「……これはまた凄いな」
「す、すいません。まさかこんな事になるなんて思わなくて」
花火の後片付けを終えて、砂浜から戻ってきた提督は本日の宿である部屋の扉を開け、部屋に充満する甘い香りに思わず言葉を漏らした。隣では水を買いに出ていた伊良湖が買い物袋片手に、頻りに頭を下げている。
度の強い焼酎でも開けているのか、絶賛甘い香りの漂う不穏な室内。しかし、ここで足踏みしていても仕方ない、と一歩足を踏み入れた瞬間、弾かれたように飛び出してきた人影に提督は成す術も無く押し倒された。
「……ッ!」
「て、提督!」
後方で伊良湖が小さな悲鳴を上げつつも、助け起こそうと必死に手を伸ばしてくれているのが分かる。
しかし今はそれどころではない。
焼酎らしき芋の香りと混ざって、全身を襲う女性特有の甘い香り。加えて至る所を圧迫する柔らかい感触に全身から警報が鳴り響く。これはいけない、この状況は非常に不味い。
兎に角、落ち着かせなければ。
耳を擽る衣擦れの音を理性で押し留めながら、提督は断片的に集めた情報を下に相手の名を呼んだ。
「き、君は……間宮君か?」
「んふふ、流石提督ですね~。そうです、あなたの間宮ですよ~」
「……よ、酔っているのか」
もぞもぞと胸の上で動かされた先でもぞりと出てきた締まりのない表情の間宮。普段の知的で気さくなお姉さん的雰囲気は完全に鳴りを潜め、代わりにセクハラ給糧艦が顔を出している。
”酔っていませんよ”と当人は言っているが、頬を朱色に染め呂律も回っておらず、とろんと微睡んだ瞳で妖艶に提督の鍛えた腹筋を弄っている姿を見て誰が信じるだろうか。
一つ二つと提督の割れた腹筋を嬉しそうに指で数える残念な先輩を前に羨ましいやら恥ずかしいやら、伊良湖は羞恥のあまりその場から逃げたくなったが、ここで提督を見捨てる事は出来ないと下腹にぐっと力を入れて踏み止まる。実に健気な後輩である。
このままでは提督の格納庫にまで魔の手が伸びるやもしれぬ緊急事態に、鎮守府の良心である伊良湖の懸命な助けもあって、提督はなんとか九死に一生を得るかの如く抜け出すことに成功した。
「んもう、伊良湖ちゃんのいけず」
「いいですから早く着崩れた浴衣を直して下さい! 提督にご迷惑ですよ!」
「あらあら? 伊良湖ちゃん、もしかしてジェラシー?」
「……しょ、しょんなわけにゃいじゃないですか! とりあえず間宮さんは顔でも洗ってきて下さい!」
何処か言葉選びが古い間宮の稚気に、伊良湖が焦りながらも水を差し出しながら部屋へ戻るように促す。着任当初は薄幸美人然とした伊良湖が今では実に頼もしい。
立ち上がった提督に礼と共に頭を撫でられ伊良湖は一気に気分が高揚し、次の提督の一言で静かに申し訳なさの底に沈んだ。
「間宮君には申し訳ないが、伊良湖君がいてくれて助かった。酒に酔った女性と上手く話を出来るほど器用ではないが、鳳翔達もいるし、まあ大丈夫だろう」
「あ、いや、その……それが」
何故か歯切れの悪い伊良湖に疑問符を浮かべた提督は、部屋へ続く襖を開け、視界に広がった光景に言葉を失った。
「あ~、提督やっと帰ってきた~」
「んん? おかしいですね。提督が三人に見えます」
「あらあら、うふふ」
酔っ払っていたのは間宮だけではなかった。明石と大淀、そしてあの鳳翔までもが頬を桜色に染めている。流石に部屋中に酒瓶が転がっている惨事と言う訳ではないが、綺麗に並べられた大量の空き瓶が逆に恐ろしい。
「……伊良湖君、やはり私は今日は外で寝た方が」
「逃がしませんよ~」
「さあさあ提督。存分に日頃の鬱憤を私達で晴らしてください」
「晩酌するのは慣れている筈なのに、なんだか緊張してしまいますね」
「両手に花ならぬ全身に花ですね、て・い・と・く」
身の危険を感じた提督の全身を、四人の四肢が纏わりつく様に絡みついていく。普段の理性的な彼女達はどこへやら、抵抗虚しく提督は布団の敷かれた部屋へと引きずり込まれていく。
