9-1 音なき声
雨が、降っていた。
右手に携えた傘が弾く雨粒の衝撃は重く、陽の遮られた視界は昼間だというのに暗い。しかし清水谷竜華の瞳は、目の前の少年の姿をしっかり捉えていた。
大きな黒傘から覗く彼の眼差しは鋭く、竜華の瞳をたやすく貫く。彼女の胸にこみ上げるのは、味わったこともないような熱だった。
同年代の男子から浴びせられる視線は、いつも憧憬か下心が混じっていたことを竜華はよく理解している。けれども今の彼は違う。それらとは、一線を画している。
――純然たる、戦意。
同性相手なら幾度となく受け止めてきた。はじき返していた。しかし、異性からはぶつけられるのは初めてだった。
理由は、分かっている。これは自分の蒔いた種だと竜華は正しく知っている。それでもどう対応して良いのか、分からなかった。彼女にできるのはただただ病院に続く歩道を塞ぎ、彼の歩みを止めること。他にどうしていいのかも分からない。
「清水谷さん」
「……なんや」
返す言葉はつっけんどんになる。みっともないと分かっていながら、竜華はそうせざるを得なかった。張っているのは、ただの意地。理などそこになく、ただ自分の情を優先させている。しかし彼は、そんな細かな話は気にも留めない。
「俺と、もう一度勝負して下さい」
だからこそ、竜華の良心を痛ませる。
「お願いします」
「嫌や、言うたらどうするつもりや」
なおも出てくる意地の悪い言葉に、竜華は辟易しそうになる。
しかし、京太郎の瞳に宿る光は一向に揺らぐ気配はなかった。
「それでも――お願いします」
繰り返されるのは、同じ言葉。その威圧感に、竜華は一瞬目を瞠る。言い返したのは、ほとんど意地だった。
「人にもの頼むんなら、もうちょっと――」
最後まで、音にはならなかった。
傘の柄が、京太郎の手から零れる。次の瞬間には、彼の膝は地面に着いていた。
「ちょっ、あんたっ」
「お願いします。もう一度、俺と戦って下さい」
「っ……!」
雨も意に介さず頭を垂れる京太郎に、竜華は声を詰まらせる。反射的に伸ばしかけた手を止め、胸元に引き寄せた。
「……そんなに、怜に会いたいん?」
「それもあります。でも」
振り絞るように、彼は口を開く。
「――――」
音なき声が、耳を打つ。あるいは記憶を拒否したか。
いつの間にか、彼女の手からも傘は滑り落ち。長い髪を、冷たい雨粒が伝っていた。
◇
自己嫌悪にばかり襲われる二年前の記憶を、しかし清水谷竜華は拭わない。混雑極まる電車の中、吊革を掴んで車窓の風景をぼうっと眺めながら、当時のことを何度も思い返していた。
既に和解した話。水に流し、流された話だ。今では彼と会えば、嘘偽りのない笑顔で応じられる。好意的にさえ、思っている。彼女との仲も、認めている。
だから、これは竜華自身の問題だった。当時の失敗を、引き摺る自分自身の。
いくら思い返しても、思い出せないのはあのときの彼の言葉。聞いていなかったのか、聞けていなかったのか。聞く気が、なかったのか。
――あかんあかん。
彼女は背筋を伸ばす。気付かぬ間に、ナーバスになっていたようだ。それもそのはず――もうじきインカレが始まるのだ。
竜華も既に大学三回生。頂点を獲るチャンスは、限られている。
一足先に――といっても後輩の松実玄はもう一足先に――東京入りしたのは正解だったようだ。おかげで、親友の顔を見て落ち着く時間を得られるだろう。
指定された駅で降り、改札をくぐる。すぐに、彼女の姿を見つけられた。
「怜ー!」
「りゅーか、久しぶり」
うっすらと微笑みを浮かべ、呼びかけに答えてくれたのは旧知の親友、園城寺怜であった。相も変わらず線の細いシルエットだが、肌の血色は随分良くなった。春前から伸ばし始めた髪はさらに伸び、既に背中まで届こうとしている。化粧の癖が変わったのだろうか、どことなく漂わせる大人びた雰囲気を漂わせる彼女に、竜華は一瞬鼻白んだ。
