あの日の奇跡と東風谷早苗について   作:ヨウユ

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柊玲奈

音で、通話が切れたのが分かった。彼は、東風谷早苗に会いに行った。

 彼にとって、彼女の記憶を思い出せたことが、幸か不幸かは分からない。彼にとっては安堵すべきことだとは思う。けれど、それは残酷だ。

 先ほどまで通話に使っていた携帯を、机の上に置く。

代わりに、カップを手に取る。口に含んだ紅茶はとっくに冷めてしまっていた。

 きっと、東風谷早苗は戻って来ない。

 それだけは確信できた。

 私だけが彼女を覚えていた。東風谷早苗が忘れ去られた世界で、私だけが彼女のことを覚えているというのは、おかしな気分だった。

どういった力が働いたのかは分からない。

 しかし、彼女が在籍していたクラスからは、彼女の名や覚えている者どころか、その机すら消えていて、元から彼女なんて存在していないようだった。恐ろしいのは、それが当然のこととして、彼女の居たクラスはまわっていたということ。

間違いなく、東風谷早苗という人物は、あのクラスの中心人物で、学校でも注目を集める生徒だった。それが、ああも違和感なく消え去れ、それを誰もが受け入れている日常に得も言われぬ恐怖を感じた。最も近くに居た彼でさえ、彼女が消えたことに気づかなかった。

ふと、夏休み最後の日の出来事が蘇る。

 東風谷早苗に呼び出され、まず最初に告げられたのは別れの言葉だった。何故、彼にさえ伝えないことを彼女が自分だけには話したのか。その理由は今なら分かる。この彼女の存在を消し去る業、どういう力かは分からないが、化け物の血が混じった私にはその力がギリギリにまで及ばないからだ。

 だから、彼女は私に、彼を頼むなどと、ふざけたことを言ったのだ。

 流石に頭に血が上った。

 自分は決して人に暴力を働いてどうこうしようなんて性質の人間ではない。

 けど、あの時ばかりは本気で手がでかけた。あげた手を振りきれなかったのは、彼女の、今にも泣き出しそうな表情のせいだ。

 私は彼女に感謝をしている、好感も抱いている、わずかに羨望もあると認めざるを得ない。彼女と彼のおかげで、最近はこんな自分も悪くないと思えるようになってきた。

一度引いた線はもう消せない程に自分という人格に滲みついてしまっていたけれど、あの二人の前では、ありのままの自分で居られた。そんな風に思う。

 同じような境遇を生きてきて、あんな風に居られる彼女に、きっとその大きな要素たる彼を持てた彼女に、好感と、羨望を抱いた。

 だからこそ、東風谷早苗が綾崎結鷹に別れを伝えないのは、あんまりだ。彼女が真っ先に別れを伝えるなら、まず、そちらだろう。例え忘れてしまうとしても。 

 彼が彼女のことをどう思っているかなんていうのは、誰が見たって分かる。その逆も然りだが。

 彼がどのような想いで、彼女の傍に居たのか、想像に難くは無い。

 ただ、好ましい、愛おしいという感情で傍に居るには、東風谷早苗という少女は、特別過ぎる。なら、彼が彼女に寄り添おうとするのに、そこに何の苦も無かったはずがない。

 私には得られなかったものを東風谷早苗は両方持っている。

 それは、自分を理解してくれる親の如き存在と、自らを受け入れてくれる他者。そのどちらかさえあれば、私はこんな風にならずにすんだかもしれない、と。

そんなことさえ考えたことがあったのに。

 そのどちらかを選ばなければならないとして、しかし、その選択さえ告げないのは、近くに居ようとした彼に、あまりにも不義理だ。

「私って、こんなに嫌な女だったのかしら」

 過去の経験で、恋愛やら成績やら、いろんなことで人間が僻んだり嫉妬したりするのは理解していた。しかし、自分はいつもされる側だった。勿論、まともな友人関係が構築できていた時代の話だから、最近は他人についてどうこう想うことはそもそも無かったのだが。

そのことで自分は清廉潔白だなんて思い上がっていた訳ではないけれど、この如何ともしがたい胸の痛みは、確かに告げている。

「嫉妬なのね、多分」

 ふと、窓の外に視線をうつす。もう空は天候もあって暗い。いつもは人を安心させる街の灯りも、今日はなんだか弱弱しく見える。窓を閉め切っていても聞こえる風の音で、どれくらい強い風が吹いているのか、何となく分かる。この風の中で、彼は今も彼女の為に奔走しているのだろう。

「頑張って、綾崎くん」

 応援しよう。あの二人を。かつて、自分が最も救いを欲した時期。しかし、そこに手を伸ばしてくれる存在は、血のつながりを持った親ですらいなかった。あの時に、手を差し伸べてくれる存在があったのなら、もしそれが彼であったのなら、そんな奇跡が起きていたら、なんて、考えることがある。そんなモノは起きなかったのだけど。

けれど、もう充分に救われた。命さえ狙われる身になって、その時に、何の報酬も求めずに手を差し伸べてくれたあの二人が居てくれたから。

短い間だけど、久々に孤独を忘れた。

瞼を静かに閉じる。

瞼の裏に、わずか数カ月足らずの想い出が、蘇る。三人で過ごしたあの教室。騒がしいのに和やかな時間、本を読んで静かに過ごした時間、漂う手作り弁当独特の匂い、やたらと接触の多い彼女の清潔な香り、彼との不思議に心地よい会話。昼間に窓辺から差す陽光、夕方の茜色に染まった教室。繰り返しなようで、毎日がちょっとずつ違う日々。

 

 

過ぎてしまえば、ほんのひとときのささやかなものだったけれど――――。

 

 

東風谷早苗は戻って来ない。そしてきっと、綾崎結鷹も。

彼女が起因となって出来たこの関係は、彼女の存在の喪失を持って、その忘却を持って、どんな変化を齎すのだろう。今までは私だけは覚えていた。だから、保てた関係がある。

しかし、じきに、他の人と同様に私も東風谷早苗に関する記憶を失う。

もし、彼女と出会うことで、彼と出会うことで芽生えたこの感情さえも忘れてしまうのなら、それはなんて悲しい事なんだろうか。

おかしいね。

遥か昔に枯らしてしまったものだと思っていたのに。

頬を、熱い何かが伝っている。

 

 ――――わたしは、しあわせだったのだ。

 

 


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