愛縁航路   作:TTP

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Ep.3 明日望む者のレミニセンス
3-1 背中と太股


 ――麻雀仮面が現れる三年前の、夏のこと。

 

 

 

 指先で持つ牌が、重い。吐く息が、荒くなる。

 

 視界が揺らぐ。全身を覆う倦怠感は、どうやっても拭えない。それでもなお満身創痍の体に鞭打って、園城寺怜は目前に座る敵と相対していた。

 

 前年度インターハイチャンピオン、宮永照。

 

 間違いなく、最強の女子高生。関西最強の千里山女子、そのエースという自らの肩書きが虚しくなるほどに強い。

 

 既についた点差は十万点以上。各校持ち点十万点で行われるこの団体戦においては――しかもまだ先鋒戦で――異常とも言える事態だ。怜はまだ良いほうで、同卓している新道寺や阿知賀の選手はさらに凹んでいる。

 

 この準決勝、先に進むためだけならこのまま二位を維持すれば良い。だが、怜はそれを良しとしなかった。次鋒以降の戦いを考慮してのことではない。千里山女子の選手としての矜持が、白糸台の後塵を拝することを許さないのだ。

 

 結果として、元々人並み外れて少ない怜の体力は残り僅かとなっていた。こんなにも熱血な性格だったっけ、と彼女は自問したくなるが、支えてくれたチームメイトや部員を想えば手を抜けるはずもなかった。

 

 怜は、呼吸を整えもう一度集中を高める。彼女だけに許された力を行使するために。

 生死の境を何度もさまよった経験からか、発現した少しだけ先の未来を見る能力。この力は、基礎雀力に劣る怜を名門千里山の一軍にまで押し上げてくれた。

 

 この、他を圧倒する力をもってしても、このチャンピオンには通じない。誰かが言っていた――宮永照は人ではない、と。的を射た表現だと、怜は拍手を送りたくなった。

 

 だから。

 

 ――みんなごめん……!

 

 もう一段、無理をする。しなければならない。

 トリプル。練習でさえ試みた経験のない、三巡先の未来を見通す。色の消えた世界で、彼女たちが牌をツモり切ってゆく。

 

 ――ここしかない……!

 

「リーチ」

 

 チャンピオンのリーチ宣言。それを、

 

「ポン!」

 

 新道寺が食い取る。

 さらに怜は未来視の力を行使する。肘掛けを握る手に力を込め、崩れ落ちそうになる体を必死で支える。

 

 ――ここで来るんか……!

 

 未来の光景の中で、前進する者の姿を確認して、怜は彼女のために道を切り開く。打五索、五萬――いずれもドラ。その間のチャンピオンのツモ順は、新道寺が無理矢理飛ばしてくれた。独りでは、まずこの状況を作るのは不可能だった。

 

 そして、彼女がドラを切る。

 初めて河に姿を見せたドラに、怜は微笑みを浮かべた。きっと、彼女にとって大切なものだったはずだ。それとお別れすることを、選んでくれたのだ。

 

「ポン!」

 

 宮永照の牌を、鳴く。改変完了、ではあるが、河から牌を拾うだけで一苦労だ。情けないにも程がある。

 

 だが、これで成った。

 

 ――そうやチャンピオン。

 

「ロン!」

 

 ――それが阿知賀の和了り牌や……!

 

 阿知賀の点数申告を聞きながら、怜はようやく肩の力を抜く。これほど長い半荘二回は、生まれて初めてだった。装っていた平静は一瞬で崩れ去り、意識が朦朧としてきた。

 

「園城寺さん、大丈夫ですかっ?」

 

 心配の声をかけられる。誰の声か、よく分からなかった。目を開いても、視界がぼやけている。それでも心配はかけまいと、怜は足に力を込めて立ち上がろうとした。

 

「よしょっ……大丈夫、仮病やから……心配、せんとって……」

 

 そこが、彼女の限界だった。

 

