山中の石段をのぼる。随分と懐かしい景色だ。この山道をのぼった先には何もない。正確には無くなってしまった。ここを訪れなくなって久しいが、きっとそれは変わっていないのだろう。しかし、かつてのこの小さな山の頂には寂れた神社が確かにあった。
そこには二柱の神に仕えているのだという少女が居た。その二柱の神様のことを家族の自慢話でもするように嬉しそうに話す、少しばかり普通じゃない女の子が居た。今では見ることも、話すこともかなわない。自分が心からいとおしいと感じた少女だ。
そんな彼女とのひとつの大切な約束を思い出す。自分にとって生涯をかけて果たすべき約束、ありえない奇跡が起こった日の、彼女との別れ際に交わした大切な約束。それは他人から見たらひどく滑稽なものだろう。
どこに行ったかも分からない、この世には名前すら残っていない女の子に会いに行く。地図の上にすら存在せず、どんな場所かもわからないところへ行ってしまった者を、片方は追い続けて。
いつ来るのか、そもそも来ることができるのかさえ定かでない者を、片方は待ち続ける。そんな再会の約束をもう何年も果たそうと歩き続けている。
まだ道半ばだというのに、気づけば肩で息をしていた。以前は日課のようにこの道を歩いていたのを思うと、随分とこの体は鈍らになってしまったものだ。
年老いたというには、まだ若いだろう。けれど、少年の頃に比べたら老い枯れてしまった。この身だけでなく、この目に映る世界さえも。
予感があった―――。
学生時代、彼女が目の前から姿を消してからも、この山には通い続けていた。自分からそちらへ行くと言った手前で、女々しいこと極まりないが、もしかしたらと思うと、足を運ばずにはいられなかった。ただ、当然のことながら彼女に会うことはできなかった。
高校を卒業してからは、ここに居ても彼女にはたどり着けないと確信して、各地を旅行した。大学生活はアルバイトでお金を貯めては、霊地を訪れる生活をしていたのだ。 生活の全てをかけることは出来なかったが、使える時間は全て彼女のところへ行くために使った。
傍から見れば旅行好きの青年でしかないので、咎められることもなく生き方に困ったことはない。
そういった過程で、この場所に向かう足は遠のいていったのだ。
――今日は何か違うかも、しれない。
ちょうど、あの日から十年。足を運ぶにはいい機会だと思うこともあって、しばらく訪れていなかったこの場所へ向かうことにしたのだった。
幻想郷。
彼女が行ってしまった場所の名前は、そういうらしい。地図上には存在せず、名前すら聞いたことのない、この世のどこか。いくら調べたところで、そんな名前の土地は見つからなかった。
もう会えないのかもしれない。そんな考えがよぎったのは、一度や二度ではすまない。
まず、手掛かりが一つもない。行き方なんて知るわけもない。そもそもの住む世界が違った彼女が、行き着くべき世界に向かったのだ。
自分の住むべき世界はここで、彼女の住むべき世界は、ここではなく、幻想郷という、見たことも聞いたこともない世界だった。
ただ、それだけのこと。
ならば、仕方ないではないかと何度思ったか。自分では見ることも行くことも、知ることもできない世界など、どうすれば辿り着けるというのか。
それでも探し続けているのは、彼女のことを忘れないよう。例え記憶が薄れ、彼女との思い出が風化してしまっても、約束と、彼女と過ごした日々が在ったということだけは忘れたくなかったから。
――――ああ、でも。
未だに少女のことを覚えている人はそれほどいないだろう。彼女が消えた日に、多くの人はその存在を忘れてしまったからだ。
彼女の居た痕跡はもはやなく、時折、幻であったのではないかと思うほど。そんな者との間に、手元に残るようなものが、どれほどあるというのか。
時が過ぎる程に、昔の自分にとっては当然であった時間の記憶が段々と鮮明ではなくなっていった。日常に交わされたなんでもない会話の内容など思い出せず、今ではもう、彼女の声も、どんな風に笑っていたかさえ、曖昧だ。
ただ、一つ残ったもの、確かに彼女がここに在ったという記憶、それが霞のようになっていく。
それだけが怖かった。例えこの先、再び会うことが叶わなかったとしても、追い求め続けた結果なのであれば、仕方がないのかもしれない。けれど、老い、朽ち果てた時に、彼女のことを何一つ思い出せなくなっていたとしたら。
それはなんて、おそろしいことなのだろうか。
はあ、とため息をつく。
少し立ち止まって、石段の踊り場に座り込む。もう人が訪れるようなことのない場所だ。邪魔にはなるまい。地に手をつくと、少しひんやりとした感覚が伝わってくる。それを受けて、思いきって背中から仰向けに倒れこんでみると、背中全体に冷たい感覚が広がる。汗をかいて、火照った体にはなかなか気持ちがいい。
そうして空を見上げる。木漏れ日が少し眩しくて、目を細める。
空は晴天で青く澄んでいて、風は木々を揺らし、耳に心地の良い音を運んでくれる。
ざあああ、という、木の葉と木枝とが揺れて奏でられる自然の音楽の奏者である風は眠気まで運んできたらしい。
今ここまで山道を登ってきた体は、日々の労働もあってか、思っていたより疲労がたまっていたらしく、しばらく仰向けに倒れて、ぼうっと空を見上げていると、どうにも瞼が重くて仕方なくなってきた。
――――少し、疲れたな。
なに、急ぎではない。なにしろ、もう十年も待たせてしまっているのだ。少しくらい、遅れてしまってもかまわないだろう。
――――もう、ずっと長いこと追いかけてきた。
眠い、という本能に逆らわず、導かれるがまま、瞼を閉じていく。世界はぼやけて、眼球に映るものすべてが現実味を失い、どこか遠くの出来事のように感じながら、瞼は閉じられる。
――――だから、少し、泥のように眠ろう。
薄れていく意識の中、暗い深い海に落ちていくのを感じながら、懐かしい一人の少女の姿を思い出す。
風が、彼女の元まで己を運んでくれることを祈りながら。