後ろでは伊良湖がちゃっかりと提督の背中を押していた。
誤解の無いように言っておくが、間宮達は決して羽目を外しすぎた訳ではない。
死屍累々の地獄と化している隼鷹達の部屋とは違い、少量のお酒を、節度ある行動で以て静かに楽しんでいた筈なのだ。提督が帰ってくる前に缶を開けたのも、前以て緩やかな雰囲気を作っておく事で彼のストレスを可能な限り無くす為であり、決して酒に飲まれるような失態を犯すつもりなど無かった。
全ての始まりは一本の酒。
そう――目の前の惨劇は、第三者によってもたらされたのだ。いつの間にか会話に交じり、頬を真っ赤に染めながら一升瓶を煽っている妖精さんの皮を被った悪魔達によって――。
(……原因はアレか)
突然の宴会に引きずり込まれた提督は、部屋の中心に置かれた見覚えのある物体を視界に捉え、一人納得した。
零れないように盆の上に置かれたそれは、場違いとも言えるような強い香りと輝きを放っており、誰に飲ませる気か、現在、鳳翔が酌をしようと手を伸ばしている。
――妖精のたれ。
見覚えがありすぎる銘柄に、提督の脳裏に風呂での一件が鮮明に浮かび上がる。思い返せば、アレを口にしてからの思考に慎重さが欠けている気がしてならないのだ。万が一それがあの酒の強すぎる度数による影響ならば、この場にあるのは色んな意味で不味い。
とにかくあの酒の管理は素面である自分の責務だと、提督は即座に手を伸ばし、
「はいどうぞ、提督」
「う……ぬ、すまんな」
見事に満面の笑みを浮かべる鳳翔に阻まれた。まるでこの時を待っていましたと言わんばかりにお酌したいオーラが表情から滲み出ていて実に眩しく、これを断れる胆力は提督にはなかった。
ちらりと唯一の素面仲間である伊良湖に期待の視線を向けると、彼女は既に水を持ってスタンバイしていた。飲む前ではなく飲んだ後の介抱の準備とはこれまた実に斬新である。
言外に諦めて早く飲めと伝えられ、提督は止む形無しと一気に煽った。
「お味の方は如何ですか」
「ああ、美味いな」
先程と同じ刺激を味わいながら、提督は内心で思った。
――やはり強すぎる、と。
普段あまり飲まない為あまり知られていないが、実の所、提督は酒には滅法強い。
それこそ、その気になれば一晩中飲んでいられる程で、今までも付き合いや宴会等で散々飲まされてはきたが、一度足りと酔い潰れた事はない。
庄治曰く、ザルを超えたワク。そんな提督が塗り杯二、三杯程度でほろ酔いになれる酒を普通の人物が飲んで素面でいられる訳がない。
「流石提督。良い飲みっぷりですね」
「よーし、こっちも負けてられないなー」
「それならコレも開けちゃいましょうか。私は追加のおつまみを作ってきますね」
「あ、あの、皆さんはそれぐらいにしておいた方が」
「何言ってるの伊良湖ちゃん、提督との熱い夜はこれからよ。鳳翔さん私も手伝います」
「なにがはじまるですか?」
「わくわくがとまりません」
だと言うのに本人達にはその気は無く、次から次にカパカパと栓を開けていってしまう。ついで、と言わんばかりに鳳翔と間宮が備え付けの台所へとつまみを作りに行く辺り、まだまだ終わりを迎える様子もない。
提督としては彼女たちが楽しめるのは大いに結構なのだが、身体の限界というのもある。それになんだか嫌な予感もするのだ。明日、他の娘達に会った時に盛大に怒らしてしまいそうな、そんな宛ての無い嫌な予感が。
「伊良湖君は、大丈夫なのか?」
「あ、はい。私はお酒があまり飲めませんので……折角の機会なのにすいません」
問いかけに対し、申し訳さそう眉尻を下げてくる伊良湖に手元にあった飲料を手渡す。アルコールの入っていないオレンジジュース、果汁百パーセントのおまけ付きだ。
