義の刃足る己が身を 作:黒頭巾
後漢の一刻は約十五分です。
コトリ、と。
今まで黙々と竹を彫っていた 小刀が卓上に置かれ、筆もまたあるべき場所へと戻される。
「……」
仕事がやっと終わり、終わった頃には日が沈みかけ。正直、身体が怠さを訴えかけている。
「……襄陽、か」
刺客騒ぎからはや二ヶ月。骨を伸ばしに、関籍は申し訳程度に倚天を佩いて城内を歩きはじめた。
しん、と、静かな城。
皆が規律正しく整然と仕事に励み、武官は練兵場で互いに競い合って武を磨く。
「……………」
いつも、騒がしかった。煩くて、喧しくて、喧嘩っ早くて、情に脆くて酒好きで。
そんな雁門とは、大違いだった。
主に仕事をさせるために駆けずり回り、予算確保の為に都に上申し、攻めてくる敵を討って酒を飲む。
(…………懐古しているのか、この関籍が)
古きは懐かしむべきではない。あの日常を壊したのは張遼が汲み取ってくれた自分の意志なのだから。
時は、流れて流れて止まることを知らない。
河のように、ただただ流れては消えていく。
「…………文遠殿は、揚州か」
なるほど、自分は寂しいのだ。
あの底抜けに明るい戦友が側に居ないことに謎の虚無感のようなものを感じている。
関籍は天性明るい方ではないからしかたないが、どうしても一人でいると思考は陰に籠もる傾向にあった。
その陰に籠もりがちな思考を木端微塵に打ち砕くのがあの楽天的な現実主義者の役割なのだが、彼女は武将としても優秀すぎた。
と言うよりは陰に籠もりがちな思考を木端微塵に打ち砕く役割こそが副業であり、本業の武将として充分すぎるほどに優秀だったのである。
揚州方面八万の総帥。戦政共にこなせる前線指揮官として、彼女はこの上ない才能と能力を持っていた。
戦政共にこなせる指揮官は、関籍軍にもそうは居ない。魏延と張遼、後は色は違うが郭嘉くらいであろう。
「おーぅ、一人で何しとんねん、よ―――籍やん」
真名を言い掛け、少し目を泳がせてそれを止め、いつもの言い方に戻す。
陣羽織にサラシに袴といったいつもの格好ではなく、参内するときに着ていたそれと殆ど同一な意匠の服を身に纏った張遼が、そこには居た。
「霞殿、か?」
「せやで。揚州方面に飛ばされた張遼さんや」
よよよ、と袖を目元に当てて泣くような動作をとったあと、挨拶代わりに背中を思いっ切り叩く。
主従も何もないが、これが二人のいつもの関係であった。
「何湿気た面してんねん、籍やん。もー、ほんっっとに、ウチがおらんとアカンのやなぁ!あっははははは!」
襄陽の倉庫から拝借してきたらしい酒瓶を傾けながら関籍に絡んでいくその絡みっぷりは酔っ払いでしかない。
ほの暗く静かな襄陽城が、一瞬で喧しいほどの明るさで満たされるような錯覚を覚えるほどの底抜けの陽性に瞠目した関籍は、例の皮肉混じりの口調で本音を漏らした。
「はい、あなたが居ないとどうにもこの世は明るさを失うようです」
「……………」
今までの快活な笑顔から一変し、変なところに酒が入ったような珍妙な顔をした張遼は、一つ首を傾げて酒瓶を地に置く。
「…………なぁ、籍やん。城出て右に曲がると診療所があるやろ?」
「気は確かです。それよりも、何故あなたがここに居るのですか?」
「ん?そりゃまあ…………報告や、報告。一方面軍任されとんのやから、ちょくちょく顔出さなアカンやろ」
思った以上に―――報告前に酒を飲んでいること以外は―――真面目な用件だったことに安心しつつ、関籍は差し出された竹簡を受け取り、広げる。
さらりと全体に目を通した後に再び丸めて収納し、関籍は言った。
「築城ですか」
「そ。築城して、揚州からくる流民の保護とはっけーが奪ってくる物資を貯めんねん。勿論軍事的にも要地やから、経済だけを考えてるわけやないで?」
自分の持つ選択肢の中に築城を持つ武将は少ない。
張遼の持つ非凡さがあからさまに出た一策に、関籍は一つ頷いた賛辞を示す。
いくら『あなたにはこれこれの予算をこれくらい預けます。好きに使ってください』と言ったとしても『軍事的拠点と経済拠点を複合させて更に予算を増やす』と言うところに行き着く武将はそうは居ない。
『三つまで願いを叶えてやろう』と言われて『ほな、十個に増やしてぇな』と返すくらいの暴挙であった。
「まあ、いいと思いますよ。築城。場所はどこですか?」
「合肥や。合肥。攻性の前線拠点としては最適やろ?」
