それから、重い空気を吹き飛ばすようにさくらが話題を提供して。それにリーナが突っ込んで、たまにナギが弄られて。ふと気がつけば、結構な時間が過ぎていた。
しかし、リーナはそれを苦に思わない。むしろもっと話していたいとすら思う。
彼女がいると、本当に場が明るくなるのだ。誰もが自然と笑っていて、まるで大人気のアトラクションのように、いつまでも楽しんでいたくなる。その空間を生み出しているのが、まぎれもない
「ねぇ、サクラがナギと初めて会ったのって、いつだったの?」
だから、ふと浮かんだこの質問で、彼女が「うっげぇ」という表情を見せたことが驚きだった。
どういうことかとナギの方を見てみれば、思い当たる節があるのか曖昧な表情で苦笑いしている。リーナの中に、ある考えがよぎった。
「もしかして、聞いちゃいけないこと聞いちゃった?」
「いやー、黒歴史とはいえ話してもいいことなんだけどさ〜、絶対シリアスが避けられないのよねー。シリアスは1日1回まで、これ基本!」
実に
「でも、んー……」
それを見ても、ナギはなにも言わずに見守っているだけだ。これはサクラの問題だということなのだろう。
「んんんん〜〜〜〜、やっぱ気になる?」
「気にはなるけど、話したくないなら話さなくても——」
「やっぱそうだよね〜、気になってる男の子の昔話は聞きたいわよねー。恋するオトメ的に」
「そんなんじゃないわよっ!!」
じょーだんじょーだん、と笑うさくらと、立ち上がり顔を色づかせるリーナ。やっぱりこの女は天敵だ、と何度目かも分からない確信を抱いて席に着く。
「まー、ちょっと暗めかもしれないけど勘弁ねー」
そう言って、静かに、しかしハッキリとした声で語り始めた。
◇ ◇ ◇
ナギ君と初めて会った時は、忘れもしないわ。
今覚えてるってだけじゃなくて、一生、私が記者を続けていく限りね。
あれはナギ君のご両親が亡くなって、葬儀が営まれた日。空も悲しみに暮れて泣き叫ぶ……って事もなくて、快晴ってほどでもない中途半端に晴れた日だったわね。
当時、まだ私は出版社の雑誌部門に入ったばかりの新人でね。たまたま担当だった先輩が別件の方に行く事になって、"悲劇の少年、春原凪"への取材を私一人でする事になったの。
なんというか、私は先頭に立ってないと満足できないような性格だったから。ってゆーか今でもなんだけど、当時はそれがもっと強くて、「特ダネ掴んで、これを機に一気にカリスマ記者よ!」ってな感じで張り切ってたわ。大切なことを忘れてるとも気がつかずに、ね。
——着いてすぐ、地獄を見たわ。
いいえ、地獄の方がまだ、既に終わってる分だけ救いようがある。アレは、もっと狂って、捻れて、汚れきってしまった……そう、言うなれば『呪い』みたいなものね。
あの光景は、今でも目に焼き付いて離れてくれない。
たった10歳かそこらの少年が、目の前で両親を失って。ハイエナのような記者たちがそれを嗅ぎつけて、何か寄越せと群がってた。大の大人たちが、胸の高さもないような子供を取り囲んで質問攻めにして……。
それでもね、ナギ君は泣いてなかったの。涙一つ見せずに、今すぐ振り払って
——気持ち悪かった。カタカタと手が震えて、全身から血の気が抜けて、目を背けたくなるぐらい見てられない光景だった。
嬉々として他人の不幸を食い物にする大人も、それに答える……いえ、「答えるのが当たり前だよな?」っていう無言の圧力に逆らえずに答えさせられてる子供も。中には答えづらい質問をしてるのに「魔法師なら人間の質問に答えて当然」って、そんな巫山戯たことを大真面目に言ってる人もいたからね。
でも、そこでね、私、気付いたのよ。私もあのハイエナたちと変わらないんだって。全く同じことをしようとしてて、人の生き死にが関わってるってのに数分前までは笑顔を浮かべてたんだって。
それを知っちゃったら、もうダメだった。自分の体も、世界も、腐りきったこれ以上ないぐらいに醜悪なものに見えて、ズブズブとそれに飲み込まれて行くように感じて……抑えきれなくなってトイレに駆け込んで、何度も何度も戻したわ。……え? 私らしくない? まー、私も人だったってことよ。
