奉仕部と私   作:ゼリー

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第三十話

       ◇

 

「おまえ、また何かよからぬことを企んでいるだろ」

 

 体育祭を目前に控えた、ある秋の日のことである。

 教室の一隅において、この世で最も卑猥なものを思い浮かべているかのように、死ぬほど気色悪いほくそ笑みを浮かべていた比企谷に、私はいくばかの躊躇の末、声をかけた。時々、比企谷はこうやって虚空に笑いかけていることがある。本当に、危ない奴である。

 

「ふへっ?」

「ふへ、じゃない。また俺にとばっちりが来てるんだよ。いい加減にしてくれ」

 

 何か変態的妄想を邪魔されたからか、比企谷はこそばゆそうに顔をしかめた。

 

「何の話だよ」

「奉仕部のことだ。三浦さんが俺に文句を言ってきた」

「……ふっ」

 

 間をおいて、なぜか比企谷は失笑する。

 ただでさえ不愉快な顔だが、それが笑みを浮かべていると、いっそう腹に据えかねるものがあった。私は無言で比企谷の頭をはたく。

 

「いってえな」

「俺の心の方が痛い」

「はあ? で、三浦がどうしたって?」

 

 比企谷はやや声を落とすと、苛立たしげに机をトントンと叩いている三浦さんの方を盗み見た。

 彼女は最近機嫌が悪いそうである。先日、食堂でそんなことを言っていた。女王蜂の機嫌を損ねる不届きものが、まさかこのクラスにいるとしたら、それはもう比企谷を除いて他にはあり得まいと思ったのだが、どうやら私の推測は外れていたらしい。

 

「メールがどうとか、そんなことを言ってきた。そして俺は百三十円を損失した。落とし前は比企谷、おまえがつけろ」

「意味がわからん。いやわかるけど、わからん」

「俺の方がわからんわ」

「よし、じゃあ二人ともわからない、ということでおしまいだ」

「ぶち転がすぞ」

「で、出たー、暴言だぁ。平塚先生に言いつけちゃうぞ」

「相模さんのことだ」

 

 私が言うと、比企谷は、おや、というような顔をした。

 三浦さんが気に入らない人間というのは、あの忌むべき文化祭の実行委員長を務めた相模さんであった。理由は知らないし、私は女同士の火花散り乱れる争いにとくに興味もない。だが、しかしである。再び文化祭のときのように、私の与り知らぬところで、私を巻き込むような何かしらが、ぷくぷくと醸成されているような雰囲気が芬々に漂っていることは、鋭敏な感覚を有する私にはすぐに察知できた。当事者でもないのに振り回されるような事態は、いくら温厚な私とて看過できることではない。ましてや一度ならず二度までも、否、もはや数えるのが馬鹿らしくなるほど、私は否応なく巻き込まれてきたのだ。おまえは巻き込まれることに、なにか一家言持っているのかと、そう自分に詰問したくなるのも無理からぬ話である。ちっとは抵抗したらどうだ、え? そうだ、抵抗すべきだ。というわけで、早急に事の元凶に最も近いであろう比企谷、ひいては奉仕部に釘をさしておく必要があったのだ。

 

「俺を奉仕部の事情に巻き込むんじゃない。ほっといてくれよ」

「まてまて。三浦が何を言ったか知らねえが、俺たちはべつにおまえをどうこうしようって気は、ふふっ、ないんだぜ?」

「なに笑ってんだ」

「いや、べつに」

 

 大方、巻き込まれ体質な私が、いま一度巻き込まれかかっているのを、心の奥底から愉快に思っているのだろう。怪しからんやつである。私は改めて比企谷の頭をはたいた。

 

「ともかくだ。何をやっているか知らないけど、俺に迷惑をかけるんじゃないぞ。いいか、絶対だぞ」

「お前、それってフリ――」

「うるせえ、絶対だぞ! 阿呆がッ」

 

