あの日の奇跡と東風谷早苗について   作:ヨウユ

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東風谷早苗について 2

“ゆーたーかー”

 

 懐かしい声だ。その呼ばれ方は今思い返してみると、少しくすぐったい。

 

“なにい? さなえちゃん”

 

 返事をするかつての幼い自分。これまた懐かしい呼び方だ。

 

“ふふ、よんだだけです”

 

 なんだよそれ。

 

“ねえ、ゆたか”

 

 再度、幼い女の子が俺を呼ぶ。

 

“またよんだだけ?”

 

“ううん、えーと、あのねー、もしさなえがこまってたらどんなときでもたすけてくれる?”

 

 随分唐突だと、当時でさえ思った。

 ただ、そう問われた時の答えはすぐに出た。

 

“たすけるよ! ひーろーみたいにね”

 

 それは、成長したころには忘れてしまっているような子供の口約束だ。

 幼い娘が父に対して、パパのお嫁さんになる、なんて言う言葉に等しいその約束が、未来にどれほどの影響を与えるというのか。

 

“ぜったいですよ”

 

 忘れかけていた約束だったけれど、ヒーローのようにはなれないけれど。

できるなら彼女の助けになりたい。

 

“うん、ぜったい”

 

 現在でもそう思う。

 

 

 ――――遠い日の、なんてことはない些細な会話を思い出した。

 

 

 気づけば、4限の授業を終え、昼休みになっていた。思考を巡らせている内にどうやら眠ってしまっていたらしい。

 あれから、ずっと考えていた。

 俺が何をしたいのか、何をしようとしているのか、その結果どうなるのか。

 過去、現在、未来。記憶をたどり、現状を見て、何をしたらどうなっていくのか。俺が行うこと、俺が陥るであろう状況が、打算によって導かれていく。

 そうして、決心した。

 今日の昼は、親の作った弁当ではなく、学校に来る前にコンビニで適当に見繕った4つのパンだ。腹を完全に満たすには少々物足りないかもしれないが、2つもパンを腹に入れておけば、まあ十分だろう。

 両親に感謝すべきことに、幸い、小遣いに不便したことは無い。

 しかし、問題はどうやってあの魔境に乗り込むかだ。俺はこの学校では、生徒A、生徒B程度の存在でしかない。目立つのは好きではないので、いつもならそれこそが望ましいが、今この時だけは、大層な何者かでありたかった。

 超イケメンだとか、運動部のエースだとか、そういう生徒間で名前が通っているほどの人間であれば、強引にでも入っていけるだろう。だが、残念なことにそう都合良くはいかない。

 むしろ、向かう相手こそがそういったものを持っている、トップカースト連中だ。今から俺がしようとしていることは全クラスで最も力のあるクラスの、人気者に喧嘩を売りに行くようなものである。

 配られたカードで勝負をするしかないとは言うが、これはもはや、ひのきのぼうを手に、村人Aが魔王に挑むが如き暴挙だ。

 だけど、まあ、仕方ないか。

 そう思った。最悪の場合の映像が何度も想像される。それでも、勝負しないと考えを現実にする気には起きなかった。

 なら、と俺は席を立つ。

 さあ、行こう。

 そんな俺の様子に気づいたのか、便所から教室に戻ってきた中田は、少し険しい表情で声をかけてきた。

 

「おい結鷹、どこ行くつもりだ」

 

 それは、質問であって質問でなかった。

 そんなの、決まっている。

 それを察したから、お前はそんな台詞を吐く。

 中田はもう、俺が何をしようとしているのか、大方の見当をつけているんだろう

 その険しい表情には、俺への心配が含まれていることに俺は気づいている。中田丈は良い奴だ。普段はおちゃらけているけど、察しが良くて空気が読める。だから、正直に言った。

 

「東風谷のとこ」

 

 適当にはぐらかされて、はっきりと返されるとは思ってもいなかったのか、中田は唖然としていた。

 目を丸くして驚いている中田に、続けて俺は告げる。

 

「あいつ、俺の友達なんだ」

 

 これからすることは、きっと今後の俺の学校生活に悪影響をもたらすだろう。3組の連中には当然、反感を買うだろうし、下手すればこのクラス内での居場所もなくなるかもしれない。

