あの子は結局帰ってこなかった。交わした約束は呆気なく破られた。
不思議な事に涙はでなかった。いや、不思議な事ではない。予感はあった。ふとした瞬間にいなくなる。そういう子だと気付いていた。だから納得というか、腑には落ちた。やはりこんな結末かと乾いた笑みさえ零れた。だから案外平気だった。西方の鎮守府に戻ってからも普通に仕事が出来ている。むしろ時雨がいなくなってせいせいしたくらいだ。そもそもあの子はわたしにとって邪念なのだ。考えれば考えるだけ、わたしらしくなくなる。そういう毒素なのだ。だから、ぜんぜん気にしてな────……ごめんなさい。嘘です。ぜんぜん気にしてます。仕事とかろくに出来てません。戦艦が必要な状況が少ないのかもしれませんが、あからさまに出撃回数が減りました。
「……はぁ、不幸だわ」
防波堤の上から果てしない海を眺めて吐く溜め息は格別に憂鬱な気分になる。膝を抱えて座っていると尚更鬱屈とした気持ちは増すので、暗い気持ちに慣れていない人はマネしないように。わたしなんかはむしろ安心するダウナー感だからあえてしちゃうけど。
あれから一ヶ月。わたしは暇があればこうして海を眺めていた。晴れの日には日傘を差し、雨にもやっぱり傘を差して、わたしは防波堤に居座った。別に時雨を待っているとか、時雨の事を想い続けているとか、そういうヒロインチックなセンチメンタリズムではない……と思いたい。ただ海を眺めていると余計な事を考えずに済むというか、人のいる所に行って気を遣われるのが嫌というか、まあそんな感じの理由でそうしていた……んだと思う。
「…………」
海は穏やかだ。あの子と別れた時の海とは雲泥の差。青い海。青い空。あの子と同じ青色だった。
小さな痛みが走る。それは勿論錯覚で、実際には痛くない。けれど痛かった。あの子に近いものを見聞きすると胸の奥がチクチク痛む。腹立たしい。何に対する苛立ちかなんて痛いほどわかっている。それは──
「──山城」
声がした。不意にあの子の──時雨の声がした気がして、私はすぐに振り返った。
「しぐ──……ぁ」
振り返って落胆した。
そこにいたのは扶桑姉様だった。……なんてことだ。扶桑姉様をいるはずもない時雨と間違えるなんて。ましてや、声の主が扶桑姉様である事に落胆するなんて。自分が自分で信じられない。
そんなわたしに姉様は優しく微笑んだ。
「ごめんなさいね。時雨ではなくて」
「あ、いえ、そんな! ちょっとぼーっとしてまして……。すみません、二度目はありませんので──」
「──これで八回目よ。あなたがわたしを時雨と間違えるのは」
「え……」
そうだっただろうか。よく覚えていない。ここ一ヶ月の記憶は、実のところあまり判然としていない。ずっとぼーっとしていた気がするし、ずっと夢の中にいたような気もする。──……いいや、わかってはいる。どれだけ誤魔化しても駄目だ。自分を誤魔化し切れるものじゃない。わたしは時雨の事をずっと気にしている。いなくなったあの子をずっと待ち続けている。ずっと想い続けている。悲劇のヒロインを気取っている。だから腹立たしい。自分に対して苛立っている。チクチクと刺すような痛みは自己嫌悪によるものだ。わたしはあの子の死をまるで受け入れられていない。時雨の事はなんでも受け入れてあげると言ったのに、それを果たせていない。それが嫌で仕方がなかった。
「……ごめんなさい」
わたしの口から零れるのは謝罪だけだった。
「謝る必要なんてないわ。山城の気持ちはわたしも痛いほどよくわかるもの」
なんて慈愛に満ちた言葉だろうか。わたしを思いやった言葉であり、そしてそれは決して同情だけのものではない。扶桑姉様も時雨の轟沈報告を聞いて消沈していた。だから、この言葉は本物だ。ただ扶桑姉様はもうあの子の死を受け入れている。そこがわたしとの違いだった。
