「よし、行くとするか」
前日の内に用意しておいた道具一式を肩に担ぎ、騒がしくならないように注意を払いながら部屋をでる。
時刻はまだ朝の五時だ。他の子たちはまだ寝ている時間だろう。
「今日は快晴になりそうだ」
まだ薄暗い空を窓から見上げながら、誰もいない廊下を歩く。昼間あれだけ騒がしいここも今は静寂に包まれている。普段の喧騒も悪くはないがこれはこれで新鮮でいい。
「あれ? 提督クマ? こんな朝早くから何してるクマ?」
「む? 球磨か」
曲がり角からふらりと出てきた彼女は球磨型軽巡洋艦一番艦の球磨だ。寝起きなのか髪がピョコピョコ跳ねている。着ている服もパジャマで柄はもちろん熊だ。
「おはようクマー。そう言えば提督今日は珍しくお休みだったクマね」
「おはよう。久々に釣りにでも行こうかと思ってな」
自分自身気付いていなかったのだが、今月まともに休みをとっていなかったらしく大本営の元帥から直接『明日休め』という命令をされてしまったため仕方なくこうして趣味に精を出しているというわけだ。
ちなみに基本的に提督が休みの日は鎮守府警備の艦娘以外全員非番となる。
「それ球磨も行っていいクマ?」
「別に構わないが、折角の非番なのに私と一緒でいいのか?」
「提督と一緒で嬉しくないことなんかないクマ。ふっふー、今日の御飯は新鮮な魚が食べられそうだクマ」
どうやら目当ては食欲の方らしい。これも球磨らしいと言えば球磨らしいか。
それに普段は彼女たちとゆっくり会話をできる時間も少ない。この機会に少しでもコミュニケーションがとれるように頑張ろう。
「ふんふん♪ 提督と二人っきりなんてついてるクマ。たまには早起きしてみるもんだクマ」
「何か言ったか?」
「なんでもないクマよー」
なんでもないという言葉とは裏腹に、球磨は鼻歌を歌いながら時折くるりとステップを踏んで実に楽しそうだった。どうやら新鮮な海の幸が相当楽しみらしい。
これは坊主で帰るわけにはいかないなと気合を入れて、球磨の着替えを待ち、ボートが借りられる下町の知り合いの場所へと向かう。
「……提督何か勘違いしてないクマ?」
「ぬ?」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「風が気持ちいいクマー。サンドイッチでも持って来れば良かったクマ」
「新鮮な魚はいいのか?」
「むー、提督は球磨を食いしん坊か何かと勘違いしてないクマ?」
「む? 違うのか?」
「うお"ーっ! 傷付いたクマ! 今、球磨の心は多摩に顔で爪とぎされた時より傷付いたクマ! お詫びになでなでを要求するクマ!」
「うむ……む……これでいいのか」
「あー良いクマーそのまま続けるクマー」
知人に借りたボートの上で、なぜか私は球磨の頭を撫でていた。一瞬自分がこんな沖にまで何をしにきているのか分からなくなるが、たまたま視界に入ってきた釣り道具を見て我に返る。
「そ、そろそろ始めよう。折角時合の時間に合わせてきたんだから有効に使わねば」
「時合ってなんだクマ?」
「有り体に言えば魚の食事の時間だ。そこを逃すとなかなか釣れなくなってしまう」
「提督は物知りだクマ―」
と言っても私自身、知り合いの釣好きに聞いただけの半端な知識だがないよりはマシだろう。
そう思いながら仕掛けのセッティングに集中する。
隣では球磨が物珍しそうにこちらを見ているのが見えた。
「球磨は……普段釣りとかしないのか?」
「木曾がやってるのによくついていくけど釣ってるの見たことないクマ」
「そ、そうか」
それならば次は木曾を誘ってみてもいいかもしれない。あくまで迷惑でなければの話だが。
そんな事を考えているうちに準備が完了した。
「さて、始めるか」
「時間はたっぷりあるし気長に行くクマ」
まだ始まったばかりだが、球磨の言うとおり気長に待つのも悪くない。
直接ボートの床に腰掛けながらぼんやりと思考を動かしていたら、釣竿と身体の間に球磨がするりと身体を入れてきた。端的に言えば、あぐらの上に球磨が座っている、という状況だ。
「つ、釣りにくいのだが」
