――インカレ本戦開幕前。
東帝大学麻雀部部室で開かれたのは、当然のことながらインカレの対策会議だった。団体戦のオーダー、想定される対戦大学のデータ確認、戦略・戦術の討議。十時間にも及ぶ会議は、狭い部室に熱気を籠もらせた。
怜もまた、議論に積極的に参加していた。一年前、入部した当時にあった遠慮などはとうに失せている。共に入部した彼がいなくとも、立派な東帝の部員として溶け込んでいた。
どっぷりと陽は沈み、会議はようやく最終盤に差し掛かる。事前に煌がまとめたレジュメの最後の一枚をめくり、怜はその手を止めた。
「それじゃ最後に。……インカレの個人戦枠やけどな」
議事進行を務めていた恭子が、同じページを開く。だが、その紙には合議で選出する旨だけ書かれ、詳細な内容は一つもなかった。
インカレ個人戦に予選はなく、団体戦への出場権を有する大学が代表を送り込むことができるルールである。厳密に言えば、一部リーグで上位となった大学に選手枠が与えられる形だ。当然上位であればあるほど与えられる選手枠は多くなる。
インカレ団体戦に出場する東帝も、当然個人戦の選手枠を有している。しかしながら、一部リーグ六位通過の東帝には、一人分の枠しかなかった。新入部員はともかくとして、レギュラー五人から一人選ばなくてはならない。
果たしてどう選ぶべきか――怜が頭を悩ませている間に、恭子は口を開いた。
「うちからは園城寺でええよな」
「は……はぁっ?」
選び出すと言うより、確認するような口調。思わず怜は立ち上がっていた。
「待って待って」
「どうしたん?」
「どうしたん? と違うわ。そんなん私やなくて末原さんか宥さんが出るべきやろ」
恭子も宥も、これが最初で最後のインカレだ。何よりも、インカレ出場に最も貢献してきたのは間違いなくこの二人なのだ。その功績を無視して自分が個人戦の権利を行使するなど、怜にはできない。かつて千里山でセーラを押しのけエースになった状況とも、違うのだ。
「私は来年も再来年もチャンスあるやん」
「来年も再来年もインカレに出られるとは限らへん。今年出られたんも奇跡に近いんやから」
「そんな悲観的にならんくても、絶対出るし」
「心構えは立派やけど、理由はそれだけと違う」
恭子は努めて冷静に語りかけてくる。睨み合いの果て、怜は浮かした腰を降ろした。
「……他の理由って、なんなん?」
「あんたはプロになるんやろ」
いつかも、似たようなことを言われた。けれども、あのときよりもずっと胸にずしんと来る言葉だった。
「なぁ」
恭子は少し意地悪げに笑って、嫌な記憶を突きに来る。
「リーグ戦はどやった?」
「……先鋒やのに、エースやのに、ええとこなかった」
特に、三橋の辻垣内智葉には一方的なゲーム展開を繰り広げられた。悔しい、なんて言えるほど大層な内容ですらなかった。
そう、自分は足を引っ張ったのだ。エースでありながら、それに相応しい活躍を果たせなかった。リーグ戦が綱渡りになったのも、自分の責任だ。そんな自分が、どの面下げてチームの大切な枠を使うと言うのか。
「せやから、私は個人戦に相応しくない」
「せやから、あんたが個人戦に出るんや」
即座に恭子に切り返され、怜は声を詰まらせる。恭子は意地悪げな笑みを深めて続けた。
「あんたはまだチャンスがあると思とるみたいやけどな。あんたのプロって目標考えたら、そんなにチャンスないんと違うか」
「……なんでなん」
「浪人してるからって、スカウト側が二年扱いしてくれるとは思えへん。むしろうちらと――辻垣内智葉たちと同じ括りにされとるはずや」
掲げた夢を思えば、反論などできなかった。恭子の言に、怜はただただ耳を傾けるばかりであった。
「でも、今のままやったらリーグ戦の成績だけ見られて、あんたは格下扱いされてるやろ」
それもまた、事実であろう。真っ直ぐに見つめてくる恭子の表情は、いつの間にか引き締まったものに変わっていた。
「ええか。あんたは団体戦でもライバルに勝つんや。そんで個人戦でも全員叩きのめすんや。それができるチャンスは、一つでも多いほうがええ。今年それができへんかったら、きちんと評価されへんのやから。なによりな」
ペン先で怜を指差し、恭子は凛とした声で訊ねてくる。
「このままやられっぱなしで勝ち逃げされて、納得いくか?」
答えの分かりきった、質問を。
そっと息を吐き、怜は俯き加減であった顔を上げる。
