8-1 再び聞く名は、
儚い吐息が、口から漏れる。一度高まった鼓動は、収まる気配がない。
視線と視線が、ぶつかり合う。彼――須賀京太郎とは、仲が良いと自負している。麻雀仲間で、同好の士。春先に一度誤解の元に喧嘩しかけたものの、それがきっかけで以前よりも仲が深まった気がする。
だが――こんな状況に陥るなんて、松実玄は全く想像できなかった。
姉の香りが染みついた布団の上、眼下に寝転がるのは京太郎の顔。彼は季節外れの冬用布団に背中を預け、やや頬を紅潮させている。
そんな彼を押し倒した形で、玄は体を傾けていた。
絡み合った脚の感触がごつごつしていて、男らしさを感じる。彼の手首を掴む手の平を通して、脈拍が伝わってきた。とても、速い。
「玄、さん……?」
沈黙の最中、彼らしくないか細い声で呼ばれ、玄はどきりとした。彼女の長い黒髪がはらりと落ち、京太郎の胸に触れる。たったそれだけのことなのに、まるで彼と繋がってしまったような感覚が玄の全身を襲った。
自覚はなかったが、姉の居室という背徳感がまた玄の心を揺さぶっていた。
思えば、女子校育ちの玄にとって一番仲の良い男友達は京太郎であった。大学でも麻雀と学業に重点を置いているため、声をかけられることはあっても、交際に発展したことはない。恋心などと言える感情を彼に対して覚えた記憶はないが、憎からず想っていたのも事実。何より、共通の嗜好の持ち主だ。
不意の出来事に正常な判断能力は奪われ、既にのぼせ上がっていた玄の頭は混迷を極めていた。けれども間近で感じる彼の気配と匂いは、容赦なく彼女に襲いかかる。
「須賀くん……」
意識せず、肘が折れ、膝が曲がり、玄の体が布団に沈んでいく。彼の厚い胸板に、自らの胸部が重なる。
「ちょっ」
「あ――」
京太郎の困惑する声、そして玄を押し退けようとする力が僅かにかかり、玄の口から悩ましげな吐息が漏れそうになる。
――その瞬間。あるいは、その直前。
がさりと、背後で何かが落ちる音がした。
はっと、玄は振り返る。そこにで見つけたのは、
「玄ちゃん……? 京太郎くん……?」
呆然と立ち尽くす、姉の姿。彼女の足元には、中身が詰まったスーパーのビニール袋。
さあっと、玄の頭から血の気が引く。
「おねー……」
「ゆ、ゆうせんぱ……」
京太郎とほとんど同じタイミングで彼女の名前を呼ぼうとするが、戸惑いで最後まで音にならなかった。彼女はぎゅっと目を瞑って、
「く……」
「く?」
「玄ちゃんの浮気者ーっ!」
「その反応はなんだかちょっとずれてる気がするのです!」
悲痛な叫びともに部屋を飛び出して行ってしまった。玄の突っ込みも意味をなさず、一陣の風のごとく消え去った。いつもおっとりとした彼女とは思えない、俊敏な動きであった。
「……どうしよう」
「……どうしましょう」
京太郎と玄は、互いに蒼白になった顔を見合わせる。
――数ヶ月ぶりに大好きな姉と会えたというのに、どうしてこうなってしまったのか。
玄は、今回の東京来訪の始まりを思い返していた。
◇ ◇ ◇
毎年八月に開催される、全日本大学麻雀選手権――通称インカレ。
各地方九リーグから上位の大学のみが選出され、大学麻雀の覇を競い合う場である。同世代のトップ雀士たちは既にプロとして活躍しており、インハイと比べて注目度は低いという見方もあるが、昨今はその流れも見直されている。
黄金世代と呼ばれる有望な選手は増加の一途を辿り、進学を選んだ学生の中にもプロクラスの実力者が多数いると目されているのだ。少なくとも、日本国内のアマチュア大会では最高峰のレベルと言えよう。
