義の刃足る己が身を 作:黒頭巾
…………………曹操と比べる分には(笑)みたいな頭だけれども。
「……」
呂布は、無言で立っていた。
彼女が背にする幕舎は、関籍の持ってきた個人用の物。自分はその警護。
『籍やんは戦では死ぬ気がせえへんけど、あっっさり暗殺とかされる気がするんや。せやからよろしく頼むで』と張遼に言い含められた呂布は、無言で立っている。
目はどこかに焦点を当てるわけでもなく虚空を見つめ、視界に入る全体を満遍なく見渡していた。
「呂布殿か」
「……ん」
最初の来訪者は、夏侯淵。字は妙才。真名は知らない。澄んだ水のような髪が特徴的な魔弾の射手である。
呂布も弓に自信はあるが、どちらかと言えば方天画戟で打ち合う方が好きだった。
「華琳様―――主が、関籍殿に会いたいらしい。今は訪ねてきてもよいのかな?」
「駄目」
にもべない返答を聞いても特に驚くこともなく、夏侯淵は薄く笑いながら更に聞く。
「では、いつならばいい?」
「おやかたさまは曹操の相手は恋がしてって、言ってた」
つまりは、この援軍として来陣している時も一切合わないと言うことであった。
全く表情を変えない呂布の言った言葉を聞き、流石の夏侯淵も僅かに動揺を見せる。
何せ、曹操軍全体の恩人と言ってもいいのがこの幕舎に引き篭もっている関籍なのだ。これを相応に礼を払い、遇さねば曹操の気は収まらないし、収める気もないだろう。
「……何故かな?」
「男嫌いで、非才だから」
主語をすっ飛ばした呂布の言葉を夏侯淵は噛み砕く―――と言うよりはよくよく噛み締めて、理解した。
呂布の言っていることは『曹操は男嫌いであり、非才ならば尚更それを嫌う。自分は非才の身だから会っても気を害すだけだから、呂布を名代にします』と関籍が言ったことを示している。
勿論、夏侯淵の想像が正しければだが。
「…………ん」
こういう意味かと聞いてみれば、呂布は数秒の沈黙―――それで過不足なく意味が伝わっているか考えていたのだろう―――の後に、頷いた。
即ち、夏侯淵の予想は当たっていたのである。
「では、恩に対して礼を返さねばこちらが非礼と謗られる。人助けと思って、会ってくれないだろうか」
「……ん」
横にある台に積み上げられていた竹簡の一つを差し出し、呂布はそれっきり押し黙る。
読んでくれ、と言うことらしかった。
『……あなたの主は打算があって他者の危機を救って無理矢理に恩を着せようとする人ですか?
違うでしょう。拙者もそれと同じです。あなたの主人は漢にとって拙者以上に必要な人傑だからこそ、一命を擲つ覚悟で助けに参りました。打算ある行為に礼は不要です』
これを受け、流石に夏侯淵は閉口した。人がいいように見えて、案外と頑固なところがある型なのだと理解したのである。
しかも、関籍は見たところ言い訳―――と言うか、引き篭もっている原因の説明を何種かにわけて竹簡に書き記しているらしい。
これは一筋縄では行かないな、と。
しかし、夏侯淵も中々に頭の回る女であった。次善の策―――もとい、隙を生じぬ二段構えとして私用も用意してある。
「姉者と私を助けてくれた礼くらいは、言わせてはもらえないだろうか?」
「…………」
普段の茫洋としたものではない、見定めるような視線が紅玉石のような瞳から放たれ、薄い赤の瞳に触れる。
関籍の頼れる武の左腕と、統の右腕。
右腕は宛城で李傕・郭汜の内乱を突いて撃破してから揚州方面軍を形成して流民たちを保護しつつ睨みを効かせているが、左腕は側に在った。
「…………ん」
「感謝する」
幕舎の入り口から横に三歩退いた呂布に一礼し、夏侯淵は入り口から幕舎の中に入る。
血の匂いというよりは、砂礫の匂い。長年使っているであろう簡易の幕舎は、中原のものでも荊楚のものでもない不思議な土の香りがしていた。
「夏侯妙才殿、いかが致しましたか」
竹に文字を彫るための小刀と、筆。
巧みに持ち替えながら交互に使っていたそれらを傍らに置き、関籍は振り向く。
「……書き物の最中にお邪魔し、申し訳ありません」
「いえ、これは手慰みのようなものです」
細やかな気遣いができる夏侯淵を選んだ曹操の目は確かだった。
夏侯惇は強行突破をしかけかけないし、そもそも寝込んでいる。
程昱はまあ、真面目とは言い切れない。
荀彧は病的な男嫌いであるし、関籍はそう言った人種に慣れてはいたが愉快ではない。
三羽烏は命の恩人である関籍に敬意を示すであろうが、そこから本題を切り出せるほどしたたかでは無い。