「――いくわけ、ないやん」
「そういうわけや。個人戦、頼むで」
何だか恭子に上手く乗せられた気がして腑に落ちないが、受け入れざるを得ない。
ただ、他のメンバーはどう思っているのか。
不安になって部室を見渡せば――宥が、煌が、尭深が微笑みながらこちらを見つめていた。全員の瞳に迷いはなく、どきりとした。
「私で、ええん?」
ずるいと思いながら、怜はみんなに訊ねる。
いの一番に答えてくれたのは、煌だった。
「もちろんです! 怜さん以外ありえませんよ! 私は断然怜さんを推します!」
続いたのは、尭深。
「リーグ戦の結果はどうあれ、私たちの中で一番強いのは間違いなく怜さんですから」
そして、宥が優しく語りかけてくれる。
「むしろ大役を押し付けちゃって、ごめんね。でも、怜ちゃんならきっと勝てると思う。だから、私たちの代表をお願いしていいかな?」
自分は、そんな立派な打ち手ではない。元々からっぽから始まった、病弱な人間。彼女たちの期待に応えられる自信なんて、なかった。
けれども。
自信なんて、二の次だ。
「分かった」
そんなもの関係なく、応えなければならないのだ。
「個人戦、私が出る。……ううん。私が、勝ってみせる」
こうして、園城寺怜の初めてのインカレは幕を開けた。実に、四年ぶりの全国大会だった。
◇
インカレ団体戦の一回戦を快勝し、興奮冷めやらぬまま怜はホテルに帰り着いた。インカレは東京会場なので、東帝の面々は必ずしもホテルを取る必要はないが、ミーティングや移動の観点からチームで一カ所に固まることを選んだのだ。インカレに出場しながらも、その予算を確保するのにも一苦労だったが。
「今日はまあまあやったかな」
「6万点稼いでまあまあですか」
不遜な怜の言動を受け、相部屋の煌が苦笑する。
「煌さんも大活躍やったやん。相手の大物手全部潰しとったで」
「私よりも尭深が大爆発しましたけどね」
「あれはほんま凄かった。尭深さん味方でほんま良かったわ」
蹂躙する光景は、思い出すだけで戦慄する。二回戦以降は周りのレベルも上がるしさらに警戒されるだろうから、今回のようにはいかないだろう。それでも今の尭深は、簡単に崩れない安定感と爆発力を兼ね備えている。――羨ましい限りだ。
「何はともあれ、怜さんも大分調子が上がっているようですばらです」
「……ん」
「それでは私はちょっと外出てきますね」
「あれ? どうかしたん?」
「高校の同級生――姫子が来てるんですよ。あっちはインハイの解説ですけどね。軽くお茶してきます」
「ああ、鶴田プロか。あんま遅くなりすぎんようになー。いってらっしゃい」
「承知してます。では」
さらっと煌が部屋を出て行く。一人では広すぎるツインルームに取り残された怜は、ごろんとベッドに転がった。
確かに一回戦は勝ち進んだ。
しかし、問題はシード校が現れる次の二回戦。
リーグ戦で散々辛酸を舐めさせられた、三橋大学と当たるのだ。その先鋒を務めるのは、今や大学最強と名高い辻垣内智葉である。既にプロチームに内定が決まっているという噂は、真実であろう。
本音を言えば、不安だ。
今度こそ勝てるなんて楽観視、怜にはできなかった。
「声……聞きたいな」
携帯電話を取り出して、遥か遠方の彼に想いを馳せる。定期的に連絡を取り合ってはいるが、それもここのところ減っていた。京太郎も向こうで頑張っているのだ、甘えて彼の邪魔をしたくはなかった。今も、悩んだ末に、結局怜は画面を閉じた。
勝ち進めば、彼は必ず帰ってきてくれる。
「信じとるで、きょーちゃん」
ぽつりと呟き、目を伏せる。柔らかなベットに包まれ、このまま一眠りしようかと目を伏せたタイミングで、ドアをノックする音が聞こえてきた。
「はーい」
「うちや」
他の部員より少しトーンの低い声で、すぐに恭子だと分かった。怜は起き上がって部屋の入口へ駆け寄り、鍵を開ける。
「はいはい、どうしたん?」
「休憩時間中すまんけど、先にあんたと二回戦の話しときたいと思て。今だいじょぶ?」
「かまへんかまへん、入って、どうぞ」
恭子との二人きりのミーティングは、珍しいものではない。特に京太郎が留学してから、随分増えた。最初の頃はどこかぎこちなさもあったが、今ではお互い遠慮などない。
――ほんま、末原さんとはどんくらい顔突き合わせたっけ。
