「……う……ぬ」
じっとりと滲む汗が背中に広がり、奇妙な浮遊感が身体全体を襲う。心なしか、視界がぼやけているような気さえする。
集中しなければ。頭を振って気持ちの切り替えを図るが、どうにも上手くいかない。
「むう……私は駄目だな」
普段は彼女たちに体調管理をしっかりと行うように指示しているというのに、自分がこの体たらくでは何の説得力もない。
頬を流れる汗を拭きながらそんな自嘲に自己嫌悪しながら、本日三本目となる栄養ドリンクを飲む。
なぜこんな状況になってしまったかにはいくつか理由があるが、それも言い訳にしかならない。
「それよりも工廠が爆発とは……怪我人がでなかったのが幸いか」
五日前、我が鎮守府の隣に当たる鎮守府で爆発事故が起きた。
幸いにも怪我人はいなかったそうだが、その鎮守府の機能が回復するには最低でも一週間は必要だという判断が大本営から下された。
一週間と聞けば短いと感じるかもしれないが、その間その海域をほったらかしにするわけにもいかず、結果として我が鎮守府がその期間そこの海域を請け負うこととなった。
簡単に言えば執務や艦隊指揮、その他の仕事が全て二倍に増えた、ということだ。
「……大本営の命とは言え、彼女たちには無理をさせているな」
守護する海域が増えたことで当然出撃や遠征、索敵に周る彼女たちの任務量も跳ね上がった。それに加え、壊れた鎮守府機能の早期回復のため妖精君たちを派遣していることで人手が足らず、どこもてんやわんやの大騒ぎだ。
当然、秘書艦にあたる子も出撃に向かわせているため、現在執務室には自分一人である。
「五日程度で……本当に情けない」
鎮守府爆破事件から今日は五日目。その間睡眠はほぼ取っておらずまともな食事すら口にしていない。が、身体を張って傷付きながら、それでもなお海の平和のために全力で戦っている彼女たちに比べて自分はどうだ。
ただ指示を出し艦隊運営を考え、部屋に籠って書類整理しているだけでダウンとは、情けなくて泣けてくる。
「む……いかん。気が弱っている。顔でも洗って気合を入れなおすとしよう」
バチっと頬を叩き、ひよっている心を奮い立たせるため洗面所へと向かい――
「……む……う」
――その途中で目の前が闇に染まった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「て、提督が倒れた!?」
「鈴谷さん、声が大きいぞ」
「あ……ごめん」
南西諸島への遠征帰還後、次の出撃の時間までに食事をしておこうと間宮食堂でカレーを食べていた鈴谷は長月の知らせに心臓が止まりそうな衝撃を受けた。おかげで寿命が三年は縮んだような気がする。
「え、でもでも大丈夫なの!?」
「少し落ち着きなさい鈴谷。提督が倒れられた理由は連日の激務による過労よ。命に別状はないわ」
「せや。提督が心配なのは分かるけど、そんなに動揺してたら次の出撃で怪我するで」
心なしか前のめりになって長月を問い詰めるような口調になっていた鈴谷に、同じく出撃後の加賀と龍驤がお昼を手に注意を促す。
加賀の盆の上が龍驤の五倍ほどの高さになっているが、既に見慣れている鈴谷にとってはいつもの光景なので特に何も言わない。
「む? だが先程提督の知らせが届いたとき加賀さんかなり動揺して海面に思いっきり艦載機を突っ込ませていたような」
「……」
「……それはきっと私の姿をした龍驤ね」
「なあ、ナチュラルに人のせいにするのやめてくれへん?」
「あなただって動揺して着艦に失敗して、盛大に濡れ鼠になっていたのではなくて?」
「そ、それなら長月やって焦っておしぼりやのうて運んできたドラム缶持っていこうとしてたやん!」
「な……なにをでたらめな!」