 声を張ってそう告げると、私はどしどし足音を立てて自席に戻った。

 小ぬか雨の降る気怠い昼休みのことである。

 

       ◇

 

 自販機でコーラを買った私は、屋上へと続く階段の踊り場に腰を下ろした。

 背後に見える明り取りの窓からは、比企谷の魂のようにどんよりと澱んだ空がのぞいている。階下からは、騒がしげな気配がして、密林の奥地に生息する鳥の鳴き声のような奇声が聞こえてきた。おそらく、男子生徒たちが追いかけっこでもしているのだろう。

 私は小さくため息をついた。

 直情的になってはいけない。自己を律してこそ、常に正しい行いができる。

 日頃から私は私をそうやって戒めていたにもかかわらず、あまりの腹立たしさから思わず馬鹿でかい声でどなってしまった。むろん、あらゆる悪因は比企谷に帰する。そこにはなんの疑義も挟ませない。しかしながら、あえて同じ水準まで己を落とし、救いがたい阿呆になる必要はどこにもないだろう。その結果が、衆目を浴びて、教室からいそいそと逃げ出すというのでは、あまりに情けなさ過ぎるというものだ。

 反省、反省、また反省。

 私は、比企谷への呪詛を取り混ぜながら、己の行いを省みて、コーラのプルタブを引いた。

 小気味良い音が響く。

 すると、頭上の方で気配がし、続いて女性の声がした。

 

「だれ?」

 

 私は慌てた。誰もいないプライベートエリアだと思っていたのだが、屋上につながる扉の影に女生徒がひそんでいたらしい。

 

「怪しいものではありません」

 

 立ち上がりながら、思わずそう答えていた。

 女生徒がゆっくりと顔を出す。

 

「あなたは……実行委員長」

 

 相模さんであった。目のあたりが朱色を帯びている。それになぜか鼻もすすっていた。季節外れの花粉症だろうか。

 相模さんは私に気が付くと、一瞬、眉をひそめてから、何か呟いた。

 一方、私の方は、羞恥で教室から逃げ出したはいいものの、その先でクラスメイトと遭遇するという運命的な辱めを受け、足が固まっていた。致し方なく、「へへっ」と愛想笑いを浮かべるほかなかった。

 

「委員長、ここでなにを?」

 

 私は、「じつは全然なんとも思っていません、あんなことで俺は動揺したりなどしません」的な雰囲気を醸し出そうと、平静を装ってそう声をかけた。

 

「……べつに、なんでもないよ」

「あ、そうですか。じつは俺もなんでもないんですよ」

「え? なにそれ……」

「いやいや、ちょっとばかりですね、あのど阿呆にお灸を据えてやったわけでしてね」

 

 相模さんは目を擦っている。擦っている合間にちらと除く双眸は、やや軽侮の念を湛えている気がしないでもない。

 

「えっと、うち、その……ひとりになりたくて」

「へ? ひとりに? いや、俺もひとりは好きなんですけどね。もちろん、いまだってひとりになりたくて、わざわざここまでやって来ているんですよ、ええ。孤独が好きなもんで――」

 

 当てこすり、あるいは皮肉とも捉えられる「ひとり」という単語に反応した私が、やや狼狽えながら早口でまくし立てていると、相模さんは「うち、もう行くね」と言って、階段を下り始める。

 

「教室に戻るんですね。まあ、俺もそのうちに戻りますよ。べつに、なんてことはないんですからね。いいですか、あれは比企谷がですね――」

 

 そして、いま一度無様な言い訳を滔々と語ろうとした次の一瞬であった。

「あっ」という小さな悲鳴とともに、相模さんが私のすぐ目の前で階段から足を踏み外したのである。

 そこからはスローモーションであった。たちまち我が全神経が研ぎ澄まされ躍動する。

 残り数段というわずかな高さから滑落しかけている相模さん。

 踊り場に立ちつくす私。

 階下から響く謎の「キエエエエッ!」

 時雨はじめた秋の空。

 屋上扉の張り紙「開けたら閉める」

 その刹那、私のあらゆるニューロンが一斉に発火し、シナプスを通じて筋線維が覚醒、ほとんど反射と見紛うばかりの速さをもってして、両腕が開かれる形で我が肉体の準備は完了した。相模さんを受け止めるに足る態勢である。要した時間、じつに1秒。レスキュー隊もかくやと思われる反応と言わねばなるまい。