「どうしたん? 鳩が豆鉄砲を食ったような顔して」
「ううん、なんでもあらへんよ。それよりお迎えありがとなー、怜。暑くなかった? 気分悪ない? 大丈夫?」
「問題あらへんって、このくらい平気や。相変わらず心配性やなー」
「そやけど、こないだ体調崩したんやろ?」
「……誰に聞いたん? きょーちゃん?」
「うん」
怜はあからさまにむすっとして、今はここにいない彼に文句をつける。
「竜華には言わんといてって言うたのに」
「いやいや、なんかおかしいな思てうちが聞き出しただけやから」
「きょーちゃん、隠し事下手なんやから」
はぁ、と溜息を吐く怜の横顔は、しかしどことなく嬉しそうだ。それを見逃さない竜華ではない。
「なぁ、怜」
「どしたん?」
「……なんでもあらへん」
「変な竜華」
くすくすと怜は笑う。
「とりあえず、私の家行こか。何だかんだで竜華を招くんは初めてやったな。全然遊びに来てくれへんもん」
「それは怜もやろ」
「お互い麻雀で忙しいもんな」
肩を並べて、竜華は怜と共に歩き出す。駅舎から出ると、眩い日射しが頬を掠めた。日傘を取り出した怜の姿はまるで深窓の令嬢のようである。
「インカレの準備はどうなん?」
「ばっちりや。今年の関西勢は強いで、関東リーグにも負けへんわ」
「その調子でしっかりきっちり三橋締めてな、頼むで竜華。絶対に倒してや」
「三橋って、今季関東トップの? えらい目の敵にしとるなぁ。何かあったん?」
日傘を掴む怜の手に、力が籠もるのを竜華は見逃さなかった。
「ちょーっと、辻垣内智葉とな」
「辻垣内さんがどうしたん?」
「……ああいや、うん」
自分から言い出しておきながら、怜は言葉を濁す。それからしばらく考え込む素振りを見せてから、改めて彼女は言った。
「やっぱり、ええわ」
「なんなん、さっきから」
「来年、私が直接倒すから」
ざわりと竜華の肌が粟立つ。どこか冷めた性格をしているようで、根は熱いのが園城寺怜という人間であることを竜華は知っている。――知っている、はずだった。一年前よりも、あるいは半年前よりも、さらに彼女は変化していた。より強き意思を胸に秘め、前を向いている。自らの夢へと向かって進んでいる。
「……そっか」
「そんときは、竜華もライバルやな」
「その前に、一部リーグ上がってこれるん?」
「問題あらへん。うちの部長は頼りになるからな」
へぇ、とこれにも竜華は感心する。入学前から怜は、東帝大学麻雀部部長の彼女を強烈に意識していたはずだ。けれども今の言葉から滲み出るのは、信頼の情。ちょっと妬けてしまうくらいだ。
「すぐに追いつくから」
おそらく、怜は何気なくその一言を発したのだろう。だが、竜華は上手く返答できなかった。
――追い縋られる立場なのは、本当に自分なのだろうか。
会話が途切れ、間が空く。それを埋めたのは、怜だった。
「ま、今年は竜華の応援に徹するわ」
「……あんがとなー。でも、船Qも応援したらな」
「関西リーグで正面から倒した竜華が言うんおかしくない?」
「ちょ、勝負は勝負やもん」
からかわれながら、ようやく怜の居室へと辿り着く。大学でも実家暮らしの竜華にとっては、少し羨ましい一人暮らしだ。何もかも一人でこなさなければならないのは面倒だろうが、それでも憧れる。
それに――怜の隣には強い味方が住んでいる。
怜が扉のロックを外す傍ら、竜華はその隣室の様子を窺う。どうしても、そうせざるを得なかった。
「きょーちゃん、今おらへんで。なんか朝忙しなく出かけてったわ」
「あ、そ、そうなん?」
どきりとした。怜は不思議そうに小首を傾げ、
「何か用でもあったん?」
「う、ううん。ここに須賀くんも住んどるんやなーって思っただけで」
