奉仕部と私   作:ゼリー

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第一話

       ◇

 

 現在の境遇の原因は、おそらく、中学三年の卒業間際にあるのだろう。

 去りし日々において根本的に間違っていた時期が、なぜなら、そのときなのだから。

 

       ◇

 

 高校受験にも一段落つき周囲がやいのやいの喧しくなった二月の下旬、私は無二の友人K君からある小説を借り受けた。

 K君はその年頃の少年少女にはあるまじき早熟な面を持っており、馬鹿で阿呆(あほ)で猥褻なことしか頭にない同級生とは一線を画していた。もちろん、私はその阿呆の衆の一端を担っていた中学生であったのだが、ある時を境に、少し背伸びをしたくなったのか、一線を画しすぎてもはや敬遠されていると言っても過言ではないK君と接触を図ることにした。そしてそれを機に、K君とお近づきになり、彼の歯に衣着せぬ合理的かつ論理的な話しぶりに多少怒りを覚えながらも、親交を深めていったのである。

 

「ねえ君、君にこれを貸してあげるよ」

「?」

「なにか本が読みたいって言ってただろ、だからこれを貸してやるよ」

 

 卒業間際の2月下旬、学校の図書室においてこんなくだりでK君から小説を渡された。

 

「君にはもしかするとまだ早いかもね、このジャンルは」

「……」

「ま、とにかく読んでみなよ」

 

 いちいち癇に障ることを言わずには会話を終えないところにもK君が同級生を寄せ付けない要因があるのだろう。寄せ付けようとしなかったのは同級生たちの方だったのかもしれないのだが。小説を渡すとにやにやと気味の悪い笑みを浮かべるK君に礼を述べると、私は帰路についた。

 受験も終わり、登校する必要がなくなると時間を持て余した私は、阿呆な同級生とは一味もふた味も違う大人びたK君に少しでも近づこうと、借りた小説のページをめくっていくことにした。活字といえば教科書や少年漫画のふきだし内でしか拝んだことのない私ではあったが、目標があったためか別段苦労するということもなく読み終えることが出来た。すんなり読めたことに気を大きくした私は、過去、本屋で一度たりとも視線を送ったためしのなかった小説・書籍コーナーに赴き、借りた小説の著者の他作品や、同じジャンルの小説を幾らか買い求め、意気揚々と本屋を後にした。平生ならば漫画が詰め込まれた袋に文庫本が堂々たる姿で納入されている事実は、私をして小説の主人公を模倣させしめた。その結果、自宅へと戻る中途、四方八方に目を巡らせ幾度となく「なるほどな……」とか「矛盾だ」などと、自分に酔いながら意味深長()つ無意味な妄言を垂れ流して歩いていたのを今でも忸怩(じくじ)たる思いで記憶している。

 とにもかくにもそこから私は、小説――(つまび)らかにすれば文学の世界に没頭していったのである。

 中学生最後の一ヶ月、本の虫となった私はやたらめたらに居丈高なK君と意見を交わしながら過ごしていった。そして、四月になり入学を翌日に控えた私とK君は、離れ離れになることを惜しみつつ、侃侃諤諤(かんかんがくがく)とした話し合いの末に、出さなくてもなんら問題のない根拠の欠落した結論を導き出してしまったのである。この結論は畢竟(ひっきょう)、眼前に横たわる華々しい高校生活を自ずから薄墨色の灰スクールライフへと変貌させるには十分な代物であった。

 私は、次のような文言を心に刻みつけ、斜に構えながら高校生活の幕を開けたのである。

 

 曰く、「高校なんてものはインチキ野郎の巣窟にほかならない」

 

       ◇

 

 今思えば当時の私は、K君を決して他に阿諛追従(あゆついしょう)しない狷介孤高(けんかいここう)とも言うべき人格者と誤認していたのではないだろうか。実際は性格に著しく難がありそれゆえに周囲から逸脱していた、ただの『ぼっち』だったのではないだろうか。私の中の裁判官が判決を下そうとするが、私はそれを満腔(まんこう)の力で押さえつける。そうして「間違ってなんかなかった。そう、我々はただちょっと斜め上のほうに()れていただけなんだ」と自分に言い聞かせるのだ。だってそうでなければ余りにも悲しすぎるではないか。

 

       ◇

 

