自室のベットに横になりながら、さっきの出来事を思い返す。夢の中の女の子がそのまま成長して現実に出てきたような少女。今まで肌身離さず持っていながら、なぜ大切だったかを忘れていたお守り。そして何より、あの瞬間、唐突に襲ってきたあの子を引き留めなければいけないという感覚。それを感じながら、彼女に声をかけることが出来なかったこと。それが、途轍もない重大なミスを犯してしまったかのように、ずん、と心に重くのしかかる。
心のモヤモヤを払う様に言い訳を独りで呟く。
「だいたい、話しかけたところで何を話すってんだ……」
そうだ。俺は誰彼構わず女子に話しかけるようなナンパ男じゃない。話せる相手も限られているし、顔も知らない相手にきれる話題の手札もない。じゃあ、名前でも聞いて、どっか遊びに行かないとでも言うのか。って、それこそナンパと変わらねえじゃねえか。引き留めなければと感じたのに、引き留める理由が見当たらないのだから、仕方ないじゃないか。ならば、あの場面はどっちにしろああなっていたのではないか。
くそ、なんだよこれ。
何でこんなに落ち着かないんだ。
「あれ?」
何かヒントになるかもしれないと思いつき、ポケットに入れておいたお守りを取りだそうと、ズポンのポケットに手を突っ込む。その時になって気づく。ポケットの中をまさぐると、どうにも、同じ形をしたものが二つある。その内の片方を掴んで出すとついさっき彼女に落としたと言われて手渡されたものだった。俺が本来持っていたものと瓜二つだが、よく見てみたらこちらの方が断然新しい。
何となくかざして眺めていると、いつの間にやら口の部分が緩んでいたのか、するっと、中に入っていたのであろう紙が落ちてしまう。それは小さく小さく折り畳まれていて、本来のお守りの中身のものとは思えない。気になって、折りたたまれたそれを開いていくと、中には文字が書かれていた。
「手紙か? なんでまたこんなのの中に」
よくみれば、それは便箋だった。そして、宛名にはいかにも女の子っぽい文字で、こう書かれていた。
――――綾崎結鷹くんへ。
その文字を視界が正確に捉えた瞬間、ずきり、と頭に痛みが走った。正直、痛みは尋常でない、平時にこんな痛みが起きたら、その日は寝ていようと思うほどだ。それでも、その先が気になった。視線は、その先に綴られた文字を追う、脳はそれを躍起になって止めようとしているのか、更に痛みを強めた。
あなたがこれを読んでいるということは、おそらくあなたは私のことを覚えていません。
名も顔も知らない人間からの手紙ということで、気味が悪いと思ったのなら破って捨ててしまっても構いません。でも、私個人の気持ちとしては、最後まで読んでから破棄することを願っています。
あなたの知らない人間の話ですから、どこか遠い人の話だと思って読んでくれると、幸いです。あと、こんな風にちゃんとした手紙を書くのは、実ははじめてなので、まとまりの無い文章でも許してくださいね。
私がはじめてあなたを見たのは、小学校の一年生の時です。正直、じれったい奴だと思いました。だって、いつも仲の良さそうな人たちの和を見て、入りたそうにしているのに、絶対に話しかけてこないんですもの。だから、最初は、子供心におかしな子だなあ、なんて思ってました。でも、まさかあとになって、その男の子に救われるなんて、当時は思いもよりませんでした。
私はその時、既にある悩みを抱えていました。神様が見えること、自分の髪のこと。私にとってはこの二つとも本当に誇らしくて堪らないことだったのですが、悩みというのは、それを誰に話しても真剣に向き合ってはくれなかったことです。
神様が見えることを両親に話すと、昔の人は見えたのかもなあ、なんてはぐらかされたり、上手な作り話だって笑ったりで、髪の事を友達に話すと、みんなは私の緑の髪のことを綺麗な黒髪だって言うんです。
けど、そんな時、幼い私のほんとにほんとに小さな世界ですけど、その世界でたった一人、あなただけが私の髪の事を言い当てて、好きだって言ってくれたんです。
それが、あの時の私にはたまらなく嬉しかったんですよ。
だから、小学校高学年の時に、クラスが替わって何も話さなくなった時は本当に傷つきました。中学じゃ最後まで同じクラスになれなかったし、たまに目が合っても挨拶すらしないし、おのれ結鷹……なんてこの頃の不満だけで書くスペースが無くなりそうなので、この辺でやめておくことにします。
……私は幻想郷という場所へ行きます。その場所では、なんと遥か昔のように、妖怪や神様が畏れや信仰を得て、活動しているようなのです。ここなら、神奈子様や諏訪子様……私が仕える二柱の神様も消えることなく、存在し続けることが出来るでしょう。
私は、恩人に何も告げずに去っていく薄情者です。どうかどうか、そんな人間に気を囚われずにこの先の人生を歩いてください。
この手紙の入っていたお守りはあなたに差し上げます。きっと、あなたを護ってくれるでしょう。
あなたの幸せを心から願っています。
さようなら。
――――東風谷早苗より。
「こちや、さなえ」
手紙を読み進めるたびに、綴られた文字を追うごとに、記憶が舞い戻る。その名前を言葉に出して呟くと、それは確かなものとして思い出された。
