古明地さとりは悩んでいた。何もしないでも情報が入ってくるのはいいのだが、その中に聞き逃がせない内容が含まれていたからだ。
その情報は、さとりのいるこの場から遥かに離れた人里にいるある人間の記憶から齎された物であり、かつそれなりに確度の高い情報だった。
博麗の巫女は、幻想郷の空に浮く宝船に財宝を取りに行っているため、博麗神社にはいない……と言う話。つまり、古明地さとりが向かおうとしている先に博麗の巫女はいないと言うことだ。
しかし、宝船が幻想郷を飛んでいると言うのもおかしな話。さとりが知る限り───今のさとりが知ろうとして知ることのできないことなどあまりないのだが───宝船などと言うものが幻想郷にあるという事実はない。つまり、よほど厳重に隠されているか、あるいはそもそも宝船ではないものを宝船だと勘違いして動いているかのどちらか。正体を知らないさとりにはどちらが真実かはわからない。
……だが、しかし。しばらく前の古明地さとりならばともかく、今現在の古明地さとりが知ることのできないことはほぼ存在しない。誰かが、あるいは何かが知ってさえいれば、古明地さとりはそれを知ることができるのだから。
さとりは自分の三つ目の眼に手を翳し、意識的に知識を読み取った。幻想郷で、今、空を飛んでいる船の正体を知る者を探し、その知識を得て、何を目的としているのか、あるいは何も目的としてはいないのかを知る。
さとりの頭の中に、多くの情報が流れ込む。人里に住む人間達の他愛もない知識や、歴史を司る半獣が今まで隠したり食らったりした無数の歴史、隠れ住む小妖の恐怖の記憶。大妖の悠然とした記憶。博麗の巫女の最近の食事内容───これには少しばかり目頭が熱くなった───など、殆どは無駄なものばかり。
しかし、極僅かにではあるが有用な知識も入ってくる。
星蓮船。法界に封じられし尼僧。封印を解く鍵。毘沙門天の代理。化け鼠の賢者。尼入道と雲入道。
───法界の成り立ち。構成。解除方法。封印式。込められた想い。呪詛。恐怖。畏怖。憎悪と嫌悪。邪推。理想を叶えられず歪み、魔道に堕ちる。
「───やれやれ。やはり必要以上に知ってしまいますね。本当にどうにかしなければ」
次から次へと頭に流れ込む情報を無理矢理に断ち切り、古明地さとりは呟いた。
何故、今幻想郷に宝船……正確には星蓮船だが、それが現れたのか。それらの理由と原因と、その行動に込められた想い。それだけでなく、それ以前の───尼が法界に封じられる原因までも知ってしまう。
そんな状態の自分の能力に辟易とした感情を向けつつも、しかしさとりはそれを受け入れる。
使えるならば使う。使って何か益があるならば使う。益と不利益を天秤にかけ、益に傾けば使う。古明地さとりはそうしなければ生きていけない弱い妖怪だと自負していた。
手札を選ぶことができるのは強い者だけ。手札を選べず、全てを使わねば目的を遂げることもできないような弱い存在が、感情として嫌だからと言って使えるものを使わないのは───凡人ではなく愚者の考えだ。
古明地さとりと言う妖怪は、その考えを当然のものだと認識していた。
……はっきり言うと、この考え方は弱者の考え方だ。自らを弱者として、できることとできないことを理解し、自分のできることを最大限使い、自分にできないのならばそれをできる相手を狙い通りに動かし、そして最後には絶対に目標を遂げてみせる、弱者であるがゆえに強者を打ち負かすことのできる賢者の考え方である。
この考え方は、強者が真似しようとして真似できるようなものではない。強者であるならばどうしても自分の能力に自負を持ってしまうし、弱点があったとしてもその多くを長所で補えてしまうために自らの弱点を省みたところで何とかなると思ってしまう。
そういった思いは誇りへと繋がり、誇りは時に自らの行動を阻害する。負う必要のない枷を負い、行動に制限を付けてしまう。実力に自信があるせいで、どうしても今よりももっと良い結果を求めてしまう。それこそが強者の持つ驕りの一部であり、弱者が付け入る隙となることもある。
では、もしも。万が一に。天文学的な確率で―――そういった驕りを一切持たず、自らを真に弱者であると誤解し、弱者らしい行動原理を身に着けたうえで弱者らしく振る舞う強者が存在したとすれば。それは非常に恐ろしいほどに強力な怪物となることは間違いない。
欠片も油断せず、多くの存在の中に埋もれるように強者からの注目を逸らし、例え見つかっても弱者らしく振る舞うせいで強者の目には留まらない。目的のためならばいくらでも策を巡らせ、必要ならばあらゆる手を使う。そんな強者が存在したとすれば。
その結果は二通りに分けられるだろう。
