義の刃足る己が身を 作:黒頭巾
「……囮ぃ?」
「そう。一隊を率いて敵陣に突っ込み、わざとらしくないくらいに暴れて引き返してきて」
緑色の髪をした少女―――賈駆が事も無げに言い放ち、その言葉に張遼の眉がピクリと動いた。
―――囮。最も難しく、損な役割である。
負けたならば責任はその囮に擦り付けられ、勝っても栄光を手にするのはその策を立案した軍師のみ。
あまりにも、不利な立場だった。
「何でウチらなんや。そっちにも華雄っちゅー奴とか呂布ちゅー奴とか居るやろ」
「華雄は猪武者。機を見れないから囮には適さないし、呂布も引き時という物が分からない。
策を確実に成功させるにはそちらに頼むしかないの」
「では、拙者が囮となりましょう」
賈駆は声のした方を振り返り、目を見開く。
天を突かんばかりの巨躯に、黒一色で固められた鎧。
纏められた髪と見事な髭も黒であり、唯一黒ではない箇所は顔と手のみと言う有り様だった。
「あんたは?」
「関籍」
「自信の程は?」
「無論」
「じゃあ、あんたに任せるわ。機を測るまで暴れてきて、機を見て引くの。この陣にまで敵を追いつめて」
「はっ」
殆ど自分を蚊帳の外において決定した人事を呆然と見ながら、張遼はふつふつと腹の底が煮えたぎるのを感じていた。
「籍やん、勝手に何やっとんねん!」
副官に腹の底で煮えたぎった怒りをぶっかける。
張遼は、自分でもよくわからない怒りに囚われていた。
「文遠殿が囮役として適していることは、百も承知。引き際を違えぬことも知っております」
拝礼し、いつも通りに答える関籍に激情はない。むしろ、怒っているのは張遼だけという状況だった。
「ですが、文遠殿のお手を煩わせるまでもなく拙者と黒騎兵でこの任は果たせ申す」
「知っとるわ、ボケ!」
実力は知っているが、心配なのだ。
端から見たら凄まじい逆ギレでしかないが、関籍から見たらそうではなかった。
ふつうに自分に非があった、と考えるのである。
「すみませぬ、文遠殿」
プイッと顔を背けてしまった張遼に再び一礼し、厩舎へと赴く。
「おう、よしよし」
愛馬である黒馬の頬を二度撫で、自分から出てきたところを身体に似合わぬ身軽さで馬上の人となった。
九尺の巨躯と九尺の巨馬。その馬上の雄大さは他を圧倒していたし、突進してこようものならばその雄大さがそのまま恐怖に繋がる。
関籍の巨躯は優れた武器と言ってよかった。
「出るぞ」
無言で後に続くは、八十七騎の黒騎兵。全員が全員漢人と言うわけではないが、全員が并州の地獄をくぐり抜けてきた猛者である。
この程度の敵に恐れるなど有り得るはずがなかった。
「官軍だー!」
建てられた粗末な柵の目と鼻の先にまで近づいたところで、やっと黄巾の兵が気づく。
本隊と銘打っていようと、練度の低さは変わらないらしい。
そう判断した関籍は、柵の目と鼻の先で突如右に曲がる。
并州に来たときは馬に乗ることすら出来ず、張遼から直々に教わるまでは并州・涼州の武将の心得の一つである馬の力を自分に乗せることすら出来なかった奴とは思えない程の卓越した馬術だった。
後ろに続く黒騎兵も突然の急制動に対応し、誰一人として隊列を乱すことなく曲がる。
曲がった先には、敵陣の横腹が広がっていた。
「横腹から食い破るぞ」
後ろに続く旗手にそう伝え、関籍はまたもや馬首を巡らす。
それに続いて馬首を巡らした黒騎兵という獣の前には、無防備な獲物の柔らかい横腹が広がっていた。
黄巾の横腹に、馬を防ぐべき柵はなかった。
「突撃せよ」
静かな号令に戦意が跳ね上がり、内に秘める気が顕在化する。
黒騎兵と青騎兵は、気の扱い方を納めた者が多かった。
それがまた、強さの秘密でもあったのである。
黒騎兵は、まるで地面に描かれた線を棒で絶つが如く容易く横腹から横腹へと抜けた。
―――弱い。
関籍が感じたのは、その当たりの弱さと粘り腰の無さである。
その脆弱はまるで、徴収したばかりの兵のようだった。
「左右に断ち切った。次いで上下に断ち切るぞ」
「はっ」
―――敵はこちらを誘っている。
練度の低い兵を並べて消耗を誘い、内に秘めた精兵で疲労させた敵を討つ。
数があり、兵の命に価値を置いていないからできる戦術とも言えない戦術。