松実玄が所属する西阪大学麻雀部は、関東リーグと並んでハイレベルと称される関西リーグのトップをひた走る関西最強の大学である。
奈良阿知賀出身の彼女は、二年時のインハイで団体戦決勝進出の好成績、三年時では団体戦優勝の立役者として、大学のみならずプロチームからも高い評価を受けていた。最終的に学業優先で西阪大学に進学した玄は、麻雀推薦という立場に見合った活躍を見せた。結果、名うての打ち手が揃う西阪においてレギュラーの立場を確固たるものにした。
春先のリーグ戦でもライバル、近央大学との激闘を制する原動力となった玄は、当然インカレのレギュラーにも選出された。
そして今夏。
インカレ開催会場は東京。
松実玄は他の部員に先んじて――当然許可は得ている――東京入りを果たしていた。理由は当然、
「おねーちゃん!」
「玄ちゃん、久しぶり」
東京に住む姉、松実宥といち早く再会するためである。
「わざわざ迎えに来てくれてありがとう」
「東京駅なら近いから……」
最後に姉と会ったのは、ゴールデンウィーク。半ば無理に頼み込んで、阿知賀の実家まで帰ってきて貰ったのだ。結果宥が所属する東帝大学麻雀部にも迷惑をかけてしまったのだが――それでもやっぱり、会いたい大好きな姉だ。
「おねーちゃんの大学ももう夏休みなんだよね」
「うん。お盆までは練習だけど」
宥は見る者の心を暖める微笑みを浮かべて、
「みんなでインカレの見学に行くことは決まってるから。玄ちゃんの応援、頑張るね」
「おねーちゃんっ……!」
人混みの中でなければ抱きつきたい気分である。否、既に飛びかからんとしていた。姉のおもちの感触も最近とんと味わっていない。
が、
「あ……」
立ち止まった宥がスマホを取り出したため、機を逸してしまう。宥は細い指で画面をタップしながら、目尻を下げた。口元がマフラーで隠れていても、その歓喜の感情は隠し切れていない。ましてや妹である玄が見抜けないはずがなかった。
「誰から?」
「わわっ」
玄が画面を覗き込もうとすると、宥は慌てて飛び退いた。姉らしからぬ、俊敏な動きだった。玄は呆気にとられて、今度は姉の顔を覗き込む。僅かに、しかし確かに彼女は赤面していた。
「どうしたの、おねーちゃん」
「な、なんでもないから」
「ほんとに?」
「ただの部活の連絡、だから」
嘘を言っている様子はない。だが、正直に全て言っているようにも思えなかった。自分と再会したから、とは別の理由でご機嫌に見える。
再び歩き始めながら、はてさて、と玄は思考を巡らせる。
姉をあれだけ喜ばせるのは一体何者なのか。部活関連、部員の誰かとなると――すぐに、ぴんと来た。
「もしかして」
「うん? どうしたの?」
「さっきの、須賀くんから?」
途端に、宥の足が止まる。ぎこちなく振り返った彼女の顔は、とても強張っていた。
「な、なんで分かったの?」
「なんでって」
問われ、玄は一度声を詰まらせる。
玄にとっても、未だ「なんとなく」でしかなく、憶測の域を出ない。二人が揃っているところを見たのは、四月と五月の二回のみ。確信に至るには、まだ早い。
けれどもやはり、姉が彼を見る目は毛色が違うとも思っていた。当然、ストレートに訊ねるのは躊躇われるが、気になって仕方がない。玄自身、その手の話にはとんと縁はないが興味は多分にある。
「この間から、おねーちゃん、須賀くんと仲良さそうだったから」
「そ、そうかな?」
心外だ、と言わんばかりに宥は首を傾げる。全く自覚がないようだった。
「おねーちゃん、ちゃんと須賀くんと話すようになったのは須賀くんが大学に入ってきてからだよね」
「うん、高校のときもちょこっとだけお話ししたけど」