 そうならないように、できることがあるのであれば、ただ一つ、あの教員のように見ないふりをして放置することだけ。

 でも、それは俺の中ではナシだった。今のあいつを助けないで得られる平穏よりも、あいつを助けることで受ける被害の方がよっぽどマシだと、散々考えを巡らせた結果、気掛かりなことはあったが、そう結論付けた。

 

「知らねーぞー」

 

 俺を説得することは諦めたのか、中田はいつものふざけた様なしゃべり方に戻る。

 

「まあ、そうだわな。俺の都合にお前は巻き込めないし」

 

 そう言って教室の扉を向かおうとして、背中から、

 

「まあ、結果ぼっちになっても、俺くらいは話し相手になってやんよ」

 

 そんな優しい一言がかけられた。

 

「さんきゅーな」

「いいってことよ」

 

 

 

 

 いざ3組に向かわん、と心中で恰好を付けて、教室を出てみたものの、やばい。何がやばいって超怖い。

 視界がなんだかいつもより遠く感じて、自分の足で立っているというのに現実味がない。

 震える足が、前へ進むことを頑なに拒む。立っているだけで足が震えるなんていつ以来だろうか。こんな状態でまともに声は出せるのだろうか。

 たぶん俺、ピアノの発表会とかは仮に技術があっても無理だな。

 そんな見当違いな考えがよぎるものの、何とか足を一歩一歩前へ出す。

 そうして、どうにか3組の教室にたどり着くものの、不幸なことに教室の扉は閉められていた。あんまり目立ちたくなかったが、覚悟を決めなければいけないようだ。

 ここを開けたらもう引くことはできない、引き戸だけに。くだらない。

 そう理解したうえで、教室の扉に手を掛ける。今はちょうど、クラスの全員が仲のいいグループごとに分かれて昼食を摂っているころだろう。扉の向こうから、がやがやとしていて、誰のものとも分からない雑談の声が聞こえてくる。

 本来健全であるそれは、あの光景を見た後ではひどく薄汚いものに思える。

 ドアを開ければ当然、全員の注目は自分に向くだろう。俺の行動を見た3組の奴らは、どんな反応をするだろうか、どんな行動を起こすだろうか。

 いくつもの悪い想像が頭の中を駆け巡る。今更弱腰になってどうすると、首を振ってから、巡る想像を一気に振り払うようにして扉を開ける。たいして重くない筈の引き戸は、緊張のせいか、やたらと重く感じられた。

 これがブラシーボ効果か(違う)。

 

 予想とは違って、扉を開けただけでは全員の注目が俺に集まることは無かった。何人かは扉を開けた来訪者を、何者かと視線を向けたが、俺の姿を視認すると、興味を失ったように自分たちの会話へと戻っていった。

 ついでに言えば、教室内は男子の数が圧倒的に少ない。伊達と思わしき人物もいないことから、クラス内のサッカー部の仲間と大所帯で売店にでも行っているのだろうか。

 居ても居なくてもやることは変わらないが、居ないに越したことはないだろう。人数が少ない分だけ、幾分か気持ちは楽になる。

 教室全体を見渡したあとに、改めて例の席を確認する。横に5列、縦に6列に並んだ机の中央右側、後ろから二列目。

 一限目に見た時には弁当の中身がぶちまけられていた席。そこにはやはり、東風谷早苗が座っていた。

 よく知っているとも。腰のあたりまで伸びた、緑がかった綺麗な髪。幼い時からの彼女の大きな特徴であるそれを、見紛うはずはない。

 会って話すことはなくなっても忘れようがないし、それに、学校にいる限り、東風谷はよく目立った。

 俺の視線の先には当然、東風谷がいる。彼女は、クラスの人間からの悪意から逃れるように縮こまって、机に向かって突っ伏している。

 そんな東風谷の様子を見て、周囲から笑う声がいくつも聞こえた。

 

