三橋大学麻雀部は、男子部女子部を問わず関東リーグでも常に上位に位置する、いわゆる名門である。特待生、一般受験を問わずこの部に籍を置く者は、皆麻雀の腕に自信を持つ者ばかりだ。
辻垣内智葉は、その猛者たちの中で一年生からレギュラーを務めている正真正銘のエースだ。現在の大学生雀士最強の呼び声も高い。プロの道を選んでいたとしても、十二分に活躍していただろうと評価されている。
この春大学三年生となった彼女は、名実ともに三橋女子麻雀部の大黒柱になろうとしていた。副部長の肩書きも得て、後輩を指導する立場ともなる。部の指揮は当然監督や四年の部長が執っているが、智葉がそこに深く関わることを咎める者などいない。
それ故に、彼女が新入部員の歓迎会の企画へ口を出すのに不思議に思う部員もいなかった。普段はクールな彼女だが、面倒見が悪いわけでもない。高校時代も、年下の留学生から慕われていた。
学生食堂の一角を借り切っての歓迎会は、立食形式で行われた。当然アルコール類は厳禁であるが、先輩は後輩たちへドリンクを注ぎに行く。大学に入学したばかり、加えて実力ある雀士に囲まれて新入生たちはほとんどみんな緊張していた。
そんな中でも、最も声をかけられながらも、どこ吹く風の新入生が二人いた。
一人は先輩たちの質問攻めにも如才なく答え、一人は目を輝かせながらひたすら食べ続けている。どちらも高校麻雀界で一躍名を馳せた清澄高校出身の少女たち。
原村和と、片岡優希。彼女たちが三橋に入学したことは、関東の大学の中では大きな話題となった。三橋の中でも入学前から何かと注目されていた。
体格的にも性格的にも対照的な二人だが、中学からの付き合いであり非常に仲が良いという。今もテーブルの合間に二人揃っており、彼女たちを中心に人の輪が形成されていた。
そこへ、智葉は足を踏み入れた。
すぐさま彼女のために、道は開かれる。智葉が近づいてきたことを和はすぐさま察したが、優希は構わずタコスを頬張っていた。
「久しぶりだな、原村、片岡」
入部のときに二人の自己紹介は聞いていたが、彼女たちが大学に入って智葉から声をかけるのは初めてだった。和はぺこりと頭を下げ、ようやく気付いた優希は「むむ」と眉間に皺を寄せる。
「お久しぶりです、辻垣内さん」
「久しぶりだじぇ」
「ゆーき、辻垣内さんに失礼ですよ」
「……お久しぶりです、だじぇ」
相変わらず活きが良い、と智葉は口角を釣り上げた。
彼女たち二人と、智葉は三年前のインターハイで顔を突き合わせている。優希とは団体戦で、和とも個人戦で同卓もした。一年生でありながら、智葉から見てもどちらも見所のある打ち手だった。もっとも優希にとっては苦い経験なのか、渋い顔をされてしまった。
「入学おめでとう。これからよろしく頼む、活躍に期待しているぞ」
「こちらこそよろしくお願いします。三橋でレギュラーをとるのは難しそうですが」
「あの清澄出身が謙遜するな」
智葉が諭す傍ら、優希がタコスを掲げる。
「そうだじぇ、のどちゃんと私なら余裕だじぇ!」
「お前はもう少し慎みを持ったほうがいいな。去年のコクマも攻めっ気がある余り無駄な振り込みが目立っていた」
「よ、よく調べてるじぇ……」
「特待で呼ぶ相手だ、当然だろう。あまりうちを見くびるなよ」
澄まし顔で答えてから、智葉は優希から視線を切った。顔を合わせる相手は、和だ。
「特待と言えば」
やや慎重に言葉を選びながら、智葉は訊ねる。
「清澄にはもう一人、うちから声をかけていたが」
「須賀くんのことですか?」
「そうだ、そいつだ」
名前のみならずプロフィールまできちんと覚えていたが、智葉はあえてとぼけた。
