東帝大学と聖白女の麻雀部は、関東リーグの中でも深い付き合いがある。それは部員同士の個人的な付き合いから派生したものだったが、故に強い結びつきを有していた。
ただその付き合いも、東帝が関東一部リーグに昇格してからめっきり減っていた。同じ一部リーグの大学同士となった今、少なくともインカレが終わるまでは自重しようという恭子と菫の判断である。それでなくとも元々は敵同士なのだ、あるべき姿に戻ったと言えるのかも知れない。
尭深としては、正直なところ残念な気持ちがある。聖白女には菫や誠子を始め、白糸台時代の友人が多く進学しているのだ。
しかし、ふて腐れてなどいられない。
ようやく掴み取った、インカレの出場権なのだ。名門白糸台では、先輩たちが積み重ねてくれた全国ランキングや整備された練習環境があった。現在の東帝にそれらはなく、試行錯誤を繰り返し頭を悩ます毎日だった。その上で勝ち取った権利は、何物にも代えがたい。ここで今一度奮起しなければいつするというのか。
宥は関西に武者修行に行き、一皮むけて帰ってきた。
煌も長野偵察後、これまで以上に精力的に練習に取り組んでいる。
自分だけ、何もしないわけにはいかなかった。部長の恭子からは、立派なポイントゲッターとして期待されているのだ。それに――大切な、彼との約束もあった。部の外でも取り組めることを探すべきと尭深は考えた。
しかしながら、尭深の交友関係は決して広くない。気心の知れた誠子や菫のいる聖白女との関係が途切れた今、頼れる人間は少なかった。
残されたのは、プロとして活躍している後輩の大星淡だ。彼女は目当ての京太郎がいなくなった後も、東帝大麻雀部の部室にふらりと現れては練習相手になってくれていた。
ただ尭深は、淡に対して個人的なわだかまりを抱えていた。後ろめたさと言い換えても良い。後から彼に好意を抱いたのは、自分のほうだ。先着順なんてルールはないし、既に淡が京太郎と特別な関係になっているわけでもない。同じことは東帝の先輩たち相手にも言えたが、彼女たちとの間に壁はなかった。
しかし後輩の淡だけは話が別だ。彼と彼女が出会った頃から、尭深はずっと見守ってきていたのだ。どうしても、一言で表せない感情が胸の中で渦巻いてしまう。
「……ふぅ」
とは言っても、このまま避け続けるわけにもいかない。今優先すべきは、自身のレベルアップなのだ。
意を決し、スマートフォンに指をかける。
同時に、着信があった。画面に表示された名前を見て、タイミングの良さに尭深はびっくりする。
「もしもし――淡ちゃん?」
『やっほー! 尭深!』
耳が痛くなるほど元気な声。件の後輩、大星淡その人であった。
『ねぇねぇ、尭深今日部活休みだよねっ?』
「うん、そうだけど……でも、もしも淡ちゃんに時間があるなら――」
『ようしっ、それじゃあ遊びに行こう!』
自主練に付き合ってくれないかな、という尭深の望みは言葉にならなかった。
「あのね、淡ちゃん――」
『じゃあ今からいつものところに集合ねっ! よろしく!』
いくら尭深が懸命になっても、淡の勢いには敵わない。あっという間に通話は切られ、電話口からは虚しいビジートーンが響くばかり。
はあ、と尭深は小さな溜息を吐くと、外出の準備を始めた。
――呼び出された「いつものところ」は、聖白女からほど近いファミレスである。照と菫が高校を卒業以来、チーム虎姫のささやかな同窓会はそこで行われていた。
まさかとは思いながら、扉をくぐり店内を見渡す。
「あっ、たかみー! こっちこっち!」
ぶんぶんと手を振って名前を呼んでくるのは、もちろん淡だった。嫌でも目立つその行為、有名人としての自覚はあるのだろうかと疑問に思ってしまう。もっとも、それが彼女の愛らしい部分でもあるのだけれど。
呼ばれるがままに窓際の席に向かう。席の手前で、尭深はぴたりと足を止めた。
そこで待っていたのは、淡だけではなかったのだ。
「言うな。何も言うな、尭深」
「わざわざこっちまで出向いて貰って悪いね」