「安心するクマ。クマも一緒に持っといてやるクマ」
「……頼む」
このままの状態では釣り上げるのが困難なように思えてくるが、にこにこと嬉しそうな球磨の顔を見て、まあいいかと身体の力を抜く。
響といい球磨といい、最近膝の上にのってくる子が増えたような気がする。私の膝の上など気持ちのいいものでもないだろうに。
「あー、幸せだクマー」
「そうだな」
ゆったりと行き来する波の流れにゆっくりと上下するボートの上で、まるでゆりかごのように身体を揺らされながら穏やかな時間を堪能する。
こうして眺めていると、いつも見慣れているはずの海の広大さに改めて気付かされる。
「提督、いつもありがとうクマー」
「ぬ……突然どうした」
「提督は普段なかなか球磨と一緒にいないから、いい機会だし日頃の感謝の気持ちを伝えてみたクマ」
「むむう……」
一緒にいない、という部分に若干の申し訳なさを感じながら、球磨の気持ちに心が温かくなるのを感じる。
これからはもう少し彼女たちと共にいる時間を増やせるように努力しなければ。
「最近の鎮守府での生活はどうだ」
「凄く充実してるクマ。それにここに来てから多摩も木曾も凄く明るくなったクマ」
「それは良かった」
「最近多摩が七色の猫じゃらしを三本も買ってきたから思わず怒ったクマ! 多摩はすぐ無駄遣いするから駄目クマ! 木曾は服のセンスがダサいからお姉ちゃん心配だクマ」
「彼女たちもいい姉を持って幸せだな」
「意外に優秀なクマちゃんって、よく言われるクマ」
「それは私もよく知っている」
「……」
「どうした?」
「……提督の自然な笑顔、初めて見たクマ」
「む……むう」
ぽしゅっと急に頬を桜色に染める球磨を見て心配になる。少し潮風に当たりすぎてしまっただろうか。
目の前で球磨は『……今のは反則だクマ』と何やら呟いていたが、いまいち意図がつかめず誤魔化すように空を見上げるしかなかった。
「普段から笑えていると、思うのだが」
「あれは笑顔とは言わないクマ。ただの苦笑いクマ」
「そ、そうなのか……む?」
本物の笑顔への道のりは遠い。
球磨に駄目出しをされつつそんなことをぼーっと考えていたら、竿が急に引っ張られるのを感じ腕に力を込める。
「か、かかった!」
「ク、クマ!? 本当かクマ!?」
「あ、ああ。この引きは……大物だ」
今までに感じたことのない引きに圧倒されながら、球磨が怪我をしないようにゆっくりと立ち上がる。釣りでは意外と怪我につながる事故が多いため余計に気を配る。
「ク、クマ! 提督頑張るクマ! 球磨は何をしたらいいクマ!?」
「あ、危ないので下がって――」
「それは断るクマ! 球磨の優秀なところ提督に見せるクマ!」
「う……ぬ。ならば私が転ばないように後ろで支えていてはくれないか」
「よ、よしきたクマ!」
「……ぬぬ。別に抱きつく必要はないのだが」
「こうしないと支えにならないクマ♪」
前の引きだけでなく後ろの引きにも困惑させられながら、釣れれば今日のオカズの一品になるであろう目の前の強敵に意識を集中する。
二十分の激闘の末、立派なカツオを釣り上げる頃には自分も球磨も完全に目が覚めていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「結構釣れたクマねー」
「今日は潮の流れが良かったみたいだな」
「これどうするクマ?」
「そうだな。折角だ、鳳翔のところで台所を借りて私がさばこう」
大き目のクーラーボックスの氷の上に並べられた本日の釣果を眺めながら、球磨は瞳を輝かせていた。
折角釣れた魚を無駄にはできないため、鎮守府に帰ってから自分でさばくことにしよう。
「提督の手料理クマ!? 球磨も一緒に食べたいクマ!」
「ああもちろんだとも」
今日のこの釣果は球磨と共に手に入れたものだ。私の拙い腕では満足のいく料理にはならないかもしれないが、素材が新鮮なのでそこまで酷いものにはならないだろう。
「提督。魚見てたらお腹空いてきたクマ」
「そうだな。そろそろ朝ごはんの時間だ、戻るとしよう。ボートを動かす準備をしてくるのですまないが竿を持っていてくれ」
