奉仕部と私   作:ゼリー

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第五話

       ◇  

 

 去年のある日、非常に痛快な光景を見た。

 私が、敢えて歩かないでもかまわない茨の道をことさら選んで再スタートを切り始めた、秋のことである。スタートラインを越えた一歩目で、私の心ははやくも折れかけていた。第一の関門とばかりに、学園祭という巨大すぎる壁が、眼前に屹立していたのである。ふわふわしたパステルカラーが塗りたくられた壁は、十代が味わうべきうれしはずかしイベントで形成され、私の目には「さあこちらにおいでよ」と誘われているようにも、「お前の覚悟を問う」と脅されているようにも映った。

 私は、憎々しげにこの壁を一瞥すると、思案に思案を重ね、十重二十重に分析した。自由登校にかこつけて参加を見送ってしまえば臆したようで癪に障るし、だからといって単独で文化祭を謳歌しようなどという暴挙に及べば精神に甚大なる損害を負うことは明白である。そこで私は、透過的参加という手段を用いることにした。透過的参加とは、いてもいなくてもなんら影響を及ぼさない人間だけが行使し得る無用の用と捉えていただきたい。私はこれを用いて、学園祭で賑わう校舎を、ごく小さな声で滑稽滑稽と呟きながら幽鬼の如く彷徨い歩いたのである。この滑稽という二文字には、浮ついた雰囲気で充満する文化祭、その醜悪さと愚劣さ、そして私に不合理な劣等感を抱かせる唾棄すべき厚顔無恥さ、その他諸々に対する万感の怒りが込められていた。私は、縦横無尽に駆け巡り、あちらでもこちらでもすれ違う生徒に滑稽滑稽とささやきまくった。そうして私は決して文化祭などに恭順の意など示さないぞとささやかな反抗を露にしたのだ。しかしながら実際は、余りにささやか過ぎて誰にも聞こえてなどおらず、抜群に滑稽だったのは、ニワトリの様な私であったことは言うまでもない。

 この不毛な戦いが、不毛であると徐々に気付きはじめた私は、急に馬鹿らしくなり恥ずかしくなった。せめて、文化祭という戦場を共に駆け抜けていく同志がいればと、無頼漢である自分を嘆いた。いかん、弱気になってはいかん。つい先日、そうやって人恋しさから、赤の他人を求めて痛い目を見たばかりではないか。私よ奮い立て。己の信念に忠実であれ。そう思いながらも、足は昇降口の方へと向かってしまっていた。そうだ、今日はここまでにしよう。我ながら精一杯。四面楚歌もかくやというべき状況において孤軍奮闘したではないか。君はじつによくやった。

 戦士には休息が必要であると判断した私は、忌々しい文化祭に背を向けるべく、蹌踉(そうろう)と下駄箱へ向かったのだが、途中、はたと足を止めた。階段の踊り場の部分で、男女が何事か話し合っていたのだ。そこを通って下駄箱へと向かいたいのだが、部外者が水を差せるような雰囲気ではなかった。そう、目の前で繰り広げられていたのは、青春の一大パノラマ、すなわち恋愛だったのである。それも、余人がその魔力にとり憑かれ猪突猛進し、高校生活の大部分を賭けて自己を放擲せんとする精神錯乱の極み、告白の場面であった。

 階段の上に立っていた私は、うんざりしながらその光景を眺めていた。すると、形容しがたい劣等感がむくむくと顔をもたげはじめた。まずい、これ以上眺めていれば精神に深い傷を負い、私の戦いが竜頭蛇尾に終わってしまう。遠回りになるが、もう一つ先の階段で下ることにしよう、そう思い足を踏み出したときであった。

 

「まず、そのちゃらちゃらとした話し方を止めなさい」

 

 私は愕然として、再び踊り場の部分を見遣った。蜂蜜に砂糖をまぶしたような場面においては、耳を塞ぎたくなるような激甘な声がしてしかるべきである。それが、かくのごとき研ぎ澄まされた冷徹な声が響くとは、何事か。その声の主は、こちらに背を向けている黒髪の女子であった。

 

「あなた、想いを伝えようとしているのよね。にもかかわらずそんな軽薄な話し方をするなんて、品性が感じられないわ。ごめんなさい、私、あなたのような人は嫌いなの」

 

 男子生徒はポカンと口をあけて、茫然自失といった体である。

 

「それじゃあ、私はこれで」

 