テーブルに突っ伏す菫と、苦笑いする誠子が淡の向かいの席に座っていた。――なるほど。彼女たちも淡に呼び出された口というわけだ。敵同士としてまず距離を取ろうとしたのは菫だ。格好がつかずに気まずいのはよく理解できる。
「分かってます」
淡ちゃんのやることですから――とは口にせず、尭深は淡の隣に座った。実に満足そうに淡は笑って、メニュー表を渡してくる。
「最近みんなで集まってなかったでしょ! テルはまたヨーロッパだから仕方ないけど」
「そうは言うがな、時期というものがあるんだよ」
「インカレ直前になったらもっと集まらないじゃん!」
「インカレが終わってからで良いだろう!」
「それじゃあ遅い!」
菫が苦情を投げかけるが、当然淡に通じるわけもない。いつものやり取り、いつもの安心する光景。しかしやはり、向かいの二人とは距離があるように感じられた。
「リーグ戦以来だけど、元気だった?」
場を取りなすように、誠子が当たり障りのない質問をしてくる。うん、と尭深は頷き、
「聖白女には負けっ放しで、ちょっと悔しかったけど」
「そう簡単には負けてやれないよ」
誠子が笑い、尭深も釣られて微笑んだ。同期のよしみだ。何だかんだ言っても、会えるだけで安心する。
「で、今日は何のために集められたんだ?」
「激励会だよ! 同じカマのメシを食べた者としてね!」
「だったら別々にすれば良いだろう」
「私だって忙しいんだからっ。もう、菫先輩は文句ばっかり言って建設的じゃないなぁ。そんなだから久や智葉にも負けるんだよ」
「激励を受けてるんじゃなくて喧嘩を売られてるようにしか思えないんだが……?」
相変わらずのやり取りは、料理が運ばれてきてからも続いた。ここに照がいないのが本当に残念に思えるほど、楽しい同窓会だった。
「――それにしても、本当に東帝がインカレに出てくるとはな」
ぽつりと零したのは、菫だった。視線は尭深にではなく、傾けたグラスに注がれている。すかさず口を開いたのは尭深ではなく、淡だった。
「ちょっと菫先輩。尭深を前に失礼でしょ」
「三年前の状況がそれほどだったんだ」
「それほど……でしたか」
尭深が鸚鵡返しに訊ねると、菫はこっくりと頷く。
「あまり聞いてないのも無理はない。恭子も宥も苦労話はしないだろうからな。傍目に見てもあれは辛そうだった。自分が悪いわけでもないのに、色んな場所に頭を下げて回っていた。私が恭子たちに助け船を出したのは、本当のところ同情だ」
どこか悔いるような菫の発言に、淡までもが黙り込む。
「東帝が一部リーグに上がってきたときは嬉しかったよ。共にインカレに出られるのも、嬉しい。だが、だからこそ線引きしておきたかったんだ。卓にまで同情を持ち込まないように。……東帝に入れ込んでいる自覚があるんだよ、私は」
「菫先輩」
「すまない、尭深。理由をつけて距離をとったのも結局は私の都合だ」
菫からの心情の吐露に、しばらく尭深は何も言えないでいたが、やがて、
「いいえ」
と、首を横に振った。
「菫先輩がいてくれたおかげで、私たちがインカレに来られたのも事実ですから。そんなことで謝ってもらう必要なんかないです」
「……ああ。ありがとう」
「それに、そういう話は私より恭子先輩たちに言うべきですよ」
大事な点を指摘すると、菫は軽く肩を竦めて微笑んだ。
「インカレが終わってから話すよ」
「変な意地張っちゃって」
「うるさい、淡。大人には大人の世界があるんだ」
「なにをう、菫先輩こそまだ学生のくせにっ!」
「お前はもっとプロらしくしろっ!」
またもや始まる言い合いに、尭深と誠子は笑ってしまう。
「菫先輩だって子供なんだから、尭深も焦らなくて良いのに」
「え?」
急に淡から話を振られ、尭深は小首を傾げる。
「今日も練習するつもりだったんでしょ? 休みの日なのに」
「――うん」
頷く他、なかった。完全に言い当てられてしまった。隣の席から淡が顔を覗き込んできて、断固とした口調で言った。
「尭深は今のままで良いよ」
「そう……なのかな」
「そうだよ。この間のリーグでも、尭深はほぼ全局プラス収支だったでしょ? 実質的なエースだったじゃん!」
