『おはだけ』
学園総帥が自らの着飾った衣類を脱ぎ捨て、料理人に対する最大限の敬意を表するこの行為はこの遠月学園では最高評価と言って差し支えないものだった。
「『おはだけ』を超えるには『おはだけ』しかない」
時の遠月リゾート総料理長堂島銀は自らの生涯のライバルと定めた漢との食戟の際、そう語ったという。
それだけこの学園にとって学園総帥が今とった行為の意味は大きく、遠月第九席の料理は素晴らしかったというのは直接それを味わう事のなかった観客達にも伝わった。
「流石遠月十傑………っ、こうも簡単に『おはだけ』を出すなんて!」
「やっぱり、須郷先輩はすげえぜ!それに比べ―――」
「ああ!あの十席だっていう女の子どう見ても俺達より年下じゃないか。料理も別の奴に任せているみたいだし、本当に十傑に見合った実力があるのか?」
事ここに来て、調理中に見せた榊奴の動きや魔女が作り出した黄金のレシピにより完成した料理の美しさなどは食の魔王の出した最高得点の前にかすみ、会場全体の風向きはこの食戟の開始前と同じ、いやそれ以上に現十傑である須郷に向いていた。
これは榊奴が一人で戦っている間も姿の見えない本当の第十席という幻影が観客の中でひとり歩きしていた時よりも圧倒的に悪い状況だ。なにせ、今しがた姿を現した第十席は良くて体の小さな中学生レベルの少女でしかも足が悪いのか車椅子に座っている誰が見ても圧倒的弱者であり、強者だけが生き残り弱者は容赦なく切り捨てられるこの学園には全くと言っていいほど似つかわしくない存在だったのだ。
聞けば、既に彼女が十席止まりなのは薙切の家の力を使って十傑に入ったからだとか、今まで別の人間に料理を任せていたのは料理人として実力がない事を隠すためだとか根も葉もない噂まで立ち続けている。
「………………」
榊奴操は内心思う所があるものの、会場の下劣な視線や嘲笑をその小さな体で一心に受けながらも顔色一つ変えずにただその視線を自らの料理を食べる
料理を作り、客の手元まで運ぶ。それが今回榊奴に与えられた役割であり、そこから先は彼女の役目だ。
「さて、ここにいる皆様方には改めて説明するまでもありませんが、料理とはただ作るだけで終わりではありません。料理人が食事を作り、お客様がそれを食するだけで終わりだというのなら世の中の料理店はそれを作る料理人の数を揃えるだけで事足ります。しかし、一流と言われる料理店では最高の知識を持ったスタッフが必ずと言っていいほど存在し、お客様の心をくすぐる『言の葉』で食事を彩らせてくれます。私がこれからするのはそういうことです」
「ふーん、そういう事かい」
一人となった実況席ではあの榊奴という少年の手でいつの間にか給仕されていた料理をその口へと運ぶ第三席矢成音孤の姿があった。
恐らくはあの魔女の計らいなのだろうが、既に大量の自らへの
仕方なく口に運んだ瞬間に訪れたその『違和感』の正体に気付いた頃には審査員席の老人達も音孤と同様にその料理を口に運んでおり、食戟という場の都合上防ぎようがなかったとは言えこれで全員その邪悪な思惑に見事に引っかかってしまった事に少し歯噛みする。
「…………美味しいんですか、それ」
「ふっふーん、食べてみるかい?」
「結構です」
いつの間に帰ってきたのか作り笑いをすっかり辞め、不機嫌そうな表情を隠そうともせずに早津田みるるは音孤が次々と口に運ぶその料理を恨めしそうに見つめていた。
「それはお前のご主人からの言いつけかい?」
「ご想像におまかせしますよ。ま、ひとつだけ言っておくと私達はそういう関係ではないですよ。油断していたら貴女でも足元を掬われる程度には危険な存在だと自負していますが」
「そうかいそうかい。いいんじゃねえの?元々この学園はそういう場所だし、曲がりなりにもこの地位まで登った奴は少なからず覚悟はしているよ。それはお前さんが一番わかってるんじゃねえの?」
「私は私の役割を果たしただけです。あの場で須郷圭一が口車に乗るほど勝ちに拘る様なら計画を変更しなければならなかっただけですし、どちらに転んでもいいような手順は考えてました」
「言うねえ。邪魔が入って心底ビビっている割には饒舌だ」
「び、ビビってなんか!私は役割を果たしただけです!………で、それ美味しいんですか?」
音孤のからかう様な姿に更に不機嫌を極めるみるるだが、仮にも遠月の生徒として未だに手にした料理を離さない音孤に興味があるのかもう一度先ほどと同じ問いをする。
「いや、それがわかんないんだよねい」
「は?」
二度目の『おはだけ』が出るか、それとも一歩届かずにこのまま決着がついてしまうのか。
会場の注目を余所に、審査員の老人たちの顔は優れないものばかりだった。
「なんじゃ、これは」
説明は受けた。