張遼が指差した合肥は長江支流の一つから突き出たような位置の巣湖の北岸に位置し、荊州勢力からすると長江流域に突きつけた前線拠点という位置で、孫呉に対する攻撃と防御の一大拠点になりうる。対して孫呉勢力からしてみれば、長江流域の完全掌握のためにも、あるいは外征のためにも確保しておく必要がある拠点であった。
しかし何故か、孫呉の目はそこに向いていない。今は叛旗を翻した許貢の対処に全力を注いでいる。
まあ、合肥はこちらにとっては攻勢に転ずる為の一大拠点だが、向こうからすれば数ある長江流域の土地の一つ。荒れ地なこともあって仕方ないとも言えるが、孫呉は内憂を潰すことに専念するあまり、嘗て無いほどに無防備だった。
無論、主力は依然としてこちらに向いている。築城を邪魔する為の余剰戦力を持たないだけである。
「縄張りは?」
「元穎(劉馥)がやっとる。人動かすのは子揚(劉曄)がやって、ウチは細かいとこにちょっち口出すくらいやな」
「なるほど」
納得の人選に頷き、そのまま執務室に帰ろうとする関籍の右肩に張遼がしだれかかる。
珍しく感情を顕にして驚く関籍に、張遼は酒瓶をチラつかせながら、言った。
「まあまあまあまあ。そうせっかちに去らんといて、ほれ。
一杯やらんか、自分」
「…………どうでもいいですが、しなだれかかるのをやめていただきたい」
背中を叩くようにして半ば無理矢理に進ませる張遼に文字通り連行されながら、着いたところは張遼の旧私室。
何となく他の者を入れて埋める気にもなれなかった為にポツリと空いている一室である。
「色々言いたいこともあるし、今夜はとことん呑もや、籍やん」
「職務に差し支えがない程度には呑ませていただきましょう」
クソが付くほど真面目な関籍から最大限の譲歩を引き出し、張遼はどこからともなく酒瓶を何本か持ってくる。
最早私室がどこにでも酒が隠してあるという一点において酒蔵に等しいあたりに、彼女の酒好きが伺えた。
「ほな、乾杯」
「では」
私室から出てほど近くの出っ張りに机の椅子を運び、腕を交差させて杯に満たした酒を干すと、堰を切ったように張遼の口から言葉が漏れる。
漏れると言うよりは、決壊したと言ったほうが的確だろうが、ともあれ最初の頃はそんなものであった。
その内容は殆どが愚痴とは縁遠い日常の話とか他愛の無い失敗談とかだったりする。つまるところは雑談である。
しかし、元来張遼の話―――一般的な規範から見ればくだらない話―――を聞くのが何よりの道楽であった関籍からすれば、それは雑談であると言うよりは日常であった。
「……何というか」
「あん?」
五刻くらいの間を一切滞ることなく喋り続けた張遼が喉を潤すために三杯ほど干したところを見計らい、関籍はこの五刻の間数えるほどしか開いていない口を開いた。
「楽しそうですな、いつもいつも」
「はぁ?」
情景が豊かに伝わってき、なおかつ張遼の感じた精神的躍動がはっきりと蘇るような話ざまは、心底から楽しんでいないと話せないような色がある。
色と言うのか、情緒と言うのか。
簡潔且つ美麗に纏められた美文とは似ても似つかない、生の人間くさい魅力がそこにはあった。
「……あなたは誰よりも人らしく生きていますね」
「そりゃそうや。ウチは人やもん」
「それもそうですな」
何を当たり前なことを言っているのか。
自分の口から漏れた言葉に苦笑しながら、関籍は杯をまた干した。
「……ま、よかったわ」
「はい?」
「なんや、あんまり離れとると変わってもうたんやないかなーて思うこともあるわけや。籍やんはあんまし変わらへんけど、ほれ。踏み外したら一瞬やろ?」
付き合いが長いからこそ、わかることもある。
主から王へと内面の変化が起きる直前でふらーっと来ては引き戻していくのが、張遼のとる無意識な行動であった。
主は、繋がって在る。
王は、ただ一人在る。
内面としてはこんな感じなのだろうと、張遼は適当に認識している。
そして、関籍という男は器は王で性質が主である歪な存在であることもまた、彼女は漠然と認識していた。
「正道に引き戻す人が目の前にいるでしょうに」
「あー……そんなつもりは無いんやけどな」
掻こうとしたそこにいつもの髪留めはなく、さらりと流した髪が指に触れる。
并州時代とは違い、規模が大きくなったからこその衣服の制限をうっとおしく考える彼女ですら、その制限からは逃れられなかった。と言うよりは、別段大きいこととして認識していなかった。
「…………変わったもんやな」
「ええ」
荊州からの新規参入組にはわからない、どことなく侘びしげな雰囲気を醸し出す二人を、月の光が照らしていた。
なお、合肥にイゼル―――風雲・合肥城が築かれている模様。
活動報告に遊戯王風にステ書いてみました。