「あれは運が良かったし、どこの中堅にも速度のある打ち手があまりいなかったから。インカレではあそこまで上手くいかないと思う」
「尭深先輩は全然分かってない」
不満そうに淡は口を尖らせる。
「尭深は今でも充分強いよ? 私が保証する。下手に今から特訓しても調子崩すだけ。それよりもいつもの実力を発揮できるようコンディションを整えるのが一番だよ」
「淡ちゃん……」
その助言が、口から出任せでないことくらいすぐに分かった。何よりも、一年以上魑魅魍魎のプロの世界で戦い抜いた淡の言葉なのだ。充分に信じるに足る理由があった。
ここに来るまで心を締め付けていた焦りと不安が、すっと消えていく。
「ありがとう、淡ちゃん」
「どういたしまして!」
歯を剥いて笑う淡に、尭深は微笑みかける。菫は少し茶化すように淡の額を小突いた。
「随分と尭深の肩を持つな」
「私は東帝派だもん!」
「なんだ、須賀くんがいるからか?」
京太郎の名前が出て、尭深は一瞬体を震わせる。どうしても彼の話には、心よりも体が先に反応してしまう。しかし一方の淡は平然と、
「キョータローは関係ないよ? 練習付き合ってるし頑張って欲しいもんね。というか頑張らないと許さない!」
「ああそうですか」
にこにことご機嫌な淡に、菫は深い溜息を吐いた。もしかして拗ねているんですか、という言葉は喉元で押し止めた。
それにしても、と尭深はそっと淡の様子を窺う。
今、彼女は彼のことをどう思っているのか。もう、過去の話になってしまったのか。気にしていないのか。分からない。さっぱり分からなかった。
場所を移しながら行われた同窓会も、日が暮れたところでお開きになった。
「それじゃ、尭深」
「うん」
駅前で、誠子と握手を交わす。次にこうして穏やかに話せるのは、インカレが終わってからだろう。
「尭深」
「はい?」
菫に名前を呼ばれ、彼女に向き直る。
「恭子に伝えてくれないか。――貸し借りなんて気にするな。本気で戦うぞ、と」
「……はい。必ず」
それを最後に、菫と誠子の二人と別れた。
帰る方向が同じ淡と、同じ電車に乗り込む。混み合った車内で、彼女と二人きりになった。しばらくの間、尭深は吊革を握ったまま車窓を見つめていたが、やがて、
「ねぇ、淡ちゃん」
「どしたの?」
「須賀くんのこと……今は、どう思ってる?」
訊いてしまった。直前まで訊ねるつもりはなかったはずなのに、自然と口が開いていた。
返事は、すぐにやってこなかった。「大好きだ」と即答すると思っていたのに。しかし、代わりに飛び出してきた言葉は、酷く尭深を動揺させた。
「尭深は、キョータローが好きなんだよね」
「っ? え、えっ? そ、それはっ」
「良いよ、分かってるから」
落ち着いた声で宥められ、尭深は肩から力を抜く。隣に立つ淡を直視できず、窓に映る彼女の顔を窺い見た。――笑っていた。
「先に言っておくけど、怒ってなんかいないからね。ずっと相談なかったのは、ちょっと寂しかったけど」
「淡、ちゃん」
「今、キョータローが帰ってくる場所は私のそばじゃないと思うから」
その声に、虚勢はなかった。
「それだけ。うん。それだけ」
静かに、何度も頷く淡を前に、尭深は何も言えなかった。言えるはずがなかった。
――ううん。
そんな甘えが、許されるわけがなかった。逃げ出しては、いけない。
「淡ちゃん」
「うん?」
「私は、須賀くんが好きだよ」
「――」
僅かばかりの沈黙の後。
「そっか。……うん。そっか」
淡はどこか嬉しそうに何度も頷いた。尭深もまた、そっと瞳を伏せる。
その日の夜、京太郎から連絡があった。
――インカレに合わせて、日本に帰ってくると。
◇
「帰って来る言うても、この日程――」
「準決の日か、決勝の前日くらいだもんね」
スマートフォンと睨めっこする怜と、苦笑いする宥。
「まあまあ、あまり融通利く環境でもないでしょうし。距離もありますからね」
沈み気味の二人を慰めるのは、煌だった。とは言っても、彼女もいささか残念そうだ。一回戦から共に戦えると期待していたのだから、無理もない。