 ぐるん、と世界がひっくり返り。

 いつの間にか、頬が床にくっついていた。

 

「怜!」

 

 親友が、涙声と共に駆け寄ってくる。

 

「学校より床が冷たい……」

 

 ぽつりと呟いた感想は、自分でも間が抜けていると思った。

 

 助け起こされながら、怜は見た。

 チャンピオンの、静かな表情を。

 

 そこから病院に運ばれるまでの記憶は、ある。だが治療を受け始めたところで、彼女の意識は途切れてしまった。

 

 目が覚めたときには、既に日も暮れ始めた大将戦。

 みんなが頑張ってくれたおかげで、あれだけ酷い点差がついていたというのに、場は平たくなっていた。

 

 親友の戦う姿を見守り続け。

 最後のツモ宣言を聞き、千里山の夏が終わったと理解して、再び怜は深い眠りに落ちていった。

 

 

 一矢、報いることは出来た。

 だが、逆に言えば一矢しか報いることはできなかった。自分がもっとしっかりしていれば。エースとしての役割を果たしていれば。

 

 チャンピオンに、勝てる力があったなら。

 

 思えば、と園城寺怜は振り返る。

 自らの懊悩はこの日から始まった、と。

 

 

 ◇

 

 

 残された高三の夏を、怜は病院の中だけで過ごした。正直つまらない日々ではあったが、ひっきりなしに竜華を初めとする麻雀部員が見舞いに来てくれたので暇はしなかった。

 

 夏休み最後の日も、ベッドで横たわる怜の元へと竜華とセーラが訪れていた。

 

「セーラ、プロの話はどうなったん?」

「おう! いくつかのチームから声かかっとるで!」

「どこか決めたん?」

「まだまだ迷い中や。でも、コクマを待たずしてプロ行きは確定やな」

 

 男勝りな頼れる友人は、希望通りの進路を選べるようでほっとする。

 

「竜華は大学から推薦の話来とるんよなぁ」

「そやで。今のところは西阪か近大のどっちかって考えとるけど……でも、怜やって推薦受けられるんとちゃう?」

「んー……監督からちょろっと話は聞いとるよ」

「せやったらうちと同じ大学にせぇへん?」

 

 竜華の提案に、「そやな」と怜は頷こうとした。それが当たり前の流れだった。高校進学のときからずっと、怜は二人を追いかけてきた。

 

 しかし、だというのに、できなかった。いつもの竜華への意地悪ではなく、何かが心にひっかかって頷けなかった。

 

 結局出てきたのは、

 

「考えとくわ」

 

 という保留だった。えぇー、と口を尖らせる竜華には申し訳なかったが、怜は笑って誤魔化した。

 

 その後無事退院し、怜は日常生活に戻ってきた。

 

 周囲は受験ムード一色であったが、一応は推薦の話が来ている怜には余裕があった。体調を考慮してコクマへの出場は辞退したものの、優勝を狙うセーラのため練習に付き合う運びとなった。

 

 久々に牌に触れ、怜は微かな昂揚を覚える。

 一方で彼女は、すぐに自らの変調に気付いた。

 

 一巡先を見る力を使うのは、体力を消耗する。体の弱い怜にとって、諸刃の剣でもあるこの力は、しかし一度や二度の使用ぐらいで動けなくなるわけでもなかった。

 

 二巡先、三巡先を見るのなら話は別だが――とにかくとして。

 

 この日、能力を使用して戦えたのは半荘一回にも満たなかった。すぐに竜華の膝枕にお世話になる羽目になってしまった。百巡先など、夢のまた夢だった。

 

 翌日怜は、一人だけで病院を訪れた。

 主治医に全て打ち明けて、何とかならないかと相談した。

 

「このまま静かに日常生活を送るだけなら、問題ありません」

 

 医師は、そう切り出した。

 

