艦これ Side.S   作:藍川 悠山

76 / 94
08

 

  8

 

 

 駆逐棲姫はようやく停止した。

 時雨が意識を失ったのと同時に停止した。

 

 自ら止まったのではない。進めなくなったので止まったのだ。──駆逐棲姫はAL諸島に連なる岩礁に激突していた。いや、突き立った岩礁に時雨を叩き付けたと言うべきだった。

 

 岩肌から身を離す。岩礁と駆逐棲姫に挟まれていた時雨は、両側からの圧力を受け、白目をむいて気絶していた。脱力した肢体は岩から剥がれ落ち、力なくその場に座り込む。時雨の完全沈黙を認識した駆逐棲姫は彼女を見つめたまま肉体の修復に努めた。

 

 カチカチと音を鳴らして肉体と艤装は再生されていく。しばらくして駆逐棲姫は全ての機能を回復させた。

 

 砲塔も魚雷発射管も全て万全の状態。眼前には無防備を晒す敵の姿。しかし、駆逐棲姫は攻撃する意思を見せなかった。ただ気を失った時雨を見つめるだけで、その場から動こうともしない。

 

「────」

 

 駆逐棲姫は時雨を殺さない。

 それは彼女がこの戦いで死ぬ運命にないからだった。

 

 深海棲艦は『運命』の具現。歴史の再現性の発露。根本はそうして生じた存在だ。そんな存在が自ら『運命』に反する行動はしない。下級な深海棲艦はその限りではないが、強大な力を持つ個体はその力の源流である『運命』の意思を大きく反映している。その中でも駆逐棲姫は規格外と言える力を有する深海棲艦。もはや個体としての意識はなく、実体を持たない『運命』の化身に等しかった。

 

 故に、死ぬ運命にない者を殺しはしない。生殺与奪の権利を行使する神が如く、死を与えず、生を奪わない。時雨に好き勝手されると都合が悪いので、神様はただただ無力化するだけであった。

 

 駆逐棲姫は時雨を観測する。

 種別は人間。類別は艦娘。性別は女性。齢十四。肉体の発育は良好。精神の成熟は途上。艦艇の魂と同調する特殊な個体。しかして、その意思の力は────測り知れない。

 

「────」

 

 駆逐棲姫は腕を動かす。脅威度を更新。現状で済ませず、足を一つ潰すべきと判断を改めた。

 

 右腕の砲塔が口を開く。砲口を突き付け、そして撃つ。──が、寸前でそれを中断した。突然、駆逐棲姫の背中を何かが撃ったのだ。砲撃ではない。それよりも数段脆弱な機銃攻撃。全て『装甲』で弾き返したが、駆逐棲姫は自己防衛本能に従い、攻撃した者を迎撃する。

 

 振り返り、それを視界に捉える。空を飛ぶ機影。艦娘が飛ばす艦載機の姿があった。

 

「すまんなぁ、時雨。どうもキミには特別な仕事があるようやけど、やっぱ仲間を見捨てたとあっちゃ女が廃るんでね。もう一喧嘩させてもらおか」

 

 その奥。鋼鉄のサンバイザーのツバを手で押さえながら彼女は現れる。顔には笑みを浮かばせ、眼光は凶悪に揺らめく。航空母艦 龍驤は格好付けてそこにいた。

 

 後ろには隼鷹の姿もあり、二人揃って戦域に戻ってきていた。

 

「なんならキミは帰ってもよかったんやで、隼鷹」

 

「できるなら帰りたかったけどさぁ。ビビって逃げるとか、流石に格好悪過ぎだし」

 

「せやな。ま、キミは後ろにいるだけでええよ。指示があるまで動いちゃダメやで」

 

 戻ってきた二人を駆逐棲姫は認識する。戦意がある事を観測し、直ちに迎撃行動に移った。対象は空母。接近すれば脅威ではない。加えて装備を消費し切っている事も認知している。唯一の攻撃手段である機銃など今の駆逐棲姫にとって豆鉄砲に等しい。故に駆逐棲姫は真っ直ぐ龍驤へと突進した。

 

 対する龍驤は敵が接近してきているというのに脱力した様子でいた。サンバイザーをしっくりくる位置に直すと、巻物を丸め、腰に差す。両手が空いた彼女は指先を天に向け、そこに炎を灯した。その炎には『功夫』の文字が浮かんでいる。

 

