「……」
「……」
「……む」
大本営への報告書作成途中にペンのインクが切れたため、新しいものを取り出す。
ふと顔を上げると時刻は既に午前十時を回っていた。普段の執務消化の時間と比べると若干ではあるが遅れている。
まあそれも想定済みではあるのだが。
「んあ? 提督、終わったー?」
「いや、ペンのインクが切れたため取り替えていた」
「そっかー」
そんな間延びした声を真後ろからかけてくるのは最近重雷装巡洋艦に改装完了した北上だ。
大井との要望により二人同時期に改装を施したのだが、その雷撃性能の高さたるや演習相手を務めた青葉に『気付いたら大破判定になってました』と言わしめたほどである。
非常に優秀で助かってはいるのだが、彼女が秘書艦の日は決まって執務が遅れ気味になる。
というのも、
「なあ北上、やはりダンボールのミカン箱で執務を行うのは効率が悪いと思うのだが」
「えーいいじゃん。渋いじゃん。それに椅子だと私が提督にもたれられないよー」
という理由が一つである。
元々初期艦組である北上はこの鎮守府に十分な物資が揃っていない頃、平たく言えば司令室にダンボールのミカン箱しかなかった頃から苦楽を共にしてきた最古参の艦娘である。
そんな彼女だが、どういうことかこのダンボールのミカン箱での執務をお気に召しており、彼女が秘書艦の日は半ば強引にこの状況での執務を迫られる。
おかげで普段とは使い勝手が違い、筆は滑るわ判子は滲むわで執務に遅れが生じているのである。
と言っても致命的な遅れではなくあくまで許容範囲内の遅れであるため特に大きな問題ではないのだが。
一度こっそりと普段の状態で執務を行おうとしたら、夜まで無言で司令室の床に寝転がっているという暴挙にでられたため(それでも秘書艦業務はこなしてくれた)諦めた。
「私の背中なぞ居心地悪いだろうに」
「んー? 私は嫌いじゃないよ。むしろ好き? かも」
愛用の五連装酸素魚雷を磨きながら北上は楽しそうに笑いながらその顔を覗き込ませてくる。もしかしたら気を遣わせてしまったかもしれない。
それでもこの程度で執務に大きな影響を及ぼすほど提督としての手腕が低いわけではないが、問題はもう一つの方にある。
それが、
「もー、北上さんったら冗談も上手いんだから」
「んー、別にそんなに冗談ってわけでもないよー、大井っち」
そう、大井の存在である。
北上あるところに大井あり、とは木曾の言葉だったか。北上が秘書艦の日にはどこからともなく現れる、それもいつ現れたのか分からないほど自然にとけこんでくるのだ。司令室のどこかに隠し扉があるのではと疑ってしまうほどには自然に。
「大井、確か君は今日は非番では」
「そうですよ。だからこうやって北上さんに会いに遠路はるばるやってきたんです。何か問題でも?」
「いや、別にいいのだが」
「大井っちー、私の前に提督とが抜けてるよー」
「おほほほほもー北上さんったらおほほほほ」
北上に何かを言われたのか大井が少し焦りながら、なぜか私の肩をピシピシと叩いてくる。まったく痛くはないが、字が歪むので控えてほしい。
こうして大井が来たことによって、元々あまりこういう雑多な仕事が得意ではない北上の秘書艦業務の進行速度は目に見えて遅れていくのだ。
だがしかし、自分自身このことに関して北上や大井に何か言おうというつもりは毛頭ない。
そもそも普段の執務は最初は自分一人で行っていたのだ。その様子を見ていた彼女たちが自ら秘書艦業務を、と具申してくれたため今に至る。
その厚意だけで自分には十分であり、ましてや命を懸けて戦前に出ている彼女たちにこれ以上の負担を掛けたくはないというのが正直なところである。
では何が問題なのかというと――
「ところで提督はさー、大井っちのことどう思ってるのさ?」
「どう……とは」
「ちょちょちょちょちょ! き、北上さん突然何を!?」
「いいじゃんいいじゃん。やっぱりこういうの気になるしさー」
――これである。
普段の二人ならば本当に相手のことを想いあっているのだろう、まるで阿吽の呼吸とでも言えるかのような親密度なのだが、現在のこの状態に限ってなぜかお互いを試すような発言ばかりするのだ。
それだけならばまだいいのだが、大井も北上もなぜか私に意見を振ってくるため、この手の話に疎い私にとっては執務以上に難問なのである。
「どうと言われてもだな……気の置けない大切な仲間だと思っているが」
「提督も律儀に答えなくていいです!」
「す、すまない」
「謝ってんじゃないわよ!」
「む……うむ」
「大丈夫だよー提督ー、大井っちがタメ口で話すのは心を開いてる証拠だからー」
「北上さーん!?」
北上曰く心を開いてくれているであろう大井は困惑と羞恥で頬を染めながら、私のことをまるで親の仇のように睨み付けている。
あの場では答えないことが正解だったのか、経験値の低い私ではどの選択肢が正解だったのかすら分からない。
「それにしても今の答えは私が聞きたかったのとは若干違うなー。よし、妖精さんカモン」