「うちの男子部としては期待していたみたいなんだが、あえなく断られたようだ。彼はどうしたんだ? 大学には進学しなかったのか」
「いえ、須賀くんも進学組ですよ。私たちと同じ東京です」
「なんだと? どこの大学だ?」
「あいつは東帝だじぇ」
つまらなさそうに、優希が答えた。智葉は訝しげに訊ね返す。
「東帝? 東帝というと、あの東帝か」
「東帝は一つしかないと思いますが……それです」
「麻雀を続ける気がなかったのか」
思わず、智葉は和に詰め寄ってしまう。
東帝大学麻雀部は、二年前に不祥事を起こして男子女子ともに一度解体されている。女子麻雀部は何とかリーグ戦に復帰したが、それでも部員不足に喘いでいると聞く。肝心の男子部はさらに酷いもので、今なお一人の部員もいないはずだ。
「え、えっと、止める気はないはずですよ。麻雀部に入った、って連絡も貰いましたし」
困惑しながらも、和が言った。
「どうかしたんですか?」
「いや、彼も最後のインハイでかなりの成績を残しただろう。あのレベルなら、もういくつかの大学から声がかかったと思うんだが」
「みたいでしたけど、東帝に拘りがあるみたいでしたから。結局全部断ってましたよ」
「勿体ない話だじぇ」
「そうか……なるほど、すまない」
どうして東帝などに入学したのかはさっぱり分からないが、何はともあれ、彼は麻雀を続けている。しかも、この東京で。それが分かっただけでも収穫というものだ。
――いずれ、会う機会も出来よう。
智葉の予想は、程なくして的中することとなる。
それから、少し時間は流れて。
四月の頭に現れた麻雀仮面の名は、当然の如く三橋麻雀部の中にも広く知れ渡った。現役レギュラー選手が、返り討ちにあったのだ。
恐ろしく強い謎の女性雀士。
普段の智葉なら一笑に付すところだが、時期が時期。部内が浮き出し立つのは大いに困る。最近連敗している聖白女に勝利しリーグ戦を制するために、部の空気を引き締め直す必要があった。
正直言って、いくら強かろうが表に出てこない雀士に智葉は興味がない。そのためいまいち乗り気になれなかったが、形だけでも麻雀仮面征伐に向かわなければならなかった。
対局したチームメイトが覚えている限り書き起こした牌譜を読み込み、余った時間を見つけてはふらりと雀荘に立ち寄る。四月の後半からは、智葉はそんな日々を送っていた。
その日、ゴールデンウィーク初日もそうだった。
部の練習は昼から、朝も早くに目覚めてしまった。普段よりも少しだけ遠出して、智葉は目に付いた雀荘に入った。特にそこに決めた理由はなかった。
残念ながらと言うべきか当然と言うべきか、麻雀仮面らしき人物はいなかった。
智葉は面子を欲しがっている卓に、同卓させて貰った。それがいけなかった。
人を見た目で判断してはいけないが、見るからに荒っぽそうな男がいた。しかし智葉は臆せず打った。結果叩きのめしてしまった。
対局後、納得いかないのか男は智葉に食って掛かった。文句があるなら麻雀でかかってくれば良い、と智葉は考えるが、理屈に合わない行動を取る者もいる。虫の居所が悪かったのか本来の気性なのか、男は智葉を口汚く罵った後、あまつさえ殴りかかろうとした。
その程度、対処する心得はあった。
しかし智葉よりも速く、割って入る人間がいた。店員ではなかった
「止めろっ」
「痛たたたっ!」
男の腕をねじり上げたのは、長身の少年だった。大人と呼ぶにはやや幼さが残っている――けれども毅然とした態度は、堂に入っていた。
智葉は彼の顔を見て、まさかと息を飲む。だが、店員が駆けつけて声をかけるタイミングを逸してしまった。
