奉仕部と私   作:ゼリー

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第十一話

       ◇

 

 比企谷、かく語りき。

 

「偶然も運命も宿命も俺は信じない。しかし、不運、これはある。その日を思い出すたびに恐怖でゾッとする。神に弄ばれてるんじゃないかと怒りすら感じたほどだ。本当にアレは不運としか言いようがない。たしかアレは――」

 

 中学3年の秋だった。

 周囲は受験が近いこともあってどこか浮つきながらも緊張が張り詰めた、ある種独特な空気感が漂っていた。もちろん俺もそれなりに気負っていた。断じて同級生たちと同じ高校には通いたくはない。少しでもレベルの高い学校を目指そうと意気込んでいた。だから、無意識のうちに心の慰めを求めていたのかもしれない。今思えば救えない大馬鹿野郎だと思う。なにせあれだけ裏切られてきた事実を少しの間でも忘れていたのだから。

 

 俺は、先日の席替えで隣になった女子のことが気になっていた。

 その子は、クラスで暗黙の疎外を受けていた俺に対して優しく接してくれたんだ。メールアドレスも進路先についても教えてくれた。ふった話にもちゃんと答えてくれた。正直、俺は浮かれたよ。学校へ行くのが楽しくてしょうがなかった。勉強にも身が入らないほどだった。

 だから、気がつかなかった。なぜ俺がその子のことを優しいと感じたのかに思い至らなかったんだ。

 その子の優しさは弱さだった。その子の優しさは怖れだった。その子の優しさは情けだった。

 本当に簡単なことだった。

 その子は、他人より物静かで控えめで内向的で頼まれると断れないタイプで、だから、別に俺に優しくしていたワケではなかったんだ。メールアドレスを教えてくれたのは断れない弱さだし、話をふっても答えてくれたのは誰にも嫌われたくないという怖れだし、なにより疎外されていた俺に一見優しくしてくれたのはただの同情だったというワケだ。

 そのことに気がついたのは、朝や休み時間、昼になると決まってその子が姿を消すようになってからだった。俺はすぐに察したよ。ああ、またかってね。そして予兆があったことにも気づいた。俺が話しかけると一瞬眉をひそめていたんだ。俺は気付かないフリをしていただけだった。

 避けられるようになってから俺はほとほと自分に愛想が尽きた。期待して裏切られるというお決まりのパターンを何度繰り返せばお前は利口になるんだと、恥ずかしい話だが毎晩枕を濡らしたね。もちろん、その子とは出来る限り接しないように息をひそめた。それでも事務的なことや廊下ですれ違うときは、相手から以前のように穏やかに話しかけられた。その都度、眉がひそめられて、どこか警戒しているような雰囲気を漂わせていたことを俺はひしひしと感じていたがな。

 ここまでくると、逆に申し訳ないくらいだったよ。言ってやりたかった。俺から話しかけることはないし、優しくする必要も同情する必要もないんだと。しかし、そんな自意識過剰だと思われることは俺にはできなかった。

 

 そして、その日が訪れた。

 

 俺の中学校ではあるおまじないが存在した。校舎裏の桜の木の下で、相手の大切にしているものと同じものを手に持ちながら告白すると成就するという、どこの学校にもひとつはありそうな七不思議の類だ。

 その日、掃除当番だった俺はいつものように最後のゴミ捨てを押し付けられていた。もはや恒例となっていたから拒否なんてしなかったが、心の中では、こいつら全員謎の失踪をとげればいいのにとか自分のまったく関係ないところでエグい不幸に見舞われろとか毒づいてはいた気がする。まあ、なんにせよ俺は校舎裏のゴミ捨て場へ向かった。外へ出て、重量のあるゴミ袋にぜえぜえいいながら校舎を曲がろうとしたときに、ふと落ち葉の上に筆が落ちているのを見つけたんだ。

 それは毛先がはねてて柄の部分がぼろぼろになった絵筆だった。おそらく誰かが捨てようとしたときに手元から落ちたのだろう。俺はゴミ袋を一度置くと、親切にも絵筆を拾って一緒に捨ててやろうという気を起した。そしてそれを拾ったときだった。ブロック塀で囲まれたゴミ捨て場からひとりの女生徒が姿を現したんだ。

 俺はハッとした。その子もハッと息をのんで俺を見つめていた。その目線がふと俺の右手に握られていた絵筆に移ると、その子はひきつったような顔をした。俺はとっさに何か言おうとしたらしい、一歩前へ出て口を開きかけた。するとその子は、

 