「しかし、園城寺さんが麻雀を打つためには人並み以上の体力を使うようです。これまではその消耗も問題ないレベルでしたが、現在は蓄積した疲労が取り除けていません」

 

 きっかけには、心当たりがあった。繰り返し使った、ダブルとトリプル。あれは、体に相当なダメージを残した自覚があった。

 

「手慰みでやる麻雀程度なら気にする必要もないでしょう。ですが、このまま競技麻雀を続けるのはおすすめできません。体もそうですが、貴女は性格的に無理をする。きっといつか――不幸な結末が訪れる」

 

 慎重に、されどはっきりと医師は言った。

 ショックはそこまで大きくない、そう怜は思った。自分の体のことだ、なんとなく察していた。医師との間に流れた空気は暗くて、受験勉強に切り替えなくてはならないのか、なんて冗談めかそうと思った。

 

 だというのに、口から出てきたのは全く別の言葉だった。

 

 

「なんとか、ならないんですか」

 

 

 縋るような声に、怜自身が一番びっくりした。おそらく、医師も驚いていたことだろう。

 

 それから親も交えて何度も相談した後、出てきた結論は一つだった。

 

「何度かの手術を経れば、競技麻雀に耐えうる体力を得られる……」

 

 ただし。

 

「一年から二年の療養が必要になる、か」

 

 決して、短くない時間である。人生単位でみればそうでもなかろうが、そんな巨視的にばかり考えられない。

 

 その時間が過ぎる間に、竜華もセーラも先に進んでしまう。中学時代からずっと一緒にいた友人たちと、今度こそ離れ離れになってしまう。時間と距離の両方で、だ。それは耐えがたきことで、安易に選べる道ではない。

 

 けれども、希望に縋った瞬間から怜の心は決まっていた。

 

「ごめんな、竜華。一緒に進学できへんくて」

「何今更言うてんの。謝るようなことちゃうやん」

「せやで怜。何かあったらすぐ俺が飛んでったるわ!」

「ありがとセーラ」

 

 卒業式は、無事三人で迎えることができた。いつまでも泣きじゃくる竜華をなだめるのは、大変だった。

 

 先に進む二人を見送り、怜は一人足踏みする。

 

 予定通り、春先に怜は一度目の手術を受けた。結果はあまり芳しいものではなく、夏になるまでずっと病院で過ごした。

 

 多忙ながら時折見舞いに来てくれる竜華とセーラに感謝しつつ、その日々はもどかしかった。牌に、触りたかった。

 

 その夏千里山女子は十二年連続のインターハイ出場を決め、時間を持て余していた怜は東京まで後輩の応援に向かった。竜華から部長役を引き継いだ浩子や、名実ともにエースとなった泉の目覚ましい活躍を嬉しく思い、同時に羨ましかった。

 

 彼女たちの戦いを見届けた後、怜はそのまま大阪に引き返さなかった。

 

 夏の熱気が酷い大阪の街よりも、避暑地での療養を医師から勧められたのだ。秋には二度目の手術が待っている。今度こそ、完治の見込みをつけたかった。

 

 いくつか挙げられた候補地の中から怜が選んだのは、

 

「長野に行ってみたいんやけど」

 

 あの、チャンピオンの生まれ故郷だった。

 

 

 ◇

 

 

 長野に行けばチャンピオンの強さの秘密が分かる――なんて考えは、当然なかった。だが、興味はあった。あの鉄面皮が生まれ育った土地というのは、一体どんなところなのだろうか。加えて言えば、彼女の妹も最強の女子高生の一角である。さらには有名な原村和、説明不要の龍門渕の天江衣、大学一年生にしてインカレで活躍した福路美穂子や竹井久と、有力選手は枚挙に暇がない。

 

 空恐ろしくもあり、期待感もあり、怜は療養先として長野を選んだ。

 

 生まれて初めて長野に足を踏み入れたとき、彼女が感じたのは空気の清浄さであった。故郷の大阪を貶めるつもりはないが、その差は明確だった。確かに療養向けの土地だと、頷くしかない。