「時雨が気絶してるのは好都合やったな。──よう見とけよ、後輩。これからウチがするのは空母本来の戦い方やあらへんし、相応のリスクを伴う外法や。正直、まったく推奨はせんけど、まあ、こういうやり方もあるって事を覚えておけ。いつか役に立つかも知れへん」

 

 そう言った龍驤は指先の炎を握り潰した。炎は指の隙間から漏れる事なく手のひらに吸収されていき、手から心臓に達し、心臓から全身に廻る。

 

「術式空母だけに許された裏技や。本当なら艦載機を操る為の法力を自分に宿して、ちょーっとばかし肉体の強度を上げるっていう、それ単体じゃ大した事のない小技なんやけどな」

 

 一度深く呼吸を吐いて、龍驤は迫りくる駆逐棲姫に正面から駆け寄る。海上を滑らず、両足を交互に前へ出して“走っていた”。艦娘として非効率であるにも拘らず、龍驤は海面を走って移動する。意外な行動に駆逐棲姫は対応し、向かってくる龍驤に砲撃を放つ。しかし、当たらない。等速で動く滑走とは異なり、加速と減速を繰り返す走行には自然と緩急ができる。加えて毎回踏み込む為、小回りも利く。速度こそ早くはないが、龍驤の機敏な動きに翻弄され、駆逐棲姫の砲撃はまったく命中しなかった。

 

 気付けば両者の距離はなくなっていた。目の前に互いの姿を捉え、駆逐棲姫は魚雷を発射し、同時に砲撃も行う。龍驤はその砲撃を避け、続いて眼下に迫った魚雷を跳躍で飛び越えた。彼女が着地した先は、もう駆逐棲姫の懐だった。

 

 龍驤は拳を作る。人差し指の第二関節を突き出した拳。その作用する力を一点に集中させた拳を、深い踏み込みと共に打ち込んだ。

 

 駆逐棲姫はそれを脅威とは判断しなかった。所詮は人間の打撃。炸薬で破壊する砲弾や魚雷には遠く及ばない。時雨が渾身の力を込めた後ろ回し蹴りも『装甲』を貫通する事はなかった。これまでの情報を鑑みても、この小さな女が放つ打撃が脅威であるとは判断できなかった。

 

 しかし、それでも攻撃は攻撃だ。駆逐棲姫は回避を行う。例え『装甲』に弾かれるものであろうと、命中する攻撃は回避する。それが駆逐棲姫に入力された命令だった。

 

 駆逐棲姫は回避運動を行い──そして回避するより先に龍驤の拳が腹部に到達した。

 

「────」

 

 トン──と拳が腹を打つ。拳は『装甲』に阻まれ、その身体には届いていない。緩和された拳打の衝撃だけが相手に伝達する。……だが、一拍おいて、駆逐棲姫の鼻から青い体液が流れた。

 

 堪え切れない衝撃を受けて、駆逐棲姫は一歩、二歩と後退する。

 今の状況は想定していなかった。なぜ避けられなかったのか。なぜこのようなダメージを受けたのか。疑問を抱かぬ駆逐棲姫には理解できなかった。

 

 なぜ龍驤の拳を避けられなかったのか。──それは駆逐棲姫が回避する速度より、彼女の拳の方が早かったから。

 

 なぜこのようなダメージを受けたのか。──それは『装甲』により緩和された衝撃でも、駆逐棲姫の内部を破壊するのに十分だったから。

 

 その答えを龍驤だけが知っていた。

 

「ウチの拳を侮ったツケやで」

 

 軽空母 龍驤。彼女には拳法の心得があった。

 心身を鍛える一環として格闘技を嗜む艦娘は多い。時雨や満潮もそうであり、龍驤もその一人だ。彼女の趣向は広く、様々な格闘技や武術を扱えるが、その中であえて得意とする一つを選ぶならば八極拳がそれに該当した。

 

 震脚と呼ばれる動作から繰り出される八極拳の打撃は非常に高い威力を誇る。それに艦娘が持つ艤装の力と、彼女が言う裏技により底上げされた肉体強度が合わさり、衝撃のみで体内を破壊するという打撃を生み出した。……デタラメな話である。しかし、それが事実として存在していた。

 

 龍驤の人差し指、その第二関節の一点から波及した衝撃は『装甲』に抵抗されながらも、その内側に浸透し、身体の芯から全身へと波及したのである。

 

「────」

 

 駆逐棲姫は情報を更新する。理由は理解できなかったが、龍驤の拳を脅威と認定した。故に駆逐棲姫は距離を取る。

 