「あ、あのっ! ほ、本当にやめてっ」

 

 と叫ぶように言ったんだ。そうして涙目になりながら俺の脇を通り過ぎて逃げるように走り去っていった。

 俺は一瞬わけがわからなかったが、すぐに気づいたよ。そういえばここが(くだん)の迷信の場所だってことと、その子が美術部に所属していてコンクールに入選するほど絵が上手だってことにね。要するに俺は振られたわけだ、もはや好きでもなんでもなく、むしろ恐れているくらいの相手に。

 自分の間の悪さと信じられないような不運に俺は呆然とした。こっちこそ泣きたいくらいだった。

 しかし、不運はそれだけで終わらなかったんだ。

 やるせない気持ちになりながらもゴミを捨てて俺は帰路に着こうとした。だがこのまま帰っても、不甲斐ない自分を罵倒して自己嫌悪に陥るのは目に見えていた。気分転換でもしよう、そう思ってその日は繁華街にあるファストフード店に寄ることにした。軽く勉強しながらポテトを食べていると、どうせいまさら嫌われたところでなんだ、何も変わらんだろ、と俺の心は徐々に落ち着きを取り戻していった。

 問題集をあらかた解き終わった俺は、「ふう」と息をついて、満足感に浸りながら何気なく、本当に何気なくだぞ、まあ店内を見回していたんだ。すると離れたボックス席に座っているその子とたまたま目があってしまった。がやがやと騒がしい店内の中、客の隙間を縫うようにして、その子は俺の目をまともに見据えて凍りついたような顔をした。衝撃的瞬間だった。心臓が止まるかと思って、俺は慌てて目をそらした。学校から近いこともあってその店は生徒たちが良く利用してるらしく、知り合いと鉢合わせることは、まあ、あり得ることなんだが、それでも俺の頭の中は疑問符でいっぱいだった。少したってから目をやると、その子は女友達に慰められるようなかたちで店を出ていったところだった。

 こんな偶然なんてあるのか。いや、これはもう偶然なんてレベルの話じゃない。なにか超自然的な力がはたらいている。俺を不幸にするために仕掛けられた罠だ。もはやそう考えるしかなかった。

 俺はほとんど死にたいくらいな気持ちで筆記用具と問題集を片付けたが、またその子に会っては困るんで、用心深く少し時間を置いてから店を出た。もう今日は帰って潔く自分を罵倒しつくそう、そんでもって小町に慰めてもらおう。そう思って足早に繁華街を抜けようとすると、エプロンをつけた小柄な女性が一生懸命にティッシュを配っているのが見えた。俺は必要にかられてそのティッシュを受け取った。というのも、帰り道に泣く可能性があったからだ。ちなみにこの判断は正しかった。まあそれはいいとして、ともかく、貰ったティッシュをしまおうとすると、そこに載ったオープンしたばかりのスイーツ専門店の宣伝が目に入ったんだ。

 ああ、そういえば小町が食べたいって言ってたっけ。こういうときだからこそ、少しは良いことをして、可愛い小町に慰めてもらうのはどうだろうか。お土産にケーキを買っていけばめちゃくちゃ喜ぶに決まってる。その笑顔をみれば少しは気も晴れるだろう。そうだ、それがいい――ふと俺はそう考えた。だが結果は凶とでてしまった。

 俺は駅を挟んで反対側の繁華街へ向かった。

 目論見どおりにケーキを買い終えると、早々と店を出て繁華街を抜けた。普段とはまったく違う帰り道を、秋の夜風が吹きすさぶ中、小町の喜ぶ顔を想像して俺は足早に歩いていった。

 やがて馴染みのうすい公園脇の通りにさしかかると、一軒の家の玄関前で学生服の女生徒が鍵を出しているのが見えた。電柱の煌々とした蛍光灯が顔を上げたその女生徒を照らした。その子は玄関の鍵を開けて家に入ろうとしているらしかった。

 

 俺は絶対にその子をつけていたわけじゃない。いいか、絶対に絶対だぞ。

 

 とにかく、その瞬間の、その子の驚愕の表情を、俺は一生涯忘れないと思う。

 あまりの衝撃に、持っていたケーキの箱を落としてしまった。なにかの間違いだと思った。俺はいったいどういうふざけた星のもとに生まれてしまったのかとも思った。「違うんだ。これは別に追いかけてきたとかそういうことじゃないんだ」と叫びたかったが、そんなことできなかった。否定すればするほど、余計に怪しく変態的に思えてしまう悲劇、もうどうしようもなかったんだ。本当に、もう、どうしようも、なかったんだ。