「ふぅん。――ほら、いらっしゃい」
「お邪魔しまーす」
さして興味なさげに頷く怜に、部屋の中へと招かれる。怜の実家の部屋には何度も通っていたが、家具の質感や色合い、雰囲気はそっくりそのままであった。
「ええ部屋やん」
「家賃高いけどなー。お茶でええ? 尭深さんにええ茶葉もろたんやけど」
「お、ええなー。渋谷さんとも仲良くやってるんや」
「そりゃチームメイトやもん」
かつてのライバル校の選手とも打ち解けているようで、何よりだ。
怜はお茶の他に、タッパーにぎっしり敷き詰められたサンドイッチを用意してくれた。
「これ、怜が作ったん?」
「これは今朝きょーちゃんが押し付けてったもん。もうお昼過ぎやし、お腹減っとるやろ」
「へー、須賀くんが……」
間に挟まれた具材が一切潰れていない切り口に、相変わらず主夫やな、と竜華は感心する。家事能力で負けるつもりはないが、男子と張り合うのも竜華の矜持が許さない。
ともかくとして。
室内に二人きりのこの状況、彼の話題になった今、良い機会なのは確かだった。
「で、怜」
「どしたん?」
「その須賀くんとは、どこまでいったん?」
沈黙の帳が、部屋に降りる。
サンドイッチを掴む怜の手が、止まっていた。竜華はしばらく待ち続けたが、一向に返事が返ってくる気配はなかった。
「……あれだけお熱やったのに、何やっとるん?」
「ちゃう。ちゃうから。ちゃんとやっとるから」
竜華と怜のパワーバランスは、基本的に怜に傾いている。からかわれたり攻められたりするのはいつも竜華だ。けれども今回は珍しく、竜華が怜を追い詰める立場であった。はぁ、と彼女は深い溜息を吐いて、
「ちゃんとやっとるって、何も進展ないんやろー? しかもお隣さん同士で何やっとるん」
「……そんなん分かっとる」
不服そうに唇を尖らせ、怜は目を逸らす。
「でも……今は何かちゃうなって」
「え、それって須賀くんのこと――」
「ちゃう。きょーちゃんへの気持ちは、変わっとらへん」
頬を薄く朱に染めつつも、怜ははっきりと言う。聞いている竜華が恥ずかしくなってくるくらいだ。
「でも、麻雀部にいて、麻雀やってるきょーちゃん見てて……今は、まっすぐ麻雀とだけ向かい合いたいって思うようになったんや」
「怜ならどっちも取るくらい言いそうやのに」
「麻雀部も、色々あるから簡単には動けんもん」
怜は一瞬苦笑いを浮かべてから、居住まいを正し、言った。
「それに、そういうしがらみ関係なくてもな。――今の仲間と強くたりたいんや」
真摯な態度に、竜華はそれ以上追求できなくなる。
――再会したその瞬間から、薄々分かっていたことだけれども。
少し見ない内に、怜はまた変わっていた。成長していた。新しい環境に身を置き、新しい仲間と切磋琢磨し、高みを目指している。ただひたすらがむしゃらに、前を向いている。
翻って、自分はどうなのだろうか。竜華は自問せざるを得ない。インカレで勝利するという目標はある。しかしその先を、もっと未来を、自分は見てきただろうか。漫然と、麻雀を打ち続けてきたのではないか。
「さっきも言ったけど、はよ竜華にも追いつかなあかんしな」
怜は、悪戯っぽく笑ってそう繰り返す。
彼女の言うとおり、距離は開いた。学年の差。麻雀環境の差。何もかも、高校時代と一緒というわけにはいかない。それもまた人生なのだと、割り切れるようにもなった。
けれども今、竜華は思う。
背中を向けているのは、どちらなのだろうか。この距離を埋めようと、真に追いかけなくてはいけないのはどちらなのだろうか。
「どうしたん、竜華。ぼーっとして。長旅で疲れたん?」
怜に顔を覗き込まれ、思わず竜華は背中を反らす。
「う、ううん。なんでもあらへんよ」
「そう? そんでなー、きょーちゃんの隣に大星淡が引っ越してきた話なんやけど」