 そう言い残すと、彼女は、立ち尽くす男子生徒の横を通り過ぎて階段を下っていった。

 まさに一刀両断。私は心の中で快哉をあげた。

 軽佻浮薄な空気が充満しているこの文化祭において、最後の最後にあれ程までに冷ややかで理知的な女生徒を目撃するとは夢にも思わなかった。悄然と肩を落として歩き去っていく男子生徒にはいささか申し訳ないが、君の痛快なやられっぷりは、我が戦いにおける画竜点睛となってくれた。いい薬にもなったであろう。これに懲りたら、もうちっと理性的人間に生まれ変わるがよい。私は、パステルカラーの巨大な壁を一刀のもと切り捨てた黒髪の女傑に、最大級の賛辞を送りつつ、滑稽滑稽と呟きながら文化祭を後にしたのであった。

 

 諸君はすでにお気づきであろうが、その女傑は雪ノ下さんである。私がそれに気付いたのは、彼女から辛辣に罵倒されたときであるが、その内容は思い出すのも憚られるので、わざわざ語るようなことはしない。とにかく、彼女の本質を突く冷ややかな声に、去年の文化祭のことが想起され、同時に気付いたというわけである。

 放課後、私は部室に赴くと文庫本に目を落とす雪ノ下さんに問いかけた。

 

「雪ノ下さん。君はお付き合いとかしてるの?」

 

 決して不純な気持ちからこのような質問をしたわけではない。以前も述べた通り、彼女を攻略しようなどという気持ちは、すでに雲散霧消しているのだ。ただ純粋に、彼女のような女傑と並び立つ偉丈夫が、この界隈に存在しているのか疑問だったのである。

 

「なんでそんなことあなたに言わなくちゃならないのかしら」

 

 ご尤も。あまりにもつっけんどんな発言に僅かな怒りを覚えた私であったが、返す言葉もなく黙然と文庫本を読み始めた。

 

「していないわ。時間の無駄じゃない」

 

 間をおいて雪ノ下さんはそう言った。『破戒』を読んでいた私は、丑松の境遇にいたく心を震わせており、無意識に「ふぅん」と答えただけであった。

 

「……あなた。ものを尋ねておいてその態度は失礼じゃないかしら。いつまでたっても更生しない原因は人として恥ずべきそういうところにあるのよ」

 

 雪ノ下さんは私を鋭く睨みながら言った。文庫本に没頭していたため、一瞬、どうして責められているのか判然としなかった。間が空きすぎていたのだからしようがあるまい。

 

「え、え。なんだっけ。雪ノ下さんが交際してるかどうかの話だよね。で、してるの?」

「はぁ……していないわ。それであなたはこれを聞いてどういうつもりなの」

「いや、特に。まあ、そうだよね。雪ノ下さんが誰かと付き合うなんて有り得ないよね」

「へぇ、そういうこと。そうやって私を馬鹿にするためってことでいいのかしら?」

 

 話があらぬ方向に飛躍しだし、私は慌てた。

 

「滅相もない。これは逆説的な賛辞であって、決して馬鹿にしているわけじゃないんです」

「意味がわからないわ。とぼけようとしているでしょう」

 

 私は、軽い気持ちで尋ねたことをはやくも後悔していた。孤高の乙女として世に迎合しないその姿勢を誉めたところで、おそらく彼女は喜ばないだろう。だいいち、露骨に誉めそやすことを私はよしとしない。だって恥ずかしいもの。

 

「まあ、もういいわ。あなたのことだから、おおかた内容に瑕疵(かし)でもあったのね」

「その通り。察しが鋭敏で助かります」

「何度も言うようだけれど、世間で通用すると思ったら大間違いよ。過酷な目に遭うのはあなただから、私は別に構わないのだけれど」

「ご憫察、痛み入ります」

 

 私は低頭して言った。

 我々はまた読書に戻った。開け放たれた窓から蒸した風が舞い込んでくる。気が付けばもう夏である。本日もやはり暑い。

 私は長机の上においてある団扇をとるとぱたぱたと汗ばんだ顔を扇いだ。

 

「遅いわね、二人とも。あなた同じクラスよね、なにか知らない?」

 

 雪ノ下さんは、文庫本を机に置いてそう言った。

 

「あ! 忘れてた。比企谷は今日来ないってさ」

「そういうことは最初に言いなさい」

「ごめん。由比ヶ浜さんは知らない」

「そう。何かあったのかしら」

「最近元気がないようだね。一昨日、偶然会ったんだけどいつもの由比ヶ浜さんじゃなかった」

「前回の部活、あのときの話となにか関係があると思うのだけれど」

「うん、俺もそう思う」

「ということは比企谷くんに……そういえば、あなた職場見学で一緒だったのよね」

「……どうだったかな」

「目が泳いでるわよ。自分でそう言ってたじゃない。何かあるでしょう、二人を見ていて分かったことくらい」

 