 

 それからのことはあまり記憶にない。どうやら脳の防衛本能が数日間の記憶を曖昧にしていたらしい。

 次の日に学校へ行くと隣の席がなぜか男子生徒に替わっており、放課後に担任に呼び出されると「どんなに好きでも怖がらせるほどアタックしてはいけない。大人であればそれは犯罪だよ」と真剣な顔で諭されたことだけははっきり覚えている。

 

 ハハハッ。

 どうだ、笑えるだろ。いや、笑ってくれ。お願いだから笑ってくれ。

 おいっ、そこまで笑うなよ。

 ……とにかくだ。

 

「――これで分かっただろ? 偶然も運命も宿命も俺は信じない。しかし、不運、これだけは確かにある。神に呪われてるとしか思えない、そんな絶望的な不運だけは確かにあるんだ」

 

 比企谷は語り終えると、反抗的な目つきで痛々しく笑った。

 

       ◇

 

 これまでに辿った道を想像すれば、いかにそれが比企谷であろうとも同情を禁じ得ない。

 まさに精神衛生上の茨の道を、彼は魂から血を流し、涙を流し、汗を流し、ほかに何だかよくわからない汁をいっぱい流して、ひいひい言いながら生きてきた。その足跡ともいうべき猜疑心から培われた、悲しすぎる洞察力に関しては私も一目置くところである。ここぞという場面で彼の腐敗した虹彩は、たとえそれが自身にとって不都合な真実であろうとも決して虚飾を許さずに、穿ち、暴き、そして悲しいかな、ますます濁り腐っていくのである。突かんでも良い本質をことごとく狙い澄ましたかのように突いては自己嫌悪に陥るその内罰的な精神は、傍からみていて気の毒になるほどであった。

 今回のケースもおそらく同一の順序をたどったようである。私が同情を禁じ得ないくらいだから、御仏のように寛仁大度な由比ヶ浜さんは、心を痛めて夜毎、枕元に比企谷の生霊を幻視していてもなんら不思議ではない。

 彼女は入学式の日の事故を自身の不手際だと考え、そのせいで比企谷が孤独を甘受せねばならない立場に置かれたと信じているのだ。なんという慈悲であろうか。妹さんと同様に、彼女に決して非はなく、すべては比企谷が生まれもった資質による産物だというのに、純粋無垢な彼女にはそれがわからない。そして由比ヶ浜さんは自身の罪を(あがな)うため、報われることのなかった比企谷を救うため、関われば将来に影を落とすことはほぼ間違いないと知りつつも奉仕部の門を叩いて、今もなお粉骨砕身中なのである。おそらく彼女は、自分がいると部室が錆びた歯車のようにぎすぎすしてしまうだろうと気を遣い、心を痛めながらも今は遠くから見守ろうとしているのであろう。これはもうキリスト的精神である。世界平和である。およそ褒めるべきところがひとつもない比企谷に差し伸べられた無償の愛、私はしかと感じ取った。

 ところが比企谷は、その無償の愛を、まったく穢れなき高潔な愛を、自身にとっての忌むべき同情と受け取ったのである。上述したように、これまでの彼の生き様に思いを馳せれば無理からぬことではあるが、相手は由比ヶ浜さんなのであるから、そこは彼の見識の低劣さが原因と言わねばなるまい。由比ヶ浜さんをその辺の軽佻浮薄な女性と同じ土俵に立たせて物事を考えたことがまず間違いであり、無償の愛を金を出せば買えるような安い同情と捉えたことがさらなる間違いであり、そしてその軽率な浅慮から彼女を傷つけたことが最悪の間違いである。職場見学での諍いは、おそらく同情だと勘違いした比企谷がなにかよからぬことを口走ったことが原因で発生してしまったのだろう。愛で満たされた泉に唾を吐くような冒涜的行為、まったくもって言語道断である。恥を知るがいい。

 ともかく、原因ははっきりした。今回は、否、つねに比企谷が全面的に悪いのだから地面に頭をこすりつけてでもすっぱり謝罪して、きわめつけに贈り物をすれば万事解決だ。

 私は昼ごはんを食べにいつもの場所へ向かいながら、ようやく幕が下りそうなことにほっと安堵した。

 

「よう」

「おう」

 

 校舎裏の階段でむっつりと惣菜パンをかじる比企谷に声をかける。

 私は弁当を開くと、すぐに切り出した。

 

「昨日の話だが、原因がわかっちゃった」

「あっそう」

「スカすなよ。内心びくびくしてるくせに」

 