そのまま何時間も、吐いては泣いて、出るものなくなっても嗚咽を漏らして、ただただそれを繰り返してた……と思う。あはは、色々あってよく覚えてないんだけど。
それで、ふと気がついたらもうとっくに葬儀は終わってる時間でさ。何も成果がなかった、なんて社会に飼い慣らされた食用動物みたいな考えが頭に浮かんで、それでまた自分が嫌になって。でもそのままって訳にもいかないから、ただ無気力に立ち上がってトイレから出たの。
そしたらね、目の前にナギ君がいたのよ。トイレの前の窓枠に座り込んで、私が出てきたのに気づいたら近づいて来てね。口から出た言葉が『大丈夫ですか?』だって。
ナギ君も疲れてるだろうにさ……ううん、それ以上にボロボロだろうに、
……なんでナギ君は、って? そりゃ、あの時の私は傍目から見たら最低の人間の1人だったからねー、私も同じことを聞いたね。
そしたらね、なんて言ったと思う? 『昔の知り合いに似てて、放っておけなかったんです』だってさ! あはは、思い出したら笑えてきた! 10歳のセリフじゃないよね! ああ、あの時は頭真っ白になったなぁ〜。
……そ。知り合いに。その人のことは今でも全然知らないんだけどね。でも、たったそれだけのことで、何時間も私を待ってたんだってさ、笑っちゃうよね〜。
……でもさ、たったそれだけのことが、すっごい嬉しくてね。何にもする気が起きなかったけど、ただなんとなく、二人で式場を出て、並んでベンチに座ったの。ポツポツと、よく覚えてないけど何かを話してて。でも一つだけハッキリ覚えてるのが、その知り合いの言葉。
『記者は読者が笑ってくれるのが何よりの喜び、ついでに自分も笑えりゃ万々歳ってね!』
恥ずかしいことに、それ聞くまですっっかり忘れてたのよ。昔、学校の報道部に入ってた時、何のためにやってたのか。今、記者になったのは、何をするためだったのか。その最初の気持ちを。
それ聞いて、ようやく思い出して、『きっと赤水さんならできますよ』ってこーんなちっちゃな男の子に励まされて。ああ、なに馬鹿やってんだろって気付けてね。その帰りに、そのままの足で上司に辞表を突きつけて会社を辞めてやったわ。
それで、フリーになってまず初めに、私は魔法を追うって決めたわ。あの時聞いた、魔法師だからって子供だろうが関係なく見下すセリフが、ずっと頭にこびり付いてたから。ま、一生をかけるつもりなんて毛頭ないけどね。
……何でかって? そりゃ、良くするために働くんだから、これ以上ないぐらいに良くすればもうそこで役目は終わりでしょ?
……その言葉は聞き慣れてるわ。みんな、これを聞くたびに毎回言うのよ、「出来るはずない」って。違かったのはあやちゃんとナギ君だけかな? ……ああ、あやちゃんってゆーのは塩川亜弥ちゃん。私の親友よ。
でもね、高望みをするぐらいがちょうど良いのよ、目標なんてのは。私が世界中の魔法師に笑顔を作ってやるーって、それを本気で信じて行動するってのが一番重要。少なくとも私はそう思ってる。
えーと、どこまで話したっけ? ああ、私がフリーになったあたりか。じゃあ続きから。
フリーになって暫くは色々と大変だったけど、それから2年後にあの沖縄海戦に巻き込まれてね。……ああ、これ、ナギ君にも言ってなかったっけ?
まあ、運が良かった、いや悪かったってのもあるんでしょうけど、それをまとめた記事からトントン拍子に人気が出てさ。割と早めに業界の中じゃ一目置かれるようになったのよ。魔法関係専門の記者は数えるぐらいしか居なかったしね。あやちゃんと初めて会ったのもその頃かな?
で、初めて呼ばれた情報番組が終わってスタジオを出たら、そこでばったりナギ君と再会したってわけ。タレントを始めてたのは知ってたけど、まさかこんな、お互いにまだ売れ始めぐらいの段階で再会するなんて、もうこれは運命だってピンときたね。……あ、別に恋愛対象とか結婚相手とかじゃないからそんなコワい顔しなくて良いわよ、ってかしないで鳥肌立つから!
