奉仕部と私   作:ゼリー

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第十二話

       ◇

 

 この一週間、やはり由比ヶ浜さんは一度も奉仕部に顔を出さなかった。そのため部室は、浩然の気が満ちる屋外とは打って変わって、局地的寒波に襲われでもしたかのように寒々としていた。

 由比ヶ浜さんが来ないとわかっている部室に顔を出すのは容易なことではない。私のように繊細微妙な神経を有する者にとっては並々ならぬ精神の力を必要とし、横殴りの吹雪にも似た皮肉や警句に堪えなければならないのだ。できれば出たくない。しかし、私は誠実さにおいては余人の追随を許さぬ男であり、仮とはいえ部員であるのだから、その義務を放棄するような非紳士的なことは断じてしない。それゆえ、心をやすりでがりがりやられるとは分かりつつも、私は部室へ足を伸ばしていた。

 部室のドアを開けると、いつものように雪ノ下さんが端然と座して、読書に耽っていた。

 

「こんにちは」

「ええ、こんにちは」

 

 私は挨拶を済ませると、自席に座った。しばらく虚空を見つめながら茫然としていたが、ふいに雪ノ下さんから声がかかった。

 

「ねえ、昨日のこと覚えているかしら。帰り際のこと」

「はて。なんのこと」

「二人の不和についてよ。どうするのかと訊いたのに、あなた無視したじゃない」

「そんなことはしてない。聞こえなかっただけだ」

「なによ、それ。で、どうするつもりなの?」

「そのことなら心配いらないよ。目処は立ったから、近いうちに由比ヶ浜さんは部に帰ってくるはずだ」

 

 私がそういうと、雪ノ下さんは顎に手を当てて考え込んでいる様子だった。ひどく真剣な顔つきで考えているので邪魔しては悪いと思い、話の途中ではあるようだったが、私は文庫本を取り出して頁をめくりはじめた。

 初夏の香りをまとった風がカーテンをなびかせ、部室を吹き抜けて廊下へと出ていく。雪ノ下さんの膝の上に置かれた文庫本がぱらぱらとめくれた。

 

「ひと通り考えてみたのだけれど、あなたに解決できるような問題ではないと思うの。べつに期待はしていないから、本当のことを言いなさい」

「うん」

「ちょっと、聞いているの? ねえ」

「え? ごめん、なに」

「人の話はきちんと聞くものよ、小学生で習ったでしょう。犬だって一度躾けられたら忘れないというのに、いったいどういうつもり? 分かってはいたけれど、やっぱりあなたは犬以下ね。もしかして単細胞生物?」

「ははは……」

 

 私は卑屈に笑って非を認めた。抗弁はいくらでも湧いて出てきたが、舌戦を繰り広げれば情けない結果に陥るのは目に見えていたので私は低頭した。雪ノ下さんは満足そうに口角を上げると、話を繰り返した。

 

「まだ解決したわけじゃない。でも、解決すると思う。比企谷に謝らせるからね」

「その口ぶりだと、原因はわかったのね」

「まあね。諍いとはいっても由比ヶ浜さんが悪いなんてことがあるはずないし、おのずと答えは出ていたのさ」

「……そう」

 

 雪ノ下さんはどこか曖昧な表情をして私の顔を眺めた。まだ、問題解決の目処が立ったという私の言葉を信じることができていないのかもしれない。それは仕方のないことだ。さすがの私でも雪ノ下さんに向かって、「私を信用したまえ」とは、口が裂けてもいえない。言ったところで信じてもらえるとも思ってはいないが。

 と、そのとき部室のドアががらがらと開かれた。雪ノ下さんは口を開きかけていたが、すぐに結んだ。

 

「うす」

 

 遅れてやってきた比企谷であった。

 

「うす、とはなんだ。こんにちはと言え」

「……こんにちは」

「はい。こんにちは」

 

 比企谷は自席に座ると、「ふう」と息をついて、団扇でぱたぱたとやり始めた。私は雪ノ下さんに向き直って、さきほど言いかけた言葉を待っていたが、すでに下を向いて本をめくっていったので気にしないことにした。