「何を謝る事がある。飲める飲めない関係なく楽しめればそれでいい。本来の宴会とはそうあるべき物だ。それに今回ばかりは伊良湖君が素面でいてくれて助かった。正直、私一人でこの場を収めるのは少々……いや、かなり荷が重いのでな」
「あはは、皆さん日頃の疲れも忘れて楽しそうではあるんですけど」
「……日頃の疲れ、か」
伊良湖の呟きに提督はその通りだな、と小さく返した。
現在この場にいる艦娘は少々他の者とは立場が違う。鳳翔と明石は店を、間宮と伊良湖は食堂を、大淀は秘書統括としての仕事をそれぞれが毎日こなしている。仕事そのものに差をつける気など毛頭ないが、他の者とは違った気苦労を掛けているのも事実。気付かぬ内にストレスを溜め込ませてしまっていたのかもしれない。
提督は思い直す。
ならばこの場は一つ、彼女達のストレス発散のための良い機会になり得るのではないだろうか、と。多少無茶があったとしても、提督である自分が判断を誤らなければ済む話で、決して酔わない自信はある。
先程のような過度なスキンシップもあるかもしれないが、それはまあ、ある程度理性で以て彼女達が不快にならないように注意する必要があるだろうが。
などと、日頃の感謝の意を伝えるためにも提督は静かに缶を手に取り、伊良湖へと向けた。
「……提督?」
「まあ、今日くらいは多少羽目を外しても罰はあたらないだろう」
「……はい!」
カチンとお互いの缶を鳴らし、提督は一度に半分以上の量を嚥下する。既にそれなりのアルコールを摂取しているであろう大淀達だ、残りはできる限り自分自身で消化していきたい。
提督のそんな隠れた配慮とも言える行動をテンションが上がってきたと勘違いしたのか、浴衣をだらしなく着崩した明石が布団を転がりながら這い寄ってくる。
「提督ぅ、さっきから見てれば何やら伊良湖ちゃんと楽しげですねぇ。そろそろ私に構ってくれてもいいのよ? キラキラ!」
「むう、顔が真っ赤だぞ明石。少し飲む量を控えた方がいいのではないか」
耳から首筋にかけて、明石は既に真っ赤だった。緩んだ帯のせいで所々直視できない姿に困惑する提督に構う事なくずるずると近付いていく。
「それじゃあ提督に介抱してもらおうっと。よいしょ」
「あ、明石? なぜ私の懐に潜り込んで来るのだ?」
「それで両手をこうして、微調整完了っと。ああ~提督に包まれてる感じがして癒される~」
そのまま提督の胡坐にするりと入り込みつつ、勝手に鍛えられた両腕を自分の肩越しから前にもってきて満足そうに破顔させる明石。普段から割と茶目っ気たっぷりの明石ではあるが、ここまで大胆な行動にでるのも珍しい。
酒を吞むと幼くなるというこの第二次蒼龍現象、正直提督は苦手である。が、先程の決意の手前、それとなく離れてもらう事もできず視線を彷徨わせる。
「いつも暁ちゃん達が遠征帰りに提督のハグについて嬉しそうに話し合ってるから何かと思ったら、こんな癒し成分があったんですね~。これは癖になっちゃうかも」
「……人をマッサージ機のように言うのはどうかと思うが」
「ほらほらもっとぎゅっとして下さいな。でないと次の遠征部隊のメンバーに私も立候補しちゃいますよ? チラチラ」
「……降参だ」
酔いとはかくも人格を変えてしまうものなのか、暴君明石による強制ナデナデの刑を沈痛な面持ちで実行する提督。相変わらずの押しの弱さであった。
まるで離れる様子のない明石にどうしたものかと頭を捻る提督に近づいてくる人影が一つ。
「明石、あなた少し理性を放り投げすぎですよ。提督もお困りのようです。離れなさい」
「……大淀」
救世主大淀の登場である。
執務補佐に関して並ぶ者はいないとされる程の敏腕と、規則を破る者は戦艦相手でも容赦しない真面目気質を持っている彼女の登場に、提督の表情も安堵の色に変わる。
明石と仲が良く頭の良い大淀の事だ、明石を傷付ける事なく言葉を選んで諭してくれる事だろう。
ふさふさとした明石の揉み上げを無意識に触りながら、提督は黙って大淀と明石のやりとりを見守る事にした。