「その割には、四月に私がこっち来たときにはもう凄く距離が近かったと思うよ。ちょっと妬けちゃったもん」
「そんなにかな……?」
なおも宥はぴんと来ないようである。しかしながら、横目に彼を見上げる姉の姿は今も玄の脳内に焼き付いたままである。それに加えて、
「うちでの合宿のときも、何かと須賀くんの近くにいようとしてなかった?」
「え……?」
「覚えてないの? 一緒にご飯作ろうとしたり、ミーティングのときも近くに座ろうとしたりしてたけど」
「う、嘘」
と言いながらも、思い当たるところがあったのか、宥は玄の目から逃げるように顔を逸らす。虐めているようで心にちくりと痛みが走ったが、気になるものは気になるのだ。
「どうなの、おねーちゃん」
「……良い後輩だな、とは思ってるよ」
お為ごかしの返答とも受け取れるが、実妹である玄には分かった。言葉に乗せられた意味、感情が決して浅からぬものであることを。だからといって、これで結論を出すには短絡的すぎる――玄の興味はますます湧いてくるばかりなのだが。
「須賀くんとなにかあったの? きっかけとか」
「なにかあったってわけじゃないけど」
宥はうーん、と唸って、
「そもそも初めから仲は悪くなかったし、私の格好も受け入れてくれたし……それこそ、四月に玄ちゃんが来たとき、とか」
「あのとき?」
「うん。京太郎くんに色々迷惑かけちゃって。でも、沢山私の話を聞いて貰ったから」
そのときのことを思い出しているのだろうか、宥は恥ずかしげにはにかむ。それにね、と彼女は玄が訊いてもいない内から言葉を継ぐ。控えめな彼女にしては珍しく、饒舌であった。
「あのとき玄ちゃんに麻雀勝負、挑まれたでしょう?」
「園城寺さんとの勝負だね」
「そう、それ。そのときに初めて須賀くんとコンビ打ちをしたんだけど……なんていうか、私のやりたいこととか考えてることとか、凄く分かってくれてたの。もちろん、全部が全部というわけじゃなかったけど、まだ一緒に打つようになって一ヶ月も経っていなかったのに、びっくりしちゃって」
昇りのエスカレーターに足をかけながら、宥は続けた。
「阿知賀のみんなや恭子ちゃんみたいに、私のことをしっかり見てくれてる人なんだな、って思って。……あったかかったの」
玄は、宥の背中を見上げて小さく唸った。――やはり、どうしたって妬けてしまう。心の何処かで、姉はいつまでも自分の傍にいてくれると思っていた。宥が東京の大学に行くと言い出したときに大反対したのも、その気持ちが強かったからだと今なら分かる。
そんな保証は、どこにもないというのに。
奈良を出て、遠い地の大学に進学し、姉には姉のやりたいことがあると知った。夢があると知った。そんな当たり前を、知らなかった。
別れには慣れていた。待つのにも慣れていた。
けれどもそれは、姉がいつも近くにいてくれたおかげだった――今ならはっきりと分かる。姉を守っているつもりで、守られていたのは自分なのだ。
その姉が、また一歩遠くに行こうとしている。自分とは違う、別の誰かの傍に行こうとしている。
だからといって、前回みたく京太郎に勝負を挑むわけにはいかないのだけれど。それに、宥が彼に惹かれていたとしてもそのこと自体に文句はない。彼との共通の友人から聞いた評価も悪いものではないし、玄自身同じ趣味の持ち主として親近感を覚えているほどなのだ。
にっちもさっちもいかない感情を持て余し、ホームで電車を待ちながら次に姉にかけるべき言葉を玄は探す。少し、別の話題で気持ちを落ち着けたかった。
「そう言えば」
思い出したのは、さっきの話の中でも出てきた彼女のこと。