 自分の記憶にある彼女からは、ずいぶんとかけ離れた姿だ。幼いころの彼女は男子にも負けないほど元気で、太陽のように笑う女の子だった。

 いつだってクラスの大きな輪の中心に居て、楽しそうにみんなと話をしている、そんな女の子だったではないか。

 今と昔のあまりの差に、東風谷をこんな風にした連中に、憤りを覚える。

 心の底に沸いた怒りを力にして、彼女の元へと歩く。

 先ほどまで竦んでいた足は、彼女に向けて一歩を踏み出してしまえば素直に動いてくれた。

 そうして、彼女の横で歩を止める。それに気づいたこのクラスの人間が、こちらに怪訝な視線を向けてきている。なにあいつ、という誰かの声を発端に、教室中がざわめく。昼食時のそれとは違った、粘ついた悪意を含んだ教室のがやがや。これは錯覚や思い込みではないだろう。

 自分から、彼女に向かって歩み寄っていくのは、いつ以来だろうか。

 

 小学生の高学年の頃、一緒によくいることを冷やかされて以降、あえて話しかけないようにし始めたのは俺の方だ。

 東風谷が女子で、異性であると意識をし始めていたのも重なって、同性の友達にそれを馬鹿にされるのは、恥ずかしくて嫌だったから。

 自分から離れていったのに、自分から近づいていくのは、どうにも気が進まないという、くだらないプライド。

 そんなものに意地を張っていたことで、彼女がこうなるまで気づかず放っておいてしまったのかと思うと、自分にも腹が立つ。

 自分と彼女とが今より少しでも昔に近い関係であったなら、こうはならなかったかもしれない、というのは思い上がりにも近い。

 けれども、そう考えずにはいられない。

 心の奥深くで、よくもまあそれらしいことをつらつらと、とその思考を一笑する自分が居る。

 しかし、それは、今は関係ない。

 

「東風谷」

 

 緊張で渇いた喉に唾を通してから、東風谷の名前を呼ぶ。

 少し声が、掠れていたかも。

 それに怯えたのか驚いたのか、東風谷の肩がビクッと跳ねる。その声を悪意がないと感じたのだろうか、俺のものだと判ったのだろうか、名前を呼ばれて無視するのはさらに立場を悪くすると判断したのか、ゆっくりと体を起こす。

 東風谷は俯き気味のまま顔をこちらに向けて、上目づかいで俺のことを視界に捉えると、え、と周りに聞こえないほど小さな声を出して驚いた。

 それと同時に、寝たふり、と馬鹿にした低い声が窓際後ろの方から、ばれてないと思ってんのかな、という女子のものらしき高い声は、廊下側の前方から聞こえてくる。

 自分たちがそうさせているくせに、よく言う。

 

「一緒に飯食おうぜ」

 

 俺の周囲への怒りに対して、口から発せられた声は自分でも驚くほどに穏やかだった。東風谷の驚きは、その声に対してか言葉そのものに対してか、どちらかは分からないが。

 教室は静まり返り、俺と東風谷のやりとりを見ている。いや、見ているというより観察していると言った方が正しいだろうか。

「嫌か?」

 固まっていた東風谷は今度は困惑したような様子で、周りを気にするように視線を泳がせて、最後に俯いて答えた。

「あの、えと……いいえ」

 俯いてしまった彼女の表情を窺い知ることはできないが、耳が少し赤くなっているような気がする。

 さすがにこの場所で堂々と誘うのは東風谷の方が恥ずかしかったか。やってしまった。

 こんなのイジメのネタをひとつ増やすようなものだ。俺の方は覚悟を決めてのことだが、突然にそれを受けた東風谷の方まで気が回っていなかった。

 だが許せ東風谷、俺も怖いし恥ずかしい。

 

「じゃあ、外に出よう」

 

 誘いに了承を得た以上、長居は無用だろう。ここに長く居て損はあっても得することは俺にも東風谷にもない。さっさと出ていくのが吉だろう。

 

「……はい」

 

 そう言って東風谷が頷いたのを確認して胸元に抱えるようにしていた彼女の手を握る。周りが何かを言っている。嘲笑の類だ。そういった声を無視して彼女の手を引いて教室を出る間際、口にするつもりはなかった言葉が出た。

 

「それに、ここは空気が悪い」

 