「逃がさへんよ。──航空隊、緊急発進! 機銃掃射!」

 

 すかさず飛行甲板を広げ、艦載機を五機まとめて発艦させる。飛び立った艦載機は高度そのままに離れていく駆逐棲姫へと突撃し、機銃を撃ち放つ。豆鉄砲とはいえ、駆逐棲姫は性質上、回避せざるを得ない。右に回避し、通過していった航空隊を撃墜しようと砲塔を上げた所で再び衝撃が襲った。

 

 先程の比ではない衝撃。それを脇腹に受け、骨が砕けるのを認識する。目を向ければ龍驤が既に接近しており、突き出された肘が脇腹を砕いていた。

 

「なにぶん近付かへんと殴れないんでね。ウチの間合いから逃げられるとは思わん事や」

 

 それでも駆逐棲姫は間合いを離そうと後退するが、空中を飛ぶ数機の艦載機が機銃で攻撃し、それを避けた先に龍驤が先回りする事で相手の逃走を許さない。寸分違わぬその連携は八極拳士の域からも逸脱する新境地。それは八極拳と航空機を組み合わせたまったく新しい格闘技のようだった。

 

 龍驤は逃げ場を失った駆逐棲姫に連続して打ち込む。拳。肘。膝。足。肩。掌底。裏拳。背面。身体のあらゆる部分を用いて、次々と打撃を叩き込んでいった。

 

 駆逐棲姫は攻撃を避けられず、全てが直撃した。龍驤の打撃は至近距離から放たれ、かつ早い。目で見てから回避する駆逐棲姫では、いくら驚異的な反応速度と航行速度を持とうが避け切る前に当たってしまう。本来、格闘戦などナンセンスの極み。ましてや本当に格闘するなど自殺行為であったが、龍驤と駆逐棲姫の対決に限ってはそうではなかった。

 

 数多の打撃を受け、表面的には綺麗でも、内部がボロボロになっていた駆逐棲姫は再生を続けながら反撃に出る。密着状態にある為、両腕の砲塔は使えない。それ故、両足の小口径単装砲二基を発射した。龍驤は身体を逸らしてそれを回避したが、流石に足が止まる。その隙に駆逐棲姫は急速離脱した。航空機を向かわせたが、僅かに間に合わず、駆逐棲姫は龍驤の間合いから脱出を果たした。

 

「おっと……。まあ、いつまでもサンドバックじゃないか」

 

 慌てた様子もなく、龍驤は値踏みするように駆逐棲姫を観察する。駆逐棲姫は警戒しているのか、間合いを離したまま近付いてくる様子はない。まずはこの間合いを詰める必要があるな──と、龍驤は後ろに手を振る。

 

「おい後輩。キミが持ってるお酒をちょうだい」

 

「え、なに先輩。喉渇いたの?」

 

「そうそう。だから早く投げて」

 

 よくわからないままに、隼鷹は腰に吊り下げたひょうたんを龍驤の方へと投擲する。それは暴投に近く、凄まじくコントロールが悪かったが、龍驤の艦載機がひょうたんの紐をランディングギアに引っかけ、器用に龍驤の下まで運搬した。

 

「流石はウチの子や」──と、龍驤は酒の入ったひょうたんを受け取る。そして、すぐに口を付けた。それと同じくして駆逐棲姫から砲撃が放たれる。

 

「んぐ、んぐ」

 

 酒を飲みながらも奇抜な動きでそれを回避すると、ひょうたんから口を離す。一息吐いて、龍驤は顔あげる。顔はほのかに赤くなっていた。

 

「実際に酔う必要はないんやけど、この方が“それっぽい”からね。ああ、気分は大切や」

 

 スイッチが切り替わる。

 龍驤の体捌きは、これまでの力強い動きから、柔らかいというより、ぐにゃぐにゃした動きに変化した──と思えば、唐突にぶっ倒れた。

 

「ちょっ、先輩!?」

 

 隼鷹の心配をよそに、龍驤はその場に倒れ、気持ち良さそうな寝息を立てている。咄嗟に隼鷹は駆け寄ろうとしたが、それよりも先に駆逐棲姫の砲弾が龍驤を襲った。

 

「先輩ッ!!」

 

 隼鷹が叫んだ時には、龍驤は立ち上がっていた。一瞬の出来事だった。砲弾が飛来し、寝ている龍驤に直撃すると思った瞬間──それこそ瞬きの間に彼女は立ち上がり、隼鷹が唖然とした時にはもう駆逐棲姫へと走り寄っていた。