結局、智葉は何ら被害を受けることはなかった。しかし、店側から事情聴取を受ける羽目になった。目撃者もおり、智葉と助けてくれた少年が出禁になるような問題には発展せず、智葉はほっと安心する。
だが、たっぷり一時間以上も無為に過ごしてしまった。
「すまなかったな」
少年と二人で雀荘を出て、智葉はまず頭を下げた。
「面倒事に巻き込んでしまった」
「ああ、いえ。お気になさらず。俺が勝手にやったことですから」
「気にもする。それから――助かった。礼を言う」
要らぬお世話であったが、単純に嬉しかったのも確か。
――何よりも。
「こんなところで君に出会えるとは思っていなかったよ」
にやりと智葉は笑う。
「須賀京太郎君」
名前を言い当てられた少年は、目を丸くした。
「ええっと……その、どこかでお会いしたことありましたか」
「直接はないな。しかし、顔くらいは知られていると思ったが……っと、この格好がいけなかったか」
すっかり忘れていた。髪を束ね、眼鏡をかける。それだけで、少年――須賀京太郎は、「あっ」と驚きの声を上げた。
「辻垣内、智葉……っ?」
「ご名答だ」
彼が、自分の名を知っていた。その事実に、珍しく智葉の心は躍っていた。
◇
スマートフォンの画面に表示された京太郎の名前と連絡先を、智葉はじっと眺めていた。日を改めて助けられた礼がしたい、と教えて貰ったのだ。
連絡先を手に入れるだけなら、原村和や片岡優希に頼めば良い。だが、同じ部活仲間となったとは言えまだ日の浅い後輩に男の連絡先を訊くのは流石に気が引けた。だからこそこの偶然自体、智葉の機嫌をすこぶる良くしていた。
「どうかしたんですか?」
「っ、なんだ、原村か」
背後から声をかけられて、慌てて智葉はスマートフォンの画面を胸元に隠す。
「お前こそどうしたんだ。休憩時間なんだからゆっくり休め」
「はぁ。いえ、辻垣内先輩、最近とても楽しそうなので。ゆーきが気になって仕方ないんです。何があったか訊いてきてと言われまして」
「そんなことを頼む片岡も片岡なら、訊いてくるお前もお前だな」
「そうですか? 私もちょっと気になっていたので」
苦言を呈しても、和は首を傾げるばかり。この後輩も、何だかんだでかなりのマイペースだとこの一ヶ月で気付かされた。自分に全く物怖じしない当たりは、智葉も気に入ってはいたが。
「別に何でもない」
和たちに京太郎のことを話すつもりは、今のところなかった。和だけなら問題ないだろうが、優希に知られると酷い面倒に発展する予感がした。
「なら良いんですが。――そう言えば、聞きましたか? 三部リーグのこと」
「園城寺怜か」
少し得意気に微笑んで、和は首肯した。
千里山女子の園城寺怜。辻垣内智葉と同い年であり、三年前のインターハイでも注目を集めた選手だった。当時無名の選手でありながら、突然台頭してきたのを智葉はよく覚えている。対戦する可能性もあり、牌譜も相当読み込んだ。確固たる信念の持ち主と、智葉は彼女を高く評価もしていた。
準決勝で千里山が敗退したため、矛を交える機会は訪れなかったが――確かその試合で倒れて以降、園城寺怜は公式試合に出場していなかったはずだ。
しかし彼女は、先日開幕した関東リーグ戦で何の前触れもなく卓に現れた。しかも、一年生として。まさか浪人しているとは思わなかった。
「かなり話題になっているみたいですね」
「あれだけの打ち手だ、当然だろう。……なんだ、もしかして知り合いなのか?」
「ええ、ちょっとだけ。この二年、園城寺さんは療養していたんですが、長野に来ていた時期もありまして。打ったこともありますよ」
「……中々重要な話じゃないか、それは」
「園城寺さんにリーグ戦開幕までは秘密にしておいて、と頼まれまして」