 これもまた自分でも驚くほどの声だった。暗く、冷たく、敵意の籠った声。その声がどれだけの人に聞こえたのかは分からない。

 俺たちが立ち去った3組の教室が、またざわめき立つのを背後に感じながら、廊下を歩く。3組からはすぐの渡り廊下に出て、近くの階段を上がる。この学校は4階建てで、最上階を三年が使用するので、それより上となると、屋上しかない。

 ちなみに渡り廊下を渡った先には、4組5組のクラスと、普段は使われない特別教室と理科室がある。

 屋上は、通常立ち入りを禁止されてはいるが、特に鍵をかけられているわけでもないので、入ろうと思えばいつでもいける。

 もちろん、教師に見つかればお咎めを受けることになるだろうが。

 階段を上る途中で、されるがまま引かれていた東風谷の手にわずかに力がこもり、彼女が足を止めたことで逆に少し引っ張られる。何事かと振り返ると、東風谷は伏し目がちにこちらを見ながら、口を開いた。

 

「あの、綾崎、くん……」

「あ、悪い」

 

 手をずっと握りっぱなしだったのを忘れていた。言われて急いで手を離す。緊張していたし手汗とかやばかったかもしれない。そりゃ嫌だわな。

 

「いえ、それは全然構わない……、違くて、私、お昼ご飯……」

 

 東風谷は続けて、捨てられた、とは言わなかった。当然だが彼女の手には何もない。触れられたくない話だろう。それに俺の方も実は東風谷の知らないところでそのことを見ていた、とは言いづらい。

 さっきのは手を握ったままだったことへの不満では無かったらしいがどうにも気恥ずかしくなって、俯いたまま歩く東風谷に背を向けて彼女の少し前を歩く。

 

「昼飯くらい俺のやるよ、俺が誘ったんだし」

「……、はい」

 

 その声に、少し安堵の感情があったように聞こえたのは、彼女が微笑んだように感じたのは俺の傲慢だろうか。

 ただ、そうであったらいいなと思う。

 

 

 

 

 

 屋上への扉にたどり着いて、開けると、気圧差のせいか単に屋上の風が強いのか、びゅう、と唸りをあげて風が吹き込んだ。あまりの強さに少し目を細めながら外を見渡す。パッと見た感じだが、幸いにも屋上には誰もいない。

 風よけにもなるよう、隅の方を陣取って床に座り込む。扉の傍で立ちっぱなしの東風谷に向かって手招きする。それに気づいた東風谷は、とてとてと歩いてきて、ちょこんと、俺の左隣に座る。

 膝を抱えるようにして座る彼女に、2つのパンを差し出す。

 

「ありがとうございます」

 

 それを受け取ると、俺が食べ始めるのを確認してから、彼女も袋を開け始める。

 それにしても……。

 東風谷さん、少し……近いです。

 近い、本当に近い。ちょっと左に寄り掛かったら肩ぶつかりますよ、これ。

 シャンプーだか香水だかフェロモンだか分からないが、女の子独特の良い匂いに、大変どぎまぎさせられる。

 何かを話そうとして、何も話せない。パンを口に運びながら、何か話題を作ろうとするも、横目に東風谷の顔を見ると、頭の回転がどうも鈍くなって仕方ない。

 ていうか、視線が吸い寄せられるんですが、掃除機かなんかですかあなたは。

 ままよ、と改めてよく見ると、やはり彼女は他の同級生たちに比べて美人だと感じる。流れるような長い緑の髪。きめ細やかな白い肌。ぱっちりとした目に、澄んだ綺麗な碧い瞳。整った顔。以前はそれなりに告白されることもあったんじゃないだろうか。

 だが、久しぶりに顔を合わせてそんなことを聞くのはどうにも変だと思う。当然、例の件をこちらから聞くのも憚れた。

 

 東風谷も喋ることは無く、お互いに無口なまま昼食を終えてしまった。

 黙っていて気まずいということは不思議となかったが、食べ終わってからも話すことがないのは少し暇だ。かといって、東風谷と今別れるのは不安が残る。

 することもなくしばらく中空を見つめていると、何かを心に決めた様子で、東風谷の方から話しかけてきた。

 

「綾崎くん」

 

 それは彼女からは呼ばれ慣れない呼ばれ方だった。かつては下の名前で呼び合っていたせいか、それはひどく他人行儀に聞こえる。

 