強者に振り回されそうになり、反撃してしまって世界の表舞台に出ることになるか、あるいは本当に見つからずに平々凡々に一生を過ごすか。そのどちらかの道を進むことになるだろう。
実際に、古明地さとりと言う妖怪は強者である鬼に見付かって表舞台に引きずり出されてしまったし、一度名を持つキャラクターとして舞台に出てしまってはもう一度名も無きモブに戻ることは難しい。それこそ、初めから見つからないで寿命を迎えるよりもはるかに難易度は高いだろう。
だが、それがどれほどに難しいものだったとしても、古明地さとりが古明地さとりである以上、その目標を諦める事は無いだろう。
古明地さとりの目標は、平凡に生き、平凡に死ぬこと。それは今となっては難しく、その道は始めに夢見たそれよりもはるかに険しいものとなってしまっている。しかし、それは古明さとりと言う妖怪にとっては諦める原因にはならない。難しければ難しいほど燃える、と言うわけではなく、本人が『平凡である自分が平凡でなく死ぬ事は無い』と考えているからだが、そんな彼女にとっての平凡な生の中で彼女は自身の一生を精いっぱいに楽しもうと努力しているからでもあった。
どうにかして早く能力の抑えを作ってもらわなければならないと考えるさとりは、一つの考えを実行することにした。
博麗の巫女の最近の食事内容は、はっきり言ってあまりよろしいものではない。地霊殿の主である自分はもっとちゃんとした物を食べているし、さとり自身の飼うペットですらあれよりは大分体にいいものを食べているだろう。
そんな訳で、博麗の巫女をおびき寄せるためにさとりは料理を作り、博麗神社で待ち構えることにした。何もなければ博麗の巫女を刺激することは叶わないだろうが、色々と赤貧状態である今の博麗の巫女ならば料理を用意しておけば釣れる可能性も十分にあると考えられたからだ。
「……人里で白菜とお葱が安い……あとはお豆腐に乾燥椎茸、お醤油とお味噌は……地霊印のを無料提供用にいくつか小分けにしていたのがあるからそれを使うとして……流石に虫肉は食べさせられないわよね」
一瞬自分が殺したばかりの虫の妖怪に視線を向けるも、すぐにその思考を振り払う。人間である霊夢に妖怪の、しかも虫の肉なんて物を食べさせては後で何を言われるかわかった物じゃない。
それを理解しているさとりは小さく一つ溜息をつくと、宝船……否、星蓮船に向かって飛行している霊夢をスキマからこっそりと観察している紫へと思念を飛ばした。
―――『想起・ちょっと貸し一つ分で肉買ってこいや。代金お前持ちで。博麗の巫女に食べさせる分だから人間に食べられる物で、できれば牛肉。たくさん食べるだろうからかなり多めによろしく』。
飛ばした思念の内容は大体こんな物であった。さとりは肉豆腐を作るつもりであったので必要最低限の物を頼んだのだが、八咫烏の件でも使わなかった八雲紫への貸しの一つをこんなことで使っていいのだろうかと言う思いは拭いきれない。数秒後に開いたスキマの中で、片手に肉のパックが数多く入ったスーパーのレジ袋を片手に下げた藍の微妙そうな顔を見れば、そのことが事実だとよくわかるだろう。
「……なあ、古明地さとり。私が言うのもあれかもしれないんだが、紫様に貸しを作っておいて、これで消費してしまっていいのか?」
「必要そうだからそうしたまでよ。どうせまだまだ貸しはあるんだし。今回一つ減らして107よ。……ちなみに博麗神社でお鍋の予定なのだけれど、貴女もいかが?」
「遠慮しておくよ」
「お揚げも買う予定なのだけれど」
「―――い、いや、遠慮して……おくよ」
「〆はやっぱり狐うどんかしらね」
「――――――くっ!卑怯な!」
「……地底の小麦で作ったおうどんは美味しいわよ? 八雲紫も呼んでくれて構わないけれど」
「それは駄目だ。霊夢の前で紫様のあのお姿を見せるわけにはいかないからな」
「そう。で、貴女は?」
「行きます」
ひょい、と肉のパック(特売日の物らしく、純国産黒毛和牛しゃぶしゃぶ用、と書かれていた)を袋のまま受け取り、そのまま人里に向かって飛行する。その速度はけして早くはないが、いくらゆっくりであろうとも人里の店が閉まるよりは早く到着するだろう。その程度の速度で飛んで行くさとりの背を見届け、藍は自分の主へと報告するためにスキマを閉じた。
「……いつの間にか108も貸しを作らされていたのか。意外に侮れんな、古明地さとり」
『平凡で小さな妖怪に向かって、酷いわね』
「……」
『最近範囲が広がったのよ。スキマの中でも読めるから、あまり変なことは考えないでほしいわね』
スキマを開いていたから気付かれたのだと思っていたら、閉じていても読まれてしまうことを知った。天敵からの逃げ場を失ったスキマ女とそのオトモの九尾の狐は、これから一体どうなってしまうのか。それを知る者は、現状誰もいないのだった。