 しかし、現実は予想の斜め上、否、やや斜め右数センチを通り過ぎた。

 なんと(当たり前だが)、相模さんは体を捻って、私を回避するように滑落したのである。しかも、回避しきれなかったのか、投げ出された腕が、豪快に私の首を刈り取るラリアット気味の滑落であった。その結果、衝撃はだいぶ緩和されたようで、相模さんは少し足を挫いた程度で済んだようだったが、肉体的鍛錬とは無縁であった私は見事にはね飛ばされて、開けたばかりのコーラが宙を舞った。

 

「うわああっ」

「きゃああ!」

 

 連日、私は炭酸をぶちまけた。

 しかしながら、女生徒の身を守ったのだから悔いはない。

 シュワシュワ。

 

       ◇

 

 保健室に、養護教諭の姿はなかった。

 こんなことが先学期もあったな、と私は思う。

 左足に湿布を貼った相模さんは、それまで貫いていた無言から、ため息、そして「ごめんなさい」と順に悲愴感をにじませ始めた。この世の終わりのような顔をして、悄然としている。

 

「コーラはまた買えばいいですから。それより足、大丈夫?」

「……うん」

「よかった。まあ、折れてはなさそうですが、一応、放課後になったら病院に行った方がいいかもしれませんね」

「……そんな時間、ない」

「え、しかし……はあ。まあ、好きにしたらいいと思いますが」

 

 それきりまた無言になった。さすれば、もうここにいる必要がない。私の役目は終わったのだ。というか、私の役目ってなんだ。そもそも私には何の非もない。どちらかといえば被害者は私のほうだといってよい。それをわざわざ保健室まで連れ立って、治療を見守り、助言まで与えたのは、純粋な善意にほかならない。これはもう表彰ものだろう。

 相模さんはいまだ発着ロビーでパスポートを紛失した人のような顔をしているが、そんなのは私となんら関係がないはずである。昼飯を食べていないから腹も減っている。強打した首元も痛いし、制服の裾が甘ったるい汁でべたつきもしている。外は憂鬱な雨模様だし、日本経済の先行きは不透明だ。どれもこれもすべて比企谷のせいである。ああ、ひとりきりでどこか遠くへ行きたい。そういえば、さきほど相模さんもひとりになりたいとか何とか言っていた。ここはさっさと辞去するのが紳士的振る舞いだろう。

 そんなふうに思って、私が丸椅子から腰をあげたときだった。

 

「もういや……なんで、うちだけこんな目に遭うの」

 

 消え入りそうな声で、相模さんがぽつんと呟いた。

 

「それは、よく足元に注意を――」

「おかしいよ……遥とゆっこだって文句ばっかで何にもしないくせに。うちばっかり貧乏くじ引かされて……」

「はい?」

 

 相模さんには私の言葉が届いていないらしかった。何か恨み言のような剣呑な台詞をぽろぽろとこぼしている。いったいどうしたというのだろうか。

 相模さんがなおも続ける。

 

「仕事ができないのはわかってるけどさ……うちだって頑張ってるじゃん。少しくらい協力してくれたっていいのにさ……」

 

 言葉を挟む余地がまるでなかった。というか、挟みたくない。では、すみやかに保健室をあとにすればいいのだが、下手に動けば相模さんの気に障りそうで余計に厄介だ。私の採るべき選択は、超然と棒立ちしているに限られた。