 その後、我々の放課後はつつがなく進行していった。無意味で馬鹿げたやり取りが私を挟んで展開されたり、否応なしに私も巻き込まれたりと、いたって平生な暗澹たる奉仕部であった。夕暮れになり、そろそろ切り上げる頃になると、私はこの無為な時間をひとり嘆いて、由比ヶ浜さんのいち早い復帰を八百万の神々に(こいねが)った。

 

「それでは、また明日」

「ええ、さようなら。あっ――」

 

 雪ノ下さんは返事をすると、また何か言いたそうに短く音を発した。私は先に廊下へ出ていた比企谷の後を追おうと踵を返しかけていた。

 

「なに」

「ええと。いえ、べつになんでもないわ」

「気になるね。なに、言ってよ」

「ごめんなさい、引き止めてしまって。本当になんでもないの」

「いや、さっきも何か言いかけたよね。なんなの」

 

 押し問答となった。

 すると、ドアから比企谷が顔を出して、「早くしろよ。先行くぞ」と急かしつける。雪ノ下さんは奇妙な薄ら笑いを浮かべており、いささか不気味に思った私は、仕方なく続きを次回に延ばすことにして部室を辞した。

 

「なんか妙だな、雪ノ下さん」

「なにが」

「口ごもってたどたどしい。そんなこと滅多にないだろ」

「ほう、珍しいな。平気で人の欠点をあげつらう超フランク女なのに」

「もしかして告白かな、俺に」

「……」

「もしかして愛の告白なのかな、俺に」

「聞こえてるよ阿呆。繰り返すな」

「由比ヶ浜さんのことかな」

「だろうな」

 

 校庭で爽やかな汗を流しながら球蹴りに情熱を燃やす生徒たちの横を、やや縮こまり気味にやり過ごした我々は、下校する生徒たちに混じって校門をくぐった。

 夕日が、前を歩く仲睦まじい男女の影を形作っていた。私はその幸せそうな学生カップルから目を逸らした。隣では、比企谷が眉を寄せて一段と瞳を混濁させている。

 それにしても絶望的に夕日の似合わない我々の惨めさはなんということか。夕日は青春を謳歌する若者に与えられた舞台装置で、我々にとっては暗喩を多分に含んだ斜陽に過ぎないとでもいうのか。だいたい、なぜ私は当たり前のようにこの男と家路を共にしているのか。解せない、まったくすべて解せなかったが、「ひとりで帰る男子生徒にやさしく照る夕日の図」を想像すると、あまりのメランコリックに、あやうく涙をこぼしそうになったので、とりあえず何も問わないことにした。

 

「そういえば週末、材木座も行きたいとかぬかしてたが」

「はっ。あいつがプレゼントを買うの? 女物の? 嘘だろ、さすがに嘘だろ」

 

 それは我々にも同じことが言えるのではないか、と思ったが黙っておいた。

 

「なにか、こう、犯罪的だよな。あいつが女物を物色してる姿は」

「たしかに。まあ、でもべつに来てもいいんじゃないか。一応面識はあるわけだし」

「うむ。だが、今回は丁重にお断りしておこう」

「そうか」

 

 途中、緑むせ返る公園のわきで我々は別れた。私は、「家で茶でも出してくれ」と何気なく言ってみたが、容赦なく断られてしまった。比企谷は愛用の自転車にまたがると、夕日を背に受けながら颯爽と走り去っていった。

 

       ◇

 

 特筆すべきことのない数日が過ぎ、ようやく週末が訪れた。

 贈り物の購入を明日に控えた土曜日、朝早くに目を覚ました私は、気だるい体を引きずるようにして食卓につき朝飯をとった。良い天気だから散歩でもしてきたらと言う母の勧めに気のない返事をして、早々と自室へ引き返した。

