「ベルじいさーん、どこー?」
とことこと、とあるサマナーが自宅の廊下で声を上げる。
「その様に叫ばずとも聞こえておる。」
すると、サマナーのすぐ横にある戸から威厳溢れる老人の声が聞こえてきた。
「あ、いたいた。注文のブルーチーズ買ってきたよー。」
「すまんのぉサマナーよ。」
戸を開けたサマナーの視線、その先には身の丈3mを超える巨大な蠅の姿があった。
手には杖、首には髑髏を連ねた首飾り、口吻は槍の穂先が如く鋭く長く、四枚の透明な虫の羽には不吉な髑髏が描かれ、その全身の甲殻は蠅と言うには余りに鋭く突起があり、全身から禍々しさと威圧感を発している。
そんな蠅とは思えない威容であるのに、確かにこの存在は蠅だと認識される。
だが、それは当然のことだった。
「それと、いい加減ワシをベルじいさん等と言うのは止めい。」
「えー、可愛くて良いと思うんだけど。」
「お主くらいよな、その様な物言いをするのは…。」
彼の名はベルゼブブ。
地獄の最高君主にして蠅騎士団の創設者、悪霊と悪魔達の王。
聖書においてはヘブライ語で蠅の王、或いは糞山の王を意味する名。
サタンの側近にして地獄の副王であり、その実力においてはサタンすら上回るとされる魔王達の中においても最上級に位置する。
神託をもたらす悪魔であり、作物を荒らすハエの害から人間を救う力も持っている。
また、怒らせると炎を吐き、狼のように吼えるとされる。
その起源は気高き主、或いは高き館の主を意味するバアル・ゼブル、つまり嵐と雨の豊穣神バアルの尊称から来る。
が、彼を祀る儀式が性行為を含めた淫らなものであった事から、ヘブライ人達によって旧約聖書では邪教神とされ、新約聖書では悪霊の王として遂に悪魔にまでされてしまった。
その後は堕天以前からのルシファーの側近であり、最高位の元熾天使だったとも言われる。
なお、しょっちゅう失踪する上に地位も変動しちゃう変態上司の副官として地獄の事務仕事の3割を担当している苦労人(悪魔に人というのも変だが)である。
ちなみに、親友にマッカの鋳造も担当する財務のTOPにして宰相のルキフグスがいる。
……………
「はい、いただきます。」
「うむ、いただこう。」
そして穏やかな空気のまま、サマナーと地獄の副王の夕食が始まった。
普段は他の仲魔もいるのだが、このサマナーと最初に契約したベルゼブブは仲魔達の中でその格もあって一目置かれており、こうして時々二人だけで食事する事がある。
「うむ、今回も良きチーズだ。」
3mを超える身の丈を持つ蠅の王だが、その育ちの良さからテーブルマナーに関しては最上級と言ってもよく、細長いフォークでサイコロ状にカットされたブルーチーズ(近場の大型複合商業施設での最高級品)を食べる様は正に高貴なる者と言って過言ではない(その口吻でどうやって食べてるかは置いておくが)。
その左手にはワイングラスがあり、注がれたワインをグラスの中で遊ばせて上品に香りを楽しんでからその口吻で飲んでいる。
かつて神だった頃の名残か、ビールの類も大好きなベルゼブブだが、今日はワインの気分だったのでこうなった。
また、彼の前にはよく熟成された生ハムや新鮮なサラダ類が並べられ、見た目もまたよく気を配ってある料理だった。
「それだけで食べるのは僕にはきついけどね。」
サマナーの食事もほぼ同じ内容だがワイン等の酒類は無し、チーズも純正のブルーチーズは塩辛過ぎるという事でブルーチーズ含有の安いプロセスチーズとモッツアレラチーズ、更にカッテージチーズと数種のジャムが置かれ、それにベルゼブブの分同様にサラダと熟成生ハムがある。
それらを買ったばかりの食パンに挟んで、時折サラダ用ドレッシングなどをかけて食べていた。
「サマナーとこうして食卓を囲うのも、もう何度目になったかのぅ。」
ふと、懐かしむ様にベルゼブブが呟いた。
今は生活も安定し、ベルゼブブの好きな臭いの強い食べ物とお酒もこうして好きなだけ食べられる。
でも、二人が出会った頃はそうではなかった。
生き残るために精一杯で、弱かった二人は二人三脚でここまで走り抜けたのだ。
「もう数えてないけどさ…。」
サマナーが思い出すのはもう3年は前のことだ。