……んー?どんな存在かって聞かれると、まあ恩人とか戦友とか、言っちゃえばちょっと頼りになる弟分みたいな感じかねー? ……もう!少しぐらい傷ついてくれないとオネーさん自信なくしちゃうんだけどな〜。……あはは、冗談よ冗談! リーナちゃんも良いけど、やっぱナギ君もからかい甲斐あるわね〜。
◇ ◇ ◇
「ま、そんなこんなでそれ以降も色々とお互い懇意にして、今に至るってわけ」
長い、そしてまだリーナが完全には理解できないほど深い昔話を終えて、さくらは8杯目となるコーヒーに口をつけた。
さくらとナギの出会いの話は、リーナが思っていたよりも重く、なるほど、話すのを躊躇っていた理由が分かる。
しかし、先ほどと違うのは、それでも空気が死んでいないところだ。口にした彼女にとって、それは後悔の記憶であると同時に、いつまでも色褪せない輝いた思い出なのだろう。まるで懐かしんでいるような柔らかな口調が、暗い話に一筋の光を書き加えていた。
「んーーっ! 1日でこれだけ話すのはひっさしぶりね〜。いつ以来かな、あやちゃん以来?」
「いや、ワタシに聞かれても知らないわよ。っていうかこんなにペラペラと喋って良いものなの?」
「これで食べてるわけじゃないしね〜。自伝もまだ書く予定ないし」
商売だったらお金を取るわよ、記者は情報屋でもあるんだから。そう朗らかに笑う彼女にあれだけ重い自責の念があったとは、きっと本人から聞かなくては分からなかっただろう。
そのことに一抹の憧れを抱き、それを隠すようにリーナは呆れた声を取り繕った。
「そういうのを日本語だと『がめつい』って言うんだっけ?」
「どうせなら『欲張り』って言って欲しいわね〜。そっちの方が聞こえが良い気がしない?」
「知らないわよ、ワタシUSNA人だし」
「そりゃそっか。さすがに微妙なニュアンスの違いは分からないわよね〜」
うんうんと頷くさくら。馬鹿にされているようで少しムッとすると、それを見て彼女はまた、明るく笑った。
「大丈夫よ、リーナちゃんはまだ子供なんだから。きっといつか、大人になったら分かる時がくるわ。言葉の微妙な違いも、さっきの私の話もね。
だから、それまでは周りに頼りなさい。子供を支えて導くのが大人の義務。大人に頼って、支えられて成長するのが子供の義務なんだから」
「でも——」
と、リーナが口を開こうとしたその時、どこからかバイブ音が聞こえた。
「んー? ちょっとゴメンね〜」
どうやらそれはさくらの端末だったらしく、歪んでる胸ポケットからそれを取り出して、その眼を見開いた。
「ってヤバッ!?もうこんな時間!?」
慌ててアラームを止めるさくらに釣られて時計を見てみれば、もうとっくに日が沈んでる頃合いだった。そう言えば、彼女は別の仕事の合間を縫って自分の取材をしている的な話をしていたはず。そちらの仕事の時間になったのか。
「二人ともゴメン!もう行かなくちゃ!あと、こんなにデートの邪魔しちゃってゴメンね! この埋め合わせはいつか必ず!」
「あ、そう言えばデート中だったっけ。すっかり忘れてたわ」
「あはは、リーナが楽しかったなら良いんじゃない?」
「えーと……ハイ、リーナちゃんコレ!」
何だろうと思いながら、差し出された手のひら大の紙を受け取る。そこに書かれている文字を見て、それが何かはすぐに分かった。
「私の名刺ね!裏にプライベートナンバーも書いといたから、何かなくても掛けてきていいから!」
「了か……ちょっと待って、何かなくても?」
「別に良いでしょ? 特に理由がなくても『話したかった』で。もう友達なんだから。もちろんネタを提供してくれるのならもっと良いけどさ!それじゃ!」
「あ、ちょっと!」
ピューッと、言いたいことだけ言って、嵐のように去っていった。
残されたリーナたちは、ポカンと口を開いて惚けて。すぐに、どちらからともなく笑い出した。
「あはははっ!なんというか、スゴイわねサクラは。色んな意味で!」
「ふふっ、それはボクも否定できないかな?」
「ナギも? ワタシもよ! 本当に自分勝手で、口を開けば喋りっぱなしで、でも底抜けに明るくて……少し、羨ましい」
本当に、キラキラと星のように輝いていて。この暗い
「ねぇナギ? サクラなら大丈夫だって、昔言ったんでしょう? なんで? やっぱりその知り合いに似てたから?」
「うーんと、それもあるけど、一番の理由は『悩んでたから』……かな?」
「悩んでた?」
たしかに話を聞く限りでは、その時のサクラは悩んでたと言えるのかもしれない。だけど、それが『大丈夫』だという言葉と結びつかなかった。