 先ほど起き上がった布団の上にもう一度ごろりと体を横たえる。そうして天井を見つめていると様々な考えがシャボン玉のように浮かび上がってきた。

 由比ヶ浜さんが復帰して、以前のような奉仕部に戻ったとしてだ。果たして、薔薇色の高校生活への活路が開けることに相成りうるのであろうか。目的は合致するなどと嘯いてはみたものの、合致したところで私の未来は保証されるのか。なんだかひどく迂遠な手段を講じているような気がしてならない。彼女が戻ってきて、再び僅かばかりの活気が満ちたからといって、私の社交性が育まれるとは、とうてい思えなかった。なぜならば、数ヶ月間の奉仕部活動を通じて、ざっくばらんな社交性が育まれたという事実は微塵もなく、むしろ高貴であった魂のとめどない汚染ばかりが進んだような気がしてならないからである。もしかすると、奉仕部などに参加せず孤高を貫いていれば、哀れに思った優美な乙女の慈悲を享受できたのではないだろうか。さすがにそれは変態的妄想かもしれないが、今よりはもっと別の未来があったことは確かである。ここは、いま一度自分に深く問いただし、己の進路を策定するべき時期に来ているのやもしれぬ。

 そうだ。

 私は(まなじり)を決して起き上がると、ルーズリーフを一枚破って机に向かった。

 白紙の一番上に、でかでかと「未来予想図」と書きなぐる。うんうん呻吟しながら、まずは、入学してから今までの経緯を簡潔に記してみると、その驚くべき簡潔さに我ながら呆れ果ててしまった。おまえは今まで何をしてきたのだと、不毛な日々に罪深さを感じた私は頭を抱えた。出だしから躓いてしまったが、ともかく気を取り直して、将来的に晴れの舞台で満場の喝采を浴びる人間になるまでの過程を、箇条書きにしてみることにした。しかし、左側に黒点を打ってはみたが、続く罫線上には遅々として筆が進まない。かろうじてひねり出した最初の過程が、『柔軟な社交性を身につける』ことであった。

 阿呆か。

 その柔軟な社交性を身につけるために、汲々(きゅうきゅう)と過ごした無為の数ヶ月間を鑑みれば、それを第一項に定めるなど、極めつけの阿呆としか言いようがないではないか。駄目だ駄目だ。まずは、その道のズブの素人にも易しい、初歩的な段階を設けなければならない。そこで私は、『クラスメイトに声をかけ友人を作る』と標榜してみた。これはなかなか妥当な案に思われた。ほとんど忘れていた平塚先生の憂慮する、私の更生にもぴったりと当てはまる。友人が一人できば、その友人が友人を呼び、芋づる式に幅広い交友関係が築かれるであろう。そうなれば社交性なんてものは、待っていても向こうからやってくるにちがいない。

 しかし、私はどうにも気がすすまなかった。

「自分は選ばれた人間である」という昨今の若者にありがちな、鼻持ちならぬプライドを少なからず私も持っているわけだが、そんな「選ばれた人間」が、女王に(かしず)く迎合的集合体や、携帯ゲームに忙しい連中、なにやら意味不明な単語を呟きながら二次元を崇める少数派や、流行に敏感なお洒落馬鹿たちなどといった、有象無象と同等の位置に、自分を停滞させるのはいかがなものか、という選民思想が頭をもたげるのである。選ばれし者は、下々の民がうつつをぬかすような些事になど意を介してはいられない。私は、国家と己の将来を分け隔てなく憂えながら日々を送り、ひたすら思索に耽って魂を練る孤高の哲人である。そんな哲人がクラスメイトなどに構っている余裕はないのだ。やはり、これは却下である。

 ここで諸君はひとつ疑問に思うかもしれない。すなわち、ではおまえが「選ばれている」と信じ込んでいる根拠はどこにあるのだ、ということである。笑止。そんなもの、私の方が教えて欲しいぐらいである。しかし、どこか誰もが目をそむけたくなるような不気味な暗がりに、神器のごとく丁重に奉られて眠っていると私は信じている。