前世の記憶を思い出し、襲ってくる悪魔からここが女神転生系列の世界だと知り、辛くも遭遇したガキを返り討ちにし、たまたま起動してしまった悪魔召喚プログラムから超絶劣化した分霊であるベルゼブブを呼び出してしまった。
その日から二人は二人三脚でここまで駆け抜けてきた。
近場の異界を巡り続け、ガイア教とメシア教のパワーゲームに巻き込まれつつ、何とか地方に拠点を確保し、どうにかこうにか仲魔を増やし、レベルを上げ、悪魔合体と召喚を繰り返して戦力を拡充し続けた。
結果、あの葛葉に目を付けられ、拠点に査察を受ける等肝の冷える事態もあったが、それをきっかけに日本最強の霊的守護戦力たるライドウとの繋がりを得られたのだから人生分からないものである。
「これからも、こうしてのんびりしたいなぁ。」
激動すぎる10代後半を過ごしたサマナーの、何一つ嘘偽りのない言葉だった。
「とは言え、次の依頼も来ておる。」
「分かってるよ。明日9時に出発ね。」
今では葛葉の下部組織であるヤタガラスから直接依頼を寄越される身だった。
ガイアやメシアからも時折届くが、基本的に時間があり、尚且つ厄ネタでなければそれらも受ける。
そんな極々普通のNNサマナーが彼女だった。
「所でいい加減、酒に慣れておくつもりはないのか?」
「甘酒と缶チューハイ以外はノーセンキューで。」
そうして笑い合いながら、今夜の夕食も穏やかに過ぎていった。
……………
ベルゼブブにとって、自身のサマナーは実に愉快と思える人間だった。
最初出会った時は、奇妙な娘だと思った。
まるで野生の、それも手負いの獣の様だと。
本来なら人の身では測れない程の英知と力を持つ地獄の副王ベルゼブブ。
その超劣化分霊である彼からしても、その後長い付き合いになるサマナーとの出会いは経験が無かった。
二三の言葉を交わした後に恙なく契約した後、彼女は己の身の上を語った。
今にして思えば、そうする事で自身に現状を言い聞かせ、納得させようとしていたのだとも思う。
曰く、己は転生者であり、前世の成人男性としての記憶があると。
曰く、その中にはこの世界の様に人の世に隠れてアクマ達が跋扈し、それを利用して争う者達が描かれた物語があるのだと。
曰く、この状況もその物語の知識を利用して生き延びた結果だと。
事実、サマナーである娘がこれまで生き残れたのは彼女が転生者故の優れた才能を活かして己を鍛え上げ、その知識を活かしてアクマ相手に立ち回ったからに他ならない。
そうした話を総合した結果、休暇がてら現世に降りてきていたベルゼブブにとって、このサマナーと付き合うのは中々面白そうだと判断した。
それからの日々は、正に激動の連続だった。
近場の異界を梯子してレベル上げに勤しんでいたら、それらが目を惹きガイア系の弱小組織に強引な勧誘を受けてしまい、断ったら敵対してしまう羽目になり、高校の進学先を祖父母の家がある田舎に合わせ、地方へと逃げ出す事となった。
そこではガイアもメシアもいなかった事から定住を決定、小さな異界を消さない程度に攻略し続け、時折地元の神社等(非ガイア系)から依頼を受け、徐々に徐々に戦力を増強しつつ足場を固めていった。
そこで山奥の廃鉱山に出来た異界をこれ幸いとボスごと配下に加え、その異界を拠点として整備していった。
幸いと言うべきか、異界のボスは日本でも屈指の有名なアクマにして鍛冶に縁深いヤマタノオロチだった。
このヤマタノオロチ、元は鍛冶による伐採によって周辺の木々が無くなったが故に氾濫の頻発した斐伊川の化身であり、それ以前は農業に関わりの深い水神であり、生贄とされたクシナダヒメの姉達は水神に仕える巫女或いは伐採した鍛冶師達の娘であり水害に対する人柱だと言われる。
そうした縁もあって、ヤマタノオロチは多少の鍛冶の心得と農業の心得があった。
故に地下水脈にぶち当たった廃鉱山は彼の蛇神にとってはそこそこ縁があり、それを調伏して仲魔としたサマナーはそれを生かして異界化した山で農業と採掘と鍛冶を行う事にした。
加え、他の仲魔に龍王ユルングという天候を操る虹の蛇神もいた事で農業生産に関しては加速した。
なお、人手ならぬアクマ手は異界内のアクマ達である。
おまけに同地域の農業生産効率が意図せず飛躍的に向上したらしいが、些細な事だ。
