月に吼える   作:maisen

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第拾参話 『それでも私は想うから』

 人工幽霊一号の取り付いた鎧がガレージに続くドアを開け、無機質な蛍光灯の光が埋め尽くす空間に爪先を差し込んだ。

 

 常ならばその車庫に置かれている美神の愛車の姿は無く、今その部屋の中心には竜神王が一人で足を組んで座り込んでいるだけだ。

 

 頭から二本の角を生やした男は、目の前の空間を睨みながら時折ゆっくりと呼吸を繰り返している。

 

 ガシャガシャと金属の触れ合う煩い音を立てながら近付いてくる存在に気付かない訳でもないだろうが、視線を逸らす事無くひたすらにその一点に集中する彼の額からは時折大粒の汗が流れ落ちていた。

 

『――どうぞ』

 

「すまんな、っと」

 

 傍らに置いた湯飲みに手を伸ばした男の目の前で、一瞬光が瞬いた。

 

 慌てて逸れた意識を集中させ、両手を素早く複雑に動かし何事かを呟く。

 

 その動きに吊られるように、彼の目の前に小さな裂け目が出現した。

 

 男性の片手が入るか入らないか程度の小さな孔は、今となっては事務所と妙神山を繋ぐ唯一の手段である。

 

「ムンッ!」

 

 気声を発した竜神王の両手が印を組み、その顎を伝って一滴の汗が地面を叩く。

 

 ゆらゆらと不安定に揺れていた孔は、それで漸くその存在を再び安定させた。

 

 暫しの間、ガレージに無言の緊張が漂い、更に数十秒が経ってから竜神王はゆっくりと安堵の多分に篭った息を吐いた。

 

『…すいません。お邪魔をしたようですね』

 

「いや、正直助かった。いい加減咽も渇いておったのでな」

 

 そう言って快活に笑い、人工幽霊一号の差し出した湯飲みをゆっくりと煽る。

 

 まだ熱い筈のそれをそのまま飲み干し、だが視線は眼前の孔から逸らさぬままで竜神王は気にするなとでも言うかのように大きく満足げな吐息を一つ。

 

「――美味い」

 

 全身鎧が醸し出す苦笑いの雰囲気でも伝わったか、湯飲みを置いた竜神王はにやりと笑って湯飲みを返す。

 

 と、その表情が僅かに曇った。

 

「…天龍の様子はどうかな?」

 

 途端にそわそわと落ち着かなげに身体を揺さぶり始めた一応王様に、人工幽霊は殊更ゆっくりと返事を返す。

 

『今は客室のベッドでぐっすりと眠っておられます。』

 

 目に見えて安堵した男性の傍らから湯飲みを取り上げお盆に乗せつつ、全身鎧は車庫の壁、竜神王の視線の先に客室の映像を映し出した。

 

 大きく映し出された薄暗い部屋のベッドに埋もれるようにして少女が一人、小さな寝息を立てている。

 

 緩く閉ざされた口元から漏れる吐息は深く、何事も無かったように眠る少女を見ながら竜神王の口元は徐々にだらしなく解けていく。

 

『孔、孔っ、前ー!』

 

「…んん? おおっ?! こりゃいかん!!」

 

 全神経を集中させた結果、当然の事ながら先程まで安定していた空間の裂け目は今にも消えそうな程に小さくなっていた。

 

 あっという間に既にマッチ棒の先端ほどに小さくなったそれに向かって竜神王の裂帛の気合が炸裂する。

 

 そのまま苦闘する事数分、漸く元の大きさを取り戻した孔の前では疲労困憊と言った感じに肩を上下させる竜神王と、緊張感から解放されて膝を崩れ折れさせた全身鎧と言う滅多に見られないであろう光景があった。

 

「い、今のは危なかった…!」

 

『お願いですから集中してください…』

 

「いや、可愛い盛りの娘が寝ている所を見せているのに他に意識を割けと言うのは無理な話だ」

 

 何故か胸を張って断言する竜神王の背中は、こんな時ばかり立派に見えた。相当に微妙な立派さであるが。

 

「しかし、神族も動きが鈍いな。妙神山からの連絡が途絶えたのだから調査員の一人や二人さっさと送ればいいものを」

 

『そもそも一人くらい向こうに残っていればこんな事にはならなかったのですけどね』

 

 何となくジト目で見られているように感じて決まり悪げに尻を動かす竜神王を見ながら、人工幽霊はその瞬間の事を回想する。

 