 以上のようなことを考えていると半ば恍惚としてきた私は、ありのままの自分になにか得体の知れない自信がふつふつと湧いてきて、次第に己の進路という漠然とした事柄がどうでもよくなってきた。ふと気がつくと、未来予想図の下に映画スターウォーズに登場した「ミレニアム・ファルコン」の絵を描いており、やがてこれに夢中になって、周囲の宇宙空間に、帝国軍の戦闘機「TIEファイター」をぐりぐりと描き込んだ。

 およそ1時間ほどその作業に打ち込んでから、「ふう」と息をつき、ひと仕事終えた満足感に浸っていた私は、もはや当初の目的を完全に忘れていた。ふいに未来予想図という文句が目に飛び込んできて、一瞬、恥じ入りかけたが、やはりどうでもよいと開き直った。第一、私が信じなくて誰が私を信じるというのだ。だいたい私のような未来ある若者が、将来的な不安に怯える必要などまったくないのである。どおんと構えていれば良いのだ、どおんと。

 うまく出来上がった落書きを目の前でぴらぴらさせて眺めていると、布団に投げ出してあった携帯電話が、突如、鳴り始めた。私は悪事を見咎められた子どものようにびくっと体を震わせると、携帯電話を検めた。ディスプレイには材木座と表示されている。私は、「驚かせやがって!」とディスプレイを叱り飛ばすと、そのまま放置して机に戻った。しばらくして今度は、「ライトセーバーを掲げるマスター・ヨーダ」の絵を描いていると、再び携帯電話が鳴った。私は舌打ちして無視をきめこみ描き続けていると、一旦は鳴り止んだ携帯電話が、間をおいてすぐにまた鳴り始めた。それが数回繰り返されると、いい加減頭にきた私は電話に出ると、「なんだ!」と叫んだ。

 

「我だ」

「わかってるよそんなこと。俺は今忙しいんだ。用件を言え」

「何をしているというのだ」

「お勉強だ」

「はんっ! 嘘はよくないぞお主っ」

 

 私は電話を切った。

 すぐに着信があった。私はため息をつくと通話ボタンを押した。

 

「すいません、ごめんなさい。余計なことは言わないので切らないでください」

「用は」

「ほかでもない。明日の出陣のことである」

「え」

「当方、準備は万全である。さあ、時刻と戦場を言うがいいっ!」

「あ」

 

 私は丁重なお断りの連絡を入れ忘れていたことにはたと気がついた。どうすべきか、適当に誤魔化すべきか。

 

「ええとだな。その事なんだが」

「言っておくが、もし中止だの延期だのであればその真偽を確かめるために、早朝から貴様の家の前で張ることも辞さないぞ、我」

「通報するぞ」

「構わぬっ」

 

 私は諦めた。こうなれば材木座をとめることは不可能に近い。集合場所の時間と場所を伝えると、それすらも疑い始めたので、あとで雪ノ下さんから送られてきたメールを転送するということで、ようやく材木座は納得した。

 

「では明日、戦場で相見えようぞっ! さらばだっ!」

 

 私は電話を切ると窓際に立ち、道路を楽しげに走り回る子どもたちを穏やかな目で見つめた。それから視線を遥かかなたに移して、縹渺(ひょうびょう)とした雲の下に広がる海原を眺めた。そうやって、しばし現実逃避してみたが、明日材木座が来てしまうという現実は揺るぎないものに変わりなかった。対面時の比企谷と雪ノ下さんの顔が想像できる。まずは材木座に対し不可解な表情を投げかけ、流れるようにして、次は私へ責め苛むような表情をぶつけてくることだろう。私は自分の迂闊さを呪った。

 

 午後になると部屋が蒸し暑くなってきた。暑くなると苛々してきて、図々しい材木座に対し怒りが湧いてくる。私はシャツを脱ぎ捨て上半身裸になった。机の上の落書きを眺めてみたり、『久生十蘭全集』をぱらぱらめくってみたりした。

