義の刃足る己が身を 作:黒頭巾
一騎の武者が、柵の前に姿を表していた。
血に濡れたような赤い馬に、紅玉を融かし、凝固させたが如き真紅の髪。風に靡く二条の髪に、頸を覆う緋の布。
真紅の目立つ装いと、手に持つ黒い強弓。赤兎馬に括りつけた二本の筒の中には剣の代わりにそるぞれ短槍を納め、背中に矢筒。
本来の得物である方天画戟は先程の射撃の際に地面に突き立てたままであった。
「……」
自分を狙う矢など意に介さず、斉射を受けても尚弾き切った呂布は距離を取るべく赤兎馬の脚を進め、止まる。
早々に見切った斉射の射程範囲外から思い出したように引き絞られた弓が狙うのは、弓兵の将。頭は、潰しておくに越したことはなかった。
「………ん」
バスッ、と。
凝縮させた空気を穿つように天を翔ける矢は、乾いた音を立てて標敵の額に突き刺さる。
鉄製の額当てすら一矢で穿ち抜いた呂布は、距離を維持したまま更に馬脚を進め、めぼしい将を視界に捉えては射殺した。
郭汜の兵が持つ弓の射程範囲外から一矢、また一矢。
放たれる度に命を刈り取る矢を放つ斥候はふらふらと柵の前を二周し、馬首を返す。
呂布が存分に見、頭に入れ、目を瞑れば暗転した視界の裏にそれが浮かぶほどに覚えたその柵の設置された場所と部隊配置は、郭汜等からすれば決して持ち帰らせてはならないものだった。
「追え!」
将を一方的に射たれて怒っていた郭汜兵たちは、怒りのままに柵から出撃する。
その数は、三千。柵内に籠められた兵数が五千であるから、約半分が出撃したことになった。
「ちぃ……!」
赤兎馬には敵わない。
三千を率いる将である樊稠は、腹立たしげにそう毒を吐いた。
呂布の騎乗する愛馬・赤兎は、その名も高き最速の馬。単騎で追っても追いつかないのに、枷である兵卒らを率いていれば追いつかないのは必定だろう。
だが、追いついた。
呂布に慢心があったのか、赤兎馬が疲れていたのか。どちらかなどは樊稠には知ったことではない。重要なことは唯一。この瞬間では三千対一という圧倒的な数の差で驚異的な武を誇る呂布を仕留められるということである。
「来い」
赤兎馬に括りつけた二本の短槍を両手に持ち、場上で構える。
方天画戟や弓ほどではないとはいえ、中々に様になったその姿は天下無双の名に相応しかった。
「懸かれ!」
山の真ん中を削ったような一本道であるが故に、大軍の利は生かせない。それが逆に適応されることになった彼らは、一際狭い地に立つ呂布に向けて槍を構えて突き進む。
呂布によって強引且つ無為に解き放たれた最後の落石の罠が作った岩の道を後方に、呂布は泰然と待っていた。
「……」
接敵する瞬間に目を瞑り、開く。
両手に持った槍を交互に、或いは同時に。流れるような動作で繰り出す己の姿を描き、その通りに自分の身体が動くことを確認した呂布は、僅かに笑った。
双槍と化した短槍を繰り出し、命が血の華を咲かせて消えていく。
赤兎馬をごく僅か、一歩ほど下がらせながら呂布は冷静に計算した。
あと、三歩。
右手を振り被り、指先で回転をかけて前に突き出すような動作から放たれた投擲は、三人の兵を貫き通して止まる。
片方の槍も同様に投げ棄てた時には、彼女の手には方天画戟が戻っていた。
「……さよなら」
方天画戟で十五、六人を突き殺し、怯ませた瞬間に後方の岩の道へと馬首を巡らす。
罠が解き放たれ、道を隙間がないほどに積み重なった岩の道を平地を行くが如く軽々と駆けていく呂布の馬術を目にし、樊稠は舌打ちと共に戟を天に掲げた。
この岩の道は確かに素早さは落ちるが、進めないようなことはない。その程度の備えしかしていなかったとも言えるし、その程度の備えでも充分脅威であるとも言えるだろう。
「進め!」
樊稠の号令の元、一目散に進む彼ら彼女らは知らなかった。
みすみす自らが虎穴に向かって突き進んでいることに。
まず樊稠は、何故この罠が作動したかを知らなかった。呂布が矢を持って紐を撃ち抜き、強制的に作動させたことを知らなかったのである。
故に、頭上に対する注意を怠った。当然だろう。なぜなら頭上にある罠を作動させることができるのは関籍軍を迎撃すべく布陣している味方のみなのだから。
「うん?」
真っ先に岩を乗り越え、紅い姿を視界に捉えたのは樊稠。多色も珍しくないこの漢に於いても珍しい部類に入る紫色の髪を靡かせて進む彼女に続いて三千の兵が姿を現し、弓に矢を番え、天に向ける呂布を見た。
(何?)
樊稠の思考が、混乱を産む。
奴は、何をしようとしているのか。既に作動した罠が作った、越えてきたものとは別の岩の道―――安全地帯に位置しているのは、わかる。
では、何故弓を天に向けているのか。
それに気づいたのは、数秒後。
―――逃げろ!