「ああ、電話でめっちゃ怒ってたやつ」
話題はまた、別のものへと移り変わってゆく。
しかし、竜華の心は置き去りにされたまま。ただただ怜が繰る言葉に、耳を傾け続けるだけだった。
◇
日が傾き始めた頃、隣室の扉が開かれる音がした。すぐさま怜が立ち上がり、竜華が止める間もなく出ていった。
三十秒後、戻ってきた怜の傍らにあったのは、
「須賀くん……」
「お、お久しぶりです、清水谷さん」
おっかなびっくり部屋に入ってくる須賀京太郎の姿だった。怜は彼の腕を引っ張りながら、文句をつける。
「なんで直接こっちの部屋に来ーへんかったん」
「その、今日は清水谷さんがいるって聞いてましたから」
「だからこそやん」
「だからこそなんですよ……」
はあ、と深い溜息を吐く京太郎の表情には疲労の色が濃い。まるで一戦交えてきた後かのようだ。竜華は疑問を口にする。
「用事で朝から出かけてたみたいやけど、何かあったん?」
「ちょっと色々あって、宥先輩と玄さんたちと一緒に打ったりしてまして。あ、俺すぐに出て行きますんで、今日はお二人でゆっくりして下さい」
ええー、と再び不満気な声を上げたのはもちろん怜。
「宥さんたちと一緒にいたんなら、今度はうちらの番やん。大体そんな話聞いてへんし、何やってたん?」
「ノーコメントです」
「そんな生意気なきょーちゃんは帰さへんで」
京太郎の体にまとわりつく怜は頑固で、押し問答を繰り返した後、結局折れたのは京太郎だった。既に何度か似たような光景を経験している竜華は、微笑ましく二人のやり取りを見守っていた。
「晩ご飯作ったら帰りますからね!」
「やったー」
「ごめんなー、須賀くん」
「いえ、いつものことですから……」
ただ、やけに京太郎が距離をとってくるのが気になった。竜華は首を傾げながらも、深く追求する機会に恵まれなかった。
結局、怜の押しにより京太郎も一緒に夕食も摂ることになったのは言うまでもない。
お酒の入った怜はさらに京太郎に絡み、彼を戸惑わせた。何だかんだ言い訳していたが、何も進展がないことを気にしているようだと竜華は察する。
それもあまり長く持たず、怜は船を漕ぎ始める。お酒慣れしていないのに、ペースを上げすぎたようだ。ベッドに寝転がせると、彼女はすぐに寝息を立て始めた。
「そろそろ俺はお暇しますね」
「あ、もう行くん? なんか今日はやけに急いでるみたいやけど」
何気ない質問のつもりだったが、京太郎はバツが悪そうに頬を掻いて、
「すみません、清水谷さんがどうこうってわけじゃないんですけど」
「いやいや、うちはええけどあんまり怜に冷たくせんといてなー。これで結構寂しがり屋なとこあるし」
「あー……はい。気を付けます」
それじゃあ、と京太郎は一礼してから去ろうとする。
うん、と竜華は頷こうとして、
「――須賀くん」
思わず彼を、呼び止めていた。
「はい? どうかしました?」
「あー、えっとな」
竜華は一度、言葉を濁す。二人は沈黙し、室内に響くのは怜の寝息だけ。京太郎は、首だけ振り向いて竜華の発言を待っていた。
「……あの日のこと、覚えとる?」
「あの日って――」
京太郎は眉をひそめ、僅かの間逡巡し、
「……もしかして、あの日のことですか?」
「うん、あの日のこと」
噛み締めるように、竜華は頷く。
そう、二年前のあの日のこと。
清水谷竜華が、須賀京太郎に敗北した日のこと。
「なぁ、須賀くん」
訊ねる声は、静かに震え。
清水谷竜華の、苦い記憶を刺激する。今更それを確認したところで何になるというのか。彼女自身、分かっていなかった。
それでも彼女は問いかける。問いかけざるを、得なかった。
「あの日君は、何て言ってうちに挑んできたんやっけ――」
次回:9-2 ミステイクファーストラブ