薙切せりかの言葉は彼女の事前の宣言の通り、食欲をそそられるものであり、その言には遠月の重鎮として今まで数多くの美食を味わってきた老人達からしても指摘する点は存在しなかった。
この食戟という制度は実際の料理店での食事と違い、料理人達が実際にその腕を振るい作品を完成させる姿をその目で見ることが出来、当然それらも評価に多大な影響を与える。
料理人同士の実力を競い合うに適したように見えるこの制度には実は重大な欠点が存在する。
それは食の現場に長く携わるほど料理に対して真新しさを感じられなくなるというもので、初めて見る技法や食材には確かに感嘆するものがあるものの長年の経験からそういったものは年々少なくなっていき、調理している段階で以前見た調理風景とその味から出てくる料理に対し先入観を得てしまうというのは人間として仕方のないものでもある。勿論、そういった事を抜きにして素晴らしい料理には最大限の評価を付けることは老人達にとって暗黙の了解であり、この遠月学園ではそれらを度々凌駕する逸材が出るので学園の運営にはそれほど問題もない。
しかし、時折この制度の欠点に狙い澄ましたかのように突き当たる生徒が居る。榊奴操という少年がまさにそうだ。当たり前のことを当たり前に、教本通りの技術は確かに失敗しない道筋だろう。だが、この遠月の重鎮や時折招致する特別審査員と呼ばれる人々はその当たり前を骨身に染みるほど味わっており、決してその料理に高評価を下すことはない。普通の作り方では普通のモノしか出来無い。確かにあの少年の動きの一つ一つは眼を見張るものがあるが、それでも学園の上位陣には遠く及ばない。薙切せりかのレシピによって途中から動きが目に見えて変わったのは理解出来る。けれど、途中から調理法を変更した料理は味が崩れることはあっても整う事はない事を知っている老人達にとってそれは曲芸というレベルでしかなく、紛れもなく天才の一人である須郷圭一には遠く及ばないだろう。
「有り得ん。これは、有り得ん!」
だからこそ、その衝撃は人一倍だった。
言葉による説明を受け、自らの眼でその光景を確認した。だからこそ、どんな味になるかは大体想像できる。
しかし、これは、この料理にはそれがない。
例えるなら幾重にもアク抜きされ、透き通るような輝きを見せたスープ。鍋の底まで見えているその透明なスープを薄いからといって味がないというものはいないだろう。調理過程を見ているのなら尚更のこと。宝石のような輝きを見せるその液体には異物一つ無く、それが出来るまでに加えられた食材の味が凝縮されている事を知っているからこそそのスープに対する期待は高まる。
この料理もそうだ。
なまじその過程を見ているからこそ、味に対してのある程度の予想と一定の期待を持つ。
だからこそ、この料理は異常だった。
「むううぅぅぅ」
「これは………」
老人達の普段は閉じることを知らない饒舌もこの時ばかりは頑なに閉じられ、一切の言及を拒んでいた。
薙切せりかが考え、榊奴操が実現した料理はそれだけ彼らにとって危険なものだった。
人間の味覚に一定というものはない。
つい先日までなんの疑問もなく食べていたものが環境の変化によってはとても美味しく感じられることがある。その逆も然り、美食を追い求めればヒトという生き物はワンランク下の料理では最早満足できなくなってしまう。当然、その基準は人それぞれであり万人が同じように美味しいと感じられる料理はどれだけ追い求めても存在しない。それどころか追い求めるほどにそれは遠ざかってしまう。歩んできた人生の大半を食への探求に費やしてきた老人達はそれを十分に理解しており、遠月学園は多種多様の玉を発掘し、それをそれぞれの分野の頂点へと押し上げることで最高の美食を追い求めてきた。
それをこの料理は否定する。
彼らが最も忌避するべき『平凡』という言葉によってこの料理は彼らの積み上げてきたものを真っ向から否定した。
レシピ通りの食材、レシピ通りの手順、レシピ通りの環境。それら全てを揃えても結局出来上がる料理には差異がある。それは単純に料理人の実力だったり、食材の質だったりと色々だが、同じ料理人が作ったとして全く同じ味が出せるというわけでもない。料理人に出来るのは昨日までの自分を越える努力とお客様に『いつもの味』と呼ばれ親しまれている味を再現する努力であり、機械のように全く同じものをコピーすることなどはできないのだ。
それは食べる側にも同じ。いくらあの時美味しかった味だといったも今日その日までに食べてきたものによってそれは『思い出の味』として形骸化しているものだ。「思っていたものと違う」などという感想は日々精進している料理人の腕が落ちたというよりは客の舌が肥えただけというのが圧倒的に多く、常に客を満足させるためには料理人側も過去の栄光に縋ってばかりではなく、次の目標に向かって進まなければいけないということがよくわかるだろう。