 相模さんは何かきわめて個人的な愚痴をこぼしているわけだし、とりあえず彼女が落ち着くまでは、あたかも空気中に漂う塵のごとく存在感を希薄にしているのが正解であろう。やがて立ち去る機会も生まれるはずだ。

 しかしながら、事態は私の予想を裏切ってより奇々怪々な方面へと舵をとった。

 

「全然だめで役に立たなかったからさっ……反省してさっ……謝ったじゃんっ……」

「えぇ……」

 

 そんな、まさかと思い私は目を見開いた。

 相模さんはなぜか泣いていたのだった。

 

「なんで、うちばっかり……もう、ぜんぶやめたい……」

 

 いやいや、泣きたいのは私の方である。

 教室では恥をかき、ひとりアンニュイに浸ろうとすれば邪魔が入り、さらには邪魔をした相手からラリアットを受けコーラを台無しにされて、きわめつけはわけの分からぬ愁嘆場である。

 現実を許容できる閾値はとうに超えており、もはや私のしわ多き脳みそは活動を停止しかけていた。

 そんな泥沼的状況だったが、相模さんが呟いたある言葉で、私の思考判断力は半ば無理矢理目覚めさせられた。

 

「もう、うちじゃなくて雪ノ下さんでいい……」

「雪ノ下さん?」

 

 私は鸚鵡返しのように思わず尋ねていた。

 ふいにびくりと体を震わせて相模さんが俯いていた顔を上げる。涙で濡れた目は、「お前まだそこにいたの」という非難がましげな光を湛えていた。しかしながら、私はそんな視線に晒されていることよりも、雪ノ下さんというワードから、なにやら不吉な芋づる式が導き出され、近い将来に不穏な影が落とされるのではないかという予感を覚えていた。

 

「雪ノ下さんがどうかしたんですか?」

 

 言ってから、しまったと思う。

 相模さんはじっと私を見つめたかと思うと、ふいに「あっ」と言うような顔をした。何かに思い当たったらしい。

 

「そういえば奉仕部だっけ……」

 

 やはり墓穴を掘っていた。相模さんは私が奉仕部員であることに気が付いたらしい(正しくは仮入部、かつ退部申請中である)。そして、この瞬間明らかになったことではあるが、さきほどの直感は正しく、またぞろ奉仕部が何か一枚噛んでいるようだった。暇な連中だ、と笑うこともできるが、彼らの傍若無人な矛先は関係のない周囲の人間を巻き込む傾向にある。否、外縁の人間も巻き込むのだ。おもに私。

 私と相模さんの邂逅には、なにか神様の戯れ的な悪縁を感じた。行き果つるところは奉仕部という奈落だ。連中は私という無垢で純白な魂を汚さんと鵜の目鷹の目で狙っているに違いなかった。怨霊みたいなやつらである。というより怨霊そのものである。

 

「いや、あのですね。俺はもう奉仕部では――」

「お願い。雪ノ下さんに頼んで。もう、うちじゃどうしようもないから」

「だから奉仕部じゃないし、相模さんが何を言っているのか――」

「お願いします」

 

 私ははたと口をつぐんだ。あまりにも相模さんの様子が逼迫していて、懇願といった調子だったからだ。

 読者読賢には、腹の底からご理解いただけていると推察するが、私は女性にとことんやさしい。ついでに弱きを助け、強きを挫く義侠的精神もふんだんに持ち合わせている。

 私は地球環境と両親には頭が上がらないタチであるが、祖母にいたってはひざまずくほど畏れ敬っており、その祖母が口を酸っぱくして事あるごとに宣っていたのが「女の子にはやさしくしなさい」であった。爾来、私は、女の子にやさしくする機会を虎視眈々と狙っていたわけであるが、そういうシチュエーションは残念ながらこの齢になるまで、ついぞ訪れることはなかった。いい加減、祖母を疑ったこともあった。そもそも女の子と関わる機会すらないじゃないかと心中で祖母を罵倒したこともあった。だが、そのときは訪れた。今である。何が起こっているのか、まったくわからないが、たぶん今である。