「園城寺さんって、最近大阪に戻ってきた?」
「え? 怜ちゃんが?」
「うん。先月の半ばくらい、かな」
質問の意図が読めない、という様子で宥が眉根を寄せる。
「うんっと……。その頃はほとんど毎日部活してたし、実家に帰るなんて話も聞かなかったし、それに――」
「それに?」
「えっとね。怜ちゃん、今京太郎くんにべったりだから。今までもそうだったけど、近頃はもっと、その、エスカレートしているっていうか」
苦笑いを浮かべ、宥は慎重に言葉を選んでいるようだった。
「絶対に京太郎くんのそばを離れないって感じになっていて」
「どうして?」
「たぶん、淡ちゃんが原因」
「淡ちゃんって、この間須賀くんと噂になっていた、あの大星さん?」
「そう。淡ちゃんが京太郎くんの隣の家に引っ越してきちゃって、それからはもう大変で」
「ひ、引っ越しっ?」
「うん。凄いよね」
冗談めかして言っているように見えるが、宥もどこか憂いでいるみたいであった。どうやら姉のライバルはかなり多いらしい。玄は密かに溜息を吐いた。
――須賀くんが良い、って気持ちは分からなくもないけれど。
中々に事態は複雑なようである。
「とにかく、怜ちゃんが大阪に帰ってるってことはないと思うよ。たぶん京太郎くんが長野に帰るまでは、こっちに残るんじゃないかな」
「そうなんだ……うーん、そっか」
「どうしたの? なにか、あったの?」
宥の質問に、玄は一拍の間を置く。少なくとも宥は嘘を吐いていないようだし、吐く理由もない。話にも一本筋が通っていた。
やや悩みつつも、結局玄は一つの単語を口にした。
「麻雀仮面」
「え……? 麻雀仮面?」
その名を、宥が忘れているはずがないだろう。
何故なら、玄自身が麻雀仮面とコンビを組んで、宥と京太郎に挑んだのだから。そしてその麻雀仮面の正体こそ、園城寺怜だったのだから。
「とき……ううん、麻雀仮面さんがどうしたの?」
その事実は、一部の関係者のみの秘密とされている。東帝大学麻雀部を除けば、他に知っているのは自分程度だと玄は認識している。そのくらいには、慎重に取り扱っている話なのだ。人の喧噪と電車の走行音で塗れたホームでも、宥は声を潜め、怜の名を伏せる。玄も姉に倣うこととし、耳打ちするように言った。
「先月から、ちょっと大阪でも話題になってるの」
「ええっ? ど、どうしてっ?」
「うん」
宥の疑問はもっともだ。東京と大阪、距離は随分と離れている。もちろん麻雀という共通の話題で繋がった人間はそれぞれの都市に住まうだろうが、麻雀仮面なんてローカルな噂が伝わりさらに話題になるというのは考えづらい。事実、七月になるまで、玄も麻雀仮面の名前を大阪で聞くことはなかった。
だが今――麻雀仮面の名前は、確かに轟いている。
「やえ先輩、それから絹恵ちゃんや漫ちゃんも言ってたんだけどね」
すっと、玄は目を細める。同時に、乗るべき電車がホームに滑り込んできた。
「大阪にも、現れたの」
「え……?」
「麻雀仮面」
「それって……」
「大学生雀士に勝負を挑む、仮面をつけた女性雀士――麻雀仮面が」
電車のドアが、開く。しかし、困惑する宥は一人で足を踏み入れられなかった。結局玄が手を引いて、電車に乗り込んだ。
園城寺怜が不在の大阪に現れた麻雀仮面。
予想は外れ、筋は通らず、玄もまた戸惑う。戸惑いながら、胸の内には漠然とした予感があった。
東帝大学と麻雀仮面の名は、切り離せない。
そして姉は、東帝大学麻雀部の一員。
――ならばこの東京の地で、再び麻雀仮面と相見えてもおかしくはないのではないか。
インカレ開幕を直前にして、嵐が吹き荒ぼうとしていた。
次回:8-2 ピレッジ