そう叫んだ崖上の兵の必死の言葉が、耳に入った時だった。
電流のような閃きが頭を過ぎり、消える。
「後曲は岩の道に、前曲は前に―――」
言い切らぬ前に、天が崩れた。
半ば反射じみた勢いで辛くも前に踏み出した樊稠以外は崩れた天に圧し潰され、その屍を人の姿に留めることすらできずに一瞬の内に死んでいく。
崖下で残ったのは、たったの二騎。
「やってくれたな、呂布」
「……先にやろうとしたのは、お前」
退けば矢に射たれ、前に進めば戟に討たれる。
生路が絶たれた状況下で、彼女が選んだのはせめても一矢報いることであった。
「呂布!」
そう叫び、文字通り自分を視界にすら入れていない呂布に向かってひた駆ける。
自分の乗る馬が駆け始めたと同時に赤兎馬が彗星の如く駆け、紅い尾を引いているかのように、翔ぶが如く駆けた。
繰り出した戟が、真ん中から白と黒になっている装束の色を分かつ金地の線に向けて突き出される。
獲った。そう確信した瞬間に、身体が浮く。
「……?」
訝しむような顔でこちらを見る呂布が持つ方天画戟の凶悪な刃が、自分の胸部を抉り、貫き、穿ち抜いていた。
(何故、疑問を含んだ顔をする)
勝ったことに喜びはないのか。或いは正真正銘の感情すらない怪物なのか。
胸を串刺しにしていた方天画戟が抜かれ、草でも薙ぐかのように一閃される。
その首が地に落ちるまで、樊稠はそれのみが不思議だった。
「……おやかたさまに、聞く」
一つ頷き、地に落ちた首を掴んで引き返す。
引き返した先の柵の中に首を投げ入れ、呂布はその場を後にした。
『楚王に降れ』
そう言ったと、演義には書かれている。しかしこの時点では彼女の主は楚王ではない。かなりの特権が付いているとは言っても荊州牧である。
しかしながら、この後に柵を守る二千と崖上の千が降ったという厳然とした事実はある。
後世に『呂布の単騎行』と謳われた『情報偵察の為の』単騎行は、こうして終わった。
そして呂布が帰還し、その陣様を汲まなく頭に入れた関籍が総攻撃の令を下そうとした瞬間に、戦意を喪失した柵内・崖上の兵三千は降る。
これを涼州出身の張繍に統率させることを決め、軍が通れるだけの道を拓くべく罠ごと岩を取り除いている、作業中。
「……おやかたさま」
「うん?」
黒い巨馬・烏に赤兎馬を横に走らせて近づき、呂布は訥々と抱いた疑問を話し始めた。
「……なんで、弱いのに来る?」
「…………いつか来るとは思っていたが、なるほど」
誰もが心の中で思っても口には出さない疑問を平気で口に出してしまう幼さは、出会った時から変わらない。
「彼らにも意地があるのでしょう」
しかし、少しずつ成長している。
強すぎる反面、人の心の機微に疎い。
歪さを持った呂布の頭に手をやりながら、二、三度軽く叩く。
「自分に置き換えて考えることです」
「……?」
「つまり、向かってきた者は何かを背負っていた。その向かってきた者は、自分が背を向けて逃げればその背負っている物が危険に晒されることをわかっていた」
疑問符を浮かべる呂布をかつて彼女を利用した者のように見下すことなく、しかしながらそのままでいいとも言わず。
人として欠けている部分を補ってやるべく、関籍はゆっくりと言葉を選んだ。
「恋にも、あるはずです」
「……ん」
わざと真名で呼び、心に触れてやるようにして優しく諭す。
鈍いところも多いが硝子細工のように繊細な心を持つ呂布を諭すのは、難しい。一歩間違えれば叱責になり、罵倒になる。心を傷つける言葉では覚らせることなど出来はしない。
「……恋にも、ある」
「ならば、その物を守る為に自分の身を危険に晒してもいいと、思えますか?」
「うん」
いつにない即答振りに面食らいながら、関籍は更に畳み掛けた。
今までうまく行っているならば、今日の呂布の理解は速いということ。ならば、もっと教えるべきことがある。
「その物を先程言った条件に当てはめ、考えてみてください」
「ん……」
一つ頷き、寸暇の迷いも見せずに定まった呂布の視線がすぐさま関籍の横顔に突き刺さった。
いつもどこか茫洋としている呂布に、はっきりとした何かしらの気持ちを載せて見られるのは、何やら面映い気もする。
が、ここで退いてはならない気も、した。
結果、一刻ほどの凝視に彼は耐えねばならぬことになる。
無論その頃には居心地の悪さは頂点に達していた。
しかし、その視線が外された瞬間にそのくだらぬ気持ちは払拭されることになる。
なにせ。
「やっと、笑いましたか」
困ったような、慣れないようなぎこちない笑みでもなく、闘争心に駆られた凄絶な美しさを持つ笑みでもない、華が咲くような可愛らしい笑みを紅い少女が浮かべていたのだから。
恋が、守る。
ずっと、ずっと。
誰にも届かない誓いを心の中に沈めながら、呂布は失っていた一欠片を取り戻した。
これは感想欄も評価欄も『レンチャンハカワイイデスヨ』だわ……(二度目)