「……ふあ」
着替えのために両腕をもぞもぞと動かしながら、敷波は思わず零れた欠伸を隠す様に口を右の手の平で覆った。眠い、というわけではないが、早起きした所為か身体がまだ少し重い。
場所は食堂に隣接した従業員用更衣室。
ちらりと壁に掛けられた時計に視線を移しても、まだ朝の五時にすら針は届いていない。よく早朝遠征に寝惚け眼でやってくる娘がいるが、その気持ちも今ならなんとなく分かるというものだ。
「眠たそうだね、敷波ちゃん」
鏡に映った自分の顔をしかめっ面で眺めているとふいに横から声が掛けられる。しまった、見られていたのか。
「そりゃね。こんな時間に起きるなんて滅多にないし。そういう綾波は……なんか楽しそうじゃん」
「えへへ、そうかな」
髪留めでいつものように後ろ髪を縛りながら視線だけを隣へ送ると、にへらと饅頭のような笑顔が返ってきた。何がそんなに楽しいのか、綾波は鼻歌交じりに身だしなみを整えている。くそう、ちょっと可愛いな。
そのままデートにでも行くつもりなの? と妙に気合の入った相方に懐疑の視線を送ってみるも効果無し。やれやれと内心でため息を吐いて、敷波も目の前の鏡へと向き直る。
それにしても、だ。ちょっと妙である。
――綾波ってそこまで料理好きだったっけなあ?
というのも、今日の二人の任務は食堂運営の補佐だ。間宮と伊良湖が本営経由で不在となったため、その間の代役を鎮守府で募ったところ、綾波が颯爽と立候補してきたという形である。勿論敷波は巻き込まれた側だ。
いや、まあ別にそれは良い。実際に料理をする人は他にいるみたいだし(鳳翔さんとか? 詳しい事は聞いてないけど)鎮守府のために役に立てる事はやぶさかではない。
それよりも気になるのが綾波の様子だ。
ちょっとテンション上がり過ぎじゃない?
いくら綾波が世話好きといえど、これは当然仕事だ。加えて今日は司令官の休みの日なので警備当番以外は当然艦娘も非番。普通なら趣味に精を出したり、身体を休めたりするものではないか。実際、今までの綾波はそうだった訳だし。
それが今や自ら進んで仕事を引き受け、尚且つ鏡の前で何度もえへえへへとにやけ饅頭化しているとは一体どういう事なのか。
更に、
「……こんな気合の入ったエプロンまで買ってきてるし」
壁に掛けられた一着のエプロン。派手すぎず薄桃色の生地にふわりとフリルのついた料理用エプロン。ワンポイントで右胸にリボンがあしらわれているのが良いのだという、綾波がこの日のために自腹で購入した一品だ。
「そりゃ確かに綾波にはぴったりだとおもうけどさ」
問題はその横に色が薄い青色に変わっただけの全く同じエプロンが掛けられている事だ。しかもでかでかと『敷波ちゃん用』と書かれた用紙が張られているのが実に恥ずかしい。
「……私には絶対似合わないってのに」
自分が地味で可愛げのない性格なのはよく分かっている。綾波とお互いに他の娘からは頬の柔らかさが奇跡なんて同じように褒められたりするけど、綾波には愛嬌がある。嫉妬とか卑屈とかそうじゃなく純粋にそれは彼女の良いところだと思うし、人を引き付ける魅力みたいなものだとも思う。
要はちょっとだけ怖いのだ、こういう可愛らしいものが似合わない自分を見るのが。ちょっとだけ。
「…………」
エプロン装着、姿見で確認……うん、似合ってない……ことはない……のかな?
姿見で確認したエプロン姿は意外にもそんなに悪くないように見えた。まあ服装における自己判断なんて一週間後の天気予報ぐらい当てにならないものだけどさ。
「ふわあ~! し、敷波ちゃんカワイイ~!」
「ちょ、ちょっと綾波! 急に抱きついてこないでってば!」
「ね、敷波ちゃん写真とろ! 写真!」
「ヤダよっ! に、似合ってないし」
ぼそりと呟いた言葉に綾波が『何言ってんだこいつ?』みたいな呆れた表情を投げかけて来る。なんでさ?