それを自覚しながらわたしは不格好な笑顔を作る。
「それで、なにか御用なのでしょうか?」
「あ、そうだったわね」
要件を問うわたしに、扶桑姉様は手をポンと打った。
「少し前に天龍からもうすぐ帰ってくると連絡があったのよ」
「天龍……? ああ、そういえば十日くらい前にバイクで一人旅に行ってましたね」
「ええ。それでね、その天龍と一緒に満潮も来るみたいなの」
「満潮、ですか。確かあの子は休養しているのでは……。あ、でももう一ヶ月ですもんね。怪我も治って退屈している頃だったんでしょうか」
「さて、それはわからないけれど。でも龍驤が二人が来たら何かイベントをする予定なんだと言っていてね。その時はわたし達も参加してほしいってお願いされたの。わたしはその場で了解したのだけれど……、山城は大丈夫?」
龍驤が企画するイベント。会食か、はたまた以前のような酒盛りか。どちらにしろ、そういう騒がしいものだろう。あのエセ関西弁娘は何かとお祭り好きだし。恐らく隼鷹と青葉あたりも乗っかってると見た。
正直、気は進まない。騒がしいのは苦手だし、今はあまり人と関わりたくない。
「はい、大丈夫です」
しかし、わたしは頷いた。
なぜかと言われれば、一つに満潮が来るからだ。せっかく遊びに来てくれた友人の興を削ぐような事はしたくない。積極的にお祭り騒ぎは出来ないけど、来客を交えたイベントならば最低限参加はするべきだろうと思った。二つに……やはりこのままがいいとは思えなかった。一人で海を眺め続ける事がわたしにとって良い事か悪い事かと言えば、たぶん良い事ではない。それは思考停止の現実逃避で、わたしが良しとする行為なのだけれど、時雨の事に対してだけはしてはいけない気がした。このまま続けても、いつかは時雨の事も受け入れられるだろう。きっと時間が解決してくれるはずだ。でも、それでわたしは多くの時間を失う。あの子が繋いでくれた未来を浪費する事になる。それは……違う気がした。まぁもうだいぶ浪費しているけど、しかし、そろそろ前を向くべき頃合いであるのはわたしが一番よくわかっていた。
「わかったわ。それじゃあ準備が出来たら呼ぶわね」
扶桑姉様はわたしの返答に頷き返して、防波堤から去っていった。
それを見送ったわたしはまた一人、海を眺める。こんな気持ちで、この風景を見るのもこれが最後。そうであるのを願って、わたしは果ての見えない水平線を見つめた。
扶桑姉様が去ってから十分ほど経った頃、背後から足音が聞こえてきた。姉様が呼びに来たのかと思い、わたしは首だけを振り向かせる。けれど、そこにいたのは姉様ではなく、潮風に髪を揺らす軽巡 龍田だった。
「はぁい。ごきげんいかがぁ?」
「……ぼちぼちよ」
「そう。隣、失礼するわね」
歩み寄ってきた龍田はわたしの「あっちいけ」と訴える視線をものともせずに隣へと座る。わたしの視線に気づかぬほど鈍感なのではない。それに気付きながらあえて無視をしたのだ。そういう子だ、コイツは。
だから、わたしも不服な感情を顔に出しながら対応する。
「何か用?」
「特にはないわぁ。強いて言えば天龍ちゃんが帰ってくるまでの暇潰しかしら」
「悪趣味」
「うふふ。半分は冗談よ」
「半分本当なんだったら十分悪趣味よ。……まぁでも善意で話しかけられるより、あなたみたいに悪意から接してくれた方が気が楽でいいわ」
遠慮する必要がないのは、今のわたしにとって喜ばしい。そういう意味でなら龍田は最良の話し相手だ。
「あら、酷い事言うのね。私達、姉を愛する似たもの同士じゃない」
「一緒にしないで。わたしは姉様を尊敬しているのであって、あなたのように姉妹間以上の愛情は持っていないわ。勿論、姉妹としては最上の愛を抱いていますけど」