 あれは、今は客室のベッドで健やかな寝息を立てている少女が、初めてワルキューレが事務所を訪れた時に勝手に作っていた、そして少女が再び訪れた際に使ったゲートを開こうとした時だった。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 月に吼える 第三部 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 竜神族の王女はゆっくりと息を吸い込み、その一点を睨みつける。

 

 既に何度試しただろうか、彼女の言霊が紡がれ、しかしかつて其処に確かに在った筈のゲートはその姿をちらりとも見せはしなかった。

 

 合言葉が間違っていたのか、それともゲートを隠す為の術式に何か間違いでもあったのか。

 

 静かにそれを見守っていた人工幽霊の視界の中で、少女は息を荒らげながら膝を付く。

 

『…なんで』

 

 悔しげに俯き、瞳に涙を湛え、しかし泣く事は堪えながら、少女は唇を噛み締める。

 

 握りこまれた小さな掌は、既に何度も何度も同じ複雑な印を組み酷使した疲労からか、僅かな力しか残っていなかった。

 

『…なんでっ!』

 

 問いに答えられる者など居なかった。

 

 たった一人、自分にできる事を、と。

 

 闘う力が無い故に、せめて闘える者を、と。孤独に、無力に、己の小ささに嘆きながら、大切な人の力になりたいと願いながら、しかしその望みは冷たい現実しか示さない。

 

 疲れ切り蹲ったまま動きを止めた少女に、人工幽霊は掛ける言葉を持たなかった。

 

 振り上げられた何度も手が硬いコンクリートの床を叩く。

 

 冷たい床に、数滴の水分が染み込んだ。

 

『止めなさい』

 

『…離して』

 

 皮膚が破け、血が流れても打ち付けることを止めなかった少女の手を、何時の間にか現われた無骨な鎧の篭手がそっと握る。 

 

 少女の手首は篭手の一握りでも余るほどの細さしか持たなかった。

 

『離しません。自分の体を傷付けて、何になりますか』

 

『……』

 

 絶対に引かないと言う意思の篭められた言葉を感じたのか、少女はゆっくりと俯き、その手から力を抜いた。

 

 軟膏を塗りつけ手早く包帯を巻いていく。

 

 結構染みるであろう薬を使ったにもかかわらず、少女の視線はその手に向けられる事は無く――ただひたすらに目の前の空間に向いていた。

 

『諦めるつもりは、無いのでしょう』

 

『…当然』

 

『ならば、私が止めます』

 

 少女の視線が跳ね上がり、同時に狭いガレージが噴き上がった竜気に満たされた。

 

 その奔流に全身を押されながら、しかし人工幽霊は一歩も引かない。

 

 睨み合いは数十秒も続いただろうか。

 

 沈黙を破ったのは、人工幽霊だった。

 

『貴方は既に疲れきっています。いかに竜神族の王女とは言え、これ以上の消耗は命に関る筈です』

 

『…駄目。犬飼君が大変な目に合ってる。私が頑張らなきゃ――』

『貴方は頑張った。ですが、これ以上は無駄です』

 

 被せるように放たれた人工幽霊の言葉に、天竜姫は何度も首を横に振る。

 

 戻された視線には、強い意志が宿っていた。

 

 しかし、人工幽霊には見えている。

 

 その膝が、腕が、身体が、消耗しすぎて小さく震えていることに。

 

 その顔色が、健康的な白だった肌の色が蒼褪めている事に気付いている。

 

『…約束、したから。勝手な誓いでも、一方的な想いでも、私は私に約束した』

 

 瞳を逸らさぬままで、少女は、全身鎧の腰より少し上程度の背丈まで成長した少女は振り絞るように言葉を紡ぐ。

 

 紫色のカサカサになった唇の端から、先程噛み締めた時に裂けたのか、僅かに血を流しながら、掠れ始めた声ではっきりと告げた。

 

『絶対、諦めない』

 

 竜気の奔流が終息し、睨み合う二人の間にも沈黙が蟠る。

 

 少女の瞳を、その中に宿る意思をはっきりと認識し、人工幽霊は大きく溜め息を吐いた。

 

 少女の手首を握っていた無骨な篭手から力を抜き、数歩後ろに下がる。

 

 静かに動きを止めると、ゆっくりと腕を組んで、一言だけを告げた。

 

『あと、一度です。約束してください。それで駄目だったら暫く休む、と』

 