目の前で急に暴露大会を始めてしまった三人に若干呆れながら、鈴谷は一先ずほっと息を吐く。どうやら重症というわけではないようだ。それでもやはり心配なのには変わりないが。
「提督ずっと鈴谷たちの指揮をとってくれてたもんね。それに執務も一人であの量をこなしてたんでしょ? 頑張りすぎっしょホント」
「それなのになんで少し嬉しそうなんですか」
「まあ気持ちは分からんでもないけどな」
「それでも五日ほぼ徹夜はやりすぎだ。今は無理にでも休んでもらわねば」
実際のところ鈴谷ら自身、提督の指示のおかげで非常に効率よく海域を周回することができており、見た目ほど疲れも溜まっておらず、人数も揃っているせいかそれなりに休憩の時間もあった。
丁度次の出撃まで時間がある。
壁にかけてある時計で時間を確認し、鈴谷はよしと席を立つ。
「鈴谷ちょっち提督のところ行ってくる」
「待ちなさい鈴谷」
意気揚々と出ていこうとしたところ、出鼻を挫かれた鈴谷はがくっと体制を崩しながら加賀の方を見る。
当の加賀は身体全体から抜け駆けは許しませんというオーラを放ちながら鈴谷に視線で牽制を送っている。
その混乱に乗じてすっとどこかに行こうとした龍驤の肩を長月ががしっと掴み、無言でにっこりと笑いかけている。その表情は『行かせないぞ』という長月の心の内を伝えるには十分な迫力を醸し出していた。
「鈴谷、あなた提督の看病に行くつもりのようだけど、ちゃんとできるのかしら」
「す、鈴谷を舐め過ぎじゃん? おしぼりとか提督の汗とか拭いてあげればいいっしょ?」
「そしてあわよくば提督の寝ている隙に唇を……ですか?」
「そうそう折角のチャンスだし……って違うっつーの!」
「やはりそう。そんな邪な思考の娘を提督の傍に行かせるわけにはいきません」
羞恥と怒りと焦りが綯交ぜになったような表情で唸る鈴谷を見ながら、加賀は『私が行きます』と静かに席を立った。なぜか腰の帯を緩め、若干胸を強調させながら。
「なんや加賀さん、やけに自身満々やな。何か提督を癒す方法でも知ってんのかいな」
「ええ……疲れには人肌が一番だと聞きました」
「司令官が危ない。すぐに憲兵を呼ぼう」
「……冗談です」
「今の間はなんやねん」
明らかに更なる問題を起こしそうな雰囲気の加賀を止めつつ、龍驤がふっと笑う。
まるでここはウチの出番やなと言いたげな顔で、自分の胸に手を当てる。
「ここは安心感を与えることに定評のあるウチの出番やろ」
「……安心感?」
「鈴谷お前どこ見て言うとんねんコラ」
女性としては少し控えめな龍驤の身体の一部分を注視しながら、鈴谷は首をかしげる。
アレで安心感を与えられるのなら、鈴谷だって超余裕なのではないか、と。
「長月はすぐに出撃だったっけ?」
「ああ、羨まし……司令官が心配だがこればかりは仕方ない」
「そうですね。今は提督の回復を祈るのが最優先です。看病は手が空いたものが真面目にすることにしましょう」
「せやな」
流石に悪ふざけがすぎたと感じたのか、急に真面目な顔に戻りながら今後のプランを四人は立てていく。
だが、彼女たちは気付いていなかった。
同じ場所に、始めから聞き耳をビンビンに立てていた少女達が大勢いたことを。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ぬ……」
鈍い節々の痛みに、反応のなかった身体の感覚が徐々に戻ってくる。薄暗い意識の底から、途切れつつあった記憶を縫い合わせ、現状の自己分析を開始する。
(そうか、私は倒れてしまったのだな)
長いこと暗闇にいた視界が光に照らされて照準を失い、またも視界全体がぼやける。
その視界に光が戻るその少し前に、優しげな、それでいて心配を込めたような言葉が頭上から降ってくる。
「提督、お気分はどうですか?」
「……榛名か」
「はい」
完全に光の戻ってきた視界の先にいたのは、金剛型戦艦三番艦の榛名だった。
