き上げられたとわかったのは、同時だった。何が起きたのか理解する前に、男の意識はぷつりと途切れた。

 

 

 目を開けるのが怖かった。

 あの時感じた温もりはすべて夢で、この体はまだ水中にあるかもしれないと考えてしまうからだ。

 それでも、意を決して目を開くと――目の前には真っ白な天井があった。

 

(良かった……)

 

 ほっと一息ついて、起き上がろうとする。が、体が思うように動かせない。おまけに、声を出そうとしても舌さえ満足に操れず、喃語のような高い声が漏れるだけだ。

 どうしたものか。男は諦めて横になったまま、周囲を見回した。

 ――ここは寝室だろうか? ベッドや部屋がやけに広い。いや、それだけではなく、周囲のものが規格外に大きい。まるでブログディンナグ――いや、ブログディンラグだったか? とにかく、巨人の国だ――に来たガリヴァーになった気分だ。そういえばあの作家はアイルランド出身だったか……。あの国は実在したのか? いや、まさか。

 もやもや考えながら、ふと自分以外の体温を感じて隣を見た男は――思わず叫び声を上げそうになるほど驚いた。そこにいたのは、自分と同じくらいの大きさの赤ん坊だった。

 これは、いよいよ本当にガリヴァーになったか? すやすや眠る赤ん坊に触れようとして、苦労して伸ばした自分の手が視界に移った瞬間、男は今度こそ叫び声を上げた(ただし、口から出たのは甲高い泣き声だ)。

 

 男の手が、赤ん坊のそれになっていたのだ。

 

 ようやく、男は理解した。

 自分はガリヴァーになったわけでもなければ、ここは巨人の国でもない。すべてが大きく見えたのは、男が小さな赤ん坊になっていたからだということを。

 

(おかしい! 私はアラサーで、子供たちにはもう「おっさん」呼ばわりされる年齢のはずなのに……アンチエイジングとかそういう問題ではないぞ……?)

 

 APTX4869、タイムふろしき、セト神……ありえない考えがぐるぐると脳内を渦巻く。いやいや、ファンタジーやメルヘンじゃないんだから、そんなものが存在してたまるか。……しかし、自分が赤ん坊になっている以上、そういった物は存在することになって……ああ、まったく、意味分からない。

 答えの見出せない思考に終止符を打ったのは、勢いよくドアを開いて部屋に入ってきた女性だった。

 

「……よかった、目が覚めたのね? グレアム、彼が起きたわ!」

 

 女性はそう叫ぶと、足早に男に近づき、抱き上げた。

 自分より年下の、それも一度見たら忘れられないくらいの美人の胸に抱かれるなんて……喜んでいいのか、申し訳なく思うべきなのか。男はもやもやと考えながらも、おとなしく彼女の柔らかな体に身を預けた。甘い花の香りが鼻腔をくすぐった。

 

 

 いくつかわかったことがある。

 まず、男を助けたのはルイーズという女性で、その夫がグレアム、赤ん坊がクラウディアという女の子だ。

 

 それから、男はどうやら元いた世界とは別の世界にやってきてしまったらしい。というのも、ルイーズとグレアムの会話には頻繁に「魔法」とかそれに準ずる単語が出てくるのだ。男が生まれ育ったのはファンタジーやメルヘンとは縁遠い世界だったから、別の世界に来たと考えるのが妥当だろう。

 ちなみに、自分が赤ん坊になってしまったのは、その魔法のせいらしい。死の間際の男を見たルイーズが感情を荒ぶらせてしまい、計り知れない魔力を込めた治癒魔法を掛けた結果、こうなってしまったのだとか。

 かつての世界では、フィクションにおける治癒魔法は一種の限定的な時間操作だという説があったが……少なくとも、この世界においてはその認識で間違いないようだ。

 

 最後に――これが一番信じられない事なのだが――この世界は、かつて男が愛読していた物語『ハリー・ポッターシリーズ』の世界だった。

 異世界転生とかいうオカルトでスピリチュアルで胡散臭い経験を経たとはいえ、なんて荒唐無稽な話なのだろう。しかし、グレアムとルイーズの会話に出てくる「シリウス」、「ジェームズ」、「リリー」それに「ダンブルドア」という名前が何よりの証拠だ。

 さらに追い打ちをかけるように、男の体はレギュラス・ブラックのものだということが明らかになった。なるほど、そういえば彼の最期は亡者に水中へ引きずり込まれる、というものだったか。きっと、今際の際で魂が消えかかったところに、するりと男の魂が入り込んだのだろう。

 原作ではそのまま遺体無き死を迎えていた彼が、正常な形ではないにしろこうして存在しているのは、ひとえに異世界からの闖入者によるバタフライ効果に違いない。と、男は考えていた。