 私は、眦を決して頷いた。

 

「わかりました。伝えましょう」

 

 しかしながら、そのまえに聞かねばならぬことがあった。

 

「で、そもそも何が起こってるんです?」

 

       ◇

 

 私は激怒した。必ず、かの邪智暴虐の体育祭実行委員会を懲らしめなければならぬと決意した。私には人間関係がわからぬ。私は、青春の被害者である。法螺を吹き、理屈をこねくり回して暮して来た。けれども間違いに対しては、人一倍に敏感であった。

 

 相模さんの置かれている現状を聞いた私は、久方ぶりに憤っていた。と、同時に彼女なら、この艱難辛苦もばっさばっさと斬り捨てられるものと確信していた。なんといっても、彼女はあの文化祭を取り仕切った大親分である。

 概略すると以下のような状況であった。

 相模さんは文化祭実行委員長だけで飽き足らず、なんと体育祭の運営においてもその長の任務に就いた正真正銘の豪の者であったそうな。此度も、文化祭と同じく大団円の幕を迎えるべく骨身を惜しまず働いていたが、ここで抜き差しならない問題が発生する。

 

「問題の根幹は相模さん、つまり執行役員側と実行委員たちとの間に意見の相違があるということでしたね?」

「……うん」

 

 保健室の丸椅子に腰かけて、相模さんは小さく頷いた。

 意見の相違などと、いささか抽象的な表現をしたが、そのじつ相模さんへの挑発行為もあると聞き及んでいた。なんでも彼女がか細く語ったところによると、友人でもあった委員の数人から無視されたり、これ見よがしに悪口を叩かれたりしたそうだ。いわゆる「ハブ」というやつである。比企谷の専売特許なので、彼以外に「ハブ」を強いるのは道徳的間違いと言わざるを得ない。原因は判然としないらしいが、彼女は「たぶん……」と口火を切った。

 

「うちが目立っているのが気に入らないのかもしれない……あと、部活があるから体育祭の準備なんて面倒くさいってのも、もちろんあると思う」

「ひどい」

「……うん。でも、うちも悪かったから。会議、遅刻しちゃったりとか、あの人たちに任せっきりだった部分もあったし……」

「人間ですから、遅刻の一回や一万回くらいしますよ。それに仕事は適材適所です。できるひとができる部分をやればいい。トップはどっしりと構えて下知、これですよ」

 

 たかだか体育祭の催し物ごときで、何を一丁前らしく舌鋒鋭く喧々囂々やりあう必要があるのか。国会議事堂の討論でもあるまいに、すみやかに上の言うことを聞いて、粛々と己の役割を全うしていれば、余計な時間もとられず、だれも不幸にならないでつつがなく体育祭が終わるというのに。しかも一生懸命にその任を全うしようとしている人間を、あえて邪魔しようとするなんて、いったい何が面白いのか。もっと楽しいことはいくらでもあろうと思うのだが、連中にはそれがわからないらしい。

 

「やっぱり、うちが悪いんだ……みんな協力してくれないのは、もともとうちに人望がなくて、委員長なんて柄じゃないからなんだよ……ひとりじゃ何にもできないくせに、なに委員長なんて自惚れてるんだって……」

「許せませんね」

「……え?」

 

 果たして、そんな連中に(おもね)る必要があるのか。

 かりに相模さんが無能のお飾り委員長だとしても、――あるいは、かりにやや怪しからん思惑があって委員長になっていたとしても、彼女が前進しようとしている道を、自身では何も生まず、ただ外野から喧しく吠えたてる有象無象が邪魔立てする筋合いはないはずである。文句を垂れるだけなら、幼稚園児でもできるではないか。我々は高校生である。抗議反駁を是とするのであれば、それなりの責任と覚悟を持たねばなるまい。彼らにはそれがない。彼らからは心意気を感じない。ゆえに彼らは間違っている。

 やはり許せるものではない。

 