否、略奪目当ての黄巾は死すべし、とでも言いたいのか。
乗ってやる。何せこちらは負けそうになることが目的なのだから。
関籍に、敗北の経験はない。戦えば必ず勝ったし、一回、ものの見事に策に嵌ったときもあったが、それは張遼が安定の来来を見せたから、逆に挟撃して壊滅させることに成功した。
「何騎落ちた」
「未だ一騎も」
弓が無ければこんなものか。
関籍は納得し、頷いた。
「再突撃を開始する。味方ごと撃ってくるかもしれん。気を抜くな」
崩した『関』の一字がはためく旗を持ちながら馬上で簡易な拝手をした旗手から目を離し、青龍偃月刀を構える。
中央部。
そこに、敵の精兵がいる。
関籍が一度青龍偃月刀を振る度に雑兵の首が七つ纏めて宙を舞い、黒騎兵が更にいきり立った。
圧倒的な武勇を誇る将に率いられた軍は、強い。
目に見えて頼りになるし、嘗ての英傑の活躍を見るような気持ちにさせれば更に頼りにされる。
将に全幅の信頼を置いた軍は、意志統一が施された軍は、凄まじく強かった。
「そこな黒づくめ、敵将と見た!」
中央部に差し掛かったところで、帽子のような兜に黄の鉢金をした女が馬を駆けさせながら突っ込んでくる。
手には蛮刀。馬の腹には一本の槍。
「我が名は周倉、覚悟!」
「関籍」
蛮刀と偃月刀が火花を散らし、互いに刃を引いて機を待つ。
―――強い。
義を抱いて漢を倒すことを誓って黄巾となり、数多の官軍を打ち破ってきた。
「この兵は、そなたの育てた兵か」
「当たり前だ!」
蛮刀を弾かれ、偃月刀の突きを身体を横に逸らして避けながら、反撃と共に周倉は答えた。
本当に心に義を抱いたものから、死んでいく。なればこそ、そのような者を集め、鍛えなければならなかった。
「見事な兵だ」
反撃を辛くも避けながら、その瞳はあくまでも冷静。
「喋る暇があれば槍を振るえッ!」
蛮刀を投げ、弾かれたところを槍で突く。
左腕を僅かに掠った一撃で、今まで傷一つ負わずに黄巾どもを殺戮していた関籍の身から血が零れた。
「退くぞ」
馬首を巡らせて味方の陣に帰る男の態度に怒りを覚えながらも、頭が冷静に結論を出す。
この弱者を殺すだけのだらしない将の背後に追従すれば、官軍の堅い防備の内部に入れるだろう。
糧食に乏しい自分たちにとって、それは願ってもないことだった。
「待て関籍、敵に後ろを見せるのか!」
こちらを完全に無視した関籍は素早く官軍の陣に入り、続いて自分も陣内に突入した。
幾重にも掘られた堀や強固な壁は障害にすらならず、黄巾の先陣足る十五万の侵入を許す。
(変だ)
何かが、おかしい。
物資が放棄されたことはおかしくはない。
だが、なぜ誰もいない?
董卓の本隊も、華雄の騎兵も、呂布の騎兵も。
先の戦いで散々苦戦させられた将士たちが、居なかった。
「謀られた!皆、うかれ―――」
注意を促そうとした瞬間、銅羅が鳴り響く。
ジャーン、ジャーン、ジャーン、と。
いつもは退却するときにだけ使われていた銅羅の音が、やけに勇ましく鳴り響いた。
正面に、『関』。
背後に、『張』。
左に、『呂』。
右に、『華』。
「伏兵だぁー!」
誰かが叫び、恐慌状態に陥った黄巾十万が三々五々に乱れだす。
まともなのは、周倉配下の五万のみだった。
「周倉」
目の前に、偉丈夫。
「関籍、あれは策か」
「然り」
槍を繰り出し、弾かれる。
―――先ほどの戦っていた相手と同一人物だとは思えないほど、素早い動きだった。
構えに、隙がない。
ゆっくりと掲げられた偃月刀が振り下ろされ、槍を両断して頭に迫り―――
「最初から本気を出さなかった詫びだ」
兜に触れる寸前で、止まった。
「逃げるがいい。そなたの目には曇りがない。義によって立ち上がり、周りにその義を汚されただけだろう。
その義、殺すには惜しい」
周りの略奪目当ての黄巾は粗方討ち取られ、数万の屍が地面を覆う。
自分の部下は未だ健勝な者が多く、今から退けば生き残る者のほうが多くなるだろう。
「…………さらば、関籍殿」
空に消えていく言の葉を後に、周倉は華雄の騎兵へと突撃した。
この戦いで冀州黄巾本軍は先陣十五万を失い、急激に勢力を減衰させることになる。
十五万の内、精兵を謳われた周倉率いる五万の内三万は離脱に成功したと言われるが、その真偽は定かではなかった。