 

 眠っていたと思えば、次の瞬間には全力疾走。その極めて緩急のある行動に混乱する事なく、駆逐棲姫はひたすらに近付いてくる龍驤を砲撃した。正確無比な砲撃を、しかして龍驤は時折酒を飲みながら避けていく。ブリッヂするほど上体を逸らしたり、転んだように海面を転がったり、ハードル走のように飛び越えたり、無駄が多過ぎるめちゃくちゃな避け方で砲撃を回避していきながらも、その顔は終始笑っていた。

 

「アハハハッ! 酔えば酔うほど強くなるんやでー!」

 

 最初は演技のつもりだったが、この時の龍驤は本気で酔っていた。酒の勢いに呑まれていた。けれど、その勢いのままに龍驤はどんどん間合いを縮めていく。

 

 まるで当たる気配のない砲撃を見て、駆逐棲姫は後退を始める。とにかく相手の間合いに入るまいと、逃げの一手を取った。それを龍驤の艦載機が邪魔する。無防備な背中に機銃を撃ち込まれた駆逐棲姫は反射的に後ろを向き、機影を視認したが、迎撃する前に離脱され、再び前に向き直った。

 

 ──その時、小気味良い音が響き渡る。駆逐棲姫の顔面にひょうたんがぶつかり、割れる音だった。

 

 艦載機に気を取られている間に龍驤が全力でぶん投げたひょうたんが激突したのだ。ぶつかった衝撃で駆逐棲姫の顔は上を向き、中に入っていた酒が顔面に飛散する。「あー、アタシのお酒がー!」という隼鷹の嘆きも響いたが、この場に気にする者はいなかった。

 

 数度の瞬きで目に入った酒を洗い流すと、駆逐棲姫は敵である龍驤の姿を探す。探すまでもなく、龍驤はすぐに見つかった。──敵は目の前に立っていた。

 

「────」

 

 視認した瞬間、頭突きを喰らった。身長の関係上、それは胸部を叩く。八極拳における震脚のような予備動作もない、ただ首の力だけで繰り出された頭突き。だというのに、とんでもなく重い一撃だった。

 

 不意を突かれた一撃で駆逐棲姫は一歩引く。龍驤は一歩近付き、もう一度同じ頭突きを繰り出す。二度目を受けるほど容易くない駆逐棲姫は両足の砲塔で龍驤の上半身を狙い撃った。だが、頭突きの途中で龍驤の動きはぴたりと止まり、突然しゃがみ込んだ事で砲撃は回避される。

 

「うぇっ、きもちわるっ」

 

 頭を振った事で気分が悪くなったらしい。それで少し酔いがさめた。

 

 何が何やらまったく理解の及んでいない駆逐棲姫だったが、とりあえず間合いを離す為に後退──しようとして、胸部に垂れるネクタイを龍驤に掴まれた。それで駆逐棲姫は動けなくなる。駆逐艦である時雨が相手ならパワーで押し勝てるが、龍驤は空母。単純な出力ならば駆逐艦の比ではない。その差は駆逐艦として圧倒的なスペックを持つ駆逐棲姫であっても覆し難かった。

 

 駆逐棲姫が自らネクタイを切断するよりも先に、龍驤の腕が伸びる。横顔を狙った掌底。それを察知して駆逐棲姫は顔を引いたが、意識の外にあった腹部に衝撃が走った。掌底はフェイント。本命は腹部を狙った膝蹴りだった。

 

 駆逐棲姫の身体がくの字に曲がる。ネクタイを放した龍驤は駆逐棲姫の背中の上を転がって背後にまわると、死角から連打を浴びせた。拳と肘で背中を滅多打ちにされる駆逐棲姫は両腕を振り回しながら反転し、視界に龍驤を捉える。打ち込まれる拳を観測し、動きを予測する。ここに至って回避ではなく防御を駆逐棲姫は選択した。

 

 龍驤の拳打は早い。視界に捉えても回避は間に合わない。ならば防御する他にないと判断する。──その判断は八極拳を用いていた時までは有効だった。

 

「────」

 