ああ。ああ、そうだ。東風谷だ、東風谷早苗だ。
何で、何で忘れていたんだ。
ムカつく。心底ムカつく。
東風谷に対してじゃない。あいつにも色々言いたいことはあるが、そうじゃない。俺があいつの居ない日常を享受していたことがムカつくのだ。それをただの違和感として見過ごしていた点が、俺は心底ムカつく。
俺は自分がそれなりに温厚だと自負しているが、今回ばかりは腸が煮えくり返る思いだ。
いや、むしろ、全てを忘れても、違和感だけは消えなかったことが、せめてもの救いだったのか。
でなければ、俺は何にも疑問を抱かず、この手紙にさえ気づかなかったかもしれない。
改めて、その小さな手紙に視線を落とす。
本当にふざけた手紙だよ。何がさようならだよ。その下に、ありがとうって一回書いて消してんのが見えてんだよ。ところどころに水滴が落ちて、文字が滲んで読みづらいったらありゃしない。
あなたの幸せを願う? ふざけるな。
散々振り回されてきた俺だったが、今回ばかりは東風谷に一発きついのをかましてやらなければ気が済まない。
だが、その前に。
俺はケータイを手にとって、ある相手に電話をかける。その作業の最中に電話帳を見やると、もはや交流が絶たれたと言っても過言ではない、中学の同級生たちの連絡先や中田のはあるのに、東風谷のだけはどういう手品か消えていた。東風谷とのやりとりを残していたメールボックスも謎の迷惑メールに変わってしまっている。
東風谷早苗の痕跡は、俺の記憶と、今の手紙とお守り、そしておそらく―――。
ぷるる、という電子音がしばらくすると消え、向こうから声が聞こえる。
「もしもし、こんな時間にどうしたの? 綾崎くん」
丁寧な対応ありがたいが、今回は急ぎだ。色々省かせてもらう。
「柊、お前、昼休みの終わりに他クラスの教室を覗いていたよな」
「ええ、それがどうしたの? あれなら何でもないと――――」
「あれは、東風谷を探してたんだな!」
「……ええ。その通りよ……、思い出したのね」
「柊、聞いておきたいことがある」
「何かしら」
「前に東風谷の話をしたとき、柊は、なんて言おうとしたんだ?」
結局、柊は言わないまま、東風谷も来てしまい有耶無耶でその場は終わってしまったが、今、聞いておかねばいけないと、そう思った。
「柊と東風谷が決定的に違えたものってのを、教えてくれ」
「……それは」
わずかに電話の向こうで柊が躊躇するのが分かった。ふう、と深く息を吸ってから、彼女は静かに告げた。
「……それはね、あなたよ。綾崎くん」
「え?」
「ええ、あなたが居たから東風谷さんはきっと、あなたの思うような在り方のままでいられたんだと、私はそう思うわ」
「そんな、そんなはずは無いだろ。じゃあ柊はもし俺が東風谷じゃなくお前の近くに居たら、立場が変わっていたって思うのか?」
「それは分からないけど、東風谷さんにとってのあなたのような存在が居てくれたなら、私はきっと……」
どこか遠い出来事を話すように喋っていた柊はそこでわずかに口篭ったあとに、そんなことはあり得ない、起き得なかったのだと納得するように、いいえ、と呟いた。
そうして、確かな声でこう言った。
「あなたは、あなたが自分で思うほど、小さな存在ではないわ」
それは何というか、俺にとって現実味の無い意味を含む言葉なのに、自分で散々否定しきたことなのに、不思議と心に沁みた。もしかしたら、ずっと誰かにそう言ってもらいたかったのかもしれない。お前は出来る、俺は出来る、なんて薄っぺらい言葉なんだろう。
それでも、そんな言葉を信頼できる誰かに、ずっと言ってほしかったんだ。
「そうか……。いや、そうなのかもしれない。きっと柊が言うならそうなんだろう」
俺は自分に自信なんてない。でも、柊が言うのなら――――。
「ありがとな、ちょっと行ってくる」
そう言って電話を切ろうとした瞬間に、制止の声が向こうから聞こえてきた。
「待って」
こほん、と咳払いをする音。今日の彼女はよく話す前に咳ばらいをする。大体彼女がこれをするときは気恥ずかしい時だ。それだけ本心をもらしてくれているのだとしたら、少しばかり嬉しいではないか。
一拍おいて、らしくもなく、わずかに緊張した小さな声で柊は言った。
「さっきの。私にとってもそうよ」
「え?」
聞こえなかったわけではない。流石に耳を疑っただけだ。わざとらしく、こほん、と声を出してから、早口に柊は言う
「ごめんなさい時間を取らせたわね早く行ってあげなさい」
「あ。そう言えばさ、柊はなんで東風谷のことを覚えてたんだ」
「……妖怪の血の混じってる私にはギリギリまで効力がないかもしれないと、彼女が言っていたわ。ひどい子よ。結鷹をお願いします、なんて言うから、思わず手が出そうになったわ。思考よりも先に手があがるのなんて初めての経験だった、とだけ伝えておくわ」
「そうかい。じゃあ、柊の分もあいつに一発ドギツイのかましておいてやるよ」
「……お願いね」
「ああ」
電話を切って、外に出る。時刻は既に夜。台風の接近のせいか、風はごうごうと吹いてやかましい。が、幸いにも雨は止んでいた。
守矢神社の方角を見やる。
嫌な予感がする。
のんびりとしていたら、さっきまでのように全てが失われてしまうという、そんな確信めいた予感が。