更に仲魔にした女神スカアハの知るルーン魔術によって異界を隠蔽し、防衛戦力として日本では馴染みの四聖獣や四天王を配置して万全を期した。
最終的には女神アリアンロッド(月の女神)と霊鳥ヤタガラス(太陽神の遣い)を配置する事で異界内の昼夜を弄る事で促成栽培すらやってのけた。
こうして非常にマグネタイトの豊富な環境で育成した作物は、それ相応の効果を得る。
一般的なものでは通常よりも生体マグネタイトの回復を早めたり、魔石の様に軽い怪我を回復するなどだ。
それを表向きは田舎の産地直送の作物として、裏向きにはDDSNETで生体マグネタイトの補給を促す食物として売り出したのだ。
これが売れた、滅茶苦茶売れた。
梱包が間に合わず、田舎の暇してるじーさんばーさん達に梱包のバイトをお願いする程度には売れた。
ついでに異界内で採取した木材(急成長するので定期的に伐採)も販売したら寺社系に売れまくった。
そこまで行って、サマナーは恐怖した。
「あれ、これ税とか確定申告とかどうしよ?」
無視すれば良いじゃんとはベルゼブブは言えなかった。
だってそんな事したら親友のルキフグスに何を言われるか分かったもんじゃなかったから。
金の怖さとキレた友人の怖さは骨身に染みていた。
最終的に近所の寺の伝手を借りてヤタガラスと連絡を取り、その商業規模から遂には葛葉が動く大事になってしまった。
「もしやばくなったらケツまくって逃げよう。」
「異議無しじゃ。」
こんな時のために逃げ支度は事前にある程度済んでいたので、事はスムーズに進んだ。
が、結果的にはその心配は杞憂に終わった。
やってきたのが当代の葛葉ライドウだったからだ。
商売の規模がデカ過ぎると危惧した葛葉が本気出した結果だった。
内心サマナーと二人で恐怖に震えながら、何とか査察を乗り切ると、ライドウは葛葉・ヤタガラス・全国の寺社への格安販売及び専門の監視役と事務員の駐留を条件に今までの脱税を見逃す事となった。
サマナーはこれに飛びつき、ほっと胸を撫で下ろした。
もしこの世界で各勢力の戦争が拡大化して、東京が受胎したり核ミサイルが発射されたり悪魔召喚プログラムの蔓延で文明崩壊した所でこんな田舎にまで影響は出ないだろうし、この異界がある限りは食うに困る事は無いのだから当然だろう。
それ以来、時折依頼か悪魔合体のために最寄りの大都市に行くのを除けば、後は生産一直線の日々だった。
つい先日はイシュタル?を召喚して度肝を抜かれたが、それも含めてベルゼブブはサマナーを気に入っている。
そんな激動の数年を送る原因になったサマナーを、ベルゼブブはびっくり箱と言うか何やらかすか分からない幼子でも見る思いでいつも眺めるのだった。
(尤も、破滅すればその魂を貰い受けるつもりではあるがな。)
そして、何れその魂は永劫自らの掌の上で弄ぶのだと、絶対に逃がさんと地獄の副王は嗤うのだった。
どんなに長い付き合いと言えど悪魔は悪魔。
その好意の表し方は、悪魔なりの方法になるのだ。
「やぁベルゼブブ。また悪そうな笑みを浮かべているね。」
「閣下、態々女神に偽装してまで下界に来ないで頂きたい。」
「いやぁ君が休暇した事もそうだけど、お気に入りが出来たって事でつい、ね?」
最近の悩みは女神に寄生した上司の処遇だろうか。
イシュタルは金星、即ち明星を司る古い女神だ。
元は明けの明星たる男神、宵の明星たる女神が習合した存在だが、その性質を利用してルシファーが潜り込んできたのだ。
曰く、「丁度良い所にいて更に金髪美女だったからつい☆」との事だった。
マジふざけんなとベルゼブブは思った。
普段は普通にイシュタルなのだが、時折こうしてルシファーとして振る舞うのだからマスターや他の仲魔達に見つかったらと心臓に悪い。
特に根本的に大物になれないマスターは卒倒しかねない。
「いやぁ彼女、とても良いね。金髪だったら連れ帰るのも考慮したんだけd「駄目ですぞ。」
ピシャリと戯言を封じるベルゼブブ。
長い付き合いと言えど、自分の獲物を譲るつもりは彼には無かった。
「ふふ、分かってるとも。からかっただけさ。」
「でしょうな…。」
ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる上司に、ベルゼブブはただため息をつくしかなかった。