辻垣内智葉対策について討論しながら、怜はこの一年を振り返る。恭子とは、決して譲り合えないライバル関係である。絶対に、譲れないものがあるのだ。
悔しいのは、対等に歩んでいるはずの麻雀で、彼女に寄りかかっているという事実。
三部リーグでも、二部リーグでも、一部リーグでも、如何に相手のエースを打ち崩すか夜遅くまで討議した。
一方で恭子が務める大将に関して割いた時間は、さほど多くない。怜から恭子に送ったアドバイスも、高が知れている。
「で、辻垣内はここで四索切ったわけやけど――園城寺?」
「ん、あっ、えっ」
「えっ、やない。ちゃんと話聞いとるん?」
「ご、ごめんごめん、聞いとるから」
折角の集中が途切れてしまい、恭子に溜息を吐かれてしまう。
「どうかしたん? 二回戦からもうクライマックスなんやで、しっかりしてや、エース」
「どうかしたってわけやないけど、いつも末原さんには負担かけてるな、思て」
決して口にするつもりのなかった台詞が、どういうわけかするりと出てしまった。後悔してももう遅い。そんな、気遣い合うような仲ではないと言うのに。恭子のほうもとても嫌そうな顔で、
「……なんか変なもんでも拾い食いしたんか」
「心配したのに失礼なこと言われてもうた」
「らしくないこと言うからや」
茶化してみたものの、恭子はくすりともしない。これ見よがしに溜息を吐いたかと思うと、恭子は真っ直ぐな視線で怜の瞳を貫いた。
「負担なんて、思ってへん」
「ほんまに?」
「嘘ついてどうすんのや」
あんな、と恭子は一つ前置きし――しばしの間逡巡を見せてから、改めて口を開いた。
「うち、今まで散々あんたに『プロになるんやろ』って発破かけてきたよな」
「そらもう耳にタコができるくらいに」
恭子が何を言い出すのか、怜にはさっぱり見当がつかなかった。けれども、きちんと聞かなければならない気がした。自然と、居住まいを正す。
「でも、今はちょっと違うねん」
「違うって、何が?」
ほんの一瞬、ほんの僅かの間、しかし確かに恭子は微笑んだ。怜を前にして、珍しい姿だった。
「一年間あんたと付き合ってきてな。――あんたにプロになって欲しい。必死で頑張るあんたに、夢を叶えて欲しいって、思うようになった」
「――」
「だから――負担になんて、思ってへん」
さっぱりとした口調で言われて、怜は言葉を失った。冗談を言って誤魔化そうにも、何も思いつかない。のぼせたみたいに顔が熱くなって、俯いてしまう。
「……恥ずいこと言ってもうたわ。ちょっと頭冷やしてくる」
恭子も恭子で顔を真っ赤にして、腰を降ろしていたベッドから立ち上がる。そのまま逃げるように部屋を出ようとするのを、
「待、ってっ」
怜は必死になって呼び止めた。
「な、なんや、もう」
「末原さん、前、言ってたよな。高校の先生になりたいって」
「……そんなことも、言うたっけか。でもそれがどうしたんや」
どうしたも、こうしたもない。
自分と末原恭子が、根元のところで反りが合わないのはもう仕方ない。怜はそう割り切っていた。これからもその事実は変わらないだろう。
けれども、それでも、きっと。
想いを一つにできるところは、あるのだ。
「それって、麻雀の指導者になりたいってこと?」
「……それが、どうかしたん?」
ここで否定されたら困りものだった。
怜は、できる限り余裕のある笑みを形作る。卓の上でも張らないような、精一杯の虚勢だった。
「やったら、ここで団体戦優勝して経歴に箔付けたいんと違う? きっと、末原さんの夢へのプラスになる」
「あんた……」
「先鋒、勝つから。個人戦も負けへん。そんで東帝が最強ってことを世間に知らしめて、末原さんの夢を助けたい」
沈黙が、部屋に落ちる。
言い終えてからの達成感と高揚感が、頭の中でぐるぐると混じり合う。自分から逃げ場をなくす言動に、怜自身信じられなかった。
しかし、不思議と後悔はなかった。
「あほ」
背中をこちらに向けたままの恭子が、ようやく絞り出したのはたったの一言。それ以上は何も言わず、今度こそ部屋を出て行った。
「嘘でも、冗談でもないで」
残された怜は、一人呟く。
いつの間にか、怯えていた心はどこかに消え去っていた。俯かせていた顔を上げて、園城寺怜は戦いの時を待つ。
◇
迎えたるは、インカレ団体・二回戦。
先鋒を務める怜は、対面に座る辻垣内智葉と対峙していた。関東最強、優勝候補の一角三橋大学――そこで三年間、エースを務めている彼女からは余裕が垣間見えた。この大舞台で全く物怖じしていない。場慣れしている。