了解だクマ、と敬礼してくるクマに竿を預け、ボートを動かすために船内へと入る。
おそらく普段から綺麗に整備してあるのだろう、古いながら汚れ一つない操縦室のエンジンをかけようとしたその時、船外から球磨の慌てるような大きな声が耳に届いた。
「ク、クマ~!」
「どうした!?」
「て、提督! 竿が勝手に暴れるクマ~!」
見ると、明らかに魚がかかっているであろうしなりを見せながら、昔父に買ってもらってそのまま使い続けている釣竿が球磨を右へ左へと翻弄していた。
慌てて船内から飛び出し、後ろから球磨を抱え込むように釣竿を掴む。
「大丈夫か?」
「焦ったクマー。球磨が魚に釣られている気分を味わったクマ」
「大丈夫そうだな」
額の汗を拭いながらふいーと息を吐く球磨の無事に安堵しつつ、本日最後であろう勝負に力を込める。
「球磨、せーので引くぞ。いけそうか?」
「任せるクマ! 提督と球磨の初めての共同作業クマ!」
未だに煽られたせいか言動がよく分からないことになってしまっている球磨に落ち着くよう指示しながら、釣り上げる一瞬のタイミングを計る。
ふっと魚の抵抗が弱まり、ここしかないというチャンスと同時に球磨に合図を送る。
「今だ! せーの!」
「クマー!」
ざぱあっという水しぶきと共に、キラキラと光り輝く本日二匹目のカツオが水面から顔を出す。同時にぶちっという鈍い音が耳に届き、感覚的に魚と糸を繋ぐ仕掛けが切れたことに自然と気付く。
思わず転びそうになるのを堪えながら、球磨に怪我はないかと視線を移すと――
――そこには逃げたカツオを追って、大海原へ果敢に飛び込む球磨の姿があった。
「うお"ーっ! 逃がすかクマー!」
「く、球磨!?」
あまりの光景に頭がフリーズしかけるが、すぐに気を取り直してボートの端に駆け寄り球磨が飛び込んだあとを注視する。
しばらくして、全身ずぶ濡れになった球磨がぷはあと海から顔を出す。
「流石に無理だったクマ」
「大丈夫か?」
なぜ飛び込む前に気付かなかったのか、というつっこみを飲み込みながら球磨に手を差し伸べる。
その手を握り返しながら、球磨がボートへと戻ってくる。……凄く悔しそうだ。
「とりあえずこれで身体を拭きなさい。風邪を――」
「提督、どうしたクマ?」
気付いてはいけないものに気付いてしまい、すぐに自分の上着を脱いで目の前の球磨に着せる。
当の本人は今だ自分の着ている白い服の状況を理解していないようで、ぽかんとした顔をしている。
もう一度言おう。球磨の今日の上の服の色は『白』だ。
それが海の水にさらされてべったりと肌に張り付いてしまっているのだ。
いきなり上着をかけてきた自分に疑念を抱いたのか、球磨はここで初めて自分の服の状況を把握する。
「……あ」
ぼしゅっという音が聞こえてきそうなほど真っ赤になってしまった球磨は、プルプルと目尻に涙を浮かべながらこちらに顔だけ向けてくる。
正直凄くいたたまれない雰囲気で、なぜか汗が滲み出てくる。
「見た……クマ?」
「……すまない」
この場で見ていないと言えるほど自分は心が強くもなく、素直に謝る以外思い浮かぶ選択肢はなかった。
「クマー!」
「く、球磨! せめて身体だけでも拭いて……むう」
羞恥心に耐えられなくなったのか、球磨は両手で顔を隠しながら船内へと消えて行ってしまった。
ぽつんと残された仕掛けのない釣竿を見ながら、自分のデリカシーのなさに呆れてものも言えず、床を見つめる他にどうしようもなかった。
最終的に、また二人で出かけるという約束を条件に機嫌を直してくれた球磨に感謝しつつ、釣った魚をどう調理するか考えながら来た方向へ戻ることにする。
「まあたまにはこういうのも悪くはない」
球磨には申し訳ないことをしたが、良い気分転換にはなった。帰ったら、非番の子たちと話をするのもいいかもしれないな。
昔の自分では決して考えなかったであろう自分の思考に少し驚きながら空を見上げる。
今日も空は晴天だ。
球磨は普段はあんなんでも、根は乙女だと信じてやみません。