 拳が来ると予測したが、実際に打ち込まれたのは肘であった。伸ばされた腕は中途で曲げられ、突如肘打ちとして胸部を叩いた。予想外。龍驤は攻撃を続ける。腕を大きく振り上げたのを観測し、拳の叩きつけか肘打ちと予測する。実際は上段蹴りだった。予想外。振り上がった足が落ちてくる。かかと落としと予測する。実際はもう片方の足でのドロップキックだった。予想外。龍驤はドロップキックの反動で海面に落ちた。離脱する機会だと判断、離脱する。だが、海面に両手をついてバウンドした龍驤はすぐさま起き上がり、身体を回転させ、さながらドリルのような頭突きをした。それら全てが予想外だった。

 

 駆逐棲姫は強烈な頭突きを受け、尻もちをつく。口から体液が零れ出したが気にはしない。戦う為にすぐ前を向いた。そして見上げた先には龍驤が立っていた。

 

「ウチの酔八仙拳は見よう見まねの芯に何も宿らん拳やけど、どうやらキミにはそれでも十分みたいやな」

 

 見下した視線で駆逐棲姫を睨み付ける。酔いは完全にさめていた。

 

 駆逐棲姫は変わらず無表情のまま、けれど、未だ自身の目の前に立つ存在を測りかねていた。回避が間に合わない拳速に、『装甲』を介してでも自身にダメージを与える打撃力。突然、奇抜な動きをし始めたと思えば、予想外の行動で自分に尻もちをつかせた。過去の記録を閲覧しても、このような情報は一切見当たらない。

 

 なぜ空母に属する艦娘相手に──否、人間相手にここまで苦戦を強いられねばならないのか。駆逐棲姫に疑問はなかったが、その不可解な現象だけは認識する。

 

「程度が知れたなぁ、駆逐棲姫。キミにはクンフーが足らへんねん」

 

 駆逐棲姫の無感情の瞳を読み取ったのか、龍驤はつまらなそうに呟く。

 拳法とは貧者の技。弱き者が強き者に対抗する為の術。人類史の中で培われた努力と研鑽。その結晶の一つ。なればこそ、この現状は妥当だ。

 

 誕生した当初から完成された強さを持つ駆逐棲姫には到底わかるまい。龍驤は恵まれた体躯に生まれた訳ではなく、宿った艦艇の魂も空母の中で特別秀でた存在でもない。だからこそ努力を重ねた。学び、励み、磨き、そこから更に追求したのだ。強い自分を夢見て、現在に至るまで夢を見続けた。それが今の龍驤を──駆逐棲姫を拳で打倒する人間を生み出していた。

 

「立てや。そのくらいは待ってやる」

 

 鋼鉄のサンバイザーを深くかぶり直しながら、その怒りが込められた瞳を眼下に向ける。対峙した時から駆逐棲姫は仇敵。龍驤に容赦など存在しない。だが、上から殴って恨みを晴らそうとは思わない。正々堂々、向かい合ってから仇を討つ。

 

 駆逐棲姫が立ち上がった時が合図。そこで一気にケリをつける。

 

 やがて、天から伸びる糸によって吊りあげられたかのように駆逐棲姫は立ち上がる。──両者とも動き出したのは同時だった。駆逐棲姫は急速で後退し、龍驤は逃がすまいと前に踏み込む。驚く事に駆逐棲姫の初速と龍驤の初速は同等。八極拳には活歩という瞬時に間合いを詰める歩法があり、それに加え強化された脚力から踏み込まれた龍驤の身体は一瞬の間だけ駆逐棲姫の速度に追い付いた。

 

 ついてきた龍驤に駆逐棲姫は両腕の砲塔を向ける。しかし、龍驤の両腕から繰り出された裏拳は左右の砲塔を腕ごと外側に弾き飛ばす。次の瞬間、二度目の踏み込みをし、龍驤は右足を振り上げた。

 

「────」

 

 振り上げた右足は駆逐棲姫の顎を捉え、その身体を僅かに浮かす。それにより足が海から離れ、推進力が弱まった駆逐棲姫は減速した。龍驤は振り上げた足を戻し、それをそのまま踏み込みに変える。そして体を回転させながら敵の背後に回り込むと、円運動のまま流れるように肘打ちを背中へと打ち込んだ。それで駆逐棲姫の移動は完全に止まる。

 

 腕で薙ぎ払いながら駆逐棲姫は背後を振り向く。けれど、そこには誰もいなかった。周囲を見回す隙もなく、駆逐棲姫は左大腿部に衝撃を感じる。確認すればそこに設置された単装砲の砲身が打撃によってへし折られていた。続いて右大腿部に衝撃が走り、目を向ければ同じように砲身だけが折られていた。駆逐棲姫の視界には誰もいない。だが、誰が行ったかなど考えるまでもなかった。