 高校に入って一年間、姿かたちの見えない架空の敵と不毛な争いを繰り広げて来たことをここに断言しておこう。

 周りの生徒たちが、輪から弾かれるのを恐れて迎合に迎合を重ねることによって友人関係を結んでいく様を、嘲笑をもってあしらっていたのも束の間、一学期の中盤には、群れからはぐれた羊のように右往左往していた私は救いようのない阿呆であった。結果、哀れな子羊は、毎朝教室に入ると、光の速度で机に突っ伏して寝たフリを敢行する始末と相成ってしまった。机に惨めな顔面を押し付けながら時には涙さえ滲ませることもあった。教室の隅で机にかじりつくようにしてむせび、庇護欲を煽りたてる赤子のような私を気にかけてくれる聖人君子は、しかしながら、教室の何処を見渡しても存在しなかった。はぐれてしまった子羊を、わざわざ群れから離れて探し出そうとする奇特な救世主など現れないのだ。そう、これがマイノリティの現実なのである。私は、寝たフリに嫌気がさすとキャンパスノートに「Stray Sheep」と筆記体で何度も何度も書きなぐり、終いには拳で机を殴ることも辞さなかった。その際、周りに訝かられないよう衝撃音を抑えることに余念がなかった私は、デキる男には違いないが、何故か胸に迫るそこはかとない情けなさに頭を悩ませることもしばしばあった。

 そうこうしている内に中間考査、期末考査と時は流れ、誰しもが胸をときめかせる夏休みを迎えた。結局のところ、私は一学期においてなんら建設的なことを成し得なかった。入学前に拵えた付け焼き刃である心得は、一ヶ月程しか私を奮い立たせてはくれず、後はチラチラと同級生たちの動向を仲間に入りたそうな目で窺うばかりであった。嗚呼、たしかに学び舎というものは勉学に励む場所であることは疑いようのない厳然たる事実である。しかし、あのように弾ける笑顔で授業中などに内密話をしている連中を見たまえ、勉学に勤しむ自分が阿呆らしくなってくるではないか。おかしいではないか。虚しいではないか。羨ましいではないか。友人の一人も作ることが出来ず、成績だけは優秀を修めて、私は夏休みを迎えた。

 

 夏休みは以下のように過ぎていった。

 夏休み初日、これで周りに惑わされ余計な神経衰弱を起こすことなく平穏無事な生活が一ヶ月は確約されたとほくそ笑んだ私であったが、すでにその日の夜、過ぎ去った一学期の亡霊が脳裏にちらつき、人恋しさと再び息を吹き返した入学前の信条が組んずほぐれつの激闘を演じ、竜虎相()つの観がある一夜を過ごすはめになっていた。激闘は主に卑猥な妄想によって高められたリビドーが理性を乗っ取り、素敵なサムシングを鎮めるといった多感な思春期の崇高な儀式を終えた直後に、決まって訪れた。それゆえ私は、夜になると劣情を抑えるべく般若心経を唱え、それでも催す場合は風呂場へ駆け込み冷水を被るという、苦行を敢行したのである。繰り返すが、救いようの無い阿呆だったのだ。笑うがいい。

 劣情を管理することに辛うじて成功した私は、その代償として昼間から悶々として過ごすことが多くなった。こんな時は、屋外で蝉時雨を存分に浴びながらスポーツで汗を流すのも悪くないなと思ったが、一人では出来ることの幅も狭まるし、なんとなく心もとない。致し方なくK君を誘ってみようと、受話器を握ってコール数回、電話に出たK君は私の誘いの言葉に「暑いから嫌だ」と辛辣極まる返答を寄越(よこ)して一蹴。愕然とした私は乾いた笑いを漏らして、静かに受話器を下ろした。なんということだ。私には夏休みを有意義に過ごし合う友人の一人もいないというのか。馬鹿げている。こんなのあんまりだ。明白すぎるほど明白なありのままの事実をこのときしみじみと感じたのである。

 そして次の瞬間、私は決意した。二学期こそは肩を並べて放課後の宵町を歩く、そんな友人を作ろうと。

 

       ◇ 

 

