東帝大学の学生間でまことしやかに伝えられているのが、東帝七不思議と呼ばれる怪奇現象である。
どうしても必要だった単位を求め、深夜の教授室の扉をノックする怨霊。
学内で孤立し、工学部棟の屋上から身投げし地縛霊と化した学生。
法学部棟の影にひっそりとそびえる、「寄りかかったその年留年する」と囁かれる松の樹。
シラバスには存在しない、幽霊教員が教鞭を執る呪いの講義。
他にも多種多様、実際には七つ以上の「七不思議」が語られている。所詮は小中高でもよくある怪談話の延長線に過ぎず、学生たちが好き勝手に尾ひれを付けるか、あるいは新たに創作して無責任に流布しているのが現実だ。まともに相手をしているのは、その手の趣味嗜好を持つサークル集団くらいであろう。
しかしながら東帝大学には、半世紀以上前から朽ちずに語り継がれるオカルト話が一つだけ存在する。
それは――東帝大学の地下に張り巡らされた通路にまつわる怪談である。
理学部棟地下一階の奥底、厳重に封鎖された扉を開くとさらに地下へと続く階段が現れると言う。手狭な地下通路はまるで迷路のように分岐しており、出口らしい出口は見当たらない。当然電気も通っておらず、薄暗い通路には風の音が亡霊の叫び声のように木霊する。
許可なく立ち入ることは許されない地下通路は、戦前に作られた防空壕の名残だと噂されている。実際に使用された実績もあるらしい。そして不幸にも、通路内で死亡事故が起きたと言うのだ。
その後戦争は終結し、本来の目的として通路が使われることはなくなり、入口は封印された。だが、無念にも通路内で亡くなった者の魂は今もさまよい続けているという。
そんな地下通路を、当然東帝大学の学生は忌避している。
しかし学外の人間が多く集まる大学祭の時期になると、亡者たちの魂は活発化する。即ち、何も知らない人間を地下通路に引き込もうとするのだ。東帝大学の大学祭が終わった後、時折数人の行方不明者が現れる――その原因が、地下通路なのである。
封印された黄泉路の扉。
理学部棟の魔の階段。
亡霊蠢く地下通路。
――「そこ」で眠る者たちは、今もあなたが訪れるのを待っている。
◇ ◇ ◇
「あ、あったかくない……」
ぶるぶると体を震わせ、マフラーを締め直すのは東帝大学四年、松実宥。夏は終わり、季節は秋。といっても厚着をするにはまだ早い時期だ。マフラーを巻いているのは、寒がりの彼女だからこそである。
「あれ、宥ちゃんこの話知らんかったん? 有名な話やと思っとったけど」
首を傾げるのは、同学年の末原恭子。東帝大学麻雀部部長の肩書きには「元」がつき、第一線からは引退した身だ。重責から解放されたためか、二ヶ月前より表情は幾分か柔らかくなっている。季節外れの怪談に恐れおののく宥に対しても、悪戯っぽく笑いかけるばかり。
「聞いたことはあったけど、忘れてたの……うぅ……」
「あはは、ごめんごめん」
「私は初耳です」
恭子の斜向かいの席で、ぽつりと呟いたのは東帝大学麻雀部新副部長、渋谷尭深。宥とは対照的に、恭子のおどろおどろしい語り口にも眉一つ動かさない。
「地下通路の話はなんとなく聞いたことありますけど、あれって入口は工学部棟にあるんじゃありませんでしたっけ」
「ええ? そうやった? あぁ、でもうちも随分昔に聞いたもんなあ」
「け、結局は噂なんだよっ」
熱いティーカップを抱えて、必死に宥が訴えかける。そんな彼女を横目で見遣りながら、尭深は囁きかける。
「でも、工学部棟の屋上の幽霊は有名ですよね」
「えっ?」
「その幽霊って、何度も何度も飛び降り自殺を繰り返しているそうですよ」
「ひっ」
「目撃者が慌てて駆け寄っても、影も形も消えているだとか」
「ひぃっ」
「見間違いだったのかな、と思ってその場から去ろうとすると、『見たんでしょ?』と背後から声をかけられるとか。でも、振り返っても誰もいないんです」
「ひいいいぃっ」
すっかり縮こまる宥と、追い打ちをかけ続ける尭深。これには恭子も、
「ドSやな尭深ちゃん……」
と感嘆の息を漏らすのみだった。喧噪に包まれる店内に、その声は溶けて消えていった。
国民麻雀大会――通称コクマも終わり、次のリーグが始まるまで一息つく時期。もちろん油断大敵ではあるが、彼女たちは部室ではなく、大学近くのファミレスに集合していた。今日の目的は部活動に関することだが、麻雀そのものからは少し離れている。
「あ、煌ちゃんこっちこっちー」