美味い料理を作り続けることがどれだけ難しいかはこの遠月にいれば嫌というほど理解できる。だが、実はそれ以上に作り続けることが困難な味が存在する。不可能といってもいいその味とは、
(―――普通じゃ)
(普通すぎる)
(あまりに普通)
歴戦の美食家たちが声として発せずにいるその感想を何も知らない観客が聞けば確実にこの異様な料理を作ったものたちは嘲笑の対象となるだろう。
しかし、それは同時にそう、評する事は老人達にとって苦渋の選択だった。
思考停止して片方が美味しくてもう片方が普通だから美味しい方の勝ちと言ってしまえば簡単だ。実際老人達よりも食に対して未熟なもの達はそんな判決を下すだろう。
だが、事はそう単純ではない。
料理において一定の味が存在しないということは万人にとっての『普通』と言える基準は存在しないという事になる。
よく、「この料理は普通だ」等と耳にするが、それは可もなく不可もなくという理由で普通と評しているだけで本当の意味で平均的な味などでは断じてない。美食を求めればその要求ラインが高くなっていくのと同じ様にその人にとって『普通」と呼ぶに相応しいラインはどんどん押し上げられていく。だからこそ、万人にとって『普通』と呼べる料理は誰もが『美味しい』と呼べる料理以上に有り得ない。
(もし、ここで正直な感想をワシらが口にすれば―――)
(身を滅ぼすのはこちらも同じ、か)
遠月学園の弱肉強食とも言えるルールは何も生徒たちに対してだけのものではない。重役である彼らとて、秋の選抜を代表とする行事や食戟の場でその役に相応しくないと判断されれば簡単にその首を切られる可能性は十分にある。その権利を持つ代表格が現在この審査員席の中央に座する食の魔王と呼ばれる老人であり、学園の最高意思決定機関でもある遠月十傑評議会だ。
しかも、今回は十傑同士の正式な食戟であり、下手な判断は即自分の身に降りかかる。そう、彼らに危惧させるほどの料理が目の前にあるのだ。
(学園総帥よ、お前さんは一体どうする?)
長いものに巻かれるというのは社会を生きる上では決して間違ったものではないが、この一人一人の判断が勝敗を決める場では絶対に行ってはいけない行為。
それを見逃す魔王の一族ではなかった。
「ふふふ、そんなに美味しそうにたくさん食べてくれるなんて嬉しいですね~」
「っは!?」
気づけば学園総帥である薙切仙左衛門を含め、全員が判断どころか何のリアクションも下せないまま目の前に出された料理を食べ終えていた。
「おかわりはいくらでもありますよ~。なんなら今からでも新しいものを作りましょうか?今度はもっと上手く作れると思いますよ~。ね、みーくん?」
「え?あ、ああ、すみません。まさか俺の料理をこんなに食べてもらえるなんて思ってもいなくて……………そうですね。料理人として、お客様が望むならいくらでも作ります!」
「違う。そうじゃない」とこの料理を食べた誰もが叫ぼうとしただろう。
薙切せりかのいつもと変わらない”笑み”を見て、彼女をよく知っている審査員達はそろって確信した。
今この場で彼女が発した「今度はもっと上手く」というのは今の料理を食べて味覚の基準点が変化した老人達に対し、それにあった『普通』の味を作り出すというのだろう。もし、その料理を食べれば今度こそ正当な判断が下せるなどとは誰一人思わなかった。
「しょ、勝者。第十席薙切せりかとその代理人榊奴操!」
そうして、第九席須郷圭一と第十席薙切せりかの食戟は遠月学園史上稀に見る『おはだけ』が出なかったほうが勝利するという結果から学生達の間では『脱ぎぞん』と呼ばれ、密かに起こりかけていた第十席に対する下克上ブームはその下に十傑である角崎タキや秋の選抜優勝の木久知園果や食戟で人間離れした動きを見せた榊奴操が付いていることもあり直ぐ様沈下し、食戟のすぐ後に審査員達が揃って寝込んだことで直接その恐ろしさを味わっている現三年生だけならず、中等部に至るまで「名前を呼んだら呪われる」レベルに恐怖の象徴として刻まれることとなった。
主人公の料理には先手を取れば後から食べる料理に対する基準を上げ、後手に回ればどれだけ美味しい料理を食べている相手にも等しく普通と思わせる効果があります。
似てるようでに微妙に違う効果ですが、前者は気づきにくいので食戟などで勝ちやすく、後者は分かる人にはわかるので某長野の魔王閣下的な恐怖を主に審査員に与えます。
どっちにしろ、食べている人にしかわからないうえ、普通の人は間違いなくスルーしてしまうので周りの見ているだけの人間からしてみれば食べた奴が「普通だ」と言っている以上それ以上でもそれ以下でもないと勘違いしてしまいます。
それにしても、完全競争社会といい、観客の民度といい、遠月学園は一体何クロ次元なんだ…………