そんな疑問を感じ取ったのか、ナギはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「
自分自身の弱さに向き合った人は、それを克服するために強さを身につける。もしくはそれを受け入れて、逆に強さへと変える。だから、周りに流されず、自分の弱さと向き合っていた赤水さんなら、きっと良い記者になれると思ったんだ」
「自分自身の、弱さと向き合う……」
それが、悩むということ。
強くなるために自分自身を知るという、必要な停滞。
「——泥にまみれてもなお、前に進む者であれ」
「それは?」
「『何度失敗しても良い。何度転んでも良い。それでも、その失敗を忘れずに立ち上がる人であれ』っていう言葉。ボクにとって、忘れられない大切な言葉の一つだよ」
「……良い言葉ね」
「うん。本当にすごい、心の底から尊敬できる、大切な人から貰った言葉なんだ」
ふと、見たこともないナギの師匠の影がチラついたが、今はそれはどっちでもよかった。
リーナにとって、ナギはサクラに負けないぐらい"強い"人間だ。思惑を持って近づいてきた
恋愛経験のないリーナにとって、この胸の高鳴りが『友情』なのか『恋慕』なのか『敬愛』なのかは、まだ分からない。だが、この同い年の少年のことを尊敬しているのだけは断言できる。
そんな彼の口から語られた、その強さを支える言葉の一つ。それを聞いて、柄にもなく思ってしまったのだ。
「ワタシにも出来るのかな?」
「出来るさ」
即答だった。自信などなく、独り言にも満たない消え入りそうなリーナの声に、強く、強く断言した。
そして、まるでリーナの躊躇いなど何でもないことなんだと伝えるように、ポンと頭に手を置いて撫でる。
「そう思った時点で、リーナはもう一歩を踏み出している。あとは、倒れそうになった時に誰かに支えてもらうだけだよ」
「……助けてもらえるのかしら、ワタシが」
「大丈夫。それが本当にリーナがやりたいことで、その思いを隠さずに誰かに打ち明けて頼れたら。きっとその人は助けてくれるよ」
「……世の中、そんな上手くいくだけじゃないわ」
リーナは知っている。世界には理不尽が溢れていることを。それを自分で体験し、そして『彼等』に押し付けてきたのだから。
だが、ナギはそんなリーナを諭すように、静かに語りかける。
「うん、わかってる。でも、少なくともボクはリーナを支えるよ。本当にリーナが助けを必要としてるなら、ボクに手を引いて欲しいのなら。たとえ地球の裏側に居たってすぐ駆けつけるさ」
「……そん、なの……出来るわけ……」
出来るわけない。その言葉が記憶の中から何かを引っ張り上げ、さっき聞いたばかりのセリフが脳裏から蘇る。
——『でもね、高望みをするぐらいがちょうど良いのよ、目標なんてのは』
ああ、こういうことか。これは、出来る出来ないの話ではないのだ。やるか、やらないか。その二つに一つ。
もし本当にそうなったら、ナギは
同時に気がついた。何故、彼と彼女が輝いて見えたのか。
二人は強いのだ。体や魔法がではない、心が。
言葉の上だけじゃなく、絶対にしてみせるという強い気持ち——覚悟。騙し騙し、その場に適切な言葉を選ぶのではなく。自分に正直に、そして曲げることなく
「強さは、力だけじゃないってことね……」
「うん?」
ポツリと漏れ出た思考に、耳聡くナギが反応した。今度はよく聞こえなかったのか、首を傾けて聞いてくる。
その顔は、屈強な戦士にも、歴戦の勇者にも見えない、ただの優しそうな少年。でも、自分の知っている誰よりも強い人。
「何でもない、こっちの話よ」
だから、今は頼らない。
まだ、自分の力を出し尽くしていない。
これは意地だ。自分とこの国の問題だということ、他国の高校生であるナギには重い問題だということもそうだが、一番の理由は自分の意地なのだ。いつか、その隣に立つために。そして、自分もまた誰かを励ませる存在になるために、今やれる限りの全てを尽くしたいのだ。
「……そう。分かった、
「ええ、ありがと」
全て分かっているのか、それとも何かを覚悟したことに気付いただけなのか。励ますような笑みに、偽りない嬉しさを込めて微笑み返す。
「それじゃあ、帰ろっか?」
そう言って、立ち上がる。今は体が軽い……いや、心が軽い。靄が晴れたようにクリアに視界が広がり、今ならなんでも出来そうな気がした。
「うん、そうだね……あれ?」
「どうしたの?」
「それが、会計が終わってるんだけど……」
「え?」
二人して顔を見合わせ、次の瞬間、同時に犯人に気付いて噴き出した。
「ぷっ! あははっ! もう!カッコつけすぎよ!」
「ふふっ、そうだね!でも、赤水さんらしいや!」