「いいじゃない大淀のケチ眼鏡。日夜油と煤に塗れて働いてる私には提督成分の補給が必要なんです」
「いいえ、許しません。事前に定めた提督へのおさわりの規定を早速破ったあなたの罪は重いですよ」
「……何の規定だそれは」
急に飛び出した不穏なワードに思わず横槍を入れてしまう。真実を求めて隣の伊良湖に視線を移すも、慌てて顔を背けられてしまう辺り答えは永久に謎のままだろうが。
若干場の流れに乱れを感じつつ、提督はなおも二人のやりとりを静かに見守り続ける。
「仕方ないなあ。じゃあ大淀と代わってあげるから許してよ」
「いいでしょう。あなたの英断に免じて今回は不問にします」
「何故そうなる?」
提督の冴え渡る突っ込みも無視して、明石と入れ替わるように大淀が一言”失礼します”と腰を下ろしてくる。
明石とはまた違ったほのかに甘い香りと、風呂上りの艶やかなうなじから発せられる妙な空気。かつて見目麗しい女性を前に、ここまで苦渋の表情を見せた男はいただろうか。流石の提督も限界が近い。
とすん、と身体を預けてくる大淀を支える提督は触れた部分に少しばかりの熱を感じ、眉を顰めて問う。
「大丈夫か? 身体がかなり熱いぞ大淀」
「夏ですからね。それよりもう少しこう強く包み込むような感じでお願いします」
「いや、そういう意味ではないのだが……」
「なによなによ! 大淀だって結局一緒じゃないの! このムッツリ眼鏡!」
表情や身体に出ていなかったのは体質なだけであって、やはり大淀も酔っていた。口調こそは普段の大淀と大差ないが、言っている事は先程の明石と変わらない。
後ろで明石が何やら喚いているが、振り向けないため相手のしようがない。
「大体ですね、提督は少し私達と距離を置きすぎなのですよ。最近は駆逐艦の子達にこそスキンシップをとられるようになってきましたが、艦隊士気向上の側面からももう少し軽巡以上の子達とも触れ合うべきです。提督がそういった事に苦手意識を持っている事は重々承知ですが、真面目であまり積極的になれない子達のためにもこう男らしさを見せつける勢いで……あ、手はそのまま握ったままでお願いします」
「ちゅうもんのおおいりょうりてんですか?」
「しかもあいだによくぼうをはさむのをわすれてないです」
「さすがめがね」
大淀の指摘に身に覚えがあるのか項垂れる提督の頭の上で楽しそうに会話する妖精さん御一行。大福のように白かった肌は酒に酔ってか、綺麗な桜饅頭のように色付いており、言動もかなり怪しげだ。
まさか執務補佐や出撃以外の面でもここまで大淀に心労を掛けていた事に立つ瀬の無い提督は、時折挟まれる素の要望に律儀に応える以外できる事はない。
そのまま一通り提督を堪能した大淀は何処かツヤツヤした表情で満足そうに伸びを一つ。
「ん~、エネルギー充電完了です。さあ次は伊良湖ちゃんの番ですね。どうぞ」
「え!? いや私は別に……その」
あろう事か次を呼んだ。この眼鏡を掛けた艦娘、提督を心労で殺す勢いである。
「あらあら、何だか楽しそうですね」
「いいじゃないの伊良湖ちゃん。折角の機会なんだし、思いっきり甘えちゃいなさいな」
「……そ、そんな事言われても」
まるで伊良湖の逡巡を後押しするかのように、盆に置かれた十種以上のつまみを手に二人が戻ってくる。そんな二人を待ってましたと言わんばかりに涎を垂らし始める妖精さん一同。極小サイズのお猪口片手につまみを凝視する姿は実にオッサンであった。
「んふふ~、伊良湖ちゃんが行かないなら代わりに私が」
「! て、提督! し、失礼します!」
「お……おおう」
間宮の言葉に何を焦ったのか、伊良湖は半ば抱きつく様に提督の胸へと飛び込んだ。しかしそこは流石武術に精通している提督か、怪我させないように且つ変な所を触らない様極力最小限のタッチで伊良湖を見事に胡坐の上に座らせる。