最後の待ち人が店内に入ってきたのを見つけて、恭子が手を振って呼びかける。それに応じて笑顔で駆けよって来たのは、東帝大学麻雀部新部長、花田煌だ。いつもと変わらない笑顔を振りまきながら、彼女は恭子の隣に座る。
「お待たせしてすみません」
「いやいや、うちらが早く着きすぎただけやから。今日はこれで全員――よな?」
恭子が訊ね、尭深がこっくり首肯する。
今日のミーティングはあくまで事前打ち合わせであり、新入部員は最初から呼んでいない。残る二年生には園城寺怜と須賀京太郎がいるが、生憎二人とも別件が重なってしまった。
「複数の麻雀雑誌の取材に、連盟理事との食事会もあるとか」
「二人ともコクマで大活躍でしたからね!」
興奮冷めやらぬ、と言った様子で煌が目を輝かせる。それもそうだろう。インカレで優秀な成績を収めた怜だけでなく、無名の京太郎もコクマに出場を果たしたのだから。出場しただけではない。複数のプロからの推薦特別枠を与えられた彼は、その期待に応え留学の成果を遺憾なく発揮した。すわジャイアントキリングか、というところまで男子のトッププロと対等に渡り合ったのだ。近年男子選手の影が薄いと囁かれる中、期待の新星として注目を浴びるのは当然の流れだった。
「ま、これで気ィ緩まんよう煌ちゃんがちゃんと手綱とるんやで」
「恭子先輩は厳しいですねー。あの二人なら大丈夫ですよ。酸いも甘いも知ってますから」
「それは……ん、ま、そうやな」
一瞬反論しかけた恭子だったが、大人しく引き下がった。公には引退した身、口を挟みすぎるのは良くないと彼女は考えていた。もっとも、あまり京太郎京太郎と言い過ぎるのは憚られる、という自制が働いたのも大きい。彼が日本に帰ってきてからは彼に構い過ぎて周りの人からからかわれてしまった。
ごほん、と恭子は一つ咳払いして気を取り直す。恥ずかしい記憶には蓋をしておく。
「今日の議題が部活の本筋から外れるから、ちょっと心配になってもうた」
「何を言いますか! 今日は非常に重要な会議ですよ!」
煌に凄い勢いで指を突き付けられ、恭子はびくりと肩を震わせる。
「な、なんなん? 大学祭の出し物を決めるだけやろ?」
戸惑い気味に、恭子が訊ねる。
十二月初頭に三日間開催される東帝大学大学祭。部の建て直しで人的余裕がなかった去年までは、麻雀部としての参加を見送っていたこの催し。しかし今年は必ず出店すると、煌の鶴の一声で決定したのだ。インカレの活躍もあり、新入部員は増加している。今こそそのときである、というのが煌の主張だった。
しかし煌の気合の入りようは、恭子の想像を遙かに超えていた。大学祭にまつわる怪談話で場を繋いでいたのが、申し訳なくなるほど。
宥や尭深も同じらしく、黙って煌の演説に耳を傾ける。
「今年のウチの大学祭――協賛に日本麻雀連盟がつきます」
「ええっ」
恭子たちが驚くのも無理はない。連盟が大学祭の協賛につくこと自体は前例があり、とりわけ特別な事件でもない。だが、東帝大学となると話は別だ。
「ウチは一度、爪弾きにあってますからね」
「ん……」
恭子や宥の世代にとっては、不幸な出来事。悪辣な先輩が引き起こした不祥事により、麻雀部自体が廃部になり、世間から見放された。当然連盟からもしばらく腫れ物を触る扱いを受けていたのは間違いない。そんな部活がある大学に、好きこのんで近づこうとは思うはずがないだろう。
「ですが粘り強い交渉とインカレでの成績によって、ようやく連盟も我々を認めて下さったのです!」
「煌ちゃん、裏でそんなことしとったん……?」
「中々に面白かったですよ!」
「すばら……」
煌の決め台詞を尭深が呟く。思わず宥は拍手していた。後押しされながら、波に乗る煌はさらに続ける。
「夏前に、学祭でどういう出し物をしたいかアンケートとりましたよね?」
「ああ、うん。たしかうちはクレープでも焼けばええんとちゃうって書いたような」
「私は石焼き芋がいいなって」
「古今東西お茶飲み比べ」
「甘いです!」
恭子たちの希望を、煌は一蹴した。
「連盟が協賛につく大学祭ですよ、麻雀部たる我々がそんな通り一辺倒のつまらない出し物で許されると思っているんですか!」
「いや、所詮学祭やん、そこまで気合入れんでも……」
「入れます!」
断固たる語調で、煌は言い切る。そこに冗談や酔狂は混じっていなかった。一つ呼吸を整えてから、彼女は恭子たちに語りかける。
「確かに新入部員が入ったとは言え、人手不足はあるでしょう。十二月からはリーグも始まり、練習の手も抜けません」