 

 

 元来の流されやすい日本人としての性質か、1か月もすれば、男は今の生活に順応した。

 それだけに留まらず、彼は己の立場を利用して、物語の改変を目論むようになった。

 主人公、ハリーと同世代で、かつ身体はレギュラス。両親ともに魔法使いなので、高確率で自分にも魔法力がある。物語に深く関わるために必要な要素としては十分だ。それに……男には原作知識がある。やろうと思えば、それなりに多くのことが出来る。

 

 そもそも、男が物語を変えようとするのは、前世の妹の存在が大きい。

 5つ年下の妹はあまり本を読むタイプではなかった。しかし、兄の影響で『ハリー・ポッター』だけは必ず読んでいた。幼い頃には瞳を輝かせながら「私もホグワーツに入れるかな」と期待していたし、物事の分別がつくようになってからは「ここの伏線は……」と真剣な顔をしながら、同じ趣味の友達と白熱した議論を繰り広げるようになった。

 さてそんな妹は、どういうわけか死んでしまうキャラクターを(もちろん、そうとは知らず)好きになる傾向があった。新刊が出るたびに嘆いていたのを、男は今でもよく覚えている。

 

 

 ある夏の日のことだった。

 男は妹に連れられ、長きに渡るシリーズの最終巻を求めに近くの書店に向かった。

 事前に予約していたためスムーズに受け取りができ、「これで終わりだね」とか「感慨深いよね」と他愛のない会話をしながら家路についた時、それ(・・)は突然起こった。

 2冊セットの重たい本が入ったカバンを、「私が先だよ」と笑いながら男の手から奪い去り、ゆらゆら揺らしながら軽い足取りで角を曲がろうとした時――突如として妹の目の前に見知らぬ男が立ちふさがった。

 

 それからの動きは、すべてスローモーションのように見えた。

 

 妹の手から鞄が滑り落ちる。

 男が後ずさり、曲がり角に消えていく。

 ことさらにゆっくりと、妹の体がくずおれて、地面にぽつぽつと赤い花が咲いた。

 

 ――妹が通り魔に襲われた。

 そう認識するのは早かったのに、妹の元に駆け寄って、その体を抱き起こすまでに随分と時間が掛かった。体が目の前の現実を否定するように、思うように動いてくれなかったから。

 それでも、やっとの思いで妹を抱き起すと、彼女は弱々しく笑った。

 

「あ、はは。通り魔って本当にあるんだね。ねえ、私は死んじゃうのかな。やだなあ、まだ新刊の1ページも開いてないのに……。痛い、すごく痛い。痛いのに……ふふ、なんだか現実味がなくて、まるで変な夢を見ているみたい……。

 ごめん兄さん。なんか、話してないと落ち着かなくて……。兄さん、もしも私が死んだら、兄さんは悲しんでくれる? やだな、そんな怖い顔しないでよ。冗談だって……」

 

 もう話すなと何度言っても、妹は声を出すことをやめない。

 

「ね……くーちゃんってわかる? そう、その子。あの子ね、私たちだけに見せるために、二次小説書いているんだよ。原作知識を持った状態で転生した、容姿端麗で何でもできる女の子が主人公。何人もの登場人物から好意を寄せられるのにも気づかずに……死んでしまうキャラクターを救うことだけを考えているんだ。……何せ、彼女はなんでもできるから……キャラクターも救うし、何だったら敵だって寝返らせるし、物語を良い方向にどんどん進めちゃうんだよ……。

 ふふ……ご都合主義すぎるよね。みんなもそう言ってるし、本人もネタだからって割り切ってる。でも……でもね、私はそれ、良いと思うんだ……。やっぱりさ、ハッピーエンドが一番だよ。私は……セドリックも、シリウスも、ダンブルドアも……みんなそれぞれ、最後まで幸せに暮らして欲しかった……」

 

 警察と救急車に電話を掛けている最中にも、妹は喋り続けた。

 

「これで……転生とかできたら、刺された甲斐もあるんだけどね……。なあんて、無理か……。兄さん、そこにいるよね……。あのさ、兄さん。もし私が死んじゃったら、最終巻の内容……ご都合主義の物語に改変して、お墓の前で聞かせてよ。ベールの向こうに行ったシリウスが、セドリックとダンブルドアを連れて戻ってきて――みたいなさ。

 ああ、やだな……。私はまだ、死にたくない、死にたくないよ……兄さん……」

 

 間もなく救急車が到着したが、結局妹は搬送中に命を落とした。通り魔はその後捕まったものの、大切な妹を失った男の気分が晴れることは無かった。

 それから数年後、男はせめてもの気分転換として観光に行ったイギリスで、不慮の事故で命を落とし――転生した。

 