小柄な伊良湖の体型も相まってか、その光景は仲睦まじい兄弟のようにも、年の離れた初々しいカップルのようにも見えて実に微笑ましい。出会い頭のセクハラ先輩とはまさに雲泥の違いである。
「どうかな伊良湖ちゃん。なんだか安心感、ない?」
「……はい、とても。それになんだか……凄く落ち着きます」
「それは良かった……にしてもこうやって座ってるところを見るとよく分かるけど――伊良湖ちゃんって着やせするタイプだったんだね」
「…あ、明石さん?」
身体の一部を明石に凝視されて思わず提督の両手ごと、ぎゅっと胸の内に収めてしまう伊良湖。その背後で何やら間抜けな声が吐露している事に誰も気づいていない。
伊良湖が力を込めるせいで中々手の位置をずらせず、場所が場所なだけに無理やり外す事もできない。なおも断続的に迫り来るマシュマロのような柔らかい感触に、提督は内心で血の涙を流しつつ耐え続けた。不意に訪れたある意味幸福な出来事に、しかし罪悪感が優先される辺り、提督らしいと言えばらしかった。
なおもピンク色のガールズトークは続く。
「そうなんですよ。伊良湖ちゃん、脱いだら意外と凄いんですから」
「あうう……」
「あらあら。でもそれも素敵な魅力だと思いますよ」
「……くっ!」
鳳翔の気遣いに気が軽くなる伊良湖と、何故か悔しそうに呻く大淀。彼女が向ける伊良湖の胸部装甲への視線は最早深海棲艦を見るそれと変わりない。彼女自身そこまで悲観するものでもない気はするが、ここは触れない事が最善だろう。触らぬ神に祟り無しである。
「あ、ありがとうございました、提督。おかげで明日からもしっかり頑張れそうです」
「それは……何よりだ」
代わりに精根尽き果てたと言わんばかりの表情の提督に鳳翔から水が手渡され、一気に飲み下す。酒と度重なる動揺で乾ききった身体に染み渡り、無味な筈なのに正直かなり美味しいと感じた。
ついでにおつまみでも如何ですか、と勧められ、箸を手にしようとした提督よりも先に何故か鳳翔がそれを手に取り、
「はいどうぞ。提督」
「ほ、鳳翔、別にそこまでしてもらわずとも自分で……」
「どうぞ」
にこにこと鳳翔ならではの慈愛の微笑みでもって差し出されるつまみ。俗に言う”あーん”である。
笑顔であるのに有無を言わさぬ迫力を醸し出す鳳翔の前に成す術無く、口を開けて提督は差し出されるつまみを待った。
「お味はどうですか?」
「……美味い」
「それは良かったです。お次はこちらをどうぞ」
「う、うむ」
まさか全てを食べるまで終わらないつもりなのか、と戦慄する提督を余所に鳳翔はどこか楽しそうにつまみを取り分けていく。心の底からリラックスできているのか、普段の遠慮がちな微笑はどこにも見えない。
遠慮しすぎですよ、と言外に伝えられた気がして提督は一人苦笑する。
――これを機に、もう少し自然体で触れ合えるようにならなければいけないな。
布団の上に置かれた提督の右手に、鳳翔の手が優しく添えられる。そこに四人と妖精さんが加わって、気が付けば小さな輪ができる。
明日からはまた戦いの日々が帰ってくる。だがそれもこの輪よりも大きい皆との輪があれば、きっと乗り越えていける。
「明日からも、また皆の事宜しくお願いしますね、提督」
「ああ」
鳳翔の言葉に、提督は呟くように返事を返す。
開け放たれた窓からは、微かに波の音が響いていた。
余談ではあるが、次の日の帰りのバス内で四人は激しい二日酔いに苛まれ、不審に思った周囲の仲間から嵐のような質問攻めを受ける事になるのだが、内容については決して口を割らなかった事をここに記しておく。
ちなみに提督だけ一人涼しい顔をしていたのは、お察しの通りである。
これにて夏の慰安旅行編終了です。
なんだかかなり間延びした形になってしまいましたが、とりあえず一区切りです。
次話からはまた暫く艦娘一人(もしくは数人)がメインの話となります。
では。