『…分かった』

 

 渋々、と言った様子ではあったものの、天竜はそう答えて踵を返す。

 

 目の前には、妙神山からこちらに脱出してきた際には確かに開いたゲートのある筈の場所。

 

 足を肩幅に開く。背筋を伸ばし、ゆっくりと息を吸い込む。合言葉一つで開く筈のゲートは開かなかった。

 

 どれだけ竜気を送っても、隠蔽の為の術式を解いても、その残滓さえ見せなかった。

 

 だったら、止めた。

 

『――我は誓い告げる者!』

 

 朗々とした言霊と共に、再び竜気が噴きあがる。

 

 これまでとは違う強烈な奔流に、事務所に宿る人工幽霊はある筈もない内臓が掻きむしられたような痛みさえ覚えた。

 

『天なる龍の強き想いと!』

 

 腹の中を強引に掻き混ぜられるような、意識を粉微塵に砕かれるような衝撃の中で、しかし彼は何も言わずに少女の背中を見守っている。

 

『その血に宿る力をもって!!』

 

 轟、と竜気が渦巻いた。

 

 ふらりと少女の体が傾き、全身鎧が思わず一歩を踏み出す。

 

『…っ、望みを叶える意思と成す!!!』

 

 しかし、少女は堪えて言葉を紡ぐ。

 

 崩れかけた体は、力強く前に踏み込まれた足で支えきった。

 

 巻いた包帯に血が滲み、前に突き出された両手は疲労で持ち上げているだけでも容赦無く気力を奪っていく。

 

 だが、諦める事など頭の片隅にも浮かばない。

 

 ただ、一人の青年の笑顔だけが在った。

 

『――門よ!』

 

 ある筈の門が開かない。

 

 ならば、新しく作ればいい。

 

 だが、いつもならば其れなりの準備と多少の神通力で開かれる門は、まるで何かに邪魔をされるようにその構成を砕かれていく。

 

 それを感じながら、しかし少女はただひたすらに力を篭めて前を見る。

 

 ただ、想う。

 

 青年の事を。

 

 彼の笑い声を。

 

 彼と過ごした一時を。

 

 彼に助けられた時の、あの姿を。

 

 力を呪いで奪われ、少年の姿となり、知識も経験も技術も何もかもを無くして、それでも己より遥かに強い魔族に立ち向かった、あの瞬間を。

 

 護ると言い切って、そしてそれを証明して、その後困ったように頭を掻いて、それでも笑って見送ってくれた彼の事を。

 

 

 ただ、強く想う。

 

 

『門よ、在れ!!』

 

 注ぎ込まれた竜気が消えていく。

 

 拡散していくのでもなく、砕けていくのでもなく、まるで砂漠に水が吸い込まれるように消えていく。

 

 感じるのは、砂漠。

 

 餓えた、乾いた、渇えた壁。

 

 静かに、だが貪るように意思を、竜気を喰らおうとする存在。

 

 それが、二枚。

 

 近く――東京を包むそれと、遠く――妙神山を囲うそれ。

 

『…っく、う』

 

 際限無くつぎ込む竜気が、際限無く飲み込まれていく。

 

 元々相当に消耗していた身で、残る竜気が更に消えていく。

 

 だが、腹は決まっていた。

 

 後ろでこの暴流に耐えている全身鎧は、失敗したら言葉通りに無理矢理でも止めるだろう。

 

 しかし、それでは遅いかもしれない。

 

 間に合わないかもしれない。

 

 

 それは、嫌、だ。

 

 後悔だけはしたくない。

 

 あそこで頑張っていれば、とだけは思いたくない。

 

『…邪、魔を』

 

 小さな手の震えが止まった。

 

 虚ろになり始めていた視線が意思を取り戻す。

 

 言葉と共に、衰え始めていた竜気が一気に噴出した。

 

『邪魔をっ! しないでぇぇぇぇええええええっ!!!』

 

 視界が白光で埋め尽くされた。

 

 空気が一気に流れ出し、少女の感覚にそれを告げる。

 

 今にも落ちそうな瞼を抉じ開けた瞳に、人一人がしゃがんで通れるかどうかと言う程度の孔が開いていた。

 

 歯を食いしばりながらそれを固定する。

 

 だが、少女はもう一歩も動けそうに無かった。

 

 後少し、一瞬でも気を抜けば全て持って行かれるような感覚が彼女を襲う。

 

 門は成った。

 