普段から優しげな微笑を常に崩さない彼女の表情が今は少し眉尻を下げている。どうやら心配させてしまったようだ。
「すまない、もう大丈夫だ」
「ダメです。まだ熱もあるんですから横になっていて下さい」
「だ、だが私がずっと榛名の膝の上にいては邪魔だろう」
「いえ、榛名は大丈夫です」
「む……う」
感覚が戻ってきてやっと気付いたが、どういうわけか自分は今榛名の膝の上に頭をのせて横になっている状態という、非常に申し訳ない形で会話をしていたようだ。
一体いつからこの状況になっていたかは分からないが、どうしてか榛名がどくことを許してくれないためこのままでの会話となる。
「艦隊指示はどうなっている」
「現在は前線指示は長門さんと金剛お姉さまが、後方指示は大淀さんと霧島が担当しています」
「状況に変化はないか」
「提督の指示のおかげで特に問題はありません」
「被害状況はどうだ」
「小破艦は何名かいますが、他はほぼ無傷で帰投中です。小破艦には各自順に入渠を指示しています」
「遠征部隊に問題はないか」
「皆、提督に指示されたルートを順守して順調に資材を確保しています」
「索敵機に反応はあったか」
「小さな反応が南西諸島で確認されていましたが、現在はありません」
「そうか」
彼女たちの状況を心配したせいか矢継ぎ早になってしまった質問に、榛名は一つ一つ素早く的確に答えを返してくれる。
優しいだけでなく、常に冷静に周囲の状況を読み取り柔軟に行動することができる、それが彼女という存在だ。
「ありがとう榛名。今から私は大本営に伝文を――」
「もう提督! どうしてあなたはそう自分のことを後回しにするのですか!」
「――む……むう」
起き上がろうとする私の頭をぐっと抑えながら、今の言葉にぷくっと頬を膨らませながら榛名は眉を少し上にあげる。普段あまり怒るということをしない榛名だけに軽く面食らってしまった。
「もう少し自身をご自愛ください」
「ああ、心配かけてすまない」
私の言葉に安心したのか、榛名は一言『もう少し身体を休めて下さいね』と言い残し、司令室を出て行った。
その榛名が出て行った扉の隙間から入れ替わるように一人の少女が姿を現す。
「あの、その提督、身体の調子は……どう?」
「天津風か。なんとかこの程度には回復した。心配かけてすまない」
私の言葉に無言でぶんぶんと横に顔をふる天津風の髪を撫でる。
少し頬を桜色に染めながら、嬉しそうに笑う天津風を見て改めて心配して様子を見に来てくれたことに感謝する。
そのまま、どこか戸惑いながら天津風が後ろ手に持っていたものを差し出してくる。
「これは?」
「提督あまり食べてないって聞いたから……そのお粥作ってみたの」
「……そうか」
「あ、あたしあんまり料理とかしたことないから美味しくないかもしれないけど」
「いただこう」
「……あ」
脇に添えられていたれんげで一掬いし、口に運ぶ。
ふわりと梅の香が口一杯に広がり、疲れていた身体が少し軽くなるのを感じる。同時に我慢の限界であった胃が急に活発になり、空腹感が襲ってくる。
「ありがとう天津風。本当に凄く……美味しい」
「ほ、ほんと!?」
「ああ」
「や、やった! 一杯作ったからおかわりもあるわ!」
まるで向日葵の花が咲いたような笑顔を見せる天津風に心が暖かくなりながら、本日一回目のおかわりを所望する。
「待ってて司令官! すぐに持ってくるわ!」
「頼む」
お粥のお椀を抱えたまま嬉しそうに駆けていく天津風を見送りつつ、今日一日の反省と得たものを思い出す。
「私は本当に多くの者に支えられてここに立っているのだな」
今になって改めて実感したことをしっかりと胸に刻む。天津風が帰ってきたら素直な感謝の気持ちを言葉にしよう。そう決心しながら私は、天津風の帰りを待つことにした。