龍田という女は、姉である天龍の全てを愛している。全てを肯定している。彼女を想い、彼女に尽くす。それは家族愛のようで、姉妹愛のようで、果ては恋人のようだった。なんとなくわかってしまうのが癪だが、龍田は天龍の事を互いの関係性を抜きにしても愛している。個人として。一人の人間として愛している──……のだと思う。
「そうだったわね。私が天龍ちゃんに抱く愛情に近いのは、どちらかと言えばあの子──時雨ちゃんに対する気持ちの方だものね」
「……あなたのものに比べれば可愛いものよ」
否定はしない。見抜かれている事を隠すほど無様ではないつもりだし、言った通り、龍田の度が過ぎている愛情に比べれば、わたしが時雨に対して抱いたものなど慎ましく可愛げのある感情だ。
激しく求めた訳ではない。過保護に守ろうとした訳でもない。わたしはただ一緒に居られればよかった。ずっとでなくてもいい。ふと思い至った時、会える距離に居ればそれでよかった。それだけで満足だった。
「後追い自殺するつもりならお手伝いしましょうか?」
「誰がするもんですか、そんなこと」
恐ろしい事を言う奴だ。確かにそれなら一緒に居られるのかもしれないが、時雨だってそんな事は望まないだろう。わたしだってするのもされるのも嫌だと思うし。
「私ならするわ。もし天龍ちゃんが先に死んじゃったらだけど」
でしょうね。この子なら他人の事とか天龍の事すら度外視して自分の感情を優先するだろう。それが彼女の愛であり、強さでもあると思う。
「そう言うわりには天龍の一人旅を止めたり、付いていったりはしないのね。目の届かないところで事故に遭ったり、危険な事に巻き込まれたりとか心配にならないの?」
「ならないわ。天龍ちゃんの事を信頼しているもの」
「…………」
きっぱりと即答する龍田を見て、少し言葉を失う。
「どうして黙るのかしらぁ?」
「いえ……わかってはいたけど天龍への想いは筋金入りね、あなた」
素直に感心してしまった。
わたしの言葉に「当然よ」と返した龍田は横目でこちらを見つめた。
「アナタはどうなの?」
「どうなの……とは?」
「時雨ちゃんの事、ちゃんと想っているの?」
「…………」
当然よ──とは言えなかった。いなくなったあの子の事は想い続けている。けれど、ちゃんと想っているのかと問われれば、わたしは解答を持たない。時雨の事はいつだって頭の中にある。いつも考えている。しかし、“死んだ時雨の事”を想った事はなかった。あの子の死を受け入れられていないわたしが、正しく時雨の事を想えるはずがない。
「わからない。わからないのよ。だって、わたしの中のあの子はまだ生きていたままだもの。遺体を見た訳でも、沈んだ瞬間を見た訳でもない。帰ってこなくて、轟沈判定がされただけ。確かにふとした時には消えていそうな子だったけど、それと同じくらい性根が図太い子だったし……」
「海に沈んでいく艦娘の最後はだいたいそういうものよ。遺体どころか遺品すら残らない場合がほとんどでしょう」
「わかってはいるの。ほぼほぼ生きてはいない事はわかってはいるのよ。……でも、なんか実感がなくて。肯定も否定もできないまま、この一ヶ月はずっと宙ぶらりんでいた気がする」
正直な気持ちを吐露した。
扶桑姉様には絶対に言えない本音だった。遠慮しなくてもいい相手だから口が滑ったとも言えるけれど、少し気持ちが楽になった気がした。
「──だそうよ」
不意に龍田が呟く。わたしに向けた言葉ではない。龍田は立ち上がり、踵を返す。ふと、わたしも気配を感じて背後を振り向いた。わたし達の背後、そのずっと後ろに見知った三人が立っていた。一人は扶桑姉様。一人は天龍。そしてもう一人は──
「だったら私と一緒にケジメをつけに行かない?」
──満潮だった。