予想通り綾波のエプロン姿は調和していると言っていい程様になっていて比較されても仕方ないと思うけど、その顔はそれはそれで腹が立つ。
「敷波ちゃんは馬鹿なの?」
「な、なんでさっ」
「こんなに可愛いのに似合ってないなんて言ったらそれこそエプロン作った人に失礼だよっ! ほらもう一回ちゃんと見て!」
「う……うええ?」
綾波に強引に姿見の前に立たされ、改めて自分の全体像が鏡に映る。特徴の無い目鼻立ちに無造作に束ねられただけの髪、凹凸の無い身体はまあこれからと希望的観測を持ってもしかし地味だ。一応メイクの方法とか愛宕さんに聞いたり鳳翔さんの立ち居振る舞いをこっそり真似したりしてるんだけどなあ。
そんな風にじっくり自分の全体像を眺めていると、なんだか恥ずかしくなってきて、敷波は半ば逃げるように綾波から離れた。
「エプロンが素敵なのは分かった! 分かったから!」
「ええー……」
なおも不満そうな綾波。やっぱり今日の綾波ちょっと変だ。これはもう早々に仕事を始めた方が良い。そうなれば綾波も少しは落ち着くだろう。
「と、とにかくもう時間だし私は先に準備してるから」
「あ、敷波ちゃん! 髪がちょっと乱れてるから直してからの方が……」
半ば早足で調理場への道までの角を曲がり最短ルートで扉へと向かう。
途中後ろから綾波の焦ったような声が聞こえてきたが、その手には喰うもんかとずんずんと歩は緩めない。大体多少髪が乱れていたところで誰に見られる訳でもない。こんな早朝に食堂に来る人なんてほとんどいないし、大丈夫何も問題はない。
などと自分で自分の思考を纏め切れないまま、敷波は調理場への引き戸に手を掛け、思いっきり引いた。
一拍遅れて調理場を包む暖かい空気に触れ、ふと人の気配を感じる。もう誰かいるのかなと顔を上げた視線の先で先に来ていたであろう人物とぱっちり目が合い――
――そこで敷波の思考が止まった。
「む、早いな。おはよう敷波」
「お、おひゃ!」
ようとは口から出てくれなかった。
目の前の人物は敷波の反応に違和感を感じたのか、不思議そうに(と言っても表情に然程変化はないが)小さく首を傾げた。
「どうかしたか?」
「お……お……おおは」
予想外すぎる展開に敷波の脳がおはようすら認識してくれない。なんで、なんでこんなところに司令官がいるのさっ! しかも普段は絶対見れないエプ、エプロン姿でっ! うわ、うわあ黒一色の飾り気のないエプロン姿だけど凄い似合ってるし写真とってもらえるかなって違ううわわわどうしよう!
とそこで敷波は司令官の視線が自分のある一部分に注がれている事に気が付いてしまう。
――確か数十秒前、綾波は自分になんと言った?
「…………」
ギギギと、まるで壊れたロボットの様な動きで敷波はステンレス製の台に映った自分の顔を見た。正確に言うと、ぼっさぼさにあっちこっち跳ねた無造作ヘアーもいいとこの自分の髪を。
女子力、差分マイナスである。
「ち、ちがっ! これは……ちがっ」
「ふむ。普段しっかりしている敷波の意外な一面が見れるとは、新鮮だな」
「かはっ!」
敷波大破。否、司令官に笑われてしまった。
勿論意味合い的には微笑ましい程度の物であり、司令官的にはむしろ敷波に対する親しみが増加したわけではあるが、動機がバンブービートしてはち切れそうな今の敷波が気づけるはずもなく。
「…………」
「えへ、ごめんね敷波ちゃん。サプライズになるかなと思って」
耳元からは遅れてやってきたてへぺろ姿の綾波の悪戯がばれた子供のような謝罪が聞こえていた。てへぺろっじゃないよもう!