 自分を称えたくなるような自制心を発揮することおよそひと月。誰よりも早く教室に入り、夏休み明けの深閑とした雰囲気の中、私は武者震いしていた。

 猥褻な妄想をこそぎ落とし、同級生たちがめくるめくふしだらな遊びに呆けている間、黙々と練り上げた計画――ずばり友人を獲得する段取りを、この日決行しようとしていたのである。綿密な計画のもとに算出された、これから起こるであろう薔薇色の高校生活に早くも興奮半ば朦朧としかけていた私であったが、廊下を教室に向けて歩く足音を捉えると、椅子の背もたれに体を預け伸びをした。そうして自然な(てい)を演出しつつ、あたかも十年来の友人よろしく声を掛けようとしていたのである。しかし、ここで私は戛然(かつぜん)とある問題に思い当たる。私の次に教室を訪れたその人をターゲットに、話す内容、仕草、本日の予定に至るまで緻密に考察してきたのだが、相手の性別を顧慮していなかったのだ。愚にもつかないイージーミスである。解答欄を一行ずらして答えてしまった時のような冷やりとした感覚が背筋を駆け抜けた。この突発的な致命的問題に、ひと月前の私であったならば動揺を隠しきれず、泣く泣く机に突っ伏して、朝一無様な姿をクラスメイトに披露していたことだろう。しかし、今の私は性欲というモンスターを踏み越えた傑物、この程度のイレギュラーな事態など一笑に付して泰然と伸びていることにした。男だろうが女だろうがこの際かまうものか、ええいままよ。

 教室の引き戸をがらりと開けて入ってきたのは何処にでもいそうな平凡な男子高校生、前田君であった。女子ではなかったことを少し残念に思う不埒な助平根性が露呈しかけたが、瞬時に気を取り直して私は声をあげた。

 

「やあ、おはよう。長いものであっという間だったね夏休みも。前田君はどう過ごした?」

 

 静まり返った教室に素っ頓狂な声が響いた。久々に声を出した故に、頭の「やあ」と結びの「過ごした?」が裏返ってしまったのだ。私は、軽く咳払いをして喉の調子を確かめる振りをした。そうして相手の返答を待った。

 奇妙な間が空いた。前田君は、短髪をごしごし掻くと、ふと口を開いた。

 

「あ、あれ? えっと、ごめん。誰だっけ?」

「は?」

 

 このとき、おそらく私は前田君を化け物でも見るような目で眺めていたことであろう。その間およそ数秒、前田君が気まずそうに顔を伏せると、私は計画が土台から崩れ去ったことを悟り「あいたた」などと呟いてやにわにお腹をさすった。

 

「お腹の調子が悪いようなので、ちょっと失礼」

 

 そう言い置くと、鞄を取り廊下へ飛び出した。

 トイレへひた走りながら、私はところ構わず潸然(さんぜん)と涙を流した。そうして走りながら、私の脳裏を来し方ひと月のむにゃむにゃが走馬灯のように流れた。よりにもよってこれから二学期が始まろうとする始業式の朝に、浮き足立っていた繊細な私の心は、いとも容易く踏みにじられ下水溝にポンと蹴り込まれてしまったのである。今でもあの前田君の顔が忘れられない。私の気安い言葉に対し本当に申し訳なさそうに顔を伏せたあの顔が。前田君はきっと悪くないのだ。勿論、私も悪くない。では誰が悪いのか。諸君、教えてくれたまえ。

 トイレに駆け込んだ私は、涙でくしゃくしゃになった顔を晒して鏡の前に立った。立ったはいいが、そのいささか見るに堪えない汚らしい面構えに目を逸らし、水道水で顔を洗った。ああ、これがひと夏を犠牲にした総決算だというのか。これも一重に、一学期を棒に振ってしまった罪と罰ということなのか。仲良しこよしの輪から逸脱してしまった哀れな子羊は名前すら覚えてもらえないということなのか、ちくしょう。私は、話したことすらないというのにクラスメイト全員の顔と名前が一致している健気な自分を抱き締めてやりたくなったが、再び覗き込んだ鏡に映る己の相好をみて気持ち悪くなり止めた。

 何はともあれ、私の愚かしくも短い薔薇色の夢は前田君の一言によって無残にも校内の露と消えてしまった。まだまだ先の長い高校生活は眼前に茫漠と広がっている。たかだが一学期、これからいくらでも巻き返しがきくといえばそれまでだし、その通りである。しかし、私はもはや情熱を失ってしまったのだ。燃え尽きる寸前で薪を加え得ず、冷や水を浴びせ掛けられ鎮火されてしまったのだ。もう火種の所在は(よう)として知れない。諦めるほかないのである。

 ハンカチを取り出して乱暴に顔を拭く。そして憤然と廊下に出ると、晴れ晴れとした登校中の生徒を尻目に校門を潜り抜けた。

 始業式のその日、私は早退した。

 