「残念なもんは残念なんやもん」
「あんま気にしても仕方ないやろ。来れんもんは来れんのやから」
いじける怜へ、ぶっきらぼうに恭子が言い放つ。むっと怜は表情を曇らせるが、反論はしなかった。その隣で、宥は苦笑いを浮かべている。
「それじゃあ」
尭深はすくっと立ち上がり、コップを掲げた。――場所は、馴染みの居酒屋。集まったのは、東帝大学麻雀部レギュラー陣。
「須賀くんが来る決勝戦まで、絶対に勝ち上がらないといけませんね」
たった一言。
その一言だけで、気落ちしていたはずの面々に緊張が取り戻される。
「……せやな」
怜が頷き。
「うん」
宥が微笑み。
「当然です!」
煌が拳を振り上げ。
「ん」
恭子がグラスに指をかける。
四人の引き締まった顔を見渡して、尭深はコップを掲げた。
この部での、彼女のもう一つの役割――東帝大学麻雀部、宴会部長。こればっかりは、後輩がいくらできても譲らない。
「それでは、インカレ優勝を祈願して!」
インカレに向けた決起会、その開幕の音頭を取る。
「乾杯!」
『かんぱーい!』
――必ず、勝つ。
みんなで決勝戦まで勝ち進んで、彼が帰ってくるのを待つ。
尭深の決意は固く、そして熱かった。
◇
張り詰めに張り詰めた緊張。久しぶり――そう、三年振りの全国大会。最上級生たちは引退をかけた戦い。下級生とて、全てはここで勝つために青春を捧げてきたと言っても過言ではない。それが、夏のインハイ、夏のインカレなのだ。この緊張感は当然のものだと、卓につく尭深は思い出していた。
今尭深が座する場は、インカレ一回戦。
その中堅・前半戦である。
リーグ戦とも一味違う。卓を囲む全員が全員、肩に力が入っていた。
お茶を一口飲み、誰にも気付かれないように尭深は一息吐く。
――いけない。
対戦相手たちのペースに嵌まってはダメだ。ブランクのある自分よりも、彼女たちのほうがこの場に一日の長があるのは間違いない。そんなものには付き合わず、自分の力を発揮できるように立ち回るべきだ。大切な、後輩からの助言を思い出す。
落ち着けば良い。既に、アドバンテージはこちらにあるのだ。
先鋒の怜ががっつり稼ぎ、次鋒の煌がさらにリードを広げてくれた。追い縋ろうとしてくる対戦相手たちから逃げ切る。
――ううん。
心の中で、尭深は首を横に振る。
ここで全て、打ち払う。
南一局三本場の親が、流局で流れる。ほっと、周囲から安堵の息が漏れるのを尭深は感じ取った。
これで気をつけるのはオーラスだけ――という対局者たちの声が、聞こえてくるようだった。
――南二局。
このときこそ、地に蒔いた種が木々になり実る頃。
「リーチ」
「っ?」
三巡目、尭深がリー棒を卓に投げ込み戦慄が走る。間髪入れず、
「ツモ――6000・12000」
自摸和で三倍満を決めてしまう。親被りを喰らったプレイヤーの口から、呻き声が漏れ出た。しかし、尭深の猛攻はここで終わらない。
南三局。収穫すべき実りは、まだ尽きていない。
「ロン。24000」
僅か四巡で、またもや三倍満を和了する。
対局室の外は、盛り上がりに盛り上がっていた。
歴代の白糸台でも最強名高い、チーム虎姫が誇った圧倒的火力の持ち主。「収穫の時期」渋谷尭深が、全国に帰ってきたのだと。
オーラス。
対戦相手たちも、ここまで上り詰めた猛者ばかりだ。どれだけの点差があっても、絶望などしない。決して諦めない。最後の最後まで戦い抜くと、瞳が決意を語っていた。
だからこそ、尭深も手を抜かない。
「――ツモ。8000・16000」
今大会初の役萬を決めたのは、彼女だった。
同時に、飛び終了。
東帝大学麻雀部は、副将に回すことなく二回戦進出を決めた。
「ありがとうございました!」
ぺこりと一礼をして、対局室を去りながら尭深は昂揚に身を委ねる。
――負けるわけにはいかない。
彼が、帰ってくるまでは。
迎え出てくれる仲間たちに抱きつかれながら、尭深は華やかな笑みを浮かべた。
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