「というわけで、今日は私たち三人で食堂を切り盛りするために集まってもらったんだが」
あの後、なんとか落ち着いた敷波は綾波と共に司令官から改めて今日の仕事に関する説明を受けていた。綾波には今度スイーツバイキングの埋め合わせをするという事で先ほどの横暴を許してあげた。敷波さんは心が広いのである。
「ん、大体分かった」
「私たちは司令官のお手伝いさんですね! 頑張ります!」
「ああ、よろしく頼む」
司令官に頼られてすこぶる上機嫌の綾波。こうやって見るとなるほどこれまでの綾波の全ての行動に合点がいく。ともすれば司令官と一日を共に過ごせるのだ。多少浮かれても仕方がない。まあアタシは別にそんなでもないけど……別に。
「ところでさ、司令官って料理得意なの?」
「得意というほどでもないな。昔は自炊していたが凝ったものは作れない。だから皆には悪いが今日だけは私の可能な範囲のメニューで我慢してもらうしかないな」
目の前に並べられた簡易メニュー表には十種類に満たない程度の料理名が書かれている。炒飯やオムライスなど比較的簡単に作れるものが大半だが、一日程度ならば十分なレパートリーだ。それに今日は結構な数の艦娘が間宮達同様本営に出向いているため、食堂を利用する者も比較的少ない。
「でもさ、だったらなんで司令官が休日返上してまで来てくれたのさ? 今日は人数も少ないし、予算的にも外部から何か頼んでも良かったんじゃないの?」
「ああ、確かに……」
それでも良いと初めは思ったんだが、と司令官は何処か気恥ずかしそうに後ろ髪を掻いた。その様子を頻りに破顔したまま写真に収めている綾波はこの際置いておくとして。いつも落ち着いている司令官にしては珍しい表情だ。ちょっと気になるかも。
少しして、司令官は呟くように、でもはっきりと聞こえる声で問いの答えを口にした。
「毎日時間と手間を掛けて食事を作ってくれる人達がいて、その人達が不在になった途端、外部で簡単に済ませてしまうのは何か彼女たちに失礼な気がしてな」
考えすぎかもしれんがと苦笑する司令官の姿はなんというかこう、胸の奥をくすぐられる様な感覚がした。こうやって見ると司令官も出会った頃とはだいぶ変わったような気がする。優しいのは昔からだけど、前より笑ってくれるようになったのは凄く嬉しい。
「司令官って変わってるね」
「むう……やっぱり変か?」
「ううん、アタシは凄く良いと思う。司令官のそういうところ……嫌いじゃない」
す、と喉元まで出かけてなんとか飲み込んだ。意味合い的には言っても別に良かったかもしれないけど……いつも綾波に素直じゃないと言われるのは多分こういうところなんだろう。……だってなんか恥ずかしいし。
「司令官! 綾波もこれからもっと頑張ります!」
「ああ、期待している」
「や~りま~した~!」
出た! 司令官の必殺駆逐艦殺しなでなで! これに掛かった駆逐艦は否応なしに骨抜きにされるという一部素直になれない界隈では非常に恐れられている技だ! きっと手から何か出てる、癒しのオーラとか何か。
なお軽巡以上の艦娘には司令官が特にスキンシップを控えようとするため、しばしば駆逐艦とお姉さま方との間に自慢と嫉妬渦巻く低次元な争いが勃発しているのだが、勿論司令官は知らない。
「敷波にも期待してるぞ」
「はっ!? あ、アタシは別に……頑張るけど」
不意に頭にポンと手を置かれ、一気に体温が上昇するのを自覚する。凄く顔が熱い。きっと今アタシは耳まで赤くなっているに違いない。不意打ちとは卑怯なり。
隣では綾波がすっごい腹立つ顔でにやにやしながら写真を撮っていた。後であのカメラ窓から捨てよう。
「それじゃそろそろ下ごしらえに入るとしよう」
「はーい!」
「ん、分かった」
司令官の言葉に合わせて綾波と同時に席を立つ。一度深呼吸をして乱れた動機を落ち着かせる。補助と言っても軽い気持ちで臨んでは思わぬ事故につながる可能性がある。
司令官の迷惑にならないためにも集中して仕事に取り組まないと。
「それはそうと敷波ちゃん」
「ん、なに?」
と、そこで隣の綾波がふいに耳打ちしてきたので、耳を傾ける。
そんな綾波は実に楽しそうな表情で、
「司令官の好きな色、海と同じ青だって。良かったね敷波ちゃん」
「な、ななな」
それだけを告げて、食材の保管してある冷蔵庫へと向かっていく。
おかげで落ち着くまでに更に三十分掛かり、更に更にギクシャクした動きの敷波に勘違いした司令官とひと悶着も加えて、結局敷波が集中できたのは調理開始して一時間が経過したころだった。
……同時に敷波の中で綾波のスイーツバイキング奢りの日程が密かに二日に増えた事はまだ誰も知らない。