 だが、それだけでは駄目だ。

 

 門はモノを通す物。

 

 呼ぶために開いた物ならば、誰かが答えてくれなければ無為と化す。

 

 その瞬間だった。

 

 ひょい、と気軽な動きで、門の向こうから誰かの顔が覗いた。

 

 薄れ始めた視界でそれを認めた天龍は、薄ぼんやりとしか見えないその影に必死で声を掛ける。

 

『…は、やく! こっちに、来て!』

 

『ああっ! 天竜姫様――』

 

『『何いっ?!!』』

 

 耳鳴りが煩くて聞き取りずらかったが、その大声は確かに彼女の父と妙神山に住まう猿神のものだった。

 

『なのねぇぇっ?!』

 

『天龍っ! 今そっちに行くからなぁっ!!』

 

『ええいどけっ! ワシが行くっ!』

 

『しょ、将軍! 竜神王がっ!』

 

『お待ちくださいっ! ええい遅れるなお前達!』

 

『老師っ! 待って下さい!』

 

『おい小竜姫! 私も――』

 

 跳ね飛ばされたらしい女性の声が天竜姫の横を通り過ぎ、後ろの全身鎧に直撃する。

 

 その後を追いかけるように二人が通り抜け、更に十数人が駆け込んで来て――。

 

 それを確認したかのように、少女は満足げな笑みを浮かべると、真っ青な顔でゆっくりと倒れた。

 

 薄れる意識の中で大声で騒ぐ何人かの声を聞きながら、少女の意識はゆっくりと沈んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『まぁ、その後いきなりゲートが閉じ始めるとは思いませんでしたけどね』

 

「お陰で娘に添い寝もしてやれん」

 

 ぶつくさと呟く竜神王の顔は、それでもどこか誇らしげに緩んでいる。

 

 娘が倒れた事にパニックに陥りかけた竜神王であったが、ともあれここと妙神山に出来た繋がりを断たれる訳にはいかないと閉じようとしていたゲートに竜気を送り込み何とか維持。

 

 倒れた天竜姫の世話は事情を説明してくれた上に買って出てくれた人工幽霊に任せ、未練たらたらの猿神と妙神山管理人、魔族の女性と跳ね飛ばした覗き神と部下達を娘の意思を無駄にしてなるものかと送り出し、彼は一人此処に残り、その全精力を持って妙神山とのラインを確保し続けていた。

 

「全く。事が片付いたら是非にも一発殴らせてもらわんとな」

 

『予約で一杯でしょうから、それなりに手加減して欲しい物ですね。私の方が先約ですし』

 

 惚けた口調で呟いた全身鎧がガレージから出ていくのを視界の片隅で見送りながら、竜神王はくつくつと笑う。

 

 猿神もそうだし、話を聞いた二人の女性たちも予約しているだろう。

 

 まぁ、あちらは少々事情が異なるのかもしれないが。

 

 そう考え、竜神王は再び気力を漲らせる。

 

 彼をもってしてもその門は再び大きく開く事は無かった。

 

 ここに付いて来た者達の力を借りれればもう一度通れる位に開く事くらいは出来たのかもしれないが、彼女が使ったのは王族専用ゲートを開く術式であったが故に、その門は少女と竜神王の竜気にしか反応しない。

 

「…早く向こう側に誰か来て欲しい物だがなぁ」

 

 呟いた言葉が、コンクリートの壁に小さく反響した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なぁ、右の」

 

「なんだ左の」

 

「ワシら、忘れられたような気がせんか?」

 

「しかしあのサイズでは通れんかったしな。だからこうして神界に連絡を取って、返事を待っとるんだろうが」

 

「最後の見せ場、かのぉ」

 

「…何にもやる事がないからのぉ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 第拾参話 『それでも私は想うから』

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

「しかし、美神も無茶を考える」

 

「まぁ美神さんですし」

 

 先程まで美神と繋がっていた通信鬼を消し、呆れたような声を出して小竜姫は背後の様子を見ていた。

 

 それを横目に見つつ、ワルキューレは取り出した双眼鏡で状況を見る。

 

 一直線に伸びる太い幹線道路のど真ん中。

 

 今は誰も通る事の無いそのアスファルトの先、前方やや斜め上に、天蓋の裂け目から突き込まれた巨大兵鬼の腹が見えた。

 

 完全に動きを止め、時折その中央に開いた何かを吐き出しつづける光景は産卵のようにも死骸から抜け出る魂のようにも見える。

 