 男が物語改変の野望を実現させようとするのは、可愛い妹の最期の願いを、冗談ではなく本当に叶えるために他ならないのだ。

 

 

 転機が訪れたのは、忘れもしない――1980年の4月29日だ。

 かねてより、ルイーズは闇の陣営への誘いを再三断ったことで、死喰い人たちに命を狙われていた。グレアムの友人を「秘密の守人」とし、隠れ住んでいたのだが……どこからか――可能性として考えられるのは、グレアムの母ドリスに一度だけ送ったふくろう便が後をつけられたとか、だ――情報が洩れてしまった。

 家にやって来たのはレストレンジ夫妻だった。グレアムが自身の命を使って時間を稼ぐ間に、ルイーズはクラウディアを寝室に隠し、男の方には目くらまし術と凍結呪文を施した上で、争いの場のすぐ近くに連れてきてから、2人に応戦した。

 闇祓い局の期待の新人と言われたルイーズでも、2対1はさすがに分が悪かった。善戦したものの、ついに杖を奪われたルイーズは、ベラトリックスから磔の呪いによる拷問を受けた。その間、ロドルファスは家じゅうを探し回り……とうとう見つけたクラウディアを、ルイーズの前で無慈悲に殺害した。

 

(……地獄絵図だ)

 

 男は目の前の光景から目を背けたかった。しかし、呪文で自由を奪われているので叶わなかった。

 誰か、誰か……。心の中で叫びを呼び続ける。その声が届いたのか――突如として、ベラトリックスとルイーズの間に割って入るように、痩身の男が姿を現した。見覚えのある姿だった。そう、確か……グレアムの友人で、家にもよく来る、吸血鬼のオーソンだ。同時に、「秘密の守人」でもある。

 レストレンジ夫妻はそこが潮時だと思ったのか、瞬く間に姿を消した。

 オーソンはそれを冷たい目で見、それから玄関で倒れているグレアムを数秒見つめてから、息絶えたクラウディアを抱え、ルイーズの元に屈んだ。ルイーズには、まだ息があった。

 

「――約束は、果たすぞ」

「ええ……。ごめんなさい、クラウディア。貴方を1人も護れない、情けないお母さんで」

「……もう1人はどうした?」

「そこに……。ふふ、そういえば、貴方が彼を追跡できたおかげで、あの子も助けられたのよね……。貴方には……感謝してもし足りないわ」

「すぐに騎士団が来る。どうする気だ?」

「私の子供が女の子と知っているのは、貴方とお義母さんだけよ」

「……お前の子が、その子だと偽る気か?」

 

 ルイーズは、悪戯めいた笑みを見せた。

 

「偽りじゃないわ。血は繋がってないけど、あの子は私の子よ。そう、エドガー。エドガー・ラサラス・クロックフォード……それがあの子の名前」

 

 ――この世で一番短い呪という考えがあるくらい、名前というのは不思議な力があるものだ。

 ルイーズがその名を男に付けたその瞬間、「エドガー・ラサラス・クロックフォード」が生まれた。完全な異物である男の精神をいとも簡単に追いやって封じ込めて――その過程で、いくつかの感情や何やらを巻き込んで――、この体を己の物とした。エドガーという存在を確立させたのである。

 1980年4月29日。この日は……男が家族と体の主導権を失い、エドガーが生まれた記念の日だ。

 

 

 主導権を失っても、男の野望は失われない。

 幸いにしてエドガーの精神面は、男の強い意思にや想いに左右されることが良くあったので、夢に介入する形でこれからの物語の展開を教えたり、一部のキャラクターに対する心証を操作するなどした。

 それだけではなく、物語を変える為には力が必要なのに、満足に体が動かせないことによる焦りから、体の主導権がエドガーから離れる就寝時に無理やり体を動かして特訓もした。

 ところが、後者に関してはある日を境にばったりやめた。

 無理が祟って、エドガーが倒れてしまったのだ。その時、男はようやく気づいた。エドガーは自身の操り人形ではなく、紛れもなく血の通った1人の人間なのだと。

 それからは、男は原作知識の整理や、精神体であることを利用した閉心術の練習などを始めた。翌年にはちょっとした攻略法のような手紙を送り、彼が平穏無事な学生生活を送れるように手助けもした(もっとも、最後には役に立たず、彼はその時にラスボスと対峙することになったが)。

 ちなみにその年、男が一番気を付けたのは、原作の流れを極力乱さないようにすることだった。何せこの年暴れていたのは、相手がその瞳を直視するだけで死に至る恐ろしい怪物だったからだ。原作では様々な要因が重なって死者を1人も出すことなく終えることが出来たが、裏を返せば少しのゆがみで死者が出るような年だった。だから男は、出来る限りエドガーに行動を起こさせないよう制限していたのだ。