 気分転換のために、聞き知った暗黒遍歴に対する私なりの論理的な寸評をメールに打ち込んで、比企谷に送ってやろうかと考えた。きっと悶絶して向こう数日間は寝込むハメになるだろう。面白そうだ。

 しかし、初夏の蒸し暑い部屋の中において、頭に浮かびゆく由無し言が比企谷の過去ばかりとなると、部屋がいっそう蒸し暑くなったように感じ、汗がだらだら流れ、しまいには頭が朦朧としてきた。すぐに中止すると、私はふらふらと台所へ向かい一杯の麦茶を流し込んだ。どうやら脱水症状になりかけていたらしい。あやうく、水分も摂らずに比企谷へのメールに熱中していたため病院に担ぎ込まれる、というたっぷり四半世紀は自分を許せぬハメになるところであった。私は、かろうじて防いだ汚名に戦慄してから、ついでに持ってきた酢昆布をぺちゃぺちゃねぶった。

 まだ6月で初夏だというのに、ここまで暑いと先が思いやられる。エアコンは故障していて、来週末に業者が直しに来る予定であった。そのゆえ、猥褻物陳列罪で訴えられても文句が言えない規模まで窓は開け放たれているが、それでも暑い。もう少し涼しければ厳粛な思索に没頭していただろう。私は、暑さのため奪われた体力を回復しようと、軽い気持ちで布団に体を横たえた。そのうち、いつの間にかぐうぐうと眠っていた。

 ハッと目覚めると、すでに日は大きく傾いて、私の休日は不毛に終わろうとしていた。携帯電話がやかましく鳴り響いており、これのせいで目覚めたらしかった。

 私は寝起きのぼんやりとした頭で、どうせ材木座が埒もないことで電波を浪費しやがったなと考え、不機嫌に電話をとった。

 

「なんだ!」

「も、もしもし」

「え」

 

 私は耳を疑った。驚くべきことに相手は女性であった。

 

       ◇

 

「あの、由比ヶ浜ですけど」

「え」

「あれれっ、もしかして間違ってますか?」

「いえ、合っています。大丈夫です」

 

 私は布団から飛び起きると、居住まいを正した。我が携帯電話から女性の声が発せられるという未曾有の異常事態に、心臓が跳び出さんばかりにバクバクと鼓動していた。

 

「よかったあ。それで、少しなんだけど、今、時間大丈夫?」

「もちろんでございます」

「あはは、なにその喋り方っ」

「えっ。あ、はい」

「ふふふっ、電話だといつもと違って聞こえるね、声」

「そうですね」

 

 かつてない事態に、私の脳内は上を下への大混乱状態である。耳元で女性の声が響くというのは、これほどまでに理性を使い物にならなくさせるのか。私はとにもかくにも落ち着くために、携帯電話を耳元から30センチほど離して、迅速に深呼吸を繰り返した。

 

「どうしたの? 聞こえてる?」

「はいはいっ、問題ありません」

 

 由比ヶ浜さんは、なにやら私にはぴんと来ないような世間話を間断なく喋り始めた。興味をそそる要素はまったくなかったが、さも可笑しそうに相槌を打っていると、次第に私は平静を取り戻していった。

 熱を帯びていた脳みそが冷却され通常の思考能力が回復されると、いったい由比ヶ浜さんは、こんな普通の会話をするために私へ電話をかけてきたのか、という疑問が相槌を打つたびに去来した。これではまるで親しい友人か恋人のようではないか。じつは、私の知らぬ間に我々の関係は急激に接近していて、こんな巷間話を羞恥のカケラもなく交わせるような親密なお付き合いが出来上がっていたのかもしれない。知人の垣根すら越えていなかった段階から、諸々の悲喜交々的ポイントを一挙に飛び越えて、そういう親密なお付き合いをしていると考えても、私ほどの男であればちっとも違和感を覚えない。