       ◇

 

 一年二学期の初日から現在に至るまでの経緯については多くを語るまい。語るほど多くはないし、そんな私の傷口を開いて見せる行為に何の意味があるだろうか。見せる私は激痛に苦悶の表情を浮かべるだろうし、見せられた諸君は何かどす黒いぬちゃぬちゃしたものに吐き気を催すだろう。ただ、入学前に掲げた標榜を今一度心に刻みつけ、誰にもそして誰からも干渉をしない受けない茨の道を歩んできただけのことだ。幾度か日和(ひより)かけたこともあったが、刹那的な寂しさから赤の他人を求めるなど信条に反するとして、涙をのんで茨の道を突き進んだのだ。

 

 そして今現在、唐突ではあるが、私はとある会社のロビーで椅子に腰掛け、眼前で繰り広げられている人間関係の交錯を見学していた。

 なぜ、私がそんなところで一人ぽつねんと座っているかと問われれば、班分けという愚かしくも合理的な制度によってひどく理不尽に三人一組に振り分けられたあげく、そんな少人数の中でも馴染めなかった結果としか言いようがない。将来に対する見通しを、この職場見学を通じて妙齢の女子と語り歩くのも(やぶさ)かではないと参加したのだが、将来以前にこの場における見通しが甘すぎた。班から気が付かれずにフェードアウトした私は、合流場所のここで致し方なく他の班員を待っているというわけである。

 しかしそんなことはどうだっていいのだ。それより眼前の出来事である。

 もしかするとこれが世にいう青春というやつではないのかと勘繰り、青春に対し並々ならぬ怨恨を抱える私は、班からはじかれた情けなさも忘れて、いかなる匿名的な手段を用いてでもこれをぶち壊したいという衝動に駆られていた。私とて、赤の他人であれば青春破壊衝動に駆られる前に、精神の磨耗を恐れ、すすんでその場を退避していたことであろう。しかし、その当事者が比企谷(ひきがや)由比ヶ浜(ゆいがはま)さんであれば話は別である。あの心優しく底抜けに明るい由比ヶ浜さんが、性根と双眸(そうぼう)が腐った比企谷の毒牙にかかるというおよそ想像を絶する奇怪事が起こったら、由々しき事態である。僭越ながら、少し頭の弱い彼女はその毒牙にかかる可能性を十二分に秘めているのだ。これはもはや私一個人の怨恨だけには留まらない。由比ヶ浜さんの将来にかかわることだ。

 私が、どうにかして彼らの意識を他に向ける方法はあるまいかと周囲を窺っていると、なにやらその二人の様子がおかしい。不穏な雰囲気が流れたと思えば束の間、由比ヶ浜さんが「バカ」と言い捨て、踵を返して走り去ってしまった。残された比企谷はため息をつくとニヒルな笑みを零している。気持ちの悪いヤツめ。

 私はおもむろに立ち上がると彼に声をかけた。

 

「おい、コノヤロウ」

「うっわ、お前いたのかよ」

「許さん、俺は断じて許さんぞお」

「はあ? いきなりなんだよ」

「一人だけなに青春してるんだよ。ふざけてんのか、おまえ」

「……別にそういうのじゃねえよ」

「じゃあなんだよ今のは。そういうのじゃなきゃ何なんだよ今のは」

「関係ねえだろ。俺は帰るからな」

 

 そう言うと比企谷は私を置いてさっさと帰ってしまった。私は彼の背中に「許さんぞ」ともう一度釘を刺しておき、悶々としたまま再び椅子に座った。

 班員はさきに帰っていた。

 

 さて諸君。ここで、私がいかようにしてこの比企谷という卑屈な魂を持った矮小な男に出会ったのかを語らねばならない。

 諸君、驚くなかれ。私は茨の道を突き進むこと猪の如くであったのだが、ふとしたきっかけからある部活動に仮入部することになったのである。そしてそれが彼との出会いであった。出会い方からその後の関係にいたるまで、決して爽やかなものではないにしろ、私の高校生活において大きな転換であったことは認めざるを得ない。深山幽谷から辺境の村へ下りて来た程度の転換ではあるが、やっぱり私には大きかったのである。それらを語ることはおそらく諸君の時間を浪費することになるだろう。しかし、諸君。温柔敦厚(おんじゅうとんこう)の心でもってお許しいただきたい。

 

 

 

 


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