曹操自ら行けば関籍の先入観―――まあ、だいたい合ってはいたが―――による『無理矢理』と言う雰囲気が拭いきれない。
何でもそつなくこなせながら名声も備える夏侯淵は、曹操の陣営においてもまず最優であった。
「曹兗州牧殿の軍内においても傑出した実力を持つ夏侯妙才殿が世間話に来たとも思えぬ。拙者に何用かな?」
「我らの命を救ってくださったことに対しての、礼を言いたく参上致しました」
うまい言い回しだ、と。
ここにそういった言質を取ったり、はぐらかしたりが上手な魯粛が居たならば、こう言うだろう。
我ら、と。そう不特定多数が関籍に感謝の念を抱いていることをまず第一に伝えることで、本題に入る為の道を確保したのだから。
「いえ、漢にとって有為の士をむざむざ逆賊の手にかからせる訳にはいきませんからな」
「理由がどうあれ、関荊州牧殿の為されたことは我ら一同に感謝の念を抱かせるには充分すぎるほどのことだったのです」
智将の罠にまんまと嵌った―――と言うよりは、誘引の策に嵌ったことに関籍はまだ気づかない。
ただ一笑して頭を下げ、夏侯淵の瞳を見ただけである。
「感謝の念を抱いているのはこちらも同じこと。徐州での牽制に、袁紹への対抗には随分と助けられ申した」
夏侯淵は、瞠目した。
無論、心中で、である。感情を呂布のように無にするでもなく隠すことのできる夏侯淵は素早く頭を働かせ、気づいた。
何とはなしに、ほだされている。自分の関籍の弁説による反論に対する警戒心とか、そういった物が緩んでいるのだ。
「我らは、一矢の恩に報いたまでです」
主とはまた違った人望と風韻に驚きながら、夏侯淵はなんとか反駁する。
最早数年前になるが、彼女は功を盗んだ。無論器が測りたかったからで功績欲しさではないが、やったことには変わりない。
不覚を一転して弁論の根拠に変えた夏侯淵は、有能であった。
まあ、曹操は夏侯淵ならば徐州に牽制に行った時に気づくであろうと思っていたのであるが。
「随分と昔、風化しそうなほどに前の恩にも報いてくださるとは、流石は曹兗州牧と言ったところでしょうか」
「我らの主人は、恩にも仇にも報います。恩を忘れぬ禽獣ではなく、人であることを重く見られております故」
いつしか関籍に言われたことをそのまま引用するところに、夏侯淵の強かさと曹操がその一言によって受けた影響が滲んでいた。
覇気をそのままに、道を違えず。
自分を厳しく律して邁進した結果、今の曹操がいるのだから。
「なるほど」
「であるが故に、臣下たる私も恩には必ず報います。主の志を臣下が違えるわけにはいきませんから」
夏侯淵はそう言った後に深々と頭を下げた。
一息溜め、決意を固めた彼女は、口を開く。
「我が真名は秋蘭と申します。この一事を以って恩を返すつもりは毛頭ございません。あなたにこそ預けるべきであると思ったのみです」
「……丁重に、受け取らせていただきます」
巨大な躯幹が折り畳まれ、関籍は大仰さを感じさせない自然さで、されどこちらに対する敬意と尊重を籠めて一礼した。
「我が真名は翼。いつなりともお呼びください。秋蘭殿」
およそ数秒で暴走しかねない戦車(馬に曳かせる戦闘用の車。春秋戦国時代での魏の戦車隊が有名。趙の武霊王が胡服騎射を行い、騎兵の機動力が中華を席巻するまでは戦場で最強を誇った)を御する役目を持っている二人だからか、自然と彼らは真名を交わす。
他にも色々共通項があったからか、彼らはあっさり打ち解けたのである。
「……翼殿、少し聞きたいのですがいいでしょうか?」
「ああ、この書物ですか」
『機動要諦』と書かれた書物を、関籍は軽い調子で手に取った。
「曹兗州牧殿は世に名高き兵法家。少しでも話についていければと、拙者の用兵も纏めてみたのですが………まあ、華が無いと言われましてな。今夜にでも、薪にするつもりでした」
「……読ませていただいてもよろしいでしょうか?」
「曹兗州牧殿に見せぬのであれば、ご随意に」
本来燃やされ、それと同様の質を持つ電撃戦の基礎となる指南書が登場するには千年もの年月を要するであろう機動戦の指南書は、夏侯淵の手に渡った。
今日のところはここまで話せばよいと思い、『明日、感想を言いに参ります』と言い残し、夏侯淵は場を辞す。
迅速果断な関籍軍の用兵が、ほとんど正確に伝わろうとしていた。
ナポレオン「よくやった」
チンギス「ころしてでもうばいとる」
グデーリアン「成し遂げたな」
共通項……苦労人、ストッパー、弓が天敵、電撃戦