 双眼鏡越しの視界にそんな感想を抱きながら、ワルキューレはゆっくりと口の端を吊り上げた。

 

 だが、その視界を平行まで降ろせば、其処には未だ飛び交う火線の瞬きがある。

 

 まるで自分達の存在を悲壮に叫び続けているような砲火の音は、遠く離れた彼女の耳にも届いている。

 

 僅かに心配げな色を浮かべながら、溜め息混じりに双眼鏡を下ろした。

 

 踵を返し、騒がしい後方に視線を移す。

 

「ヒャクメ殿、角度はこれでよろしいでしょうか?」

 

 竜神王の近衛部隊、その中でも一際豪華な鎧を纏った巨漢の男が、その傍らで両手の人差し指と親指でもって四角を作り、その窓越しに巨大兵鬼の腹を眺める女性に確認の声をかける。

 

「んん~。もうちょっとだけ上」

 

 だが、問われたヒャクメの返答は酷く素っ気無い物だった。

 

 彼女の興味が奮う箇所にしか使用されない筈の、仕事中でさえ使わない集中力を全て振り絞っているが故ではあるのだが、少なくとも隣の男性の額から垂れる冷や汗ぐらいには気付いた方が良いだろう。

 

 後、その後ろでがちがちに緊張している近衛兵達にも。

 

「…今度は何Cmほど?」

 

 既に諦めた表情の部隊長は、抑揚の無い口調で疲れ混じりに問い返す。

 

 だが、その予想は斜め上。

 

「…右に0,4mm、上に5mm」

 

「そんな無茶なっ?!」

 

 悲鳴が上がると同時に、後方で待機していた竜神族の術者達が蒼褪めた。

 

 幾度目かの調整の後から徐々に難度を増してくる要求は、十cm単位からとうとうmm以下にまで到達しているのだからさもありなん。

 

 やけっぱちの隊長の声に従い、神経を集中させながら術者達がじりじりと「それ」を動かしていく。

 

 やや婉曲しながら先端で巨大兵鬼の腹を指し、反対側の先端でアスファルトに傷をつけながらもそれはゆっくりと動いていく。

 

 二本の細長い結界で構成されたその物体は、一言で表すならば「レール」で十分に事足りた。

 

「――ストップ! 完璧なのねー!」

 

 満足げに頷き、顔の前に構えた四角形を解いてヒャクメが腰を伸ばす。

 

 その周囲で安堵の吐息を付いた近衛兵達が互いに顔を見合わせ笑みを浮かべ、そして何となく非難がましい視線をヒャクメの背中に向けた。

 

 それに全く気付かぬままに、上機嫌のヒャクメはテクテクと道路の端に歩いていくと懐からがま口財布を取り出しぱちりと開く。

 

 3枚の硬貨を取り出し、設置してあった自動販売機のコイン投入口におもむろに滑り込ませると、じっとその機械を睨み、ズビシッとボタンを押した。

 

 ガチャンと音を立てて吐き出された缶ジュースをいそいそと取り出し、断続的に聞こえる軽快な音に耳を澄ませる。

 

 やがてそのテンポはゆっくりと速度を落としていき、最後の足掻きとばかりに数度早いリズムの音を刻む。

 

 その音が止まった瞬間、薄っぺらなサンバのリズムが周囲に流れた。

 

『オオアタリー!』

 

「ふ、私の目にかかれば当たりのタイミングなど筒抜けも同然なのねー!」

 

「何をやっとるかお前はーっ!」

 

「神通力を悪用してはいけないとあれほど言ったでしょうがっ!」

 

 ワルキューレと小竜姫のダブルドロップキックがヒャクメの後頭部に襲い掛かった。

 

 悲鳴も上げずに吹っ飛び、そのまま前方の自動販売機に顔から着弾。

 

 ゆっくりと後ろに傾いた自動販売機のスイッチが顔で押されて反応し、もう一本分の商品が吐き出される。

 

『アリガトウゴザイマシタ。マタノゴリヨウヲオマチシテイマス』

 

 無機質な女性の合成音声が虚しく響き、ガシャンと吐き出された缶はゆっくりと反動で戻った自動販売機の取り出し口から飛び出し、ころころと部隊長の目の前へと転がっていく。

 

「『100%餅ジュース・冷た~い』…飲むか?」

 

「飲めないでしょそれ」

 