「よんだですか?」
「おしごとですか?」
「なにかごようです?」
私の答えに微妙な反応を返しながら、北上が何かを思いついたように右手の指をパチンと鳴らす。
同時に北上の髪の中からポンっと妖精君たちが三人現れ、そのままなにやら話し込み始めてしまった。妖精君たちは北上の髪の中で昼寝でもしていたのだろうか。
「上手くいったらドーナツ焼いてあげるからお願いねー」
「どーなつのためならいたしかたなし」
「きたかみさんのやくどーなつはせかいいち」
「おおいさんゆるせ」
「えっ!? っちょ、何ですかっ!? むぐーっ!」
謎の会談が終わったと思いきや、北上の号令のもと妖精君たちが一斉に大井に襲い掛かる。そしてあっという間に各々が両手と口に張り付き身動きを封じてしまった。
「ごめんね大井っち。んでさ提督」
「なんだ?」
「さっきのはさ、仲間としてってことだよね。それはそれで悪くないんだけどさー。やっぱり大井っちの親友の私としては、提督が女の子としての大井っちをどう思っているか聞きたいんだよね」
「いや、しかしそれは」
「ほら私たちもいつかはお嫁に行くかもしれないしさー、男の人が自分のどういうところに惹かれるのか把握しておきたいしねー」
「……そういうものか」
「ぜったいそんなことかんがえてないですはい」
「あのかおはだれがみてもすごくたのしんでいるかおです」
「でもていとくさんはわかってないですはい」
「むぐー!」
確かに北上の言うことには一理ある……のかもしれない。
自分の強みを知ることは良いことであるし、それが客観的なものとなると信憑性も増す。だがしかし、私のような気の利かない男の意見では参考にもならないのではないだろうか。もしかしたら安易に大井を傷つけてしまうだけかもしれない。
「ほらほらもう観念して言っちゃいなよー」
「……むう」
こうなってしまった以上、自分の思っていることを素直に口にするしかあるまい。
もはや退路は無し。そう腹を括り、口を開く。心なしか妖精君を含めた全員の視線が熱いような気がするが気にしている場合ではない。
「大井は綺麗な髪をしていると……思う。こう言ってはあれだが、海上に出ているときの大井は……潮風に揺られる綺麗な髪も相まってまるで……絵画の一ページでもあるかのように思う事もあった」
「……」
「性格は……一見するとキツめに見えるが、戦闘時以外でもさりげなく周りをフォローできる優しさと、いざという時には皆を引っ張れる強さを持っていると感じている。そういうところが、そのなんだ……私は大井の魅力だと思うのだが」
「……」
「……北上?」
「はっ!? ああそうだね! 大井っちのいいところはいっぱいあるよね! ありがと提督」
「う、うむ」
「……思ったよりガチでこっちまでドキドキしちゃったよー」
「さすがていとくさん、きれあじがぱないです」
「もはやことばのぼうりょくですはい」
「ごちそうさまでした」
普段から感じていたことを言葉にしただけではあるが、やはり気恥ずかしいものがある。しかしこうして相手の良いところを口に出して話すというのは存外悪いものではないのかもしれない。
そう思いながら、そういえば大井は大丈夫だろうかと振り返る、と。
「おおいさんのかおがうれたとまとみたいに!?」
「これはもしかしなくてもきんきゅうじたいでは」
「わがしょうがいにいっぺんのくいなし」
そこには若干瞳に涙を浮かべ、肩をわなわなと震わせながら頭から盛大に蒸気を放っている大井がいた。
嘘や誇張は決して言ってはいないのだが、やはり怒らせてしまったようだ。
「き、北上」
「あちゃー、ごめん提督やりすぎちゃったかも」
たははと冷や汗交じりにぼやいてくる北上はなぜか私の服のそでをぎゅっと握ってくる。死なばもろとも、毒は食らわば皿まで、旅は道連れ共に逝こうという言葉の表れだろうか。
「うがーっ! もう許さないっ! こんな屈辱初めてよっ! そこの妖精!」
「はっ!」
「はっ!」
「はっ!」
「あとでいくらでもマドレーヌ焼いたげるから、今すぐ北上さんと提督を捕まえなさい!」
「ま、まどれーぬのためならいたしかたなし」
「お、おおいさんのやくまどれーぬはうちゅういち」
「きたかみさんていとくさんゆるせ」
「ちょちょちょ!? う、うらぎりものー、提督助けむぐー!」
「……捕まってしまった」
「さーて北上さん、提督覚悟はいいかしら?」
「い、いや、できれば遠慮したいのだが」
「ふふふうふふふふふ」
「むぐー!」
その後、天元突破してしまった大井によるやられたらやり返すという言葉を体現したかのような行為は、大井が満足するまで三時間に渡り続いた。
その間、北上が羞恥のあまり意識を失い、その介抱を任された私の執務はやはりその日中に終わらなかった。
後日、一連の騒動を実はパパラッチしていた青葉が盛大にスクープとして新聞に載せたため、鎮守府をあげた鬼ごっこが巻き起こったのは別の話。