茶目っ気たっぷりの記者の大人気のある行動に、二人の
◇ ◇ ◇
『……部隊長』
『准尉』
シンと静まり返っていたスピーカーから、隊員の言葉が響く。その重い声色から、何を言いたいのかはすぐに理解できた。
だから、別のスピーカーから流れる笑いあう少年少女の声をバックに、シルヴィアはマイクに淡々と告げた。
「各員、所定の位置についてください。任務を続けます」
『ですが!』
『今の話を聞いて何も思わないのですか!?』
「我々は軍人で、今は任務中です。職務を全うする使命があります」
冷静に、今するべきことを指摘する。その感情を排した言葉に、隊員が息を呑むのが伝わってきた。
「理解したら各々、今するべき役目を果たしてください。それすら出来ない人間が、何かを語れるものではありません」
『っ、…………了解』
納得などしていないだろう声を最後に、隊員との連絡を一度止める。張り詰めていた息を吐き出し、背もたれに体を預ける。
そう、今は任務中だ。今ここで、職務を放り出して声をあげても、やることをやらない人間の話など誰も耳を傾けはしない。だから、今はやるしかないのだ。
ふぅ、と大きく息を吐き出し、隠しカメラの映像へと視線を移す。画面の光を反射して、その瞳は明るく輝いて見えた。
◇ ◇ ◇
「結局、あまりデートはできなかったわね」
夜の道を、二人で肩を並べて歩く。そうしてるとデートしてるんだなぁ、と思えてくるのだが、あの女性記者の印象が強すぎてあまりその実感が強くは湧いてこない。
……いや、それは違う。朝までの焦燥のような赤熱が鳴りを潜め、今は陽だまりのような暖かさが胸に灯っている。その違いが、心境の違いとして現れてるのだ。
「そうだね。なら、明日埋め合わせしようか?」
「いいの?」
「うん。時間は沢山あるしね、ボクもリーナといると楽しいし」
手も繋がない。
ただ隣で歩いて、話すだけ。
それだけで、今は幸せだった。
……だが、そんな幸せな時間は——
「じゃあ、明日はどこに行こ——」
——微かに耳が捉えた、たった一つの音で崩れ去った。
「——リーナ、聞こえた?」
「ええ。遠いけど間違いない——爆発よ。それもかなり大きい」
スッと、二人の目が鋭くなる。
たとえ16という若さであろうとも、彼らは歴戦の戦士。日常が非日常に変わっても悠長に甘い空気に浸るなど、彼らの経験が許してくれはしない。
「リーナ、跳ぶよ!」
「え、きゃあっ!?」
ナギはリーナの脇と膝裏に手を通して大地を蹴り、俗に言う『お姫様抱っこ』の体勢で、この付近で一際高いビルの上に跳び移る。
リーナも抱き上げられた直後こそ頬を赤らめたものの、その目的を察するとすぐに表情筋を引き締め直した。
「移動するのはいいけど、もうちょっと先に何か言ってよ。心臓止まるかと思ったじゃない」
「ゴメン。それで、目的はやっぱり——」
「……魔法師、もっと言うなら魔法関係の重要施設でしょうね。爆発はかなり大きかった。自爆テロや私的な事故じゃない、もっと大規模な集団によるもの。今のボストンで該当するのは『人間主義者』の過激派だけよ」
ここからなら街全体とは言わないまでも、大部分を視界に収められる。
二人は煙や火を見落とさないよう、視線を左右に巡してゆく。
「
「たとえステルス処理したとしても、着弾する前後で分からないはずがない。街の警報サイレンが鳴らないのも不自然。多分だけど、戦争じゃなくてテロ。それも、一般人に危害が加わらないような限定された目的の」
お互いの位置を入れ替え、二重三重と確認を重ねる。すでに形になっている予想を証明するよう、街の明かり以外の『
「……街には火の手は見当たらない、リーナは?」
「同じく。それに、さっきの爆発音はかなり遠かった。市街地ではないはずよ」
「じゃあ、やっぱり——」
「ええ。爆発があったのは——」
二人は、同時に背後を振り向く。
ナギは、魔物が持つ常人に非ざるその超視力で。
リーナは、戦略級魔法師として矯正された人の限界に迫る視力で。
「「——ハンスコム総合魔法基地」」
20km以上先の、空を赤く染める
・今日の星座②
レチクル座は、1756年にフランスの天文学者ニコラ・ルイ・ド・ラカーユよって定められた比較的新しい星座で、特有の神話を持ちません。
『レチクル』とは望遠鏡やライフルのスコープなどに照準のために付けられた十字線のことで、レティクルとも言われます。
その意味が指す通り、レチクル座は十字、もしくはニコラが用いていたひし形レチクルのように見える形をしています。しかし日本では、沖ノ鳥島より南の地域以外で、その全貌を観測することが出来ません。