 拾い上げた部隊長と渡された部下の困惑の声が気絶したにもかかわらず説教されているヒャクメを侘しく撫でていく。

 

 ゴミ箱に投げ捨てられたアルミ缶の、やたらと固く重い音が短く響いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天井から吊るされたフックに引っ掛けられ、一抱えはあるコンテナがゆっくりと移動する。

 

 それはある一点に到達し、がくんと揺れながら動きを止めた。

 

『ポー』

 

『ポ』

 

 見上げる埴輪兵達の動きが止まり、その視線がコンテナの上に乗っかる数十体の埴輪兵達に集合する。 

 

 コンテナの上の埴輪が片手を上げ、振り下ろした。

 

 フックがコンテナを固定していたロープから切り離される。

 

 コンテナは、その上に乗った埴輪兵達ごと重力に引かれて落下を開始。

 

 そのまま直下に開いた巨大な穴を通り、爆発と火線の入り混じる戦場へと落ちていく。

 

 確認するように一瞬それを見送っていた埴輪兵達は、再び何事も無かったように動き回り始めた。

 

「…なるほどのぅ。ここから補給物資を投下しとるんか」

 

『ある意味最短距離だからな』

 

 その空間の隅に積み上げられたコンテナの陰から顔を出したカオスと土具羅がそんな会話を交わす隣で、玉に閉じ込められたままの忠夫はパピリオの頭上で静かに腕を組み瞑目している。

 

 何かを考えるような、それでいて凪いだ湖を感じさせるような無為を醸し出しながら、彼はゆっくりと頭を垂れる。

 

 鼻提灯がぷくりと膨らんだ。

 

「起きるでちゅ」

 

「ぷろわっ?!」

 

 おもむろに忠夫の閉じ込められた球を掴み、全力で上下に動かすパピリオ。

 

 内容物(忠夫)が中で数度跳ね回り、最後に車に轢かれた蛙の如くその底面に張り付いた事を確認してから頭の上に戻す。

 

 アルファ達の視線が4対一連の流れに集まり、そして彼女達は何事も無かったかのようにその瞳をカオス達に戻した。

 

「強行突破を・提案します」

 

「却下じゃ。真下は敵だらけじゃぞ? 下に連絡が行った瞬間対空砲火で蜂の巣じゃわい」

 

『かと言ってここ以外じゃパピリオが降りれんしなぁ』

 

 中空を見上げた土具羅の言葉に、慌てた様子でパピリオが噛み付く。

 

「嫌でちゅ! 絶対に付いてきまちゅから――ムグ!」

 

 何時の間にかパピリオの後ろに回りこんでいたデルタがその口を背後から塞いだのを横目に見つつ、土具羅は疲れたように手振りで承知の意思を伝えた。

 

 膨れっ面でデルタの手を振り解き、苛立ち混じりに忠夫をぶんぶかシェイクする彼女を余所にカオスはゆっくりと腰を下ろす。

 

 床の冷たさに少々顔を歪めつつ、老人は静かに目を閉じた。

 

「ま、焦ってもしょうがないわい。機会を待つぞ」

 

「悠長な事を言ってる場合でちゅか! こうしてる間にもアシュ様は――」

 

 完全に目を回している忠夫を投げ捨て、座り込んだカオスに食って掛かったパピリオを止めたのは、片目だけを開いた老人の瞳に宿る力だった。

 

「黙っておれ小娘! 今誰が一番下に降りたいと思っとるか!」

 

「パピリオに決まってるでちゅ!」

 

 即答で返された思わぬ答えに少々面食らったカオスは、僅かに目を細めると、今にも胸倉に掴みかかってきそうな少女の頭に手を置いた。

 

 唸る少女を落ち着けるようにその手で軽く二三度叩き、彼は小さく悪かったと呟いた。

 

 その後に、気持ちだけならワシも負けんと小さく呟き、だからこそ今は我慢してくれと今度は幾分か柔らかく言い聞かせる。

 

 それでもまだ不満そうな表情が崩れる事は無く、だが少女は渋々ながらも老人と土具羅の間に腰を落ち着けた。

 

「…生命反応・微弱! 危険・です!」

 

「冷静に。父は・寝てます。タフネスだけなら・網翅目にも・負けません」

 

 周囲に昏倒から睡眠に戻った忠夫を拾ってきたアルファ達に囲まれつつ、彼らは静かに時を待つ。

 

 結局、その時は意外にも早く訪れる事になるのだが。

 

 


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