 そんなワケあるか。むしろ強烈な違和感しか覚えない。

 一見、無駄話としか思えないこの会話の背後には、由比ヶ浜さんの深遠な思惑が隠れているのだろう。まことに遺憾だが、わざわざ私に電話をかけてくる理由がほかに見当たらない。したがって、私はその背後に隠れた思惑を必ず読み取らねばならない。そういう風に考えて、私は耳をそばだてた。

 すると由比ヶ浜さんはふいに声を落として、それまでの能弁が嘘だったかのように、訥々とした口調で話し始めた。それは、由比ヶ浜さんが先ほどまで訪れていたという「東京わんにゃんショー」に関する話をしている時であった。

 

「あっ。そ、そういえばね。今日、そこで、あの……」

「そこで」

「う、うん。そこでね……ヒッキーとゆきのん、見たの」

「比企谷と誰?」

「ゆきのん。あははっ……見たっていうか、ちょっと話したんだけどね」

「えっ、え、え。もしかして二人は一緒に」

「……うん」

 

 私は驚きに目をみはった。

 

「でね、なにか知ってるかなあ、と思って」

「なにか、とは」

「その……だからね、二人が、もしかしてって。あはは……」

「はっ? それは二人がお付き合いをしているかってこと?」

「やややっ、そ、そんなんじゃっ……ううん、そうかな。どうなんだろって思って」

「ありえん! 断じてありえん!」

 

 私は反射的に叫んだ。

 電波の向こうで由比ヶ浜さんが小さな悲鳴を上げた。

 

「わっ、すごいおっきな声だ」

「す、すいません。僕としたことが、やや興奮してしまいました」

「ううん、大丈夫」

「とにかく、それはありえないよ。だって比企谷だぜ」

「そお、なのかなあ……」

「え。由比ヶ浜さんは二人が交際していると思うの?」

「……だって、休みの日に二人で出掛けたら、そうなのかなって」

 

 さすがにそれは低次元な決めつけ方だと思い、そう口走りかけたが、私はぐっと堪えて、「たまたま一緒になったのでは」ともっともらしいことを言っておいた。

 

「じゃあ、そういう話は聞いてないんだ?」

「うん。なにしろあり得ないからね」

「うん……どうなんだろ……」

 

 由比ヶ浜さんは私の断言にも釈然としていない様子である。私としては、「比企谷だぜ」という圧倒的説得力をもつ一言さえあれば十分にも思えるのだが、彼女に対してはその効果をいかんなく発揮することはないようであった。

 それにしても由比ヶ浜さんは、なぜこんな瑣末なことにこだわるのであろうか。たしかに「東京わんにゃんショー」などという、およそ比企谷からは連想しがたいイベントに彼が参加していて、なおかつ雪ノ下さんと共に行動しているという事実は、ある程度の驚愕とこれまたある程度の怒りは湧いてくるものの、はっきり言ってどうでもいいことである。仮に百歩譲って、比企谷と雪ノ下さんがねんごろであるという複雑怪奇な縁の結び方があるものなら、古今東西には阿呆な神様もいるものだなと、そのおいたを呆れて笑うくらいが、せいぜい関の山といったところであろう。私はむろんのこと、由比ヶ浜さんともあろうお方が拘泥するような事案ではないはずだ。にもかかわらず、なにゆえ由比ヶ浜さんはそんなに不安げな口調で言葉を紡いでいるのか。精神的無頼漢である私には、そこのところの機微がよくつかめなかった。

 しかし私の鋭敏な耳鼻は、にわかに「青春のかほり」を聞き嗅ぎ取った。それは、由比ヶ浜さんの声が職場見学の日のそれと同じ性質を帯びていたからであり、同じくその日の諍いに、私がある種の青春を見出したからであり、先日、雪ノ下さんが歪曲して伝えた「すれ違い」という単語がふいに念頭にのぼったからであった。これらの諸要因から「青春のかほり」が導き出されたわけだが、この方程式が意味する真実の中には、なにか想像を絶する大珍事が身をひそめているような、そんな気配がぷんぷんに漂っていた。私にはそれがパンドラの箱にも思われた。今はただ、その気配が漂っているだけで、中をあけて確認しなければ、依然、その正体は判然としない。しかし、もう少し考えてみればあるいは――。