「呼び捨てでいいだろ、知らない仲でもないし」

 

 もっとも、先にそうしたのはこちらなのだが。

 

「では、綾崎は、神様を信じますか」

 

 こちらを下から窺うような東風谷から唐突に飛び出してきたのは、あまりにも衝撃的な発言であった。

 場が凍り付き、すべてが止まったように感じた。しかし、一層と強く吹いた風が、世界は動き続いていることを知らせてくれる。

 不安そうに少し潤わせた瞳でこちらを見つめる顔はあまりにも真剣で、それでいながら今にも泣きだしそうな子供のように見えた。

 風に髪を靡かせながら東風谷は続ける。

 

「私には幼い頃から二柱の神が見えます。その二柱の神様が、神奈子様と諏訪子様の力が最近になって一層衰えているんです! このままでは消えてしまうかもしれません。現代では人々の信仰を得られないから仕方ないんだって……お二人は。でも、私は……だから、信者になってもらえませんかっ!」

 

 最初は落ち着いた様子だったのに、段々と捲し立てるように話す東風谷の様子には鬼気迫るものがあった。

 なるほど、告白されると思ってこんなことを言われたのなら、確かに驚くだろう。昔を知っているからだろうか、でも、だからと言って、俺は他の人が言っていたような嫌悪感を彼女に抱くことはなかった。

 それに、藁にも縋るように、泣きそうな表情で懇願する彼女を足蹴にするような真似は俺にはできない。

 更に言えば、彼女が神様云々を言うこと自体には、自分でも意外なことに、それほど驚いてはいない。

 

「うん、信じるよ。東風谷がそう言うんだったら、俺は信じる」

 

 今度は東風谷が驚く。それでいながらその表情は少し嬉しそうだ。

 

「え? ほ、本当に?」

 

 無理を承知でおねだりしたらそれが罷り通ってしまった時のような、彼女の驚愕。それは当然のものだ。おそらく東風谷は、自分が大勢と違う人間だということに気付いている。  

 自分が普通では考えられない発言をしてしまっていることにも。自分の言葉を受け入れられる人間はそうはいないということを。

 だから、それでも、とあんな表情で語るのだ。

 

「ああ」

 

 所詮、言葉でしかないものだった。証明となる契約書にサインをしたわけでもない、ただの言葉。

 正直なところ東風谷の言うことを信じたいとは思っても信じ切ることはできない。ならばさっきのは、嘘となんら変わらない、ただの延命措置だ。ちくり、と胸を刺すような痛みが走る。 

 それでも、彼女にとってはその言葉こそがなによりも大切であったのだろう。

 

「やっぱり綾崎は良い人です!」

 

 打って変わって、太陽のように笑う東風谷にさっきまでの演技だったのではと思わないでもなかったが、それよりもかつての彼女を彷彿とさせるその笑顔の前では、そんな愚かな考えはすぐに吹き飛んだ。

 なんの確証もとれない言葉だけで満足する東風谷もそうだが、そんな彼女の笑顔一つでどうにでもなれと思う俺も相当おかしい。

 

「なんだそれ。東風谷にとって都合の、良い人ってことか?」

「違います。やっぱり綾崎は意地悪です」

 

 照れくさくて冗談めかして言った言葉に、東風谷は少しむくれてそう言った。

 なんだか昔に戻ったみたいでおかしくなって、お互いに笑っていると、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。

 

「あ、チャイム。じゃあ私、戻りますね」

 

 そう言って、立ち上がって去ろうとする東風谷。

 背中を向けて、屋内に戻ろうとする彼女の後姿はどこか寂しげに見えるのは、俺自身がこの時間が終わってしまうことを惜しんでいるからだろうか。

 

「また明日も誘いに行く」

 

 何か声をかけてやらなくては、と思って、背を向けて歩く東風谷にそう声をかけると、彼女は振り返って花のように綺麗な笑顔で答えた。

 

「はい。待ってます」

 

 そのどこか儚げな笑顔に心を奪われて、しばし我を失う。

 もし、今日東風谷のところへ行って、昼食を一緒に食べようと誘わなかったら、あんなふうに話すことは無かっただろうな。

 今日したことは決して間違いではなかった、とそう思うことにした。

 


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