「相模さん。負けてはいけない」

「え?」

「たしかに酷い状況です。しかし、ここで引いたら奴らの思うつぼじゃないですか」

「……でも――」

「デモもストライキもありませんよ! 相模さんが下りる道理はないんです。口惜しくないんですか?」

「……」

「俺は口惜しいですよ。文化祭のときもそうでしたが、連中の日和見主義と、狡猾な迎合主義には我慢がなりませんよ!」

「う、うん」

 

 私は壁際からずいずいと丸椅子に腰かける相模さんの方へ踏み出した。

 

「できます。相模さん、きみならできる。何を恐れる必要があるのです? きみが抱えているのはまったく無益な煩悶だ。間違っているのはきみじゃない、連中の方だ。そして間違いは常に正さなければなりません。聞いていますか、相模さん、泣いている場合じゃありませんよ、これは。賛同者は必ずいます。俺もそのひとりです。やりましょう、相模さん。連中にお灸を据えてやりましょう!」

 

 私はふいに我に返った。相模さんは丸椅子ごと体をのけ反らせて、引き攣ったなんともいえない苦笑をこぼしている。

 

「すみません。ちょっと熱くなってしまいました。ですが、相模さんが折れる理由はないです。俺も協力しますよ。これは文化祭であなたに敗れ、涙を呑んだ一介の将からの餞です。奉仕部にはしっかりサポートするよう伝えておきます。あいつらにはそれくらいしか能がないんですから。それで構いませんね?」

「あっ、うん、えっと、うん。あ、ありがと」

 

 相模さんは圧倒されたように頷いた。

 読者読賢には、腹の底からご理解いただけていると推察するが、私は女性にとことんやさしい。ついでに弱きを助け、強きを挫く義侠的精神もふんだんに持ち合わせている。そして諸君、これはけっして学校生活が順風満帆とは程遠い、鬱屈した個人的怨みの総決算ではない。あくまでも祖母の教えと、間違いを許せない己の信条に則った正当な怒りなのである。そこのところをゆめゆめ忘れることのなきようお願いしたい。

 

       ◇

 

 教室に戻り、昼飯もとらず5、6限目の授業を受け、何事もなかったかのように帰路をたどり、自室の扉を開け放って、私は膝から崩れ落ちた。

 冷静になってみると己の阿呆さ加減に絶望を禁じえなかった。

 

「なんて馬鹿なことを」

 

 そして、柄でもない熱血漢ぶりを惜しげもなく披露してしまったことに羞恥で身もだえた。

 こうなることなど誰が予想し得よう。私はただ、ひと気のない屋上踊り場で昼休みをやり過ごそうとしていただけだったのだ。あまりにも間が悪かった。運が悪かった。そして、比企谷が悪かった。

 人の話を聞かない相模さんにも苛立ちを覚えなかったと言えば嘘になる。協力するなんて大口を叩かなければよかった。結局、私は奉仕部と関わり合う運命なのか。神はいないのか。しかしながら、もはや巻き込まれたのか、自ら泥沼に頭を突っ込んだのかわからない。自分がわからない。お前はいったい何がしたいのか。馬鹿なのか。鳴門の渦潮のようにぐるぐると埒もない問答が頭の中を巡り、高野豆腐のように柔らかい私の精神を苛んだ。

 

「けれど」

 

 そう、しかしながらである。

 相模さんの涙は本物だった。およそほかのあらゆるものが偽物であろうとも、彼女の悲しみや悔恨は真実だった。涙の成分は血液に近似していると聞く。彼女は血を流して苦しんでいたのだ。であるならば、紳士たるもの目を背けるわけにはいかない。

 これが最後だ。奉仕部との大悪縁もこれで最後。釈然としない部分も多々あるが、理不尽な迫害を受ける女生徒を救うためと割り切って腹をくくろう。

 秋も深まる夜の底、小汚い四畳半の自室で私はやや曲がり気味のほぞを固めた。

 

 

 


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