 平塚先生の双眸と見まごうばかりの鋭い視線が私に注がれた。たじろいだ私は、慎ましやかな抵抗とばかりに、彼女の好きな食べ物について質問してみたが、レーザー光線に一蹴されてしまった。

 本日二回目にして私の誇りは「きゃああ」と幼子のような悲鳴をあげていた。これ以上は堪えられない、おとなしくすべて吐いちまおう、誇りはそう哀願している。我ながら脆弱な誇りを持ったものだと消沈したが、誇りが打ち砕かれようとも、その背後には魂が控えている。質実剛健な我が魂は、易々と己の恥部を晒すようなまねはしない。

 私は超然と、雪ノ下さんの端整な顔を無言で見つめた。

 

「ふざけているの。黙っていないで早く言いなさい」

 

 強靭な魂が潰走した瞬間であった。

 結局、私はそのときの心境と、彼らの会話を傾聴していなかった迂闊さを詳らかにしてしまった。

 

「まったく恐るべき阿呆ね」

 

 雪ノ下さんは、私が忸怩たる思いで語っている最中にも吹き出しており、ちょっと笑いをこらえ切れない、といった様子でそう言った。

 

「普段からほとんど役に立っていなけれど、ふっ……そういう時にこそ貢献しないで、あなたいったいどういうつもり?」

「俺が教えて欲しいくらいだね」

「ふふっ……茶化さないで。本当に使えない男ね」

 

 これといって茶化したつもりはないのだが、雪ノ下さんは真顔と失笑を繰り返すヘンテコな状態になっていた。笑われていることに微々たる苛立ちを覚えつつも、この際忍び難きを忍ぶことで、事態の好転を望んだほうが我が身のためである。

 私は、雪ノ下さんが俯いて微動している隙に、言った。

 

「過ぎたことは仕方がない。比企谷が来たときに聞いてみようぜ」

「もう忘れたの? その歳で痴呆かしら。前回の様子ではあの男はなにも喋らないでしょう」

「痴呆って。またそんなひどいことを……とにかくそれしか方法がないじゃない」

「一概にないとは言えないわ。そうね、あなた同じクラスなのでしょう」

 

 私は嫌な予感がした。

 

「比企谷くんが口を閉ざしている以上、あなたが直接、由比ヶ浜さんに聞きなさい」

「無理だ。お断りする」

「あら、どうして?」

「そんな芸当、俺にはとうていできない」

「つべこべ言わないで。職場見学のことは不問にしてあげるから、奉仕部員としての務めを果たしなさい」

「雪ノ下さんは彼女の顔を見ていないから、そんな浅はかなことが言えるんです。あの寂しげな笑顔を引きはがして尋問するなんて……心の痛みに堪えられない」

 

 雪ノ下さんは、またしても、私をけちょんけちょんにしようと眼光を漲らせた。彼女の視線は、ともすれば私に新たな性癖を目覚めさせかねないほど強烈であったが、しかし、私とて、ここは一歩も引かない覚悟である。爽やかな笑顔を湛えて、「なにか悩み事でもあるんじゃないの? そこのカッフェでエスプレッソでも飲みながら、話聞くよ」などと、二枚目俳優のごときセリフを、私が発し得ると思っているのか。私だって本当はそうありたい。しかし、それは無理な話である。それに、万が一、そういう場を設けたとしても、何も聞きだせずに、気のつまるような時間が刻一刻と過ぎていくと容易に想像できる。傷つきやすい胃腸に無理を強いて、話し合いどころか、情けなくも私はトイレに籠城することになるだろう。

 雪ノ下さんは、目元を少し緩めてため息をついた。

 

「はぁ……。仕方ないわね。もう少し様子を見ましょうか」

「異議なし」

「杞憂、ということも考えられるわ。明日になったら顔を出すかもしれない」

「いや、本当すまんね。で、あのさ。昼食二人でとってるんじゃなかったっけ」

「ええ。先週まではね」

「なるほど」

 

 由比ヶ浜さんは雪ノ下さんとの交渉すら断っているということか。これはもしかすると、奉仕部からの離脱を考えているのではあるまいか。事態は私が思っているより深刻なのかもしれない。彼女が退部してしまうのは非常に遺憾であるが、しかしながら、いくら頭を捻らせようと、私にできることはあまりないように思われた。

 しばし、黙っていた我々が読書へ戻ろうとすると、唐突にドアがノックされた。

 雪ノ下さんが「どうぞ」と促すと、水も滴るイイ男風の爽やかな男子生徒がすがすがしい笑みを浮かべて入ってきた。

 

「やあ。ちょっといいかな」

 

 己との天文学的差異に神の企みを看て取り、その姿を見るたびに天に唾を吐きたくなるほど現実を思い知らされる満場一致の美男子、葉山隼人の登場であった。

 

 

 


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