リーグ戦でも、智葉は精神的なブレを一切見せなかった。一方の怜は個人的な恨みもあいまって、空回りしたところがあった。
「ツモッ」
軽快に智葉が和了を決める。今回も、出だしからペースを握っているのは彼女だ。一巡先を視ても、ことごとくそれを上回ってくる。他のプレイヤーを使うのが上手い。
僅かの間、睨み合う怜と智葉。
――落ち着け。
深呼吸を、一つ。
やれることは、まだある。恐れるべきは、ここで躊躇し竦んでしまうこと。
この世に生まれ落ちて、体調は一番調子良い。手術を乗り越え、辛いリハビリもこなし、不摂生には注意を払ってきた。
――だから、大丈夫。
信じられるものは、確かに自分の内にある。
「ロン! 4000!」
辻垣内智葉が、じりじり後続との差を開けていく。しかし、まだ十二分に挽回できる範囲。
二回目の、深呼吸。
元々、自分はからっぽだった。何もない人間だった。
けれども、今は違う。
――竜華。
敵校同士でも関係ない、大切な親友。彼女と出会わなければ、何も始まらなかった。
――セーラ。
卓の内外で、ずっと支えてくれた仲間。今の、もう一人の目標。
――愛宕監督、船Q、泉。琴音、西出っち、津村さんにナクシャトラ、根来ちゃん、それから、それから――
数え切れないほど駆け巡るのは、高校時代の仲間の顔。
――原村さん、片岡さん、染谷さん、宮永さん。
――そんで、きょーちゃん。
忘れられないあの夏に、長野の地で出会った友達と想い人。迷っていた自分を、何も言わずに助けてくれた。
――宥さん、煌さん、尭深さん、末原さん。
初めは、京太郎が行くというだけで選んだ東帝大学。不埒で不純な動機だったのかも知れない。けれども今は、ここで良かったと確信している。ここでなければ駄目だった。
『一緒に、東帝に行きましょう』
『私は断然怜さんを推します!』
『一番強いのは間違いなく怜さんですから』
『私たちの代表をお願いしていいかな?』
『あんたにプロになって欲しい』
リフレインする、みんなの声。
みんなが託してくれた、エースというポジション。
寄せられた信頼が両肩にのしかかる、なんてことはない。自分のからっぽを、それが埋めてくれている。いくらでも詰め込める、みんなの想い。
――せやから。
――ここから先は、みんながくれた一巡先や……!
視界が、変わる。
一巡先の世界。二巡先の世界。三巡先の世界が広がっていく。
それだけではない。
行動によって変わる複数の未来が、樹形図のように目の前に広がる。あらゆる可能性を、全て拾い上げていく。
「リーチ」
怜がリー棒を、卓に突き刺す。驚異的な一発率を誇る怜のリーチに、卓内で一瞬緊張が走るが、智葉は冷静に対処しようとしていた。
「ぽ、ポン!」
あえて下家に鳴かせて、一発を消す。見事な判断と言えよう。
しかし。
その未来も、怜は視ていた。
「――ツモ」
引き込む牌こそが、和了牌である。
馬鹿な、という声が聞こえてきそうだった。智葉もぴくりと眉を動かす。しかし怜はまだ、満足していない。
狙い撃つのは勿論――
「ロン!」
「っ!」
辻垣内智葉。その牌を捨てるのは、既に三巡前に視ていた。様々な可能性の中で、一番確率が高い牌を狙ったのだ。
「一本場……!」
――これまでやられた分、お返しにしてやる。
澄ました顔のまま、怜は点棒を積み重ねた。
◇
先鋒戦を終えて控え室に帰ってきた怜を迎えたのは、煌たちの熱い抱擁だった。
「凄いよ怜ちゃん!」
「お見事でした!」
「みんなのおかげや」
「お茶いれますね」
下馬評をひっくり返す、圧倒的勝利。辻垣内智葉さえも抑え込み、実に五万点差をつけて次鋒に繋いだ。
控え室の奥に座っていた恭子と目が合う。
「すえ――」
「怜」
名前で呼ばれ、一瞬怜は面食らう。
しかし恭子が右の掌をかかげると――すぐに、笑顔で応じていた。
「やったで、恭子」
激しくはない、けれども熱いハイタッチを交わす。
――最高の、仲間たちと。
この日、三橋大学を追い落とし、東帝は準決勝へと勝ち進んだ。
歓喜に満ちる東帝大学の面々だったが、その後もたらされた知らせに、冷や水を浴びせられることになる。
――須賀京太郎の帰国が、インカレに間に合わない。
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