 先ほどの手紙も半分はそれが目的だったし、エドガーが結構早い段階で「秘密の部屋」の場所と怪物の正体に辿り着いたのに、そのことを誰にも言わずに胸にしまっておいたのも、男の狙いによるものだった。

 

 

 3年目、ちょっとした変化が起きた。

 6月、叫びの屋敷でシリウスがエドガーを「レギュラス」と呼んだのがきっかけだった。

 長らく消え失せたものと思っていたレギュラスの精神は、実はほんの小さなかけらとなって、男の精神と共にエドガーの心の深奥に封じられていた。それが、突然現れた。

 とはいえ、その精神はエドガーの精神を押しのけてまで、元いた場所に戻れるほどに強くはなかったが……。

 

 

 オリバンダーの店で、イトスギの杖を手に入れた時から、男はこの日が来ると薄々勘付いていた。

 

 ――イトスギの杖の持ち主は、英雄として死すべき運命の魔女や魔法使いだ。昔ほど血生臭い争いがなくなった現代でも、彼らの多くは必要とあらば迷うことなくそうするであろう。イトスギの杖が魂の伴侶に選ぶのは、勇ましく大胆で、自己犠牲の精神を持つ者である。

 

(英雄かどうかはわからないが……ここが、私の死に場所だ)

 

 4年、三校対抗試合、最終課題。

 ヴォルデモートの放った死の呪文を目の前にしながら、男は冷静だった。

 それは、ひどくリスキーな賭けであった。

 死の呪いが、呪文1つにつき奪える魂が1つだけであるという仮定に基づいた賭け。

 ――ここで自分が犠牲になれば、代わりにエドガーを救えるのではないかという、無謀すぎる挑戦。

 チャンスは一度きり。文字通り、命を賭した一世一代の大博打。

 

 ……男は、いつしかエドガーのことを本当の子供のように感じていた。

 元々精神年齢が親子ほどの開きがあったし、何より15年もの間、男は一番近くで彼の成長を見てきたのだ。背が伸びるのも、変声期も、どんどん実力をつけていくのも、友達との触れ合いや喧嘩も……。

 今まで散々好き勝手したのに、今更虫が良すぎる自覚はある。いや、むしろ……だからこそ、これまでの償いとしての気持ちもあったかもしれない。

 何にせよ、と男は意気込む。やるなら今だ、と。

 

 緑の閃光が迸る。

 

 男は、エドガーの魂を押しのける形で――無理やり体を乗っ取るように――矢面に出て、死の前に自らを捧げた。

 男が犠牲になったおかげか、或いは他の要因があったのかは分からない。しかし、結果としてエドガーは生き残った。男の、望んだとおりに。

 

(――上々だ)

 

 薄れ往く意識の中、彼は満足感で胸を一杯にして――そして、消えた。跡形もなく……。

 残されたのは、異物()がいなくなったことで自由の身となった感情と、レギュラスとしての精神。そして、男が僅かに遺した原作知識(未来予知)だけだった。

 

 

 1995年6月24日。

 この日、イギリス魔法界最悪の闇の魔法使い、ヴォルデモート卿が復活した。

 しかし、魔法省大臣コーネリウス・ファッジはそのことを認めなかった。重要証人であるバーテミウス・クラウチ・ジュニアの魂を吸魂鬼に吸い取らせ、かつ2人の目撃者についても「子供だから信用ならない」と受け付けなかった。彼はその「信用ならない」子供の片方、ハリーには優勝賞金を与えたが、もう片方のエドガーに関しては、昏睡状態を理由に最後まで話題にすることなく去っていった。

 一方、ヴォルデモート復活を信じたダンブルドアはファッジと決別し、来るべき戦いの日々に向け、行動を開始した。

 

 時代は、確実に、動きだしたのだ。

 

 

 

 ――ご都合主義の、ハッピーエンド。

 そんな夢物語を信じたっていいと思わないかい? ね、兄さん――。




※エドガーの誕生日をこっそり変更しました。

炎のゴブレット編完結です。アンド、本年書き納め。ま、間に合った……。
今年は大変お世話になりました。皆さま良いお年をお迎えください。
あとリドル誕生日おめでとう。

後ほど(明日の午前中に)活動報告にいくつか記事を投稿します。
今後の展開についてや、ちょっとしたアンケート記事などです。
一度目を通して頂けると幸いです。

・中の人
転生者。前世は翻訳家で、無駄に7か国語を操っていた。ロシア語は少し苦手。
話し言葉は非常にネイティブなのに、書き言葉になると途端に慇懃無礼になるのが特徴。

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