 

 龍驤は小柄な体を生かし、常に駆逐棲姫の死角へと移動していた。常に後頭部の裏にいたと言っても間違いではない。自分の姿を探す駆逐棲姫の行動に同調して次々に移動し続け、その都度打撃を叩き込んだ。

 

 その光景を遠目から見ていた隼鷹は「まるで瞬間移動してるみたい」だと呟く。それほどまでに龍驤の動きは素早く、また洗練されていた。

 

 駆逐棲姫にもはや成す術はない。蜘蛛の巣にかかった獲物に等しく、じわじわとその身体は削り取られていった。真っ先に武装が破壊され、続いて人体の急所が狙われる。深海棲艦に頭部以外の急所はなかったが、人の形をしている以上、そこを打たれれば何かしらの障害が発生した。でなくとも龍驤の打撃は重いのだ。打ち込まれればダメージが蓄積される。急所か否かなど関係はなかった。

 

 そして終わりの時が訪れる。

 度重なる攻撃で膝が蹴り砕かれ、駆逐棲姫は膝をつく。内外問わずズタボロにされた駆逐棲姫は力なくこうべを垂れた。その下を向いた顔に、すくい上げるような膝蹴りが打ち込まれる。鼻っ面を捉えた蹴りは強引に駆逐棲姫を立ち上がらせ、無防備な身体をさらけ出させた。

 

 その僅かな時間に龍驤は構えを取る。

 左腕を突き出し、右腕は引き、腰に構える。八極拳における基本、冲捶。これはその構え。独特な中段突きであるが、定義としては空手の正拳突きと差異さない。しかし、彼女のソレは基本の範疇を超え、一打の下に心を砕く。

 

「この一撃。亡き後輩に捧げよう」

 

 右の拳に炎が灯る。龍驤が灯すは蒼炎。浮かび上がる二文字は『絶招』。この世で最も熱き炎の拳。それを握り締めた。

 

 気の合一。力の充実。満ちる。満ちる。満ちる。闘気は身体を駆け巡る。昂りが蒸気のように浮かび上がり、迸る気力を視覚化させた。大気が揺れ、海面には波が立つ。人の力。その究極に等しい一撃の封が切られる。

 

 駆逐棲姫の胸部に狙いを定め、彼女は踏み出した。重心を低く、込められた力は強く、そうして踏み込まれた震脚は一帯の海面を舞い上げる。──瞬間、腰に構えた右腕を槍のように突き出した。

 

 放たれた拳は音の壁を突破する。空気を裂く音よりも早く、その拳は対象へと穿たれた。駆逐棲姫の『装甲』を“打ち貫き”、胸部へ直撃した拳は容易く心の臓に達する。だが、それだけでは終わらない。拳に込められた法力は心臓から血管を伝い、全身に伝達され、内側から駆逐棲姫の肉体を崩壊させる。その衝撃は何度も肉体を往復し、やがて飽和を迎えた。針を刺された風船が割れるように、打ち込まれた拳を中心にして駆逐棲姫の身体が決壊する。内側から弾け、内部が露出した肉体は大輪の青い華を咲かせながら、龍驤の拳から抜け落ち、無様に転がった。

 

 これまでの拳打など余興。打ち込む必要のない戯れであったかのように、この一撃は正しく必殺だった。

 

 曰く、八極拳士に『二の打ち要らず、一つあれば事足りる』。

 龍驤はその言葉を目指し、八極拳を会得する上で基本技である冲捶をひたすら繰り返した。何万回と繰り返された所作は龍驤の体に融け込み、やがて境界を超え、更なる技巧へと昇華を果たした。人並みの才能しかない彼女だったが、ただそれだけを夢見て鍛錬を重ねた結果、その基本はいつしか必殺に相応しい威力を持つに至ったのだ。未だ目指した領域には届かない途上の拳であったが、それでも強い自分を夢見た努力は結実した。故に冲捶は彼女にとって奥義。即ち──

 

「──これがウチの絶招や」

 

 青い血が滴る拳を引いて構えを解く。眼下には砕け落ちた駆逐棲姫。龍驤は勝者として哀れな敗者を見下ろす。

 

 勝敗は決した。神が如き『運命』は龍驤が培った無窮の研鑽の前に敗れ去る。

 より良い明日を夢見て追求し続けるのが人間の強さ。そこに限りはなく、また善悪もない。なればこそ彼女はその体現者。故に、この結末は必然だった。

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。