 比企谷は鼻で笑うと「してねえよ」とつけ加えた。

 

「由比ヶ浜さんのあれは、安い同情とは一線を画す」

「は?」

「そこのところをはき違えるなよ」

「……どういうことだよ」

「おまえの前を通り過ぎてきた女子とは違う、ということだ。彼女は」

 

 比企谷は惣菜パンを二口ほどかじって咀嚼している間、黙って前を見つめていた。

 

「なんでおまえにそんなことがわかるんだよ」

「おまえの眼球はビー玉か? 彼女と接してきたんならわかるだろ」

「……由比ヶ浜は優しい、そんじょそこらの女子よりもな。その由比ヶ浜の同情はほかの女子とは違うかもしれんが、でも、結局それは同情だ。俺は同情なんていらない」

「そこだ」

「あ?」

「おまえは根本的に勘違いをしている。あれは同情じゃない。わからんのか」

「わかんねえよ。じゃあなんだよ」

「隣人愛さ」

 

 比企谷は怪訝な表情をした。私は得意になって続ける。

 

「おまえのような、えもいわれぬ醜悪無比な人間に優しくするなんて、これはもう裏があるぞと思ってしまうのは当然だ。そこは俺も否定しない」

「うるせえよ」

「しかしだな、由比ヶ浜さんは普通ではない。まことに慈愛溢れた人間なんだ。だれかれかまわず際限なく愛を与えることのできるお人なんだ。由比ヶ浜さんが誰かの悪口を言っているのを聞いたことがあるか? 否、断じて否だ」

「キモイとか、超言われてますけど俺」

「……事実だからな。うん、それは甘受しろ。まあ、とにかくだ。彼女はおまえが今まで出会ってきた人間とは違うということを認識しろ。彼女は裏切ったり、あとで嘲笑ったりはしない。そこは安心していい」

「……」

「とはいえ、これだけは肝に銘じろ。あれは隣人愛なんだから、変に勘繰って受け取るなよ。厚意であって好意じゃない、わかる? 自分に気があるとかそんな冒涜的錯乱だけは起すなよ、あり得ないんだから」

「……んだよ、それ」

 

 比企谷はそう呟くと、紙パックジュースを飲み干して気味悪く笑った。

 

「わかったんなら、さっさと謝ってしまえ。どうせ職場見学のときにおまえが愚かな発言したんだろ」

「別にしてねえよ」

「なんて言ったんだ」

「……それは、あれだ。変な気遣って優しくするのはやめろって、それだけだよ」

「ほうら、やっぱり愚かだ。変な気じゃない、無償の愛だ。無償の愛にケチをつけるた、いい度胸だな。悪魔かおまえは」

「しょうがねえだろ、相手が何を思ってるかなんてわかんないんだから。だいたい俺はまだ納得いってねえ。そのなんだ、無償の愛? それじゃないかもしれないだろ」

 

 私は途方に暮れたような目を比企谷に向けた。ここまで諭してもまだわからないとは、さすがの阿呆である。虐待を受けた犬は、その苛酷な環境を離れても易々とは傷ついた心を開いてくれないという。比企谷も同様なのだろう、私はやや憐憫を覚えたが、毅然とした態度で返した。

 

「黙れ阿呆。おまえの納得なんてこの際必要ないんだよ。だいたいなんだ、うじうじしやがって。男のセンチメンタリズムほど汚らしいものはないぞ。とにかく謝って媚びへつらえよ」

「うわぁ、ひどいなおまえ。久々に傷ついたわ」

「おまえのためだ」

「絶対うそだろ……」

 

 比企谷はあまり釈然としていないようであったが、しぶしぶ了承した。誕生日の贈り物を渡すときに非礼を詫びるつもりだということであった。私は優しく笑いかけると、味の染み込んだ椎茸をパンの上にのせてやった。

 それから私はひとしきり由比ヶ浜さんがいかに聖母的女性であるかを滔々(とうとう)と語り聞かせ、今は慈愛によって奉仕部との距離を取っているものの、このまま確執が続けばその慈愛から部を去ってしまう可能性があることを示唆した。時おり容喙(ようかい)する比企谷の顔面にご飯粒を飛ばしながらの熱弁であった。

 やがて昼休みの終わりを告げる鐘の音が響く頃、比企谷は鋭いことを言った。

 

「じつは、おまえが由比ヶ浜に部に残って欲しいだけだろ」

「本質をつくのはよせ」

 

 私がそう返すと比企谷は濁った目をぱちぱちさせて、「だと思ったよ」と苦笑した。

 

 

 

 


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