ですが、と煌は拳を振り上げた。
「今は攻めるべきときです。一度付けられた汚名は中々消えません、ですが限りなく薄めることはできるはずです。なればこそ、ここで連盟をバックにつけ、私たちがきちんと公認されていることを内外に知らしめるべきです。来年再来年――まだ見ぬ後輩たちのため、道を作っておくのは我々の役目ではありませんか」
「……煌ちゃん」
「まあ、引退した恭子先輩や宥先輩にもお手伝いして貰おうだなんて、甘えているのは事実なんですけど」
「ううん、そんなことないよ」
「確かにうちが甘かったわ。元々そのつもりやったけど、うちに手伝えることがあるんならなんでも言って」
感極まった恭子たちが、積極的に協力を申し出る。――その影で、にやりと煌がほくそ笑んだのを見逃さなかったのは、尭深だけであった。
「でも、出店じゃなかったらなにをするつもりなの?」
「よくぞ聞いてくれました、宥先輩」
待っていましたと言わんばかりに、煌は頷く。
「今回、我々麻雀部だけで出し物をするのは非常に勿体ないと思いませんか。金銭面の心配は既にありませんし、学祭という枠組みに囚われず新境地を開拓すべきです」
「と、言うと?」
「他大学の麻雀部も呼び込んで、イベントを開きます。これは同時に、他大学との関係強化という狙いもあります」
どこまでも抜け目のない煌のやり口に若干引きながらも、恭子はなるほどと納得する。だが、肝心要の内容がまだ語られていない。
「イベントって、何するん? それが一番大事なんと違う? 他大学も呼ぶなら、相当面白いもんにせな企画倒れになるで」
「もちろんプランはできています」
自信満々に煌は、テーブルへと身を乗り出す。
「皆さん――今が大アイドル雀士時代と呼ばれているのはご存じですか」
「あー」
「それは、まあ」
「聞いたことはあるよ」
現代のアイドル雀士の代表と言えば、瑞原はやりである。彼女抜きではこの時代を語ることはできないだろう。しかし瑞原はやりという強すぎる太陽は、数多の星々の輝きを隠す結果となってしまった。
しばらく続いた瑞原一強時代。
その流れが変わってきたのは、恭子たちの世代が現れてからだという見方がある。揺り戻しと言うべきだろうか。一例を挙げれば、広島の佐々野いちごが「ちゃちゃのん」としてアイドル的人気を博していた。彼女を筆頭に、昨今では特に大学生雀士をアイドルとして取り扱うことが多いのだ。
「おそらく、これから血で血を洗うアイドル雀士たちの戦いが本格化していくことでしょう」
「アイドルが流血沙汰はあかんやろ」
「なればこそ! 今こそ立ち上がるべきとき!」
恭子の突っ込みは無視された。
「我々は――大学アイドル雀士最強決定戦を開催します!」
煌の高らかな宣言に、店内の視線全てが彼女たちに注がれる。だが、恭子たちに気にする余裕はなかった。理解が追いついていない。
「大学アイドル雀士さいきょー決定戦……?」
「それって、なにをするの?」
「文字通り大学生アイドル雀士の最強を決定する大会ですが……そろそろ時間ですね」
「時間? 何の?」
腕時計に視線を落とす煌に、恭子が訊ねる。煌はにやりと笑って、
「今回の企画のスーパーバイザー。連盟との渡りもつけてくれた頼りになる人物です。彼女なくしては、成り立ちません。――おっと、来たようですね」
からん、とファミレスの扉が開かれる。
入って来たのは小柄なパンツスーツ姿の女性だった。目元はサングラスで隠され、ぱっと見では表情の判別もつかない。
しかし、恭子は見覚えのあるシルエットだった。揺れるサイドテール。滲み出るのは不敵な態度。手を振る煌の元に、彼女は迷いなく近づいてきた。
「ご足労痛み入ります」
「このくらいヘーキ」
席についたまま、恭子は真っ直ぐ彼女を見上げる。この距離なら、もう見誤ることはなかった。何せ、大舞台で同卓した経験もある相手。
そして向こうも、恭子のことをしっかりと覚えていたらしい。
「久しぶりだね、末原さん」
「こんなところでまた会うとは思ってなかったわ」
インハイ初出場ながら、有珠山高校を準決勝まで牽引した大エース。準決勝でも、五位決定戦でも恭子を苦しめた難敵。
サングラスを外し、あのときと変わらぬ笑みを浮かべ、彼女は名乗りを上げる。
「株式会社小林プロダクションのプロデューサー――獅子原爽です。これから二ヶ月間、よろしくね」
ああ、また面倒なことになりそうだ――確かな予感が、恭子の胸の内に芽生えていた。
次回:Ex2-2