その義理堅い性格には溜息が出るが、智葉は「まあ良い」とさほど問題視しなかった。
園城寺怜が出てきたのは、関東三部リーグ。一部リーグからさらさら落ちるつもりのない智葉たちがリーグ戦で戦うのは早くても一年後だ。他の大きな公式試合で顔を合わせるにしても、まだ先の話。そもそも直近の情報さえ少ないのだから、大して調べることもできない。今は心に留めておくだけで充分だ。
「確かに奴らにも情報戦があるだろうからな。園城寺ほどの打ち手が突然現れたら、慌てふためく連中もいるだろう」
「実際、萎縮していたみたいですね。牌譜を見る限り、それを差し引いても園城寺さんの強さは圧倒的でしたが」
「ブランクはあれど、やはり関西の雄か。……それにしても、奴ならもっとランクの高い大学にも入れたんじゃないのか。三部の、どこの大学だったか」
「東帝です」
さらっと和が答え、ぴくりと智葉は眉を動かした。
「なんだと? 東帝?」
「はい」
「と言うと……例の、須賀某と同じか」
「ええ、そうですね。須賀くんと園城寺さん、仲が良かったですから」
「ほう」
中々に、面白い組み合わせだ。
智葉はスマートフォンを操作し、先日の関東三部リーグ戦の牌譜を引っ張り出す。なおさら現在の園城寺怜に興味が湧いた。
もう少し詳しい話を聞こうと、智葉はなおも和に話しかけようとするが、
「原村さん、ちょっとこっちに来てー」
「あ、はいっ。すみません、失礼します」
他の先輩に呼ばれ、和は駆け足に去って行ってしまった。取り残された智葉は、しかしすぐに気を取り直して牌譜を確認する。
東帝と言えば、彼がいる。
彼とともに、園城寺怜がいる。
その符丁に、奇妙な感覚があった。見過ごしてはならない、何かがある。もう一つでもここに要素が加われば、あるいは。半ば勘ではあるが、彼女の先読みはよく当たる。
園城寺怜の牌譜は、和の言うとおり確かに圧倒的だった。牌譜を眺めているだけで、対戦相手たちの暗澹たる表情が目に浮かぶ。
だが同時に、胸に宿った不定型の感覚がどんどん確かなものになっていく。
これとよく似た牌譜を、最近も見なかったか。
ごくごく最近、拘っていなかったか。
はっと、智葉は気付いた。
全てを繋ぐキーワードが、ある。
「練習再開するよー」
部長が、休憩時間の終了を告げる。あちこちで椅子を引く音がした。だが、智葉は一人立ち上がらない。
「どうしたんだじぇ?」
声をかけてきたのは、片岡優希だった。
彼女の頭に手を乗せて、智葉はにやりと笑った。
「少し外す」
「ちょっと、次は私と打つ番だじぇ!」
「後でいくらでも打ってやる」
練習時間を無視するなど、生まれて初めてだった。しかし、この逸る気持ちはどうにも抑えきれるものではなかった。
部室を出る智葉を止められる者は一人としておらず。
彼女はすぐさま彼の番号を呼び出した。
『はい、もしもし。須賀です』
ほとんど間を置かずに、彼は応答した。智葉は自分の頬が緩むのを感じた。彼の声は、良い。余計な修飾をつける必要なく、智葉はとても気に入っていた。
「辻垣内だ。突然すまないな。今大丈夫か」
『ええ、大丈夫ですけど……何でしょう?』
「約束していただろう、先日の礼をすると。その日程を決めたくてな」
『ええと、すみません。リーグ戦が終わるまで待ってもら――』
「麻雀仮面」
彼の声を遮って、智葉はその名を呟いた。
沈黙が、訪れる。智葉の言わんとすることを、京太郎はこの一瞬で察したようだ。辻垣内智葉は、獰猛な獣染みた笑みを浮かべて言った。
「彼女について、話し合おうじゃないか」
狙った獲物は逃がさない。
彼女の胸は、あらゆる意味でとても高鳴っていた。
Ex-3 偽る愛と真の恋・後