 

 体力をつけるため、という名目の元怜は毎日病院を抜けだし散歩に向かった。

 

 静かな町は心が落ち着く。

 触れ合う人々は皆優しい。

 

 僅かにあった長野への忌避感はすっかり消え去って、すっかり怜はこの地を気に入っていた。設備さえ整っていればここで手術を受けたいくらいだった。

 

 ――その日も、怜は散歩に出かけた。

 

 病院の周囲はあらかた歩き回ったので、許可を取り電車を使って怜はさらに遠出した。長野に来てからずっと、調子の良い日が続いていたので問題ないと考えた。

 

 辿り着いたのは、チャンピオンが生まれた、清澄の町。

 静謐さと自然に囲まれた清澄を、怜は一目で気に入った。涼しげな風は心地よく、飲み込む空気に味がある。

 

「ええとこやん」

 

 人影の見当たらない畦道を歩きながら、しみじみと怜は一人呟いた。今すぐにでも駆け出したい気分だった。

 

 畦道の終わりに、ふと、森の中に細い道があることに怜は気付く。道はどうやら山へと続いているようだった。

 

 興味が湧いた。――この道の先は、どんなところなのだろう。

 想いに身を任せて、怜は山道へと足を踏み入れた。舗装などはされていないが、意外と道はしっかりしており、足を踏み外すようなことはない。それがまた、彼女に躊躇いを失わせた。

 

 いくら涼しいと言っても、夏。

 

 怜は額に汗を浮かべながら、十分あまり山道を歩き続けた。暗い森の中に深く分け入り、しかしその先に光を見つける。

 

 森を出た先に広がっていた光景に、怜は溜息を吐いた。

 

 そこは、長野の美しい嶺たちを一望できる丘だった。連なる山は、神秘的とも言える厳かな雰囲気を漂わせている。冷めた性格だと自負する怜でも、これには唸らされた。

 

 ――ああ、来て良かった。

 

 丘の中央まで歩を進めながら、怜は頬を緩める。

 そこで、彼女は胸に強い痛みを覚えた。

 

「あ……」

 

 その感覚を、怜はよく知っていた。

 

「あか、ん……」

 

 これは、まずい。ふらふらと、頭が揺れる。山々が霞み、足から力が抜ける。調子に乗って、出歩きすぎた。だが、後悔先に立たず。

 

 ばたりと、怜はその場に倒れ伏せた。こんなとき、いつも助けに走ってきてくれた親友は当然いない。

 

「くすり……」

 

 自らに言い聞かせるように呟いて、怜は鞄に手をかけようとする。だが、転げたときに鞄も放り投げてしまっていた。中身は散乱して、ぼやけた視界ではどれが薬かもよく分からない。

 

 何度も生死の境をさまよったおかげで、よく分かる。現状は、相当にまずい。

 

 ――嘘やん。

 

 こんな簡単に、終わってしまうのか。

 何もかも中途半端で、終わってしまうのか。

 

 悔しいやら情けないやらで、怜は泣きたくなった。じわりと眦に涙が溜まり――こぼれ落ちる寸前、

 

「大丈夫ですかっ?」

 

 降りかかる声が、あった。おそらく、同じ年頃の少年の声だった。

 抱き起こされて、怜は彼を見上げる。といっても、ぼやけた視界では輪郭程度しか分からない。それでも、首元に回された腕の体温は確かだった。

 

「しっかり掴まってて下さいね!」

 

 背負われた怜は、声を出せず、言われるがままに彼の首に腕を回した。

 名も知らぬ少年の背中はがっしりとして暖かく、安心感を与えてくれた。山を駆け下りているというのに、揺れはほとんどなかった。

 

 ――ああ。

 

 こんな、酷い状況で。

 この背中は竜華の太股くらいの価値はあるな、と怜は冷静に品評していた。

 

 

 




次回:3-2 彼女の影

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