 

「――でね、……って聞いてる?」

「え! あ、ごめん。なんです?」

「あのね。そのときにさ、話があるから来週部室に来てって言われたんだけど」

「それは……」

「なに?」

「いや、なんでもない」

 

 私は慌てて誤魔化すと、「勘違いです」と言い添えた。

 あやうく口走るところであった。おそらくそれは、明日購入する誕生日の贈り物を渡すために呼んだのであろう。彼らが何も詳細を伝えなかったということは、驚かそうと画策しているのかもしれない。ここで打ち明けてしまっては私の立つ瀬がなくなる。

 

「よく分からないけど、ぜひ来てよ。最近、来てなかったし」

「う、うん……。ごめんね、何も言わずにずっと休んでて」

「いいっていいって。すべてあの阿呆が悪いんだから」

「えっ。アホってヒッキーのこと?」

「うん。あらゆる原因はすべてあいつに――」

「あっ、ちょっと待って。ママが呼んでる」

 

 そう言うと、由比ヶ浜さんはなにやら大きな声で、彼女の御母堂と思われる人物と会話し始めた。しばらくの間、電波の向こう側では、由比ヶ浜家の生活感あふれるやり取りが繰り広げられた。

 

「ごめんねっ、もうご飯の時間だって。ママがうるさいから」

「そうですか。それでは、また来週。必ず寄ってください」

「あはは……あんまり行きたくないけど、うん、行くよ」

「お願いします。皆、待っていますから。もちろん僕も」

「うん。長々と付き合ってくれてありがとね。じゃ、また。バイバイ」

「さよなら」

 

 私は電話を切ると、長いため息をついた。顔が自然とにやけてくる。

 由比ヶ浜さんとお電話してしまった。相手の表情が見えないのを良い事に、健全な男女交際を育んでいる間柄にありそうな、なんともこそばゆい会話をしてしまった。なんということだ。なんということだ、これは!

 携帯電話を丁寧に机の上に置くと、私は先ほどの会話を思い返した。取り乱してしまった最初のやり取りを除けば、概ね紳士的に会話のイニシアティブをとっていたのではなかろうか。ほとんど由比ヶ浜さんが話題を提供していた、そもそも途中までの世間話は最後の由比ヶ浜さんの危惧を解消するための前置きに過ぎないのでないか、という多数の異論はひとまず却下しておこう。気が向いたら考える。

 彼女はお洒落が好きだという。クラスの友人と放課後、ウィンドウショッピングをするのが楽しいという。初めてのクッキー作り以来、あまり上達しないが家でもお菓子作りに励んでいるという。また今度お菓子を作って持っていくねという、この私に!

 電話が切られる間際の、「バイバイ」という愛想のこもった言葉を反芻すると、鼻血が吹き出そうになった。私は机の上から再び携帯電話をとると、胸に抱いてため息をついた。我ながら気色の悪い所業であり、そのあまりの気色の悪さが私を現実に引き戻してくれた。

 とにもかくにも本当に甘美な時間であった。

 私は由比ヶ浜さんの顔を想像して、明日の贈り物購入のために全力を尽くすことを誓った。そうして鼻歌交じりで夕飯の用意された食卓へと向かった。

 

 愚かだったといえば、それまでである。

 由比ヶ浜さんと電波で繋がった後の余韻に陶酔していた私は、電話の最中に嗅ぎ取った「青春のかほり」と、そこから導き出されたパンドラの箱についてなど、まったく意に介していなかった。しかし、このときに分析に分析を重ね、検討に次ぐ検討を行い、その恐るべき正体を見極めたとしても、おそらく、万事はすでに私の手の届くところにはなかったであろうし、いまさら、どっちが良かったとも決めかねる。

 ともかく、後になって思い返すのだ。あのときの電話はこそばゆいものなどでは断じてなく